佐貫川に着いたときには、すっかり息が上がっていた。
「はぁ……はぁ……」
膝に手をつき、何度か大きく息をする。目の前には、暗い川が流れていた。
土手沿いに街灯がぽつぽつと並んでいるものの、その明かりが届かない場所はほとんど真っ暗だ。人通りもない。
聞こえてくるのは、川の流れる音と、時折吹き抜ける風の音だけだった。
(……どこ?)
顔を上げ、辺りを見回す。
「……誰か、いませんかー!」
思いきって声を上げてみる。
けれど、返事はない。
(……お願い。まだ、そこにいて)
配信は、まだ続いているはずだ。
悠斗がうまく引き継いでくれていれば、彼女と話ができているかもしれない。
さっきの、妙に沈んだ声が頭をよぎる。
(……早く見つけなきゃ)
土手の下には、川沿いに細い道が続いている。
その先は暗く、街灯もほとんどない。
私は少し迷ってから、土手を下り始めた。
足元の草が、さわさわと音を立てる。
「……すみませーん! 誰かいませんかー!」
今度は、さっきよりも大きな声を出した。
やっぱり、返事はない。
(……本当にここにいるのかな)
不安になりながらも、川沿いを歩いていく。
そのときだった。
首筋が、ずきりと疼いた。
「……っ!」
思わず足を止める。
手を当てた先には、あの痣がある。
(……まさか)
私は顔を上げ、暗闇に目を凝らした。
少し先。
川べりに、何かが見えた。
人影だ。
街灯から離れた場所に、ぽつんと立っている。
その周りには、黒い靄のようなものがまとわりついていた。
(……妖!)
思わず息を呑む。
(……あの子だ!)
黒い影が、少しずつその人影に溶け込んでいく。
まるで、境目がなくなっていくように。
(……もう、同化が始まってる……!)
「……待って!」
私は思わず声を上げた。
女の子が、驚いたように振り返る。
私と同じくらいの年だろうか。青ざめた顔はひどく疲れていて、今にも倒れてしまいそうだった。
「怖がらないで大丈夫。……あなた、『迷子の黒猫ちゃん』でしょ?」
女の子は、さらに大きく目を見開いた。
「……みこ、にゃん……?」
一瞬、言葉に詰まった。
これまで視聴者に、自分の素の姿を晒したことはない。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
「……迎えに来たよ」
できるだけ明るく、笑ってみせる。
「だから、もう大丈夫。一緒に帰ろ?」
けれど女の子は俯き、わずかに首を横に振った。
「……帰ったら、怒られる……」
「え……?」
「また……怒られる……」
か細い声でそう言うと、女の子はその場に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫!?」
慌てて駆け寄り、倒れそうになる体を支える。
「ねぇ、しっかりして!」
目を閉じたまま、返事はない。
私はそっと、その体を地面に横たえた。
彼女を取り巻いていた黒い影が、ゆっくりと彼女の体に這っていく。
(……っ!)
私は腰に下げた袋から、札を1枚取り出した。そして、それを影に貼りつけようとして――動きを止めた。
(……待って。前みたいに、手が離れなくなったら……)
あのとき助けてくれた真尋は今、いない。
(何か、代わりになるもの――)
辺りを見回す。
足元を見ると、おにぎりサイズの石が転がっていた。
(これ、使えるかも……!)
私は石を拾い上げると、川べりへ駆け下りた。川の水で札を濡らし、石を包み込むように貼りつける。
そして、妖に向かって大きく振りかぶり――
「はなれなさいっ――!」
力いっぱい投げつけた石は、妖に命中した。
ジュッ!
何かが焼けるような音がして、石が弾かれ、こちらへ転がってきた。
同時に、黒い影が女の子の体から離れた。
(……効いた!)
けれど、影は何事もなかったようにゆらゆらと揺れ、今度はこちらに向きを変えた。
私は石を拾い上げると、すぐさま駆け出した。
(まずは、あの子から遠ざけなきゃ……!)
土手を全力で走る。
ちらりと振り返ると、倒れている女の子の姿は、もうずいぶん小さくなっていた。
けれど、背後から迫ってくる気配は、どんどん近づいてくる。
(……速い!)
そのとき、足元の草に躓いた。
「きゃっ!」
勢いよく転び、地面に膝をつく。
「いたた……」
慌てて起き上がろうとして、すねに目が止まった。
擦りむいたところから、血が滲んでいる。
私は腰の袋に手を伸ばした。
(……貼れる)
もう一枚の札を取り出し、血の滲んだすねにぴたりと押し当てる。
顔を上げると、黒い影がすぐそこまで迫っていた。
「……っ!」
影が大きく身をしならせ、こちらに向かって飛びかかってきた。
「来ないでっ!」
私は力の限り、札を貼った足を振り上げた。
ジュウッ!
足に鋭い衝撃が走った。黒い影が弾き飛ばされる。
(……やった!)
恐る恐る、自分のすねを見下ろす。
札の端が、黒く焦げている。
(……お札が……)
そこで、ふと思い出した。
手に持っていた石を見る。
石を包んだ札も、ところどころ黒く変色していた。
(……さっき濡らしたはずなのに、焦げてる……)
でも、すねに貼った札ほどひどくはない。
(こっちは、まだ使えるかも……!)
黒い影がぐるりと大きく回り込んだ。
「……っ!」
再び、こちらに狙いを定めている。
私は慌てて石を包んでいた札を剥がすと、それを右手に持って構えた。
「く、来るなら来なさいよ……!」
声を出したとき、喉がからからに渇いているのがわかった。
挑発されたように、影が大きくしなる。
そして次の瞬間――こちらに向かって飛びかかってきた。
「……っ!」
私は咄嗟に、札を突き出した。
けれど、黒い影は勢いを緩めなかった。
直後、体に凄まじい衝撃が走った。
「きゃあっ!」
足が地面から離れる。何が起きたのかわからないまま、体が後ろへ放り出された。
(……っ!)
地面に叩きつけられる――!
そう思った瞬間だった。
ふわりと、体が受け止められた。
「…………え?」
恐る恐る顔を上げる。
目の前に、濃紺の作務衣の胸元があった。
その向こうに、見慣れた顔。
頬には、斜めに走る薄い傷跡が残っている。
幻覚かもしれない、と思った。
けれど、真尋はわずかに息を切らしていた。
その視線は、私ではなく、前方の黒い影に向けられている。
「……真尋さん?」
真尋は何も答えなかった。
私を抱えたまま膝をつくと、そっと地面に座らせた。
そして、傍らに落ちていた錫杖を拾い上げ、静かに立ち上がる。
それに呼応するように、黒い影がぐるりと向きを変えた。
今度は、真尋に狙いを定めたようだった。
大きく身をしならせ、一気に襲いかかってくる。
「真尋さんっ!」
思わず叫んだ。
けれど、真尋は動じなかった。
錫杖を両手で握り、大きく振りかぶる。
次の瞬間――。
ブンッ!!
空気を切り裂くような音が響いた。
錫杖の金具が鳴る音さえ、掻き消してしまうほどの勢いだった。
まともに一撃を受けた黒い影が、大きく吹き飛ぶ。
「…………!」
影は地面を滑るようにして遠ざかり、そのまま動かなくなった。
(……すごい)
思わず息を呑む。
けれど、真尋は錫杖を下ろさなかった。
しばらくして、黒い影が再びうねり始めた。
真尋は素早く距離を詰めると、錫杖を地面に突き立てた。
シャンッ!
今度は、澄んだ金具の音が夜の河原に響いた。
真尋の口から、低く祓詞が紡がれる。
黒い影がびくりと震えた。
やがて、その輪郭が少しずつ崩れ始める。
もがくように揺れていた影は、ほどなくして跡形もなく消え去った。
「…………」
真尋はしばらくその場に立っていた。
それから、ゆっくりとこちらを振り返った。
目が合う。
何も言わずに歩いてくる真尋を、私は地面に座り込んだまま見上げた。
「……怒ってる?」
真尋は私の前で足を止めた。
「無茶をしないと約束したでしょう。怒ってますよ」
「…………」
「でも、何も言いません」
「……え?」
真尋は少しだけ目を伏せた。
「ここで怒れば、あなたはまた離れるでしょうから」
そう言って、手を差し出した。
私はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
そして――。
「……っ」
気がつけば、真尋の胸に飛び込んでいた。
一瞬遅れて、真尋の腕が私の背中に回り、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「……ごめんなさい」
小さく呟くと、抱きしめる腕にさらに力がこもった。
「はぁ……はぁ……」
膝に手をつき、何度か大きく息をする。目の前には、暗い川が流れていた。
土手沿いに街灯がぽつぽつと並んでいるものの、その明かりが届かない場所はほとんど真っ暗だ。人通りもない。
聞こえてくるのは、川の流れる音と、時折吹き抜ける風の音だけだった。
(……どこ?)
顔を上げ、辺りを見回す。
「……誰か、いませんかー!」
思いきって声を上げてみる。
けれど、返事はない。
(……お願い。まだ、そこにいて)
配信は、まだ続いているはずだ。
悠斗がうまく引き継いでくれていれば、彼女と話ができているかもしれない。
さっきの、妙に沈んだ声が頭をよぎる。
(……早く見つけなきゃ)
土手の下には、川沿いに細い道が続いている。
その先は暗く、街灯もほとんどない。
私は少し迷ってから、土手を下り始めた。
足元の草が、さわさわと音を立てる。
「……すみませーん! 誰かいませんかー!」
今度は、さっきよりも大きな声を出した。
やっぱり、返事はない。
(……本当にここにいるのかな)
不安になりながらも、川沿いを歩いていく。
そのときだった。
首筋が、ずきりと疼いた。
「……っ!」
思わず足を止める。
手を当てた先には、あの痣がある。
(……まさか)
私は顔を上げ、暗闇に目を凝らした。
少し先。
川べりに、何かが見えた。
人影だ。
街灯から離れた場所に、ぽつんと立っている。
その周りには、黒い靄のようなものがまとわりついていた。
(……妖!)
思わず息を呑む。
(……あの子だ!)
黒い影が、少しずつその人影に溶け込んでいく。
まるで、境目がなくなっていくように。
(……もう、同化が始まってる……!)
「……待って!」
私は思わず声を上げた。
女の子が、驚いたように振り返る。
私と同じくらいの年だろうか。青ざめた顔はひどく疲れていて、今にも倒れてしまいそうだった。
「怖がらないで大丈夫。……あなた、『迷子の黒猫ちゃん』でしょ?」
女の子は、さらに大きく目を見開いた。
「……みこ、にゃん……?」
一瞬、言葉に詰まった。
これまで視聴者に、自分の素の姿を晒したことはない。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
「……迎えに来たよ」
できるだけ明るく、笑ってみせる。
「だから、もう大丈夫。一緒に帰ろ?」
けれど女の子は俯き、わずかに首を横に振った。
「……帰ったら、怒られる……」
「え……?」
「また……怒られる……」
か細い声でそう言うと、女の子はその場に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫!?」
慌てて駆け寄り、倒れそうになる体を支える。
「ねぇ、しっかりして!」
目を閉じたまま、返事はない。
私はそっと、その体を地面に横たえた。
彼女を取り巻いていた黒い影が、ゆっくりと彼女の体に這っていく。
(……っ!)
私は腰に下げた袋から、札を1枚取り出した。そして、それを影に貼りつけようとして――動きを止めた。
(……待って。前みたいに、手が離れなくなったら……)
あのとき助けてくれた真尋は今、いない。
(何か、代わりになるもの――)
辺りを見回す。
足元を見ると、おにぎりサイズの石が転がっていた。
(これ、使えるかも……!)
私は石を拾い上げると、川べりへ駆け下りた。川の水で札を濡らし、石を包み込むように貼りつける。
そして、妖に向かって大きく振りかぶり――
「はなれなさいっ――!」
力いっぱい投げつけた石は、妖に命中した。
ジュッ!
何かが焼けるような音がして、石が弾かれ、こちらへ転がってきた。
同時に、黒い影が女の子の体から離れた。
(……効いた!)
けれど、影は何事もなかったようにゆらゆらと揺れ、今度はこちらに向きを変えた。
私は石を拾い上げると、すぐさま駆け出した。
(まずは、あの子から遠ざけなきゃ……!)
土手を全力で走る。
ちらりと振り返ると、倒れている女の子の姿は、もうずいぶん小さくなっていた。
けれど、背後から迫ってくる気配は、どんどん近づいてくる。
(……速い!)
そのとき、足元の草に躓いた。
「きゃっ!」
勢いよく転び、地面に膝をつく。
「いたた……」
慌てて起き上がろうとして、すねに目が止まった。
擦りむいたところから、血が滲んでいる。
私は腰の袋に手を伸ばした。
(……貼れる)
もう一枚の札を取り出し、血の滲んだすねにぴたりと押し当てる。
顔を上げると、黒い影がすぐそこまで迫っていた。
「……っ!」
影が大きく身をしならせ、こちらに向かって飛びかかってきた。
「来ないでっ!」
私は力の限り、札を貼った足を振り上げた。
ジュウッ!
足に鋭い衝撃が走った。黒い影が弾き飛ばされる。
(……やった!)
恐る恐る、自分のすねを見下ろす。
札の端が、黒く焦げている。
(……お札が……)
そこで、ふと思い出した。
手に持っていた石を見る。
石を包んだ札も、ところどころ黒く変色していた。
(……さっき濡らしたはずなのに、焦げてる……)
でも、すねに貼った札ほどひどくはない。
(こっちは、まだ使えるかも……!)
黒い影がぐるりと大きく回り込んだ。
「……っ!」
再び、こちらに狙いを定めている。
私は慌てて石を包んでいた札を剥がすと、それを右手に持って構えた。
「く、来るなら来なさいよ……!」
声を出したとき、喉がからからに渇いているのがわかった。
挑発されたように、影が大きくしなる。
そして次の瞬間――こちらに向かって飛びかかってきた。
「……っ!」
私は咄嗟に、札を突き出した。
けれど、黒い影は勢いを緩めなかった。
直後、体に凄まじい衝撃が走った。
「きゃあっ!」
足が地面から離れる。何が起きたのかわからないまま、体が後ろへ放り出された。
(……っ!)
地面に叩きつけられる――!
そう思った瞬間だった。
ふわりと、体が受け止められた。
「…………え?」
恐る恐る顔を上げる。
目の前に、濃紺の作務衣の胸元があった。
その向こうに、見慣れた顔。
頬には、斜めに走る薄い傷跡が残っている。
幻覚かもしれない、と思った。
けれど、真尋はわずかに息を切らしていた。
その視線は、私ではなく、前方の黒い影に向けられている。
「……真尋さん?」
真尋は何も答えなかった。
私を抱えたまま膝をつくと、そっと地面に座らせた。
そして、傍らに落ちていた錫杖を拾い上げ、静かに立ち上がる。
それに呼応するように、黒い影がぐるりと向きを変えた。
今度は、真尋に狙いを定めたようだった。
大きく身をしならせ、一気に襲いかかってくる。
「真尋さんっ!」
思わず叫んだ。
けれど、真尋は動じなかった。
錫杖を両手で握り、大きく振りかぶる。
次の瞬間――。
ブンッ!!
空気を切り裂くような音が響いた。
錫杖の金具が鳴る音さえ、掻き消してしまうほどの勢いだった。
まともに一撃を受けた黒い影が、大きく吹き飛ぶ。
「…………!」
影は地面を滑るようにして遠ざかり、そのまま動かなくなった。
(……すごい)
思わず息を呑む。
けれど、真尋は錫杖を下ろさなかった。
しばらくして、黒い影が再びうねり始めた。
真尋は素早く距離を詰めると、錫杖を地面に突き立てた。
シャンッ!
今度は、澄んだ金具の音が夜の河原に響いた。
真尋の口から、低く祓詞が紡がれる。
黒い影がびくりと震えた。
やがて、その輪郭が少しずつ崩れ始める。
もがくように揺れていた影は、ほどなくして跡形もなく消え去った。
「…………」
真尋はしばらくその場に立っていた。
それから、ゆっくりとこちらを振り返った。
目が合う。
何も言わずに歩いてくる真尋を、私は地面に座り込んだまま見上げた。
「……怒ってる?」
真尋は私の前で足を止めた。
「無茶をしないと約束したでしょう。怒ってますよ」
「…………」
「でも、何も言いません」
「……え?」
真尋は少しだけ目を伏せた。
「ここで怒れば、あなたはまた離れるでしょうから」
そう言って、手を差し出した。
私はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
そして――。
「……っ」
気がつけば、真尋の胸に飛び込んでいた。
一瞬遅れて、真尋の腕が私の背中に回り、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「……ごめんなさい」
小さく呟くと、抱きしめる腕にさらに力がこもった。


