翌日。
いつものように寺に来た私は、掃除を済ませると、クレヨンと懐中電灯を持って洞に入った。
まだ外は明るいのに、奥までは光が届かない。
「……やっぱ暗いな」
懐中電灯で壁を照らしながら、絵の修復に取り掛かる。
スマホで秋桜を検索し、色合いを確認してクレヨンを滑らせた。
「えっと……このへんは、もうちょっと濃いかな」
壁は思ったよりつるつるしていて、描きづらさはそこまで感じなかった。
薄く残った線をなぞるように、一本ずつ色を重ねていく。
桃色。深緑。白。
(これなら、意外といけるかも)
少し離れて眺めてみる。まだほんの一部分だけ。
それでも、消えかけていた花に少しずつ色が戻っていくのが嬉しかった。
クレヨンを動かしながら、昨日のことを思い出す。
『どうして僕が、みとさんを怖がるんですか』
泣いている私を、何も言わずに受け止めてくれた真尋。
――そこまで考えて、手が止まった。
(……私、真尋さんの胸に……)
思い出した途端、顔が熱くなる。
昨日はそんなことを気にする余裕なんてなかった。
でも今になって考えると、かなり恥ずかしいことをした気がする。
一昨日だって、あの影から守ってもらったとき、真尋に抱き寄せられた。
でも、昨日は違う。
自分から真尋に寄りかかった。 それを真尋も、何も言わずに受け止めてくれた。
(……嫌じゃ、なかった)
昨日の感覚を思い出す。
すごく、安心した。
怖くて、自分でも自分がわからなくなっていたのに。
真尋がそばにいてくれただけで、少しずつ落ち着いていった。
頭に触れた、あの手も。
「…………」
また顔が熱くなって、慌てて壁に向き直る。
(……よし。続き、続き)
私は何事もなかったように、秋桜にクレヨンを重ねた。
しばらく作業を続けてから、時計を確認する。そろそろ真尋が帰ってくる時間だ。
今日はここまでにして、クレヨンを片付ける。
真尋が帰ってくる前に、勉強の支度をしておこう。
洞を出て和室に入る。
鞄を下ろそうとして、ふと棚の上に目が留まった。
「……あれ?」
つきぷくが、いつもの場所にちょこんと座っている。
昨日、来客があるからって、見えないように奥へ移動させたはずなのに。
(誰か、戻してくれたんだ)
住職だろうか。
それとも――。
なんとなく、真尋が戻してくれた。そんな気がした。
棚の上のつきぷくを、しばらく見つめる。それからそっと手を伸ばし、胸元に抱き寄せた。
「ただいま戻りました」
「ひゃあぁぁぁっ!!!」
突然聞こえた真尋の声に、思わずつきぷくを放り投げる。
慌てて手を伸ばし、落ちる寸前でなんとかキャッチした。
「はぁ……はぁ……」
つきぷくを抱えたまま振り向くと、襖のところに作務衣姿の真尋が立っていた。片手には、いつもの参考書を抱えている。
「…………」
「…………」
「……何してるんですか」
「つきぷくが……」
「つきぷくが?」
「ここまで歩いてきたみたいで……」
真尋はしばらく私の顔を見つめた。
「……そうですか」
「うん」
「それはすごいですね」
「絶対信じてないでしょ」
「信じてほしかったんですか?」
真尋はわずかに口元を緩めながら、参考書を座卓の上に置いた。
なんだかすっかり、私の扱いに慣れてきた感じがする。
それが嬉しいような、ちょっと悔しいような。
(あ……そういえば)
いつもと変わらない真尋を見て、ふと思い出す。
そういえば私、今日はどんな顔をして会えばいいんだろうって、ちょっと気にしてたんだった。
なのに、普通に話せてる。
(……よかった)
ほっと小さく息を吐く。
それから、腰を下ろした真尋の正面に座り、ノートや筆記用具を広げた。
「……昨日は」
「ん?」
「配信、できましたか?」
思いがけないことを聞かれて、顔を上げる。
「ううん。結局、休んじゃった」
「そうですか」
「あのあと、そんな気分にもなれなかったし」
「…………」
「でも、今日はやるつもり。2日続けて休むのも嫌だし」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。昨日はちょっと……いろいろあっただけだから」
「それならいいんですが」
まだ何か言いたそうな顔をしている。
「なに?」
「いえ。無理はしないでくださいね」
「わかってるって」
「では、昨日の続きからやりましょうか」
「はぁい」
ノートを開き、シャーペンを手に取った。その時だった。
座卓の上に置いていたスマホが震えた。
充希からのラインだった。
『小宮がお前と電話で話したいことがあるって言ってるんだけど、どうする?』
「……小宮くん?」
思わず声に出すと、真尋が参考書から顔を上げた。
「小宮くんからですか?」
「ううん、充希から」
小宮が電話で話したい旨を伝えると、真尋の表情がわずかに険しくなった。
「どうしよう。電話なら大丈夫かな」
「……そうですね……」
真尋はすぐには答えなかった。
少し考えるように視線を落とし、それから口を開く。
「……僕がいる時ならいいですよ」
「真尋さんが?」
「はい。前みたいに、スマホ越しに妖が出てくる可能性もあります。今の小宮くんがどういう状態なのか、まだわかりませんから」
「そっか……」
「それに、小宮くんがみとさんに何を話したいかも気になります」
「うん」
もう一度、スマホに目を落とす。
「えっと……今日このあとでもいいかな」
「今日ですか?」
「うん。真尋さんいるし」
「僕は構いませんが……」
「じゃあ聞いてみる」
私は充希への返信を打つ。
『今日このあと? ならいいよ』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
「……読んだ」
「返事は?」
「まだ」
「そうですか」
しばらく待ってみたけれど、それ以上メッセージが届く気配はない。 私はスマホを座卓の端に戻した。
「あ、そうだ」
鞄を引き寄せ、中から小さなつきぷくを取り出す。
座卓の端にちょこんと座らせると、真尋が手を止めた。
「……持ってきたんですか?」
「うん。一人じゃかわいそうかなって」
「昨日まで気にしてなかったじゃないですか」
「だって昨日、真尋さんが3人並べてたから」
「僕のせいですか?」
「おかげです」
そう言って笑うと、真尋も小さく笑った。
「じゃあ、これで寂しくないですね」
「うん。たぶん喜んでる」
「それはよかったです」
「真尋さんも嬉しい?」
「どうして僕まで」
「仲間増やした張本人じゃん」
「僕は並べただけです」
真尋はそう言いながらも、まだ少し笑っていた。
午後9時。
「地元に笑顔と巫女パワーをお届け! 月乃みこと、今日も元気に参上でーす!」
いつもの挨拶と同時に、コメント欄が一気に流れ始める。
『みこにゃーん!』
『昨日いなくて寂しかった』
『待ってたー!』
「ごめんねー! 昨日はちょっと急用があって、お休みさせてもらいました!」
画面に向かって手を合わせる。
少し離れたところでは、真尋が錫杖を壁際に置き、静かに腰を下ろしている。
「でも今日は元気だから! そのぶんいっぱい喋るよー!」
『無理しないでね』
『元気ならよかった』
『みこにゃん成分補給しにきました』
「あはは、なにそれ。みこにゃん成分って何に効くの?」
『疲労回復』
『安眠』
『魔除け』
「最後! 私、巫女だけどそういうの専門じゃないからね!?」
コメント欄が笑いで埋まっていく。
昨日あんなことがあったのが嘘みたいに、いつもの空気だった。
私も、いつもの月乃みことに戻れている。
――そのはずだった。
いつものように寺に来た私は、掃除を済ませると、クレヨンと懐中電灯を持って洞に入った。
まだ外は明るいのに、奥までは光が届かない。
「……やっぱ暗いな」
懐中電灯で壁を照らしながら、絵の修復に取り掛かる。
スマホで秋桜を検索し、色合いを確認してクレヨンを滑らせた。
「えっと……このへんは、もうちょっと濃いかな」
壁は思ったよりつるつるしていて、描きづらさはそこまで感じなかった。
薄く残った線をなぞるように、一本ずつ色を重ねていく。
桃色。深緑。白。
(これなら、意外といけるかも)
少し離れて眺めてみる。まだほんの一部分だけ。
それでも、消えかけていた花に少しずつ色が戻っていくのが嬉しかった。
クレヨンを動かしながら、昨日のことを思い出す。
『どうして僕が、みとさんを怖がるんですか』
泣いている私を、何も言わずに受け止めてくれた真尋。
――そこまで考えて、手が止まった。
(……私、真尋さんの胸に……)
思い出した途端、顔が熱くなる。
昨日はそんなことを気にする余裕なんてなかった。
でも今になって考えると、かなり恥ずかしいことをした気がする。
一昨日だって、あの影から守ってもらったとき、真尋に抱き寄せられた。
でも、昨日は違う。
自分から真尋に寄りかかった。 それを真尋も、何も言わずに受け止めてくれた。
(……嫌じゃ、なかった)
昨日の感覚を思い出す。
すごく、安心した。
怖くて、自分でも自分がわからなくなっていたのに。
真尋がそばにいてくれただけで、少しずつ落ち着いていった。
頭に触れた、あの手も。
「…………」
また顔が熱くなって、慌てて壁に向き直る。
(……よし。続き、続き)
私は何事もなかったように、秋桜にクレヨンを重ねた。
しばらく作業を続けてから、時計を確認する。そろそろ真尋が帰ってくる時間だ。
今日はここまでにして、クレヨンを片付ける。
真尋が帰ってくる前に、勉強の支度をしておこう。
洞を出て和室に入る。
鞄を下ろそうとして、ふと棚の上に目が留まった。
「……あれ?」
つきぷくが、いつもの場所にちょこんと座っている。
昨日、来客があるからって、見えないように奥へ移動させたはずなのに。
(誰か、戻してくれたんだ)
住職だろうか。
それとも――。
なんとなく、真尋が戻してくれた。そんな気がした。
棚の上のつきぷくを、しばらく見つめる。それからそっと手を伸ばし、胸元に抱き寄せた。
「ただいま戻りました」
「ひゃあぁぁぁっ!!!」
突然聞こえた真尋の声に、思わずつきぷくを放り投げる。
慌てて手を伸ばし、落ちる寸前でなんとかキャッチした。
「はぁ……はぁ……」
つきぷくを抱えたまま振り向くと、襖のところに作務衣姿の真尋が立っていた。片手には、いつもの参考書を抱えている。
「…………」
「…………」
「……何してるんですか」
「つきぷくが……」
「つきぷくが?」
「ここまで歩いてきたみたいで……」
真尋はしばらく私の顔を見つめた。
「……そうですか」
「うん」
「それはすごいですね」
「絶対信じてないでしょ」
「信じてほしかったんですか?」
真尋はわずかに口元を緩めながら、参考書を座卓の上に置いた。
なんだかすっかり、私の扱いに慣れてきた感じがする。
それが嬉しいような、ちょっと悔しいような。
(あ……そういえば)
いつもと変わらない真尋を見て、ふと思い出す。
そういえば私、今日はどんな顔をして会えばいいんだろうって、ちょっと気にしてたんだった。
なのに、普通に話せてる。
(……よかった)
ほっと小さく息を吐く。
それから、腰を下ろした真尋の正面に座り、ノートや筆記用具を広げた。
「……昨日は」
「ん?」
「配信、できましたか?」
思いがけないことを聞かれて、顔を上げる。
「ううん。結局、休んじゃった」
「そうですか」
「あのあと、そんな気分にもなれなかったし」
「…………」
「でも、今日はやるつもり。2日続けて休むのも嫌だし」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。昨日はちょっと……いろいろあっただけだから」
「それならいいんですが」
まだ何か言いたそうな顔をしている。
「なに?」
「いえ。無理はしないでくださいね」
「わかってるって」
「では、昨日の続きからやりましょうか」
「はぁい」
ノートを開き、シャーペンを手に取った。その時だった。
座卓の上に置いていたスマホが震えた。
充希からのラインだった。
『小宮がお前と電話で話したいことがあるって言ってるんだけど、どうする?』
「……小宮くん?」
思わず声に出すと、真尋が参考書から顔を上げた。
「小宮くんからですか?」
「ううん、充希から」
小宮が電話で話したい旨を伝えると、真尋の表情がわずかに険しくなった。
「どうしよう。電話なら大丈夫かな」
「……そうですね……」
真尋はすぐには答えなかった。
少し考えるように視線を落とし、それから口を開く。
「……僕がいる時ならいいですよ」
「真尋さんが?」
「はい。前みたいに、スマホ越しに妖が出てくる可能性もあります。今の小宮くんがどういう状態なのか、まだわかりませんから」
「そっか……」
「それに、小宮くんがみとさんに何を話したいかも気になります」
「うん」
もう一度、スマホに目を落とす。
「えっと……今日このあとでもいいかな」
「今日ですか?」
「うん。真尋さんいるし」
「僕は構いませんが……」
「じゃあ聞いてみる」
私は充希への返信を打つ。
『今日このあと? ならいいよ』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
「……読んだ」
「返事は?」
「まだ」
「そうですか」
しばらく待ってみたけれど、それ以上メッセージが届く気配はない。 私はスマホを座卓の端に戻した。
「あ、そうだ」
鞄を引き寄せ、中から小さなつきぷくを取り出す。
座卓の端にちょこんと座らせると、真尋が手を止めた。
「……持ってきたんですか?」
「うん。一人じゃかわいそうかなって」
「昨日まで気にしてなかったじゃないですか」
「だって昨日、真尋さんが3人並べてたから」
「僕のせいですか?」
「おかげです」
そう言って笑うと、真尋も小さく笑った。
「じゃあ、これで寂しくないですね」
「うん。たぶん喜んでる」
「それはよかったです」
「真尋さんも嬉しい?」
「どうして僕まで」
「仲間増やした張本人じゃん」
「僕は並べただけです」
真尋はそう言いながらも、まだ少し笑っていた。
午後9時。
「地元に笑顔と巫女パワーをお届け! 月乃みこと、今日も元気に参上でーす!」
いつもの挨拶と同時に、コメント欄が一気に流れ始める。
『みこにゃーん!』
『昨日いなくて寂しかった』
『待ってたー!』
「ごめんねー! 昨日はちょっと急用があって、お休みさせてもらいました!」
画面に向かって手を合わせる。
少し離れたところでは、真尋が錫杖を壁際に置き、静かに腰を下ろしている。
「でも今日は元気だから! そのぶんいっぱい喋るよー!」
『無理しないでね』
『元気ならよかった』
『みこにゃん成分補給しにきました』
「あはは、なにそれ。みこにゃん成分って何に効くの?」
『疲労回復』
『安眠』
『魔除け』
「最後! 私、巫女だけどそういうの専門じゃないからね!?」
コメント欄が笑いで埋まっていく。
昨日あんなことがあったのが嘘みたいに、いつもの空気だった。
私も、いつもの月乃みことに戻れている。
――そのはずだった。


