ようやく足を止めた時には、息が切れて膝に手をついていた。
「……何だったの、今の……」
真尋は私をじっと見つめた。何かを確かめるような眼差しだった。
小さく息をつく。
「……見えたんですね」
「え?」
「妖が、です」
「うん。また黒い靄が……女性の足元に見えた」
真尋の表情が、わずかに曇る。
「……みとさん」
「なに?」
「今後は、たとえ妖が見えても、見えないふりをしてください」
「……なんで?」
「危険だからです。妖は、自分の存在を見える相手を標的と認識します」
さっきの、襲ってきた黒い手が脳裏に蘇り、身震いする。
「……でも、どうして逃げたの? さっきみたいに消しちゃえば良かったのに」
「見えたからといって、すぐに祓うわけではありません」
「どういうこと?」
「相手の正体もわからないまま祓うのは危険です」
真尋は淡々と答えた。
不思議そうに首を傾げる私に、わずかに目元を緩める。
「そもそも、錫杖を持っていないですし」
「……あ」
そういえば、寺に置いたままだった。
「……同じようなことは、もう起こらないって言ってなかった?」
「その時は、私もそう判断していました。ですが……何か別の要因があるようです」
真尋は何かを考えるように私を見つめたまま、一歩近付いた。
「……少し、気になることがあります。確認してもいいですか」
「え?」
「そのままでいてください」
戸惑う間もなく、首にかかっていた髪をそっとかき上げられる。
「ちょ、ちょっと……?」
真尋の視線は私の顔ではなく、首筋へ向けられていた。
「やはり……」
「な、何?」
「痣が残っています」
「あざ?」
思わず首元に手を当てる。
「さっき妖に触れられた場所です。その痣には妖の痕跡が残っています」
「痕跡……」
「その痣が、妖とあなたを繋ぐ印になってしまったのでしょう。その影響で、同じ気を帯びた存在が見えるようになったのかもしれません」
私は言葉を失った。
じゃあ、これからも頻繁に『あれ』が見えるようになるということだ。あの脅威を知った上で、見えないふりなどできるだろうか。
――全然自信がない。
その時だった。
「みと!」
小声で叫ぶような、切迫した声が聞こえた。声の方を見ると、少し先の街灯の下に、母が驚いた顔で立っていた。
「お母さん……?」
母はこちらに駆け寄ってくるなり、私の両肩を掴んだ。
「どこ行ってたの!? 心配したのよ!」
「……」
何か言い返そうと口を開きかける。 けれど、震える母の声と潤んだ瞳を見た瞬間、その言葉は喉の奥へ引っ込んだ。
「……ごめん」
母は私の肩から手を離し、力なく肩を落とした。
「電話も出ないし、家にも戻らないし……もう、本当にどうしようかと……」
胸の奥がちくりと痛んだ。
――しまった。
配信中は着信が鳴らないように設定していたのだ。あんなことがあって、解除するのを完全に忘れていた。
「こんな時間まで、何をしてたの?」
「えっと、それは……」
どうしよう。寺にいたなんて言ったら、話が余計にややこしくなる。
妖のことなんて、もちろん説明できるはずもない。
焦った頭の中で、必死に言い訳を探す。
「あ、あのね! この人に勉強を教わってたの!」
そう言いながら、咄嗟に真尋の袖を掴んだ。
勢いで口から飛び出した言葉に、自分で固まる。
(しまった。何を言ってるの、私!)
母はゆっくりと真尋へ視線を向けた。
「……あなたが?」
その声には、戸惑いと警戒が混じっていた。
恐る恐る隣を見ると、真尋もわずかに目を見開いている。
痛々しいほどの沈黙。
けれど真尋は否定することなく、静かに懐へ手を入れた。
「ご挨拶が遅れてすみません。藤代真尋と申します」
取り出したのは、一枚の身分証だった。
母は恐る恐るそれを受け取り、目を通す。
「えっ……」
その表情が、みるみる驚きに変わっていく。
「東都大学……!? あの東都大学ですか?」
「……はい」
私は母の肩越しに覗き込み、そのまま固まった。
(東都大学……!?)
名前くらいは私でも知っている。
全国屈指の難関大学だ。
思わず学生証と真尋の顔を交互に見比べる。
母は慌てて身分証を返すと、深々と頭を下げた。
「娘がお世話になりました。本当にありがとうございます」
「いえ」
真尋は身分証を受け取り、静かに懐へしまった。
「何かご迷惑をお掛けしていませんでしたか?」
「ご心配には及びません」
それ以上は何も言わなかった。
嘘はついていない。
けれど、本当のことも言っていない。
私は思わず真尋の横顔を見る。
(……助かった)
胸を撫で下ろした、その時だった。
「あの、もしご迷惑でなければ……」
母がおずおずと口を開く。
「今後も、勉強を見ていただけませんか? この子、来年受験生だというのに勉強に身が入らなくて」
「お、お母さん!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「だって、こんな立派な学生さんに教えていただける機会なんて、滅多にないでしょう?」
「いや、そういう問題じゃ――」
「どうでしょうか」
母の真剣な眼差しが真尋へ向けられる。
真尋は私を一瞥した。
私は必死に(断って!)という視線を送る。
数秒の沈黙の後、真尋は小さく息をつき、
「……僕でよろしければ」
母はぱっと顔を輝かせ、「ありがとうございます!」と、再び頭を下げた。
……待って。
今、なんて言った?
『今後も、勉強を見ていただけませんか?』
『……僕でよろしければ』
(……これからも、この人に会うってこと?)
思わず真尋をバッと振り仰ぐ。
彼もまた、静かにこちらを見下ろしていた。
一瞬、視線が交錯する。
真尋は何も言わず、小さく息をついただけだった。
「……何だったの、今の……」
真尋は私をじっと見つめた。何かを確かめるような眼差しだった。
小さく息をつく。
「……見えたんですね」
「え?」
「妖が、です」
「うん。また黒い靄が……女性の足元に見えた」
真尋の表情が、わずかに曇る。
「……みとさん」
「なに?」
「今後は、たとえ妖が見えても、見えないふりをしてください」
「……なんで?」
「危険だからです。妖は、自分の存在を見える相手を標的と認識します」
さっきの、襲ってきた黒い手が脳裏に蘇り、身震いする。
「……でも、どうして逃げたの? さっきみたいに消しちゃえば良かったのに」
「見えたからといって、すぐに祓うわけではありません」
「どういうこと?」
「相手の正体もわからないまま祓うのは危険です」
真尋は淡々と答えた。
不思議そうに首を傾げる私に、わずかに目元を緩める。
「そもそも、錫杖を持っていないですし」
「……あ」
そういえば、寺に置いたままだった。
「……同じようなことは、もう起こらないって言ってなかった?」
「その時は、私もそう判断していました。ですが……何か別の要因があるようです」
真尋は何かを考えるように私を見つめたまま、一歩近付いた。
「……少し、気になることがあります。確認してもいいですか」
「え?」
「そのままでいてください」
戸惑う間もなく、首にかかっていた髪をそっとかき上げられる。
「ちょ、ちょっと……?」
真尋の視線は私の顔ではなく、首筋へ向けられていた。
「やはり……」
「な、何?」
「痣が残っています」
「あざ?」
思わず首元に手を当てる。
「さっき妖に触れられた場所です。その痣には妖の痕跡が残っています」
「痕跡……」
「その痣が、妖とあなたを繋ぐ印になってしまったのでしょう。その影響で、同じ気を帯びた存在が見えるようになったのかもしれません」
私は言葉を失った。
じゃあ、これからも頻繁に『あれ』が見えるようになるということだ。あの脅威を知った上で、見えないふりなどできるだろうか。
――全然自信がない。
その時だった。
「みと!」
小声で叫ぶような、切迫した声が聞こえた。声の方を見ると、少し先の街灯の下に、母が驚いた顔で立っていた。
「お母さん……?」
母はこちらに駆け寄ってくるなり、私の両肩を掴んだ。
「どこ行ってたの!? 心配したのよ!」
「……」
何か言い返そうと口を開きかける。 けれど、震える母の声と潤んだ瞳を見た瞬間、その言葉は喉の奥へ引っ込んだ。
「……ごめん」
母は私の肩から手を離し、力なく肩を落とした。
「電話も出ないし、家にも戻らないし……もう、本当にどうしようかと……」
胸の奥がちくりと痛んだ。
――しまった。
配信中は着信が鳴らないように設定していたのだ。あんなことがあって、解除するのを完全に忘れていた。
「こんな時間まで、何をしてたの?」
「えっと、それは……」
どうしよう。寺にいたなんて言ったら、話が余計にややこしくなる。
妖のことなんて、もちろん説明できるはずもない。
焦った頭の中で、必死に言い訳を探す。
「あ、あのね! この人に勉強を教わってたの!」
そう言いながら、咄嗟に真尋の袖を掴んだ。
勢いで口から飛び出した言葉に、自分で固まる。
(しまった。何を言ってるの、私!)
母はゆっくりと真尋へ視線を向けた。
「……あなたが?」
その声には、戸惑いと警戒が混じっていた。
恐る恐る隣を見ると、真尋もわずかに目を見開いている。
痛々しいほどの沈黙。
けれど真尋は否定することなく、静かに懐へ手を入れた。
「ご挨拶が遅れてすみません。藤代真尋と申します」
取り出したのは、一枚の身分証だった。
母は恐る恐るそれを受け取り、目を通す。
「えっ……」
その表情が、みるみる驚きに変わっていく。
「東都大学……!? あの東都大学ですか?」
「……はい」
私は母の肩越しに覗き込み、そのまま固まった。
(東都大学……!?)
名前くらいは私でも知っている。
全国屈指の難関大学だ。
思わず学生証と真尋の顔を交互に見比べる。
母は慌てて身分証を返すと、深々と頭を下げた。
「娘がお世話になりました。本当にありがとうございます」
「いえ」
真尋は身分証を受け取り、静かに懐へしまった。
「何かご迷惑をお掛けしていませんでしたか?」
「ご心配には及びません」
それ以上は何も言わなかった。
嘘はついていない。
けれど、本当のことも言っていない。
私は思わず真尋の横顔を見る。
(……助かった)
胸を撫で下ろした、その時だった。
「あの、もしご迷惑でなければ……」
母がおずおずと口を開く。
「今後も、勉強を見ていただけませんか? この子、来年受験生だというのに勉強に身が入らなくて」
「お、お母さん!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「だって、こんな立派な学生さんに教えていただける機会なんて、滅多にないでしょう?」
「いや、そういう問題じゃ――」
「どうでしょうか」
母の真剣な眼差しが真尋へ向けられる。
真尋は私を一瞥した。
私は必死に(断って!)という視線を送る。
数秒の沈黙の後、真尋は小さく息をつき、
「……僕でよろしければ」
母はぱっと顔を輝かせ、「ありがとうございます!」と、再び頭を下げた。
……待って。
今、なんて言った?
『今後も、勉強を見ていただけませんか?』
『……僕でよろしければ』
(……これからも、この人に会うってこと?)
思わず真尋をバッと振り仰ぐ。
彼もまた、静かにこちらを見下ろしていた。
一瞬、視線が交錯する。
真尋は何も言わず、小さく息をついただけだった。


