華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

時は安政五年。

雲取山の裾野に広がる草原に、秋の陽光が降り注ぐ。

そこでは今日も八王子千人同心の稽古が行われていた。木刀が打ち合わされる音と、気合いを込めた掛け声が山あいに響き渡る。

訓練の傍らでは年配の女中たちが昼餉(ひるげ)の支度を整えていた。握り飯がずらりと並び、大きな寸胴鍋からは味噌と野菜の香りが立ちのぼっている。

八王子千人同心は、半士半農の武装集団である。甲斐国と武蔵国の境を守り、日々鍛錬を欠かさぬ屈強な男たちの集団であった。

だが、その中に紅一点、若い娘の姿があった。

長い黒髪をひとつに結い上げた娘である。陽光を受けた肌は白い陶磁器のようになめらかで、儚げな美しさとは裏腹に、凛とした空気を纏っている。黒真珠を思わせる瞳には、静謐ながらも揺るぎない意志が宿っていた。

突然、鍛錬中の同心が草むらを指差して叫んだ。

「や……奴が来やがったぞ!」

草をかき分けて姿を現したのは、一頭の大きな猪だった。湾曲した鋭い牙を突き出し、荒い鼻息を吐きながら地面を蹴る。その目は、昼餉の支度を狙っていた。

「きゃあっ!」

女中たちは悲鳴を上げ、慌ててその場から散っていく。

「味をしめやがったな、この畜生めが!」
「気をつけろ! 牙に刺されたら命はねえぞ!」
「くそっ、俺たちの昼飯が!」

同心たちは木刀を構えた。しかし、その程度では猪を止められないことは、先日の襲撃で嫌というほど思い知らされていた。

そのとき、湯気の立つ寸胴鍋の前へ一人、進み出た者がいた。男たちに交じって鍛錬を積む若い娘──寧々である。

猪は本能のまま、誰よりも小柄な寧々に狙いを定めた。

「寧々様! 危険です! お逃げください!」

若い同心が狼狽して叫ぶ。だが、古参の同心はその肩を軽く叩いて微笑を浮かべた。

「心配するな。見ておれ」
「だ、大丈夫なんですか……」

寧々は静かに右腕を引き、腰を落とす。鋭い眼差しが猪を射抜いた。

次の瞬間、猪は猪突猛進の勢いで寧々に向かって突っ込んできた。寧々はさらに姿勢を低くし、片足の踵を大地へ沈める。

激突する刹那――右の掌が猪の鼻先を打った。鈍い衝撃音が響く。

押し込まれながらも、すかさず左の掌を重ねる。だが、猪が怯んだのは一瞬だった。

猪は低く頭を潜らせると、鋭い牙を寧々の懐へ滑り込ませた。勢いそのまま、一気に腹を突き上げる。

だが寧々のほうが、ほんのわずかに早かった。鋭い牙を両手でしかと掴んでいた。

突き上げられる勢いを受けて、その身がふわりと宙へ浮く。足先が高々と天を向いた。

一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れる。束ねた黒髪が宙に広がった。その直後――。

――散華葬転!

空中で膝を抱え込むように身体を丸める。そのまま落下の勢いを乗せた膝を、猪の首筋へ叩き込んだ。

「がふっ!」

猪が苦悶の声を上げて力を緩めた。その一瞬の隙を逃さず、寧々は両脚を首へ絡めると、牙を引きながら容赦なく全身をひねる。

ボキボキボキッ!

鈍い音とともに猪の首があり得ぬ角度までねじ曲がる。猪は小鹿のような甲高い悲鳴を上げ、白目をむいた。体躯が地に伏し、砂煙が上がる。

寧々が起き上がり静かに距離を取ると、猪は失神し四肢を痙攣させていた。周囲から驚愕と畏敬の歓声が湧き上がる。

そこへ、一人の年配の男が悠然と歩み出た。

毛のない頭に陽光を受けるその男は、寧々の祖父にして、千人同心の師範・藤林源作である。

齢六十を過ぎてなお、はだけた稽古着からのぞく肉体は若者にも引けを取らない屈強さを備えている。

源作の手には、一振りの牛刀と麻縄が握られていた。さも当然といった口ぶりで言う。

「ほっほっほ。今日こそは仕留められると思うておったわい。なにせ、寧々がおるからのう」

源作は同心たちに指示をし、猪の手足を麻縄で縛り上げさせた。それを皆で力を合わせて大木へ吊るす。

源作は猪に歩み寄り、すっと牛刀を構えた。

そして、一閃。鋭い刃が猪の首を裂き、どぼどぼと鮮血が噴き出した。

猪は苦痛に目を覚まし、縄を軋ませて暴れる。だが、やがて血が流れ尽きるにつれ動きは弱まり、ほどなくして静かになった。

「さて、今日は久々のしし鍋に舌鼓とするかの」

源作は慣れた手つきで皮を剥ぎ、尻の肉を切り抜いた。

半刻も経つ頃には、野菜の味噌汁は香り高い猪鍋へと姿を変えていた。皆は木陰に腰を下ろし、握り飯を頬張りながら湯気立つ鍋を囲む。

「さすが寧々様。猪も相手が悪かったってことっすね」
「野生で生きるなら、相手を見る目もねぇとな」
「しかし、あの体術はすげぇ。俺も一度でいいから教わりたいもんですよ」

笑い声が木立の間に響く。誰もが自然と寧々の近くへ集まり、その活躍を絶賛していた。

ところが、その輪の中心にいる寧々だけは、どこか晴れない顔をしていた。汁を一口すすると、静かに椀を置く。

「じつは、皆に話さなければならないことがあるのです」

その神妙な一言に、笑い声がはたと止んだ。風が(こずえ)を揺らす音だけがその場に広がる。

寧々は一人ひとりの顔をゆっくり見渡し、そして静かに告げた。

「私は明日、一橋家へ上がることになりました」

その言葉に、誰も声を発することができなかった。驚きよりも先に胸へ込み上げたのは、抗いようのない納得だった。

三月ほど前、江戸の町々には一枚のお触れが掲げられたことを、皆よく覚えていた。

『一橋家の新たな奥方をひとり募る。
壮健にして聡明、口が堅く、主君のためなら命をも惜しまぬ者。
望む者は卯月五日、辰の刻、桜田門まで参るべし』

一橋家は、徳川将軍家を支える御三卿の一つ。

国持ち大名ではなく江戸に屋敷を構え、将軍家を補佐する家柄である。将軍家の血筋が絶えた折には、その中から将軍を迎えることもある、徳川一門の中でも特別な存在だ。

本来、武家の奥方は、大名や将軍家と縁ある家から迎えられるのが常である。まして当主には正室がいる。その一橋家が町にまでお触れを出し、側室となる人材を募ったのだ。よほどの事情があったに違いない。

だからこそ皆は悟った。

しばらく寧々が稽古を休んでいたのは、そのためだったのだと。そして見事に選ばれ、一橋家へ奥入りすることになったのだと。寧々ほどの器を持つ娘は、ほかに思い当たらなかった。

――寧々様ならば。
――武家の奥方として、これほどふさわしい人はいない。

そう思えてしまうからこそ、誰一人として引き止める言葉を口にできなかった。

藤林寧々、齢十七。

まだ幼さの残る年頃ではあったが、血色もよく、病ひとつ知らぬ娘として評判であった。

寧々自身は、これから自らが足を踏み入れる世界の重みを、まだ十分には知る由もなかったが、その婚儀には一人の娘の縁談を超えた、一橋家の未来が託されていたのである。

鍋はぐつぐつと煮えている。先ほどまで賑やかだった笑い声は消え、薪の爆ぜる音だけが静かな草原に響いていた。

こうして同心たちとの最後の鍛錬は、猪鍋の湯気が静かに立ち上る、通夜のような宴となったのであった。