玄関のほうから住職の声が聞こえ、ほどなくして和室の襖が開いた。
「おや、みとさん。いらしてたんですね」
「あ、住職さん」
住職は私の抱える紙袋に目を留めると、「ほほう」と目を細めた。
「源蔵さん、もしかしてそれは例のものですか?」
「そうじゃ。早めに渡しておこうと思ってな」
住職は宮司に短く礼を言うと、また私を見た。
「みとさん、よかったら隣の部屋で試してみてください」
「……えっ?」
「せっかくですから。どうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
私は紙袋を抱え、隣の部屋へ向かった。
襖を閉め、さっそく中身を取り出してみる。
几帳面に畳まれた、厚手の白と赤の布。
そして最後に出てきたのは、一組の白い手袋だった。
手の甲には、淡い桜色の糸で桜の紋様が刺繍されている。よく見ると、花びらの間に、見慣れない文字のようなものが縫い込まれていた。
(……かわいい)
さっそく両手にはめてみると、薄い布が指先までぴったりと馴染んだ。
着替えを終え、鏡を覗き込む。
「……あれ?」
鏡に映る自分の姿を、もう一度見つめる。
白い上衣に、赤い袴。
どう見ても、巫女さんだった。
(……いや、ちょっと待って)
私はそのまま和室へ戻った。
中では、宮司と住職が向かい合ってお茶をすすっていた。
2人は私を見るなり、揃って目を細めた。
「宮司さん!」
「おお、みとちゃん。どうじゃ、着心地は?」
「いや、着心地じゃなくて! 巫女さんじゃないですか、これ!」
「うむ。よく似合っておるぞ」
「ええ。本当によくお似合いですよ」
住職まで嬉しそうに頷く。
「そういう問題じゃなくて! 私、なんちゃって巫女だって言いましたよね!?」
「まあまあ、落ち着いてください」
住職が穏やかになだめる。
そのとき、背後から声がした。
「……何を騒いでいるんですか?」
「……え?」
振り返ると、襖の向こうに、外出着姿の真尋が立っていた。
「……真尋さん!?」
真尋は私の姿を見て、一瞬言葉を失った。
「……あ、あの、これは……」
慌てて言い訳しようとしたけれど、真尋は何も言わない。
(……な、何か言ってよ)
そう思ったところで、真尋の視線がふと私の手元に落ちた。
そして、納得したように小さく頷いた。
「……なるほど。宮司さん、用意してくださったんですね」
(……え? これのこと?)
思わず手袋を見つめる。
そんな私に、真尋が説明してくれた。
「先日、札が手から離れなくなったことがありましたよね。その件で、源蔵さんに相談していたんです」
「……あ! じゃあ、この手袋って……」
「ええ。これなら、安心して札を扱えるはずです」
「うむ。ちょいと特別な祈祷を施しておいたからの」
宮司が自信満々に頷く。
なるほど、何か特別な力が込められたものらしい。
見くびっていた。
そういえばこの人は、れっきとした神社の宮司さんなのだ。
「あの、じゃあ、この衣装も……」
「ああ、それはおまけじゃ」
「…………」
……言いたいことは山ほどあるが、ここは最大限の慈愛の心でぐっとこらえる。
「それでは、僕は着替えてきます」
真尋が背を向けると、宮司が呆れたように口を開いた。
「なんじゃ、一言もなしか。可愛いとか似合うとか言ってやればええじゃろ。そんなんじゃせっかくの嫁に愛想つかれるぞ」
「嫁じゃないですから」
真尋が即答した。
私は思わずその顔を見る。
目が合った真尋が、不思議そうに見返してきた。
(……そのとおりだけど、そんなに即答しなくてもいいじゃない)
なんだか面白くない。
「……でも」
不意に、真尋が口を開いた。
「いいんじゃないですか。似合ってますよ」
「…………え?」
けれど真尋は、それ以上何も言わず、さっさと部屋を出ていってしまった。
(……なに、それ)
今さらそんなこと言うなんて、ずるい。
真尋が出ていった襖を見つめていると、ふと視線を感じた。
振り返ると、宮司と住職が慌てて目を逸らした。
けれど、二人とも口元が緩んでいるのがバレバレだ。
「……住職さん」
「そうでした。みとさん、ひとつお伝えしておきたいことがありましてね」
住職が声を落として手招きする。
あまりにわざとらしいタイミングに呆れながらも、私は住職の前まで行って腰を下ろした。
「……もう、何を聞いても驚きませんよ」
「実は、真尋から伝言を頼まれていたんです」
「え? 真尋さんから?」
思わず真顔になる。
ちらりと、真尋が出ていった襖を振り返った。
「……なんて?」
「『次に押し入れに入るときは、中のものを元の位置に戻しておいてください』と」
「…………」
……押し入れ?
(……え?)
頭の中に、あの日の光景が蘇る。
靴を抱えて飛び込んだ、あの暗くて狭い空間。
「……えええっ!?」
「はっはっは!」
隣で宮司が大きな声で笑った。
「押し入れに入ったのか! さすが藤代家の嫁じゃ。……いや、待てよ。もしかしたら笑い事ではないかもしれん」
「笑い事です!」
即座に否定してから、住職に向き直る。
「……真尋さん、気づいてたんですか? 私が隠れてたこと」
「ええ。どうやら、そうだったようですね」
(……うそ)
あの日、真尋は何事もなかったように部屋を出ていった。
だから、気づかれていないものだと……。
「……いつから?」
「そこまでは聞いていませんが」
住職は穏やかに微笑んだ。
「真尋なりに、気を遣ったのでしょうね」
「…………」
私は膝の上に視線を落とした。
……そうだったんだ。
ふと、あのときの会話が頭をよぎる。
『大事なものなのか?』
『そうですね。……大事なものです』
あの声を聞いたとき、嬉しくて、でも少し苦しくなった。
真尋がつきぷくを大切にしてくれていたことが、ただ嬉しかった。
(……もしかして)
あのときも、私がいるって知ってたのかな。
だとしたら、あの言葉は……。
「…………」
そこまで考えて、慌てて首を振る。
(……いやいや、ないない!)
たまたま聞かれたから答えただけ。
きっと、そうだ。
そうに決まってる。
「……みとさん?」
「は、はいっ!」
顔を上げると、住職が不思議そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
「そうですか。それならよかった」
住職はにこりと笑い、お茶をすすった。
(……もう)
今日は、いったい何回この人たちに振り回されればいいんだろう。
「さて、それでは私はそろそろ失礼しますね」
住職が湯呑みを置いて立ち上がった。
「明日の法事の準備をしなければなりませんので。お二人はどうぞごゆっくり」
「あ、待ってください!」
私は慌てて立ち上がった。
「私も着替えたら、お手伝いします!」
「おや、いいんですか?」
「はい!」
私は隣の部屋へ戻り、いつもの服に着替えた。
脱いだ巫女装束を畳みながら、ふと思う。
(……これ、いつ着るんだろ)
まあ、せっかくもらったんだし。
いつか使うこともあるかもしれない。
そう思いながら、紙袋へしまった。
着替えを終えて和室へ戻ると、宮司の姿はなかった。
(……あれ? 帰っちゃったのかな)
紙袋を部屋の隅に置き、廊下へ出る。
住職に何をすればいいか聞こうと思ったのだけれど、辺りを見回しても姿が見当たらない。
(……どこ行ったんだろ)
廊下を進みながら、開いている部屋を覗いていく。
そのときだった。
「……香月さんの具合は、その後どうだ?」
ふと、奥の部屋から住職の声が聞こえた。
(……え?)
足を止める。
香月さんって、あの香月さん?
続いて聞こえてきたのは、真尋の声だった。
「ええ。今はもう、落ち着いているようです。当時と同じ夢を見るという話を聞きましたが、今のところ特に異変はありません」
「そうか。それはよかった」
少しの沈黙があった。
(……あ、いけない。立ち聞きになっちゃう)
私はそっと踵を返した。
「何より、同化が解けたのは幸いでした」
思わず足が止まる。
(……『同化』?)
振り返り、閉じた襖に目を向けた。
「……ですが、僕があんなことをしなければ、彼女は今頃、もっと大きな舞台で輝いていたかもしれません」
真尋の声が、わずかに沈んだ。
「真尋。もう、そのことは……」
「わかっています。でも、僕が彼女を傷つけたことに変わりはありません」
(……傷つけた?)
思わず、襖を見つめる。
「あなたにあれだけ説得されても、妖を祓えば助けられると、そう思っていました。……未熟でした」
最後の言葉は、絞り出すように聞こえた。
(……どういうこと?)
詩織が、妖と同化していた?
それを真尋が祓おうとして、傷つけてしまった……?
頭の中が混乱して、うまく考えがまとまらない。
聞いてはいけない話だとわかっていた。
それでも、足が動かなかった。
「……真尋。実は、お前に話しておかねばならんことがある」
住職が静かに口を開いた。
「同化を解く方法について、新しい手がかりが見つかった」
「……本当ですか?」
「うむ。ただ、確かめるには、少々遠くまで足を運ぶ必要がある」
「……どこですか?」
「…………」
住職はすぐには答えなかった。
「……あの村だ」
沈黙が落ちた。
「お前の両親が向かった、あの村だ」
(……え?)
思わず、息を呑んだ。
「……そうですか」
真尋の声が、ひどく静かだった。
大学で聞いた、あの日の話が蘇る。
『それきり、帰ってきませんでした』
(……あの村に、同化を解く手がかりが?)
真尋のご両親が帰らなかった、あの村に……。
「……無理をすることはないぞ」
住職が静かに言った。
「あの場所に何があるのか、まだ確かなことはわかっておらん。それに、お前が行かねばならんというわけでもない」
「……わかっています」
しばらくの沈黙の後、真尋が口を開いた。
「……ずっと、あの場所を避けてきました。けれど、いつまでも逃げているわけにはいかないのかもしれませんね」
「……真尋」
「もし、そこに同化を解く方法があるのなら……今度こそ、誰も傷つけずに済むかもしれません」
詩織のこと。
真尋の両親のこと。
知らなかったことが、次々と押し寄せてくる。
「……お前は、まだ自分を責めておるのだな」
住職の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前が香月さんに負い目を感じておるのはわかる。だが、それを償いだと思うのなら、私は止めん。……もっとも、私はお前が償うべき罪を犯したとは思っておらんがな」
真尋は何も答えなかった。
私は廊下に立ち尽くしたまま、俯いた。
(……償い)
真尋が、詩織を傷つけていた。
そんなこと、知らなかった。
ふと、あの日の光景が脳裏をよぎった。
真尋の部屋で、肩をはだけさせていた詩織。
その肩に、手を伸ばしていた真尋。
(……あのときの、あれって……)
何があったのかも、どうしてそうなったのかも、わからない。
でも、真尋は今でもそのことを悔やんでいる。
ずっと、忘れられずにいる。
(……そんなに、大切なんだ)
胸が、ぎゅっと痛んだ。
真尋の過去には、詩織がいる。
2人の間には、私の知らない時間がある。
それが、どうしようもなく寂しかった。
(……やだな)
こんなときに、何を考えてるんだろう。
真尋がどんな思いでいるのかも、まだわからないのに。
それでも、涙がこぼれそうになる。
私は唇を噛んだ。
「おや、みとさん。いらしてたんですね」
「あ、住職さん」
住職は私の抱える紙袋に目を留めると、「ほほう」と目を細めた。
「源蔵さん、もしかしてそれは例のものですか?」
「そうじゃ。早めに渡しておこうと思ってな」
住職は宮司に短く礼を言うと、また私を見た。
「みとさん、よかったら隣の部屋で試してみてください」
「……えっ?」
「せっかくですから。どうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
私は紙袋を抱え、隣の部屋へ向かった。
襖を閉め、さっそく中身を取り出してみる。
几帳面に畳まれた、厚手の白と赤の布。
そして最後に出てきたのは、一組の白い手袋だった。
手の甲には、淡い桜色の糸で桜の紋様が刺繍されている。よく見ると、花びらの間に、見慣れない文字のようなものが縫い込まれていた。
(……かわいい)
さっそく両手にはめてみると、薄い布が指先までぴったりと馴染んだ。
着替えを終え、鏡を覗き込む。
「……あれ?」
鏡に映る自分の姿を、もう一度見つめる。
白い上衣に、赤い袴。
どう見ても、巫女さんだった。
(……いや、ちょっと待って)
私はそのまま和室へ戻った。
中では、宮司と住職が向かい合ってお茶をすすっていた。
2人は私を見るなり、揃って目を細めた。
「宮司さん!」
「おお、みとちゃん。どうじゃ、着心地は?」
「いや、着心地じゃなくて! 巫女さんじゃないですか、これ!」
「うむ。よく似合っておるぞ」
「ええ。本当によくお似合いですよ」
住職まで嬉しそうに頷く。
「そういう問題じゃなくて! 私、なんちゃって巫女だって言いましたよね!?」
「まあまあ、落ち着いてください」
住職が穏やかになだめる。
そのとき、背後から声がした。
「……何を騒いでいるんですか?」
「……え?」
振り返ると、襖の向こうに、外出着姿の真尋が立っていた。
「……真尋さん!?」
真尋は私の姿を見て、一瞬言葉を失った。
「……あ、あの、これは……」
慌てて言い訳しようとしたけれど、真尋は何も言わない。
(……な、何か言ってよ)
そう思ったところで、真尋の視線がふと私の手元に落ちた。
そして、納得したように小さく頷いた。
「……なるほど。宮司さん、用意してくださったんですね」
(……え? これのこと?)
思わず手袋を見つめる。
そんな私に、真尋が説明してくれた。
「先日、札が手から離れなくなったことがありましたよね。その件で、源蔵さんに相談していたんです」
「……あ! じゃあ、この手袋って……」
「ええ。これなら、安心して札を扱えるはずです」
「うむ。ちょいと特別な祈祷を施しておいたからの」
宮司が自信満々に頷く。
なるほど、何か特別な力が込められたものらしい。
見くびっていた。
そういえばこの人は、れっきとした神社の宮司さんなのだ。
「あの、じゃあ、この衣装も……」
「ああ、それはおまけじゃ」
「…………」
……言いたいことは山ほどあるが、ここは最大限の慈愛の心でぐっとこらえる。
「それでは、僕は着替えてきます」
真尋が背を向けると、宮司が呆れたように口を開いた。
「なんじゃ、一言もなしか。可愛いとか似合うとか言ってやればええじゃろ。そんなんじゃせっかくの嫁に愛想つかれるぞ」
「嫁じゃないですから」
真尋が即答した。
私は思わずその顔を見る。
目が合った真尋が、不思議そうに見返してきた。
(……そのとおりだけど、そんなに即答しなくてもいいじゃない)
なんだか面白くない。
「……でも」
不意に、真尋が口を開いた。
「いいんじゃないですか。似合ってますよ」
「…………え?」
けれど真尋は、それ以上何も言わず、さっさと部屋を出ていってしまった。
(……なに、それ)
今さらそんなこと言うなんて、ずるい。
真尋が出ていった襖を見つめていると、ふと視線を感じた。
振り返ると、宮司と住職が慌てて目を逸らした。
けれど、二人とも口元が緩んでいるのがバレバレだ。
「……住職さん」
「そうでした。みとさん、ひとつお伝えしておきたいことがありましてね」
住職が声を落として手招きする。
あまりにわざとらしいタイミングに呆れながらも、私は住職の前まで行って腰を下ろした。
「……もう、何を聞いても驚きませんよ」
「実は、真尋から伝言を頼まれていたんです」
「え? 真尋さんから?」
思わず真顔になる。
ちらりと、真尋が出ていった襖を振り返った。
「……なんて?」
「『次に押し入れに入るときは、中のものを元の位置に戻しておいてください』と」
「…………」
……押し入れ?
(……え?)
頭の中に、あの日の光景が蘇る。
靴を抱えて飛び込んだ、あの暗くて狭い空間。
「……えええっ!?」
「はっはっは!」
隣で宮司が大きな声で笑った。
「押し入れに入ったのか! さすが藤代家の嫁じゃ。……いや、待てよ。もしかしたら笑い事ではないかもしれん」
「笑い事です!」
即座に否定してから、住職に向き直る。
「……真尋さん、気づいてたんですか? 私が隠れてたこと」
「ええ。どうやら、そうだったようですね」
(……うそ)
あの日、真尋は何事もなかったように部屋を出ていった。
だから、気づかれていないものだと……。
「……いつから?」
「そこまでは聞いていませんが」
住職は穏やかに微笑んだ。
「真尋なりに、気を遣ったのでしょうね」
「…………」
私は膝の上に視線を落とした。
……そうだったんだ。
ふと、あのときの会話が頭をよぎる。
『大事なものなのか?』
『そうですね。……大事なものです』
あの声を聞いたとき、嬉しくて、でも少し苦しくなった。
真尋がつきぷくを大切にしてくれていたことが、ただ嬉しかった。
(……もしかして)
あのときも、私がいるって知ってたのかな。
だとしたら、あの言葉は……。
「…………」
そこまで考えて、慌てて首を振る。
(……いやいや、ないない!)
たまたま聞かれたから答えただけ。
きっと、そうだ。
そうに決まってる。
「……みとさん?」
「は、はいっ!」
顔を上げると、住職が不思議そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
「そうですか。それならよかった」
住職はにこりと笑い、お茶をすすった。
(……もう)
今日は、いったい何回この人たちに振り回されればいいんだろう。
「さて、それでは私はそろそろ失礼しますね」
住職が湯呑みを置いて立ち上がった。
「明日の法事の準備をしなければなりませんので。お二人はどうぞごゆっくり」
「あ、待ってください!」
私は慌てて立ち上がった。
「私も着替えたら、お手伝いします!」
「おや、いいんですか?」
「はい!」
私は隣の部屋へ戻り、いつもの服に着替えた。
脱いだ巫女装束を畳みながら、ふと思う。
(……これ、いつ着るんだろ)
まあ、せっかくもらったんだし。
いつか使うこともあるかもしれない。
そう思いながら、紙袋へしまった。
着替えを終えて和室へ戻ると、宮司の姿はなかった。
(……あれ? 帰っちゃったのかな)
紙袋を部屋の隅に置き、廊下へ出る。
住職に何をすればいいか聞こうと思ったのだけれど、辺りを見回しても姿が見当たらない。
(……どこ行ったんだろ)
廊下を進みながら、開いている部屋を覗いていく。
そのときだった。
「……香月さんの具合は、その後どうだ?」
ふと、奥の部屋から住職の声が聞こえた。
(……え?)
足を止める。
香月さんって、あの香月さん?
続いて聞こえてきたのは、真尋の声だった。
「ええ。今はもう、落ち着いているようです。当時と同じ夢を見るという話を聞きましたが、今のところ特に異変はありません」
「そうか。それはよかった」
少しの沈黙があった。
(……あ、いけない。立ち聞きになっちゃう)
私はそっと踵を返した。
「何より、同化が解けたのは幸いでした」
思わず足が止まる。
(……『同化』?)
振り返り、閉じた襖に目を向けた。
「……ですが、僕があんなことをしなければ、彼女は今頃、もっと大きな舞台で輝いていたかもしれません」
真尋の声が、わずかに沈んだ。
「真尋。もう、そのことは……」
「わかっています。でも、僕が彼女を傷つけたことに変わりはありません」
(……傷つけた?)
思わず、襖を見つめる。
「あなたにあれだけ説得されても、妖を祓えば助けられると、そう思っていました。……未熟でした」
最後の言葉は、絞り出すように聞こえた。
(……どういうこと?)
詩織が、妖と同化していた?
それを真尋が祓おうとして、傷つけてしまった……?
頭の中が混乱して、うまく考えがまとまらない。
聞いてはいけない話だとわかっていた。
それでも、足が動かなかった。
「……真尋。実は、お前に話しておかねばならんことがある」
住職が静かに口を開いた。
「同化を解く方法について、新しい手がかりが見つかった」
「……本当ですか?」
「うむ。ただ、確かめるには、少々遠くまで足を運ぶ必要がある」
「……どこですか?」
「…………」
住職はすぐには答えなかった。
「……あの村だ」
沈黙が落ちた。
「お前の両親が向かった、あの村だ」
(……え?)
思わず、息を呑んだ。
「……そうですか」
真尋の声が、ひどく静かだった。
大学で聞いた、あの日の話が蘇る。
『それきり、帰ってきませんでした』
(……あの村に、同化を解く手がかりが?)
真尋のご両親が帰らなかった、あの村に……。
「……無理をすることはないぞ」
住職が静かに言った。
「あの場所に何があるのか、まだ確かなことはわかっておらん。それに、お前が行かねばならんというわけでもない」
「……わかっています」
しばらくの沈黙の後、真尋が口を開いた。
「……ずっと、あの場所を避けてきました。けれど、いつまでも逃げているわけにはいかないのかもしれませんね」
「……真尋」
「もし、そこに同化を解く方法があるのなら……今度こそ、誰も傷つけずに済むかもしれません」
詩織のこと。
真尋の両親のこと。
知らなかったことが、次々と押し寄せてくる。
「……お前は、まだ自分を責めておるのだな」
住職の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前が香月さんに負い目を感じておるのはわかる。だが、それを償いだと思うのなら、私は止めん。……もっとも、私はお前が償うべき罪を犯したとは思っておらんがな」
真尋は何も答えなかった。
私は廊下に立ち尽くしたまま、俯いた。
(……償い)
真尋が、詩織を傷つけていた。
そんなこと、知らなかった。
ふと、あの日の光景が脳裏をよぎった。
真尋の部屋で、肩をはだけさせていた詩織。
その肩に、手を伸ばしていた真尋。
(……あのときの、あれって……)
何があったのかも、どうしてそうなったのかも、わからない。
でも、真尋は今でもそのことを悔やんでいる。
ずっと、忘れられずにいる。
(……そんなに、大切なんだ)
胸が、ぎゅっと痛んだ。
真尋の過去には、詩織がいる。
2人の間には、私の知らない時間がある。
それが、どうしようもなく寂しかった。
(……やだな)
こんなときに、何を考えてるんだろう。
真尋がどんな思いでいるのかも、まだわからないのに。
それでも、涙がこぼれそうになる。
私は唇を噛んだ。


