「では明日以降、来られる日はありますか?」
「あ……えっと、明日なら大丈夫です」
私が答えると、真尋は少し考えるように黙ってから続けた。
「それでは、明日は帰宅後、なるべく早めにお越しください」
「え?」
「『勉強』を始める前に、お話ししておきたいことがありますので」
話しながらも、真尋の表情は変わらない。
勝手にこんな話になって、怒らせてしまったのだろうか。
「……はい」
満足げに微笑む母の隣で、私は真尋の顔をまともに見られず、俯いた。
その後、母と二人きりになってもお咎めはなかった。
(……真尋さんのお陰だよね、絶対)
勉強に専念するようどう説得しようか悩んでいた母にとって、東都大学に通う真尋の存在は渡りに船に違いなかった。
しかも勉強を教えてもらえるというのだから、願ってもない話だ。
結局、そのまま母とは言葉を交わさないまま帰宅した。
自分の部屋へ入ると、背中越しにドアを閉める。
途端に、張りつめていた糸が切れたように全身の力が抜けた。
リュックを床へどさりと下ろし、大きく息を吐く。
「はぁ……疲れた」
なんだかえらく長い時間外出していたような気もするが、時計を見ると、家を出てから3時間しか経っていなかった。
何気なく首筋へ手をやる。じんわりと熱い。手鏡で確かめると、正面からは見えない側面に5センチほどの黒い痕が残っていた。
『その痣が、妖とあなたを繋ぐ印になってしまったのでしょう』
彼の言葉を思い出し、ぞくりと背中に悪寒が走る。
無駄だとわかっていながら痣を擦ってみたが、消えるどころか周囲が赤くなって目立っただけだった。
スマホを見ると、メールが届いていた。配信サイトのほうに届いた、相談者からのDMだ。
いつもこうして前もってメールが届き、その中から何通かを配信で紹介することになっている。
『高校2年生です。遠距離恋愛中の彼が浮気してる気がします。不安で仕方ありません。どうしたらいいですか?』
(うーん、浮気かぁ……)
恋愛相談はこれまでも何度か受けてきた。けれど、浮気の相談は初めてだ。
付き合ったあとのことなんてわからない私に、浮気の相談はさすがに荷が重かった。
(どうしよう……これは取り上げないほうがいいかな)
もう一度、相談内容に目を通す。
『不安で仕方ありません』という言葉が、どうしても気になった。
(……やっぱり、ほっとけないよね)
その時、ふとなあ子の顔が浮かんだ。
中学からの親友で、彼氏とはもう何年も続いている。
(そうだ。恋愛のことなら、なあ子に聞いてみよう)
――よし。
私はメールの下にある『承諾』をタップし、配信相談を受け付けた。
「えっ!? あんた、いつの間に彼氏……むぐっ」
私は慌ててなあ子の口を塞いだ。やっぱり伝わってない。
「私じゃなくて! その……知り合いの話!」
「なんだ……びっくりした」
休み時間の教室。チャイムが鳴り終わると同時に駆け込んだ、なあ子こと佐伯奈穂子の席で、私は大きく息をついた。
「まぁ……離れてたら、気持ちが冷めてくのもわかるけどね。いくら連絡取り合ってたって。やっぱり会いたいし、触れたいもん」
「そういうもの?」
「うん。私は遠距離恋愛したことないから想像だけど、何日も会えないと寂しいとは思うよ」
頬を緩ませるなあ子は、完全に恋する女の子の顔だ。
――ついでに惚気られた。
しかし、なあ子の幸せそうな表情は一瞬にして般若に変わる。
「っていうか、あんたこの年になって好きな人の一人もいないって、天然記念物にも程があるでしょ! 人生の出会いどんだけ避けてきたわけ?」
「い……いいじゃん別に! これから出会うもん!」
「そうそう。みとはまだ孵化してないだけだもんな」
背後から笑い混じりの声が降ってきた。
頭をポンポンと叩かれて見上げると、同じクラスの男子、瀬川充希が悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
毎年クラス替えがあるのに、なぜか今年も同じクラスになった奴だ。
何が面白いのか、よくこうしてちょっかいをかけてくる。
私は頬を膨らませた。
「充希……あんた、人を蛹みたいに」
「蛹は孵化じゃなくて羽化な」
「細かい!」
「そこ間違えたら、ツッコミとして成立しねぇだろ」
「どっちにしてもフォローになってないから!」
私が睨むと、充希は可笑しそうに笑う。
「悪い悪い。じゃ、俺戻るわ」
そう言ってひらひらと手を振り、自分の席へ戻っていった。
「もう……」
去っていく背中を見送り、小さく息をつく。
「いいねぇ、お若いのは」
後ろからなあ子の意味不明な呟きが聞こえたが、私は聞こえないふりをした。
「ところでみと、恋バナで余裕ぶっこいてるけど、今度のテストの範囲大丈夫なの?」
なあ子が机に頬杖をついて聞いてきた。
致命的な一撃。思わず項垂れる。
「……だいじょばない。でも、まだ本気出してないだけだし」
「無理無理。それ言ってる奴ほど赤点取るからね。あーあ、どっかに勉強教えてくれる秀才、いないかなぁ……」
なあ子のため息交じりの声に、ふと真尋の顔が浮かんだ。
『帰宅後、なるべく早めにお越しください』
……そうだった。
今日から、あの人に勉強を見てもらうんだ。
「ん? みと……あんた、もしかして教えてもらうあてあるの?」
「えっ?」
(……また?)
昨日も真尋に見透かされたばかりだ。
そんなに私、顔に出やすいんだろうか。思わず両手で頬を押さえる。
……しまった。
「……怪しい」
なあ子がただならぬオーラで近付いてくる。私は焦った。
「ぜ、ぜんぜん怪しくない! ちょっと知り合った大学生に教えてもらうだけ!」
「知り合いの……大学生ぇ?」
なあ子がじとっとした目でこちらを見る。
「なにその怪しさ満点の響き。いつの間にそんないい人作ったのよ」
「そんなんじゃないから」
「イケメン?」
「え?」
「イケメン?」
「……まぁ」
「はい出たー!」
「勉強教わるだけ!」
「そのセリフ、一番怪しいやつ!」
「違うって! あの人、恋愛とか興味なさそうだし」
「はい出たー! 恋愛に興味なさそうなイケメン! 一番モテるやつじゃん」
何を言っても聞く気のなさそうななあ子に、私は言い返すのを諦めた。
そんな私の顔を見て、なあ子はくすっと吹き出した。
「まぁ、でも安心したよ」
「何が?」
「みとも天然記念物卒業の日が近いかもね」
言い返そうとしたところで、予鈴が鳴った。
(そんなんじゃないってのに……)
「あ……えっと、明日なら大丈夫です」
私が答えると、真尋は少し考えるように黙ってから続けた。
「それでは、明日は帰宅後、なるべく早めにお越しください」
「え?」
「『勉強』を始める前に、お話ししておきたいことがありますので」
話しながらも、真尋の表情は変わらない。
勝手にこんな話になって、怒らせてしまったのだろうか。
「……はい」
満足げに微笑む母の隣で、私は真尋の顔をまともに見られず、俯いた。
その後、母と二人きりになってもお咎めはなかった。
(……真尋さんのお陰だよね、絶対)
勉強に専念するようどう説得しようか悩んでいた母にとって、東都大学に通う真尋の存在は渡りに船に違いなかった。
しかも勉強を教えてもらえるというのだから、願ってもない話だ。
結局、そのまま母とは言葉を交わさないまま帰宅した。
自分の部屋へ入ると、背中越しにドアを閉める。
途端に、張りつめていた糸が切れたように全身の力が抜けた。
リュックを床へどさりと下ろし、大きく息を吐く。
「はぁ……疲れた」
なんだかえらく長い時間外出していたような気もするが、時計を見ると、家を出てから3時間しか経っていなかった。
何気なく首筋へ手をやる。じんわりと熱い。手鏡で確かめると、正面からは見えない側面に5センチほどの黒い痕が残っていた。
『その痣が、妖とあなたを繋ぐ印になってしまったのでしょう』
彼の言葉を思い出し、ぞくりと背中に悪寒が走る。
無駄だとわかっていながら痣を擦ってみたが、消えるどころか周囲が赤くなって目立っただけだった。
スマホを見ると、メールが届いていた。配信サイトのほうに届いた、相談者からのDMだ。
いつもこうして前もってメールが届き、その中から何通かを配信で紹介することになっている。
『高校2年生です。遠距離恋愛中の彼が浮気してる気がします。不安で仕方ありません。どうしたらいいですか?』
(うーん、浮気かぁ……)
恋愛相談はこれまでも何度か受けてきた。けれど、浮気の相談は初めてだ。
付き合ったあとのことなんてわからない私に、浮気の相談はさすがに荷が重かった。
(どうしよう……これは取り上げないほうがいいかな)
もう一度、相談内容に目を通す。
『不安で仕方ありません』という言葉が、どうしても気になった。
(……やっぱり、ほっとけないよね)
その時、ふとなあ子の顔が浮かんだ。
中学からの親友で、彼氏とはもう何年も続いている。
(そうだ。恋愛のことなら、なあ子に聞いてみよう)
――よし。
私はメールの下にある『承諾』をタップし、配信相談を受け付けた。
「えっ!? あんた、いつの間に彼氏……むぐっ」
私は慌ててなあ子の口を塞いだ。やっぱり伝わってない。
「私じゃなくて! その……知り合いの話!」
「なんだ……びっくりした」
休み時間の教室。チャイムが鳴り終わると同時に駆け込んだ、なあ子こと佐伯奈穂子の席で、私は大きく息をついた。
「まぁ……離れてたら、気持ちが冷めてくのもわかるけどね。いくら連絡取り合ってたって。やっぱり会いたいし、触れたいもん」
「そういうもの?」
「うん。私は遠距離恋愛したことないから想像だけど、何日も会えないと寂しいとは思うよ」
頬を緩ませるなあ子は、完全に恋する女の子の顔だ。
――ついでに惚気られた。
しかし、なあ子の幸せそうな表情は一瞬にして般若に変わる。
「っていうか、あんたこの年になって好きな人の一人もいないって、天然記念物にも程があるでしょ! 人生の出会いどんだけ避けてきたわけ?」
「い……いいじゃん別に! これから出会うもん!」
「そうそう。みとはまだ孵化してないだけだもんな」
背後から笑い混じりの声が降ってきた。
頭をポンポンと叩かれて見上げると、同じクラスの男子、瀬川充希が悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
毎年クラス替えがあるのに、なぜか今年も同じクラスになった奴だ。
何が面白いのか、よくこうしてちょっかいをかけてくる。
私は頬を膨らませた。
「充希……あんた、人を蛹みたいに」
「蛹は孵化じゃなくて羽化な」
「細かい!」
「そこ間違えたら、ツッコミとして成立しねぇだろ」
「どっちにしてもフォローになってないから!」
私が睨むと、充希は可笑しそうに笑う。
「悪い悪い。じゃ、俺戻るわ」
そう言ってひらひらと手を振り、自分の席へ戻っていった。
「もう……」
去っていく背中を見送り、小さく息をつく。
「いいねぇ、お若いのは」
後ろからなあ子の意味不明な呟きが聞こえたが、私は聞こえないふりをした。
「ところでみと、恋バナで余裕ぶっこいてるけど、今度のテストの範囲大丈夫なの?」
なあ子が机に頬杖をついて聞いてきた。
致命的な一撃。思わず項垂れる。
「……だいじょばない。でも、まだ本気出してないだけだし」
「無理無理。それ言ってる奴ほど赤点取るからね。あーあ、どっかに勉強教えてくれる秀才、いないかなぁ……」
なあ子のため息交じりの声に、ふと真尋の顔が浮かんだ。
『帰宅後、なるべく早めにお越しください』
……そうだった。
今日から、あの人に勉強を見てもらうんだ。
「ん? みと……あんた、もしかして教えてもらうあてあるの?」
「えっ?」
(……また?)
昨日も真尋に見透かされたばかりだ。
そんなに私、顔に出やすいんだろうか。思わず両手で頬を押さえる。
……しまった。
「……怪しい」
なあ子がただならぬオーラで近付いてくる。私は焦った。
「ぜ、ぜんぜん怪しくない! ちょっと知り合った大学生に教えてもらうだけ!」
「知り合いの……大学生ぇ?」
なあ子がじとっとした目でこちらを見る。
「なにその怪しさ満点の響き。いつの間にそんないい人作ったのよ」
「そんなんじゃないから」
「イケメン?」
「え?」
「イケメン?」
「……まぁ」
「はい出たー!」
「勉強教わるだけ!」
「そのセリフ、一番怪しいやつ!」
「違うって! あの人、恋愛とか興味なさそうだし」
「はい出たー! 恋愛に興味なさそうなイケメン! 一番モテるやつじゃん」
何を言っても聞く気のなさそうななあ子に、私は言い返すのを諦めた。
そんな私の顔を見て、なあ子はくすっと吹き出した。
「まぁ、でも安心したよ」
「何が?」
「みとも天然記念物卒業の日が近いかもね」
言い返そうとしたところで、予鈴が鳴った。
(そんなんじゃないってのに……)


