華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

その夜、寧々は影丸とともに寝所を訪れた。

上屋敷に仕える家臣の中で、寧々が側室という立場は表向きに過ぎないと知る者は、慶喜、影丸、そして長十郎の三人だけであった。

そして、秘密の作戦会議は、決まって夜に行われる。

そのため侍女たちは、寝所へ向かう寧々の姿を見て、「今宵も殿との夜伽なのだろう」と噂しているに違いない。そして影丸は、御次として控えていることになっているのだろう。

そう思うと、寧々は胸の奥がむず痒くなった。

部屋では慶喜が待っていた。その顔にはいつもの落ち着きはなく、眉間には深い皺が刻まれていた。事態の深刻さを物語る表情であった。

「実は……美賀子までもが、呪いに侵されたらしい」

低く重い声が、冷たい空気の寝所に響く。

「おぬしは、この呪いを解くことができるか」

慶喜から真っ直ぐ見据えられ、寧々は息を呑んだ。

呪いなど信じてはいない。だから、美賀子本人を診れば、何か手掛かりが見つかるかもしれない。そんな小さな希望に縋るしかないのだ。

「それでは、美賀子様を診させていただけませんでしょうか」
「では、余について参れ」

慶喜に続き、影丸とともに奥の寝所へ向かう。

そこは以前にも訪れた部屋だった。姫君が息を引き取った和室である。

床を踏めば音が響くため、寧々は足音を忍ばせながら美賀子の枕元へ歩み寄る。

布団に横たわる美賀子は、頬が青白く、生気を失っていた。

「ご気分はいかがでございますか」

寧々が慎重に尋ねると、美賀子は小さく息をついて答えた。

「一日中、身体が重くて……力が入りません。近頃は胸がどきどきして、息苦しくなることもございます」

寧々は肯きながら、ひとつひとつ症状を頭の中で整理していく。

「ほかに、お困りのことはございますか」
「足の先が……痺れるのでございます」

寧々は失礼を詫びて足元を診させてもらう。脛へそっと指を当てると、肌は張り、水気を含んだようにむくんでいた。

「……これは」

胸の鼓動が速くなる。

「お食事は、どのようなものを召し上がっておられますか」
「粥ばかりです。ほかのものは喉を通りませんので……」
「粥だけ、でございますか」
「はい……」

寧々の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。

母は病や怪我について、寺子屋では決して教わらぬ知識を惜しみなく授けてくれた。『あなたには、きっと必要になる日が来るから』と言い添えて。

そして、母はある病について語っていた。

足の痺れ。身体のだるさ。動悸。むくみ。

その病の名は――『脚気』である。

「お話をうかがう限りでは……脚気と思われます」

慶喜は納得したように肯いた。

「やはり、おぬしもそう見るか」
「やはり……と申されますと?」
「医師にも診せたところ、脚気だとは申しておった。だが、脚気の原因は分かっておらぬ。ゆえに、姫君の件もあって、呪いによる脚気ではないかとのことだ」

寧々は深々と息を吐く。

姫君の死が、人々の判断を曇らせている。呪いという言葉が、あらゆる事象の真相を覆い隠してしまっているようだ。

そのとき、母の言葉が心の中で蘇った。

『脚気は江戸に多い病よ。八王子ではめったに見ないでしょう』

思えば、母がこの病を教えたのは、寧々自身がいずれ江戸へ赴くと察してのことだったのかもしれない。

そういえば、八王子千人同心で脚気に倒れた者を見た覚えがない。では、その違いは何なのか――。

『寧々は薬食いの鍋が好きでしょう。あれを食べていれば、身体は丈夫になるのよ』

同心たちは滋養のため、猪肉を薬として口にしていた。当時は半ば迷信のように思っていた。

しかし、もしあの鍋が脚気に効くのだとしたら――。

寧々の胸に、一筋の光が差した。しかも幸いにして、土蔵には源三が送ってくれた猪肉の燻製がある。

「あの……ひとつ、お試しいただきたいことがございます」

慶喜がぴくりと片眉を上げる。

「何だ、言ってみろ」
「猪肉を使った薬食いの鍋を作りたいのでございます。八王子では古くから滋養の薬として食されており、そのため誰も脚気にならないのでございます」

慶喜は驚いた顔で寧々を見つめた。

「猪肉で……呪いを退けるというのか!?」
「呪いとは申しません。もしも脚気が病であるならば、病に効く薬を試すべきかと存じます」

寧々は真っ直ぐ慶喜を見据えて答えた。

源三から贈られたあの猪肉に、一縷の望みを託して。

★

寧々は家臣と侍女に頼み、庭に竈を設え、大きな鍋を用意させた。やがて家臣たちが、その周囲をぐるりと囲む。

調理の指導をするのは寧々自身と、尼音や志乃など、上屋敷に出入りする侍女たちである。

「奥方にそのようなことをさせるわけにはまいりません」と家臣たちが止めるのも構わず、寧々は「この薬は私でなければうまく調合できないのです」と言い、自ら調理の役目を買って出た。

「では皆さん、終始この調理をよくご覧ください」

寧々には思惑があった。工程のすべてを皆が見ていれば、万が一にも誰かが毒を混ぜることなどない。寧々は熱々の鍋料理を皆に振る舞おうと考えていたのだ。

無論、寧々自身も喜んで食するつもりである。

猪肉は寧々がちょうどよい大きさに切り分けた。鰹でとった出汁に猪肉をどかっと沈め、それから切った大根、ごぼう、人参、椎茸、そして豆腐などを放り込んでゆく。皮を剝くところから皆で見張っていた。

よく煮えたところで味噌を溶かして完成だ。

「はい、これで出来上がりでございます」

家臣たちは皆、立ち昇る湯気と漂う香りに食欲をそそられているようだ。しきりに鍋を覗き込み、自然と垂れる涎を拭う者もいる。これだけ厳重な監視があれば、毒の混入などあり得るはずがない。

影丸が寧々のそばに歩み寄り、小声で囁く。

「寧々、その思いつきは見上げたものだ。俺も喜んでおぬしの土地の味を堪能させていただくとするよ」
「影丸が褒めるなんて珍しいですね。それに、これは薬でございます。食べすぎは禁物です」
「わかっておる。用法用量は守らせていただくとするよ」

それから寧々は辺りを見回し、手招きをした。

「それでは夢桜、味見をお願いね」
「あいっ、承知しました!」

普段、最初に食べる者は毒見役という命懸けの役回りである。しかし今は、皆がその光景を羨ましそうに見ている。

静寂の中、夢桜が猪鍋の汁を口に運んだ、その瞬間――。

「う~ん」

そう言って、仰向けに倒れるようなしぐさを見せた。皆、一瞬ぎょっとしたが、夢桜はすぐさまぱっと身を起こして叫ぶ。

「――うまいっ! あちきの口の中は今、極楽浄土になっています!」

目を輝かせて叫んだ途端、皆から歓声が沸き起こった。

それからは蜂の巣をつついたように、皆が汁に群がってゆく。

「取りすぎないでくださいね。これは美賀子様の薬なのですから!」

寧々は具材が足りなくならないようにと、自ら取り分けを買って出た。

「侍女たちのぶんもありますからね」

そう言うと、侍女たちから喜びの悲鳴が沸き起こる。

お椀と箸を受け取った家臣たちは、立ったまま具材を次々と口に運んでゆく。

「ああ、こんな熱々の汁、一体いつ以来なのだろうか!」
「山の幸がこれほどまでに幸福をもたらすものだとは!」
「良薬は口に苦しとは、誰が言ったのだ!?」

和気あいあいと食が進む中、寧々は慶喜に声をかけた。

「はい、これは慶喜様がみずからお持ちください。愛する奥方様のために」

寧々は具材をたんまりと入れたお椀を小盆にのせ、慶喜に渡した。

皆にお椀が行き渡ったところで侍女に合図をすると、志乃が大きな飯櫃(おひつ)を持ってきた。蓋を開けると、炊けたばかりの玄米がたっぷり入っている。

寧々はそれを受け取ると、一気に鍋の中へ投入した。

「あとは雑炊にしますから、皆さま、もう少し待っていてくださいね」

屋敷の庭には、再び派手な歓声が響くのであった。

雑炊を待っている間、美賀子は侍女たちに支えられて縁側に姿を現した。慶喜から「おぬしのための薬だ」と言われて渡されると、お椀を受け取り、じっと中を眺めて匂いを嗅ぐ。それから空を仰いだ。

「いい匂い……」

そう呟くと、ゆっくりと食材を口に運び始めた。具材をひとつひとつ噛みしめ、時折涙ぐみながら、「私が倒れては、あの子も悲しむわよね……」ともらした。

まるで猪の命をいただいているような、厳かな食べ方であった。

結局、美賀子は雑炊も平らげ、鍋はすっかり空っぽになった。慶喜は心底安堵しているようであった。

雑炊は少しずつの分け前で、皆、物足りなそうであったが、寧々は、「これっきりでございます。これは美賀子様の薬なのですから」と、ぴしゃりと言って諦めさせた。

後でひっそりと慶喜に向かって、「あとの猪肉は、お二人でゆっくりと召し上がってください」と言うと、慶喜の表情はさも嬉しそうに輝いた。

その後、寧々は台所で侍女たちと一緒に鍋を片付けた。空になった鍋を抱えて台所へ向かう。

「奥方様にこのようなことは頼めませぬ。今すぐお引き取りください」
「片付けも料理の一環でございます。まだ終わってなどいないのです」

と、しばらく押し問答になったが、結局は寧々の言い分が押し通された。

寧々にとっては、これくらい体を動かさないとうずうずして、気分が落ち着かないのである。

椀や箸を片付けていると、棚にさまざまな食器があることに気づいた。表面に金粉で鶴を描いた椀、上品な光沢が眩い皿、それに漆塗りの箸。

ふと、棚の中に銀色をした不思議な形の器具があることに気づいた。

「これはなんでございましょう」

志乃は不思議そうにその調理具を眺め、「薬味を量るための匙のようなものではないかしら」と答えた。

「匙?」
「ええ。決まった量の液体を入れられる容器ではないかと思います」

それは手のひらほどの長さしかない銀色の筒であった。その片方は塞がれており、先端には小さな穴の開いた突起がついている。反対側は空洞となっており、中を覗くと奥に小さな穴が見えた。

また、別の銀色の棒は両端が塞がれており、片側には輪の構造になっていた。指を掛けるのにちょうどよい大きさだ。側面には目盛りが刻まれていた。

筒の中にもうひとつの棒を押し込める。するとぴたりとはまり、押し戻すと、先の穴から空気がすうすうと出入りする。

先端の穴から液体を吸い上げ、計量できる仕組みのようだ。

寧々は、これほど奇妙な道具を目にしたことがなかった。その姿は小さな笛にも見え、また精巧な絡繰り細工にも見えた。

おそらく、匙よりも細かな量の調節をするための筒なのだろうと想像する。

寧々は興味深そうにその器具をしばらく指で弄び、それから元の場所に戻した。

仕事をやり終えた寧々は、満足げな気持ちで自室へと戻った。

料理の方法は侍女たちが覚えてくれたはず。あと残り半分の猪肉は、美賀子様と殿のためのものだ。美加子様はきっと元気になれると信じている。

けれど、寧々には疑問が残る。美賀子が患っているのは脚気である。一方で、生まれたばかりの子が脚気になるなど聞いたことはない。姫君の呪いは、そんな一筋縄ではいかないはずだ。

そう思いながら戻る途中、徳信院が神棚に小鉢を供えているのに気づいた。見ると、寧々がこしらえた雑炊のようだ。寧々は歩み寄って徳信院の隣に並ぶ。

「徳信院様は、いつもこうして祈ってらっしゃるんですね」
「はい。皆が笑える国となることを願っています」

二人は手を合わせたまま向き合う。

「民が笑えば国は栄えます。民が涙すれば、城がいかに高くとも、その国は長くは続きませぬ。御前様は常に民のことを一番に思う方でした」

「御前様」とは、亡き慶喜の祖父、治保である。治保の正室であった徳信院は、その意思を継いで一橋家を守り続けている。

「人は生まれた身分で尊さが決まるわけではございません。他の誰かに手を差し伸べられる心を持つ者こそ、真に尊き人でございます」

それは、美賀子のために尽力した寧々のことを褒めてくれているに違いない。

しかし、寧々は主上の命により、幕府から政権を奪うためにここに来ているのだ。徳信院の評価と、寧々の目的は真逆なのである。

「私にそんな大それた志はございません」

決して謙虚なのではない。申し訳ない気持ちから、ついそんな言葉が口をついた。

とはいえ、同心たちの時と同じように、皆で和気あいあいと鍋を囲んで楽しめたことは嬉しかった。ようやっと一橋家の一員になれた気がしたのだ。

できることなら主上の命を忘れ、このまま一橋家で暮らしたいとさえ思う。

寧々の心は、隠密としての使命感と、奥方としての矜持との間で揺れていた。

ふと、美しく輝く石をもう一度見てみたいと思った。

「あの……先日の宝玉を見せていただけますか」

そう尋ねると、徳信院はにこやかな表情で神棚の扉を開けた。そこには変わらず、紅色に輝く結晶が顔を覗かせる石があった。

「そうそう、これ、何に見えますか」

徳信院は、まるでなぞなぞをかけるように、その石を回転させた。

しばらく眺めた後、寧々はこう答えた。

「あはっ、まるで鶏の頭のようでございます」

灰色の石から突き出た冠が、まるで鶏冠(とさか)のように見えた。

「やっぱり、寧々にもそう見えますよね」
「同じ石でも、方向によって見え方が全然違いますね。まさに鶏の冠の石ですね」

そう口にした瞬間、寧々の脳裏に衝撃的なひらめきが走った。

鶏、冠、石……?。

まさか、これは鶏冠石――?。

その名は、土蔵の中で見つけた『本草書』の中で目にしたものだった。

もしもこの石が鶏冠石であるならば、紅の結晶は紅玉とは似て非なるものである。そして、鶏冠石の正体とは――。

寧々はそっとその石を回転させ、元の形に戻す。

その瞬間、小さな結晶をひとつ、指で挟んだ。力を入れてねじり切る。徳信院に気づかれぬよう、素早く懐の中に隠した。

深くお辞儀をして、その場を早足で去る。

寧々は、一橋家に嫁いでから目にしたさまざまな出来事を脳裏に浮かべた。

もしも、今までに抱いた疑念のすべてに意味があるとすれば――。

それはまさに、暗中模索だった呪いの正体が明かされようとしている瞬間であった。

恐怖と興奮が入り混じった感情を抱き、影丸のもとへと向かう。

それから寧々が、呪いの核心にたどり着くには、さほど時間はかからなかった。