学校から帰ると、鞄を置いて制服のままベッドに腰を下ろした。
今日も寺には行かない。
そう決めていたはずなのに、ふと洞の壁に残した絵が頭に浮かんだ。
(絵……まだちょっとしか進んでないんだよね)
真尋には、会いたくない。
そう思うのに、あの絵だけは途中のままにしたくなかった。
時計を見ると、まだ真尋が帰ってくるまでには時間がある。今から行けば、その前に戻れるはずだ。
私は立ち上がると、制服から着替えて、机の横に置いていたクレヨンの箱を手に取った。
リビングに顔を出し、母に一声かける。
「お母さん、ちょっと外で勉強してくる。ごはんまでには帰るね」
「そう。気を付けてね」
別に、真尋に会いに行くわけじゃない。
絵を描きに行くだけ。
そう自分に言い聞かせながら、玄関を飛び出した。
寺に着くと、境内は静かだった。参拝客もいない。
見慣れた本堂を前にして、ほんの少し足が止まる。
真尋は、まだ帰っていないはずだ。なのに、無意識に辺りを見回してから境内へ入った。
「こんにちはー……」
母屋へ声をかけると、ほどなくして住職が顔を出した。
「おや、みとさん。いらっしゃい」
「こんにちは」
「もうお体のほうは大丈夫ですか?」
「は、はい。もう大丈夫です」
この間、電話でついた嘘を思い出して、少しだけ目を逸らす。
「あの……今日は、勉強を教わりに来たんじゃないんです」
「ほう、そうなんですか」
「絵を描きたくて。洞の……まだ途中だから」
「ああ、なるほど」
住職がにこりと笑う。
「それで、その……真尋さんが帰ってくる前には帰ろうと思ってて。今日来たこと、真尋さんには言わないでもらえますか?」
住職は少しだけ目を細めたけれど、理由は聞かなかった。
「わかりました」
「……ありがとうございます」
ほっと息をついて、持ってきた鞄を置く。
「あ、でもその前に掃除しますね」
「今日は勉強ではないのですから、無理にしなくてもいいんですよ」
「でも、いつもやるって約束してるし。それに、しばらく来られなかったから」
「そうですか。それでは、お願いしましょうか」
「はい」
いつもの場所から箒を借りて、境内へ出る。
しゃっ、しゃっ、と砂利の上を箒が滑る。
何も考えないように、目の前の落ち葉を集めていく。
それでも時々、門のほうへ目が向いてしまう。
(……まだ帰ってこないよね)
自分に言い聞かせるようにして、また箒を動かす。
ふと、少し先に目が止まった。
前に真尋と一緒に掃除をしたとき、あの辺りを掃いていた。
黙々と箒を動かす横顔が浮かんで、慌てて視線を落とす。
会わないために、この時間に来た。
それなのに、こんなところまで思い出している。
(……何やってるんだろ、私)
小さく息を吐いて、箒を握り直す。
しゃっ、しゃっ、と乾いた音だけが境内に響いた。
ひと通り掃除を終え、箒を元の場所へ戻す。
「じゃあ、洞に行ってきます」
「はい。どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます」
住職に軽く頭を下げると、クレヨンを手に洞へ向かった。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
奥へ進み、壁の前で足を止めた。
描きかけのコスモスが、薄暗い洞の中に浮かんでいる。
まだ色の戻っていないところも多くて、ところどころ昔の線がかすれて途切れていた。
「……よし」
スマホのライトをつけ、壁全体が照らせるよう近くに立てかける。
鞄からクレヨンの箱を取り出すと、壁の前にしゃがみ込んだ。
前に塗ったところを確かめながら、薄く残った色をひとつずつ拾っていく。
ピンク。
白。
消えかけていた花びらに、少しずつ色が戻っていく。
こうしていると、不思議と余計なことを考えなくて済んだ。
どの色を重ねようとか、ここの線はもう少し伸ばしたほうがいいとか。
そんなことだけ考えて、手を動かしていられる。
「……ここ、もうちょっとかな」
少し離れて壁を見る。
まだ完成には遠い。
けれど、最初に見たときより、ずっと鮮やかになっていた。
もう一度壁に近づき、クレヨンを走らせる。
どれくらいそうしていただろう。
ふと手を止めると、洞の中がしんと静まり返っていることに気付いた。
聞こえるのは、ときどき外から入り込んでくる風の音だけ。
急に、ひとりなのだということを意識した。
別に、それでいい。
今日はそのために来たんだから。
クレヨンを持ち直して、また壁へ向かう。
けれど少しして、立てかけていたスマホに目をやった。
まだ大丈夫。
時刻を確かめて、再びコスモスへ向き直る。
「……続き、やろ」
今度はさっきより少しだけ強く、コスモスの花びらに色を重ねた。
その後も、私は真尋が帰ってくる前の時間を狙って寺へ通った。
掃除をして、洞へ行って、少しずつコスモスに色を重ねていく。
その日も、いつものように洞の奥まで進むと、壁の前にしゃがみ込んだ。
残っているのは、あと少し。
クレヨンを手に取り、かすかに残った昔の色を追うように線を重ねていく。
ピンクの花びらをひとつ。
その隣に、白。
最後に細い茎へ色を足して――手を止めた。
ゆっくり立ち上がり、数歩後ろへ下がる。
洞の壁いっぱいに、コスモスが咲いていた。
消えかけていた花も、途切れていた茎も、もうほとんどわからない。
昔からそこにあった色と、私が重ねた色が混ざり合っている。
「……できた」
ぽつりと呟く。
思っていたより、その言葉は洞の中に大きく響いた。
嬉しいはずなのに、胸の奥にぽっかりと小さな隙間ができたような気がした。
もう少しだけ、描いていたかった。
けれど、壁いっぱいに咲いたコスモスを見渡しても、もう手を加えるところはほとんどない。
もう、絵を描くためにここへ来る理由はない。
「……帰ろ」
クレヨンを箱に戻し、洞を出た。
母屋へ戻ると、住職は和室でお茶を飲んでいた。
「終わりました」
「おや。完成しましたか?」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「自分では完成したつもりなんですけど、見てると、もうちょっとここ塗ったほうがいいかなーとか思えてきちゃって」
「ははは。そういうものかもしれませんね」
住職が楽しそうに笑う。
「せっかくですから、少し休んでいきませんか?」
「あ……じゃあ、ちょっとだけ」
勧められるまま、座布団に腰を下ろす。
湯呑みから立ちのぼる湯気を眺めながら、ふう、と息を吐いた。
「それにしても、広い範囲だったでしょう。よく頑張りましたね」
「なんか、始めたら途中でやめられなくなっちゃって」
「真尋にも見せてあげたら、喜ぶと思いますよ」
「…………」
湯呑みを持つ手が止まった。
「……それは、まだ」
住職は何も言わず、穏やかにお茶をすすった。
そのときだった。
窓の外に、人影が見えた。
「――え」
白いシャツ。大きめの黒いショルダーバッグ。
見慣れた姿が、山門をくぐってくる。
「えっ」
もう一度、声が出た。
「真尋さん!?」
反射的に時計を見る。
まだ、いつも帰ってくる時間じゃない。
「なんで!? 早くない!?」
「今日は早かったようですねえ」
「ようですねえ、じゃなくて!」
立ち上がった拍子に、膝が座卓にぶつかった。
「いたっ……!」
でも今はそれどころじゃない。
帰らなきゃ。
いや、もう無理だ。
玄関へ行ったら鉢合わせる。
境内を見ると、真尋はもう母屋へ向かって歩いてきている。
「ど、どうしよう……!」
辺りを見回す。
和室。
廊下。
襖。
そして――押し入れ。
「…………」
私は押し入れを見た。
住職も押し入れを見た。
「みとさん?」
玄関へ走り、自分の靴を掴む。
そのまま和室へ戻り、押し入れの襖に手をかける。
「ちょっと失礼します!」
「え?」
勢いよく襖を開けた。
「みとさん、まさか――」
「しーっ!」
靴を抱えたまま押し入れへ潜り込む。
「私、いませんから!」
「いや、しかし――」
「いません!」
ぴしゃりと襖を閉めた。
暗い。
狭い。
(……私、何やってるんだろ)
自分でもそう思う。
でも、今さら出られない。
ほどなくして、玄関のほうから戸の開く音がした。
「ただいま戻りました」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。
「おかえり、真尋」
住職の声が返り、ほどなくして足音がこちらへ近づいてきた。
私は靴を抱きしめたまま、押し入れの中で息を潜める。
やがて、その足音が襖の向こうで止まった。
「今日は早かったな」
「はい。最後の講義が休講になったので」
「そうか。ちょうどよかった。明後日の法事だが、11時からだったな」
「はい。ご家族が10時半頃にはいらっしゃるそうです」
「では、それまでに本堂を整えておこう。お供え物も届くことになっている」
「わかりました。明日のうちに掃除しておきます」
「ああ、頼む」
(…………)
なんだろう。
ものすごく普通の会話をしている。
(住職、普通に話してるし)
さっき私が靴を抱えて押し入れに飛び込んだことなんて、まるでなかったみたいだ。
(切り替え、はや……!)
いや、待って。
よく考えたら、おかしいのは私のほうだ。
靴を抱え、押し入れの暗闇に身を潜め、男の帰宅に怯えて息を殺す女子高生。
これは、まずい。
どう考えても、不倫相手が押し入れに隠れるアレ――
「それと、来週の一周忌の件ですが……」
住職と真尋の話はまだ続く。
法事の時間だとか、檀家さんへの連絡だとか、私にはよくわからない話ばかりだ。
(長い……)
足が痺れてきた。
少しだけ体勢を変えようとして――
コト。
(!!)
靴のかかとが、押し入れの壁に当たった。
息を止める。
けれど、襖の向こうでは何事もなかったように会話が続いていた。
気付いてない。
よかった……。
「ところで、真尋。前から聞こうと思っていたんだが、これは?」
「…………」
(……なに?)
一瞬、妙な間が空いた。
押し入れの中からでは、住職が何を指しているのかわからない。
「……ああ。つきぷく、です」
(えっ)
思わず顔を上げる。
「つきぷく?」
「はい」
「そういう名前なんだな」
「……すみません。来客があるときは片付けます」
「いや、そのままで構わない。ただ、こういうものが置いてあるのが珍しかったのでな」
(……こういうものって、何)
押し入れの中から、住職に心の中で突っ込む。
「どなたかの忘れ物かと思っていたんだが……真尋のだったんだな」
少し間が空いた。
「大事なものなのか?」
「…………」
今度は、真尋が黙った。
(そんなわけないよ。私が勝手に持ってきたんだもん)
思わず口元が緩む。
(真尋さんにとっては、変なものが2個増えたってだけの――)
「そうですね。……大事なものです」
その声は思いがけないほど柔らかくて、ほんの少し笑っているようにも聞こえた。
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
口元に浮かんでいた笑みが、そのまま止まる。
(……そうなんだ)
暗い押し入れの中で、膝を抱える。
私が勝手に置いていっただけなのに。
ちゃんと、大事にしてくれてたんだ。
それが嬉しくて――でも同時に、少し苦しくなる。
嬉しい。
なのに、どうしてか少し苦しい。
(……会いたい)
ふいに浮かんだ気持ちを、慌てて押し込める。
(……だめ)
今は、まだ。
膝の上で、靴を抱える腕にそっと力を込めた。
しばらくして、真尋と住職の声が遠ざかっていった。
「では、少し本堂を見てきます」
「ああ。私も行こう」
廊下を歩く足音が小さくなり、やがて聞こえなくなる。
それでもすぐには動けなくて、少し待ってから、そっと襖を開けた。
明るい。
眩しさに目を細めながら、押し入れから這い出す。
靴を抱えたまま立ち上がって――ふと、部屋の隅に目が止まった。
2体のつきぷくが、いつもの場所に並んでいる。
『大事なものです』
さっきの真尋の声が蘇る。
「……大事なんだって」
思わず、口元が緩む。
そっと手を伸ばして、それぞれのつきぷくの頭を指先で撫でた。
「……よかったね」
そう呟いてから、なぜだか少しだけ恥ずかしくなった。
誰に言ったんだろう、私。
もう一度だけつきぷくを撫でて、玄関に向かった。
今日も寺には行かない。
そう決めていたはずなのに、ふと洞の壁に残した絵が頭に浮かんだ。
(絵……まだちょっとしか進んでないんだよね)
真尋には、会いたくない。
そう思うのに、あの絵だけは途中のままにしたくなかった。
時計を見ると、まだ真尋が帰ってくるまでには時間がある。今から行けば、その前に戻れるはずだ。
私は立ち上がると、制服から着替えて、机の横に置いていたクレヨンの箱を手に取った。
リビングに顔を出し、母に一声かける。
「お母さん、ちょっと外で勉強してくる。ごはんまでには帰るね」
「そう。気を付けてね」
別に、真尋に会いに行くわけじゃない。
絵を描きに行くだけ。
そう自分に言い聞かせながら、玄関を飛び出した。
寺に着くと、境内は静かだった。参拝客もいない。
見慣れた本堂を前にして、ほんの少し足が止まる。
真尋は、まだ帰っていないはずだ。なのに、無意識に辺りを見回してから境内へ入った。
「こんにちはー……」
母屋へ声をかけると、ほどなくして住職が顔を出した。
「おや、みとさん。いらっしゃい」
「こんにちは」
「もうお体のほうは大丈夫ですか?」
「は、はい。もう大丈夫です」
この間、電話でついた嘘を思い出して、少しだけ目を逸らす。
「あの……今日は、勉強を教わりに来たんじゃないんです」
「ほう、そうなんですか」
「絵を描きたくて。洞の……まだ途中だから」
「ああ、なるほど」
住職がにこりと笑う。
「それで、その……真尋さんが帰ってくる前には帰ろうと思ってて。今日来たこと、真尋さんには言わないでもらえますか?」
住職は少しだけ目を細めたけれど、理由は聞かなかった。
「わかりました」
「……ありがとうございます」
ほっと息をついて、持ってきた鞄を置く。
「あ、でもその前に掃除しますね」
「今日は勉強ではないのですから、無理にしなくてもいいんですよ」
「でも、いつもやるって約束してるし。それに、しばらく来られなかったから」
「そうですか。それでは、お願いしましょうか」
「はい」
いつもの場所から箒を借りて、境内へ出る。
しゃっ、しゃっ、と砂利の上を箒が滑る。
何も考えないように、目の前の落ち葉を集めていく。
それでも時々、門のほうへ目が向いてしまう。
(……まだ帰ってこないよね)
自分に言い聞かせるようにして、また箒を動かす。
ふと、少し先に目が止まった。
前に真尋と一緒に掃除をしたとき、あの辺りを掃いていた。
黙々と箒を動かす横顔が浮かんで、慌てて視線を落とす。
会わないために、この時間に来た。
それなのに、こんなところまで思い出している。
(……何やってるんだろ、私)
小さく息を吐いて、箒を握り直す。
しゃっ、しゃっ、と乾いた音だけが境内に響いた。
ひと通り掃除を終え、箒を元の場所へ戻す。
「じゃあ、洞に行ってきます」
「はい。どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます」
住職に軽く頭を下げると、クレヨンを手に洞へ向かった。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
奥へ進み、壁の前で足を止めた。
描きかけのコスモスが、薄暗い洞の中に浮かんでいる。
まだ色の戻っていないところも多くて、ところどころ昔の線がかすれて途切れていた。
「……よし」
スマホのライトをつけ、壁全体が照らせるよう近くに立てかける。
鞄からクレヨンの箱を取り出すと、壁の前にしゃがみ込んだ。
前に塗ったところを確かめながら、薄く残った色をひとつずつ拾っていく。
ピンク。
白。
消えかけていた花びらに、少しずつ色が戻っていく。
こうしていると、不思議と余計なことを考えなくて済んだ。
どの色を重ねようとか、ここの線はもう少し伸ばしたほうがいいとか。
そんなことだけ考えて、手を動かしていられる。
「……ここ、もうちょっとかな」
少し離れて壁を見る。
まだ完成には遠い。
けれど、最初に見たときより、ずっと鮮やかになっていた。
もう一度壁に近づき、クレヨンを走らせる。
どれくらいそうしていただろう。
ふと手を止めると、洞の中がしんと静まり返っていることに気付いた。
聞こえるのは、ときどき外から入り込んでくる風の音だけ。
急に、ひとりなのだということを意識した。
別に、それでいい。
今日はそのために来たんだから。
クレヨンを持ち直して、また壁へ向かう。
けれど少しして、立てかけていたスマホに目をやった。
まだ大丈夫。
時刻を確かめて、再びコスモスへ向き直る。
「……続き、やろ」
今度はさっきより少しだけ強く、コスモスの花びらに色を重ねた。
その後も、私は真尋が帰ってくる前の時間を狙って寺へ通った。
掃除をして、洞へ行って、少しずつコスモスに色を重ねていく。
その日も、いつものように洞の奥まで進むと、壁の前にしゃがみ込んだ。
残っているのは、あと少し。
クレヨンを手に取り、かすかに残った昔の色を追うように線を重ねていく。
ピンクの花びらをひとつ。
その隣に、白。
最後に細い茎へ色を足して――手を止めた。
ゆっくり立ち上がり、数歩後ろへ下がる。
洞の壁いっぱいに、コスモスが咲いていた。
消えかけていた花も、途切れていた茎も、もうほとんどわからない。
昔からそこにあった色と、私が重ねた色が混ざり合っている。
「……できた」
ぽつりと呟く。
思っていたより、その言葉は洞の中に大きく響いた。
嬉しいはずなのに、胸の奥にぽっかりと小さな隙間ができたような気がした。
もう少しだけ、描いていたかった。
けれど、壁いっぱいに咲いたコスモスを見渡しても、もう手を加えるところはほとんどない。
もう、絵を描くためにここへ来る理由はない。
「……帰ろ」
クレヨンを箱に戻し、洞を出た。
母屋へ戻ると、住職は和室でお茶を飲んでいた。
「終わりました」
「おや。完成しましたか?」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「自分では完成したつもりなんですけど、見てると、もうちょっとここ塗ったほうがいいかなーとか思えてきちゃって」
「ははは。そういうものかもしれませんね」
住職が楽しそうに笑う。
「せっかくですから、少し休んでいきませんか?」
「あ……じゃあ、ちょっとだけ」
勧められるまま、座布団に腰を下ろす。
湯呑みから立ちのぼる湯気を眺めながら、ふう、と息を吐いた。
「それにしても、広い範囲だったでしょう。よく頑張りましたね」
「なんか、始めたら途中でやめられなくなっちゃって」
「真尋にも見せてあげたら、喜ぶと思いますよ」
「…………」
湯呑みを持つ手が止まった。
「……それは、まだ」
住職は何も言わず、穏やかにお茶をすすった。
そのときだった。
窓の外に、人影が見えた。
「――え」
白いシャツ。大きめの黒いショルダーバッグ。
見慣れた姿が、山門をくぐってくる。
「えっ」
もう一度、声が出た。
「真尋さん!?」
反射的に時計を見る。
まだ、いつも帰ってくる時間じゃない。
「なんで!? 早くない!?」
「今日は早かったようですねえ」
「ようですねえ、じゃなくて!」
立ち上がった拍子に、膝が座卓にぶつかった。
「いたっ……!」
でも今はそれどころじゃない。
帰らなきゃ。
いや、もう無理だ。
玄関へ行ったら鉢合わせる。
境内を見ると、真尋はもう母屋へ向かって歩いてきている。
「ど、どうしよう……!」
辺りを見回す。
和室。
廊下。
襖。
そして――押し入れ。
「…………」
私は押し入れを見た。
住職も押し入れを見た。
「みとさん?」
玄関へ走り、自分の靴を掴む。
そのまま和室へ戻り、押し入れの襖に手をかける。
「ちょっと失礼します!」
「え?」
勢いよく襖を開けた。
「みとさん、まさか――」
「しーっ!」
靴を抱えたまま押し入れへ潜り込む。
「私、いませんから!」
「いや、しかし――」
「いません!」
ぴしゃりと襖を閉めた。
暗い。
狭い。
(……私、何やってるんだろ)
自分でもそう思う。
でも、今さら出られない。
ほどなくして、玄関のほうから戸の開く音がした。
「ただいま戻りました」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。
「おかえり、真尋」
住職の声が返り、ほどなくして足音がこちらへ近づいてきた。
私は靴を抱きしめたまま、押し入れの中で息を潜める。
やがて、その足音が襖の向こうで止まった。
「今日は早かったな」
「はい。最後の講義が休講になったので」
「そうか。ちょうどよかった。明後日の法事だが、11時からだったな」
「はい。ご家族が10時半頃にはいらっしゃるそうです」
「では、それまでに本堂を整えておこう。お供え物も届くことになっている」
「わかりました。明日のうちに掃除しておきます」
「ああ、頼む」
(…………)
なんだろう。
ものすごく普通の会話をしている。
(住職、普通に話してるし)
さっき私が靴を抱えて押し入れに飛び込んだことなんて、まるでなかったみたいだ。
(切り替え、はや……!)
いや、待って。
よく考えたら、おかしいのは私のほうだ。
靴を抱え、押し入れの暗闇に身を潜め、男の帰宅に怯えて息を殺す女子高生。
これは、まずい。
どう考えても、不倫相手が押し入れに隠れるアレ――
「それと、来週の一周忌の件ですが……」
住職と真尋の話はまだ続く。
法事の時間だとか、檀家さんへの連絡だとか、私にはよくわからない話ばかりだ。
(長い……)
足が痺れてきた。
少しだけ体勢を変えようとして――
コト。
(!!)
靴のかかとが、押し入れの壁に当たった。
息を止める。
けれど、襖の向こうでは何事もなかったように会話が続いていた。
気付いてない。
よかった……。
「ところで、真尋。前から聞こうと思っていたんだが、これは?」
「…………」
(……なに?)
一瞬、妙な間が空いた。
押し入れの中からでは、住職が何を指しているのかわからない。
「……ああ。つきぷく、です」
(えっ)
思わず顔を上げる。
「つきぷく?」
「はい」
「そういう名前なんだな」
「……すみません。来客があるときは片付けます」
「いや、そのままで構わない。ただ、こういうものが置いてあるのが珍しかったのでな」
(……こういうものって、何)
押し入れの中から、住職に心の中で突っ込む。
「どなたかの忘れ物かと思っていたんだが……真尋のだったんだな」
少し間が空いた。
「大事なものなのか?」
「…………」
今度は、真尋が黙った。
(そんなわけないよ。私が勝手に持ってきたんだもん)
思わず口元が緩む。
(真尋さんにとっては、変なものが2個増えたってだけの――)
「そうですね。……大事なものです」
その声は思いがけないほど柔らかくて、ほんの少し笑っているようにも聞こえた。
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
口元に浮かんでいた笑みが、そのまま止まる。
(……そうなんだ)
暗い押し入れの中で、膝を抱える。
私が勝手に置いていっただけなのに。
ちゃんと、大事にしてくれてたんだ。
それが嬉しくて――でも同時に、少し苦しくなる。
嬉しい。
なのに、どうしてか少し苦しい。
(……会いたい)
ふいに浮かんだ気持ちを、慌てて押し込める。
(……だめ)
今は、まだ。
膝の上で、靴を抱える腕にそっと力を込めた。
しばらくして、真尋と住職の声が遠ざかっていった。
「では、少し本堂を見てきます」
「ああ。私も行こう」
廊下を歩く足音が小さくなり、やがて聞こえなくなる。
それでもすぐには動けなくて、少し待ってから、そっと襖を開けた。
明るい。
眩しさに目を細めながら、押し入れから這い出す。
靴を抱えたまま立ち上がって――ふと、部屋の隅に目が止まった。
2体のつきぷくが、いつもの場所に並んでいる。
『大事なものです』
さっきの真尋の声が蘇る。
「……大事なんだって」
思わず、口元が緩む。
そっと手を伸ばして、それぞれのつきぷくの頭を指先で撫でた。
「……よかったね」
そう呟いてから、なぜだか少しだけ恥ずかしくなった。
誰に言ったんだろう、私。
もう一度だけつきぷくを撫でて、玄関に向かった。


