いつものように坂を上り、寺の門をくぐる。
「こんにちはー」
境内に入ると、掃き掃除をしていた住職が顔を上げた。
「おや、みとさん。いらっしゃい」
「こんにちは。真尋さん、まだ大学ですか?」
「今日は講義が少なかったそうで、もう帰っていますよ」
「そうなんだ」
「今は檀家さんがいらしていてね。法要の相談をしているところです」
「真尋さんが?」
「ええ。あれでも副住職ですから」
住職が愉快そうに笑う。
(あれでもって)
なんとなく気になって、靴を脱いで寺に上がる。
本堂へ続く廊下を進んでいくと、少し開いた襖の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「では、来月のその日でしたら大丈夫です。ご家族だけでも、もちろん構いませんよ」
いつもより少し低い、落ち着いた声。
そっと覗くと、濃紺の作務衣を着た真尋が、年配の女性と向かい合って座っていた。
手元の手帳を確認しながら話を聞き、時折ゆっくりと頷いている。
(……ほんとに副住職だ)
当たり前なのに、なんだか不思議だった。
大学で見た真尋とも、私に勉強を教えているときとも違う。相手の話を聞く横顔は落ち着いていて、いつもよりずっと大人に見えた。
(……なんか、かっこいい)
そう思った途端、急に胸のあたりが落ち着かなくなる。見つからないようにするつもりだったのに、なぜか目が離せない。
そのとき、真尋がふと顔を上げた。
「!」
ぱちりと目が合う。
私は咄嗟に柱の陰へ引っ込んだ。
(……なんで隠れたの、私)
今さら出ていくのも気まずくて、そのまま柱の陰でじっとしている。
「では、当日は10分ほど前にお越しください」
「はい。いろいろありがとうね」
「いえ。何かありましたら、いつでもご連絡ください」
真尋は女性と話しながら玄関まで付き添っていく。
「お足元、お気をつけください」
その姿が見えなくなるまで見送ってから、真尋がこちらを向いた。
「みとさん」
「……はい」
「どうして隠れたんですか?」
「……なんとなく」
「なんとなく」
「いいでしょ、別に」
「別にいいですけど」
真尋が小さく笑う。
「避けられたのかと思いました」
「え?」
そのままこちらへ歩いてきたかと思うと、ふと私の髪に手を伸ばした。
「……っ」
耳のそばを指先がかすめる。
真尋の手には、小さな葉っぱが摘ままれていた。
「ついてましたよ」
「あ……ありがと」
たったそれだけなのに、触れられたところが妙に熱い。
真尋の手が、わずかに止まった。
目が合う。
「…………」
ほんの一瞬遅れて、真尋の手が離れていく。
「……ちょうど僕も、いま仕事が終わったところなので、今日は一緒に掃除しましょう」
「うん」
真尋は物置から箒を持ってくると、1本を私に差し出した。
「境内のほうをお願いします。僕は裏手をやります」
「え、一緒じゃないの?」
「え?」
「あ」
思ったことが、そのまま口から出た。
「……なんでもない」
箒を奪うように受け取る。
真尋が不思議そうに私を見ている。
「ほら、早くやろ!」
「……はい」
なんとなく納得していない顔の真尋を置いて、私はさっさと境内へ向かった。
箒で落ち葉を集めていると、しばらくして背後から掃く音が聞こえてきた。
振り返ると、真尋が少し離れたところで箒を動かしている。
「あれ、裏手は?」
「終わりました。こちらも手伝います」
「……そっか」
なんとなく嬉しくなって、また箒を動かす。
しばらく2人で落ち葉を掃いていると、さっきの光景がふと頭に浮かんだ。
「真尋さんって、ちゃんと副住職なんだね」
「……今まで何だと思ってたんですか」
真尋が箒を動かしながら、ちらりとこちらを見る。
「大学生兼家庭教師兼妖退治する人」
「副住職が一つも入ってませんね」
「あ、あとお茶淹れてくれる人」
「増えましたけど、やっぱり入ってませんね」
思わず吹き出す。
「だって、ああいうところ見るの初めてだったんだもん」
「そうでしたか?」
「うん。なんか……いつもと違った」
「違いました?」
「ちょっと大人っぽかった」
言ってから、しまったと思った。
「…………」
真尋がこちらを見る。
「な、何?」
「いえ」
何事もなかったように、また箒を動かし始める。
(なんでそこで黙るの……!)
私も誤魔化すように、足元の落ち葉を掃く。
「真尋さんって、大学卒業したら、ずっとここにいるの?」
「そのつもりです」
「そのまま住職になる?」
「すぐにではありませんけど、いずれは」
「へえ……」
なんだか、もう真尋の人生はずっと先まで決まっているみたいだ。
「じゃあ、今は? 何かやりたいこととかないの?」
「今ですか?」
「うん。行ってみたいところとか、やってみたいこととか」
真尋は少し考えるように箒を動かしていた。
「……特には」
「えー、ないの?」
「ないですね」
「もったいない」
私は集めた落ち葉を箒の先で寄せる。
「せっかく大学生なんだし、もっと遊んだり、好きなことしたりすればいいのに」
返事がない。
「真尋さん?」
顔を上げると、真尋は箒を持ったまま、足元に視線を落としていた。
さっきまで笑っていたのに、その表情からふっと何かが消えている。
「……僕は、そういうのはいいんです」
「そういうのって?」
「…………」
「……遊んだり、好きなことしたりするのが?」
真尋は答えない。
その横顔を見ているうちに、ふと住職の言葉を思い出した。
『真尋自身が、取り憑かれているようなものなのですから』
何か言おうとして、やめた。
何を聞けばいいのか、自分でもわからない。
私はただ、黙ったまま真尋の横顔を見つめた。
「真尋」
不意に声がして、2人で振り返る。
住職が本堂のほうからこちらへ歩いてくるところだった。
「悪いが、少し頼めるか」
「はい。何ですか?」
「本堂のほうをお願いしたくてね。明日の法要の準備をしておいてもらえるかな」
「わかりました」
真尋は箒を持ったまま、私を見る。
「すみません。残り、お願いしてもいいですか?」
「うん。大丈夫」
真尋が箒を片づけ、本堂へ向かっていく。
その背中を見送りながら、さっきの言葉が頭に残っていた。
『僕は、そういうのはいいんです』
(……どういう意味なんだろ)
箒を動かしているうちに、ふと洞のことを思い出した。
「……住職さん」
「はい?」
まだ近くにいた住職が振り返る。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「なんでしょう」
「この間の洞のことなんですけど……真尋さんって、ご両親が遠征に行かれてた頃も入ってました?」
「ええ。入っていましたよ」
住職は懐かしむように目を細めた。
「クレヨンなんか持って入っていましたから、中で絵でも描いていたんでしょうね。見せてくれたことはありませんが」
「……絵」
思わず手を止める。
薄暗い洞の中。
壁一面に、かすかに残っていた色。
「何かありましたか?」
「洞の壁に……絵があるんです」
「壁に?」
住職が意外そうに目を瞬く。
「はい。かなり消えかけてるんですけど。たぶん、真尋さんが描いてたんだと思います」
「それは……知りませんでした」
住職は驚いたように呟いた。
「住職さんは、中に入ったことないんですか?」
「ええ。その頃にはもう腰を痛めておりましてね。真尋が何をしているのかまでは」
「そうだったんだ……」
もう一度、洞の絵を思い浮かべる。
誰にも見せず、あの場所で一人、絵を描いていた真尋。
いつ帰ってくるかわからない両親を待ちながら、何を思って描いていたんだろう。
『父が、母にプロポーズしたのが、秋桜の花畑の中なんです』
ふと、真尋の言葉が蘇る。
(……やっぱり、秋桜だったのかな)
真尋が両親から聞いた、大切な思い出。
それを忘れないように、あの壁に残していたのかもしれない。
そう思ったら、あの絵がこのまま消えてしまうのが、急に嫌になった。
「あの、住職さん」
「はい」
「私があの絵、直してもいいですか?」
「直す?」
「消えてるところに色を足して……できるだけ、元の絵を残すように。消えちゃう前に」
住職はしばらく私の顔を見ていた。
「それは構いませんが……大変でしょう。真尋にも手伝わせましょうか」
「いえ」
私はすぐに首を振った。
「なるべく、真尋さんには内緒にしてほしいんです」
「内緒に?」
「……怒られちゃうかもしれないから」
あの絵は、真尋が誰にも見せなかったものだ。
勝手に触ったら、嫌がるかもしれない。
それでも――。
あのまま消えてしまうのは、なんだか嫌だった。
「わかりました。では、私からは黙っておきましょう」
「ありがとうございます」
ほっとしていると、住職がふと思い出したように続けた。
「そうそう。今日はこのあと母屋にお客さまがいらっしゃるので、いつもの部屋は使えませんよ」
「あ、そうなんですか」
「真尋にはまだ伝えていませんから、相談してみてください」
「わかりました」
私は頷いた。
掃除を終えると、私はいつもの和室へ戻った。
棚を見ると、つきぷくがいつもの場所にちょこんと飾られている。今日もそのままなのが、ちょっと嬉しい。
(あ。でも、お客さんに見られちゃう)
このまま置いておくわけにもいかない。私はつきぷくを手に取ると、棚の奥の見えないところへ移した。
「ちょっとだけ、ここにいてね」
しばらくして、真尋が戻ってきた。手には参考書を持っている。
「お待たせしました」
「あ、お疲れさま」
さっきと同じ濃紺の作務衣姿だけれど、袖は肘のあたりまでまくられている。
腕に巻かれていた包帯はもうなく、傷のところに小さなガーゼが貼られていた。
(だいぶ良くなったんだ)
少しだけほっとする。
「さて、では始めましょうか」
「待って。あの、さっき住職さんから聞いたんだけど、今日このお部屋、使う予定があるみたいなの」
「え? そうなんですか」
真尋は参考書を開こうとした手を止めた。
「それなら、今日はやめておきましょうか」
「えー。でも昨日やった問題、まだ見てもらってない」
「あ……そうでしたね」
昨日は結局、それどころではなくなってしまった。
「ほかに使える部屋ないの?」
「そうですね……」
「真尋さんの部屋は?」
「……僕の部屋ですか?」
「うん。そこなら空いてるでしょ?」
「…………」
真尋はしばらく黙ったあと、ほんの少しだけ顔を逸らした。
「……そこは、やめておきましょう」
「なんで?」
「なんでと言われても……」
「?」
「とにかく、別の場所にしましょう」
「別の場所って……」
少し考えて、ふと思いつく。
「じゃあ、うち来る?」
「……え?」
「うち。昨日の問題見るだけなら、そんなに時間かからないでしょ?」
「お母さまは?」
「いると思うけど」
「……そうですか」
「だったら、いいじゃん」
「待ってください。まだ決まってません」
「え?」
「お母さまが構わないのであれば、です」
「大丈夫だって。たぶん」
「たぶんじゃダメです」
「……わかった。じゃあ聞いてみる」
私は渋々スマホを片手に廊下へ出る。
数回のコールで出た母に、事情を簡単に話した。
「そんなわけで……今日は藤代さん、家に来てもらってもいい?」
『藤代さんが?』
母の声に、わずかに驚きが混じる。
「うん」
『いいわよ。勉強を見てもらうんでしょ? ちゃんとお礼言いなさいよ』
「わかってるって」
通話を切り、和室に戻りかけて――ふと、足を止めた。
家に来る?
――真尋さんが?
どこで勉強する?
この時間、リビングは夕飯の支度までお母さんの韓国ドラマタイムだ。
じゃあ――。
(……私の部屋?)
一気に顔が熱くなった。
(待って待って。掃除、いつしたっけ!?)
床に何か落ちてなかったっけ。
ベッドの上は?
というか、人に見られて困るものとか――。
急に心臓が最速ビートを刻み始める。
(やばい。帰ったら速攻で片づけなきゃ……!)
「こんにちはー」
境内に入ると、掃き掃除をしていた住職が顔を上げた。
「おや、みとさん。いらっしゃい」
「こんにちは。真尋さん、まだ大学ですか?」
「今日は講義が少なかったそうで、もう帰っていますよ」
「そうなんだ」
「今は檀家さんがいらしていてね。法要の相談をしているところです」
「真尋さんが?」
「ええ。あれでも副住職ですから」
住職が愉快そうに笑う。
(あれでもって)
なんとなく気になって、靴を脱いで寺に上がる。
本堂へ続く廊下を進んでいくと、少し開いた襖の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「では、来月のその日でしたら大丈夫です。ご家族だけでも、もちろん構いませんよ」
いつもより少し低い、落ち着いた声。
そっと覗くと、濃紺の作務衣を着た真尋が、年配の女性と向かい合って座っていた。
手元の手帳を確認しながら話を聞き、時折ゆっくりと頷いている。
(……ほんとに副住職だ)
当たり前なのに、なんだか不思議だった。
大学で見た真尋とも、私に勉強を教えているときとも違う。相手の話を聞く横顔は落ち着いていて、いつもよりずっと大人に見えた。
(……なんか、かっこいい)
そう思った途端、急に胸のあたりが落ち着かなくなる。見つからないようにするつもりだったのに、なぜか目が離せない。
そのとき、真尋がふと顔を上げた。
「!」
ぱちりと目が合う。
私は咄嗟に柱の陰へ引っ込んだ。
(……なんで隠れたの、私)
今さら出ていくのも気まずくて、そのまま柱の陰でじっとしている。
「では、当日は10分ほど前にお越しください」
「はい。いろいろありがとうね」
「いえ。何かありましたら、いつでもご連絡ください」
真尋は女性と話しながら玄関まで付き添っていく。
「お足元、お気をつけください」
その姿が見えなくなるまで見送ってから、真尋がこちらを向いた。
「みとさん」
「……はい」
「どうして隠れたんですか?」
「……なんとなく」
「なんとなく」
「いいでしょ、別に」
「別にいいですけど」
真尋が小さく笑う。
「避けられたのかと思いました」
「え?」
そのままこちらへ歩いてきたかと思うと、ふと私の髪に手を伸ばした。
「……っ」
耳のそばを指先がかすめる。
真尋の手には、小さな葉っぱが摘ままれていた。
「ついてましたよ」
「あ……ありがと」
たったそれだけなのに、触れられたところが妙に熱い。
真尋の手が、わずかに止まった。
目が合う。
「…………」
ほんの一瞬遅れて、真尋の手が離れていく。
「……ちょうど僕も、いま仕事が終わったところなので、今日は一緒に掃除しましょう」
「うん」
真尋は物置から箒を持ってくると、1本を私に差し出した。
「境内のほうをお願いします。僕は裏手をやります」
「え、一緒じゃないの?」
「え?」
「あ」
思ったことが、そのまま口から出た。
「……なんでもない」
箒を奪うように受け取る。
真尋が不思議そうに私を見ている。
「ほら、早くやろ!」
「……はい」
なんとなく納得していない顔の真尋を置いて、私はさっさと境内へ向かった。
箒で落ち葉を集めていると、しばらくして背後から掃く音が聞こえてきた。
振り返ると、真尋が少し離れたところで箒を動かしている。
「あれ、裏手は?」
「終わりました。こちらも手伝います」
「……そっか」
なんとなく嬉しくなって、また箒を動かす。
しばらく2人で落ち葉を掃いていると、さっきの光景がふと頭に浮かんだ。
「真尋さんって、ちゃんと副住職なんだね」
「……今まで何だと思ってたんですか」
真尋が箒を動かしながら、ちらりとこちらを見る。
「大学生兼家庭教師兼妖退治する人」
「副住職が一つも入ってませんね」
「あ、あとお茶淹れてくれる人」
「増えましたけど、やっぱり入ってませんね」
思わず吹き出す。
「だって、ああいうところ見るの初めてだったんだもん」
「そうでしたか?」
「うん。なんか……いつもと違った」
「違いました?」
「ちょっと大人っぽかった」
言ってから、しまったと思った。
「…………」
真尋がこちらを見る。
「な、何?」
「いえ」
何事もなかったように、また箒を動かし始める。
(なんでそこで黙るの……!)
私も誤魔化すように、足元の落ち葉を掃く。
「真尋さんって、大学卒業したら、ずっとここにいるの?」
「そのつもりです」
「そのまま住職になる?」
「すぐにではありませんけど、いずれは」
「へえ……」
なんだか、もう真尋の人生はずっと先まで決まっているみたいだ。
「じゃあ、今は? 何かやりたいこととかないの?」
「今ですか?」
「うん。行ってみたいところとか、やってみたいこととか」
真尋は少し考えるように箒を動かしていた。
「……特には」
「えー、ないの?」
「ないですね」
「もったいない」
私は集めた落ち葉を箒の先で寄せる。
「せっかく大学生なんだし、もっと遊んだり、好きなことしたりすればいいのに」
返事がない。
「真尋さん?」
顔を上げると、真尋は箒を持ったまま、足元に視線を落としていた。
さっきまで笑っていたのに、その表情からふっと何かが消えている。
「……僕は、そういうのはいいんです」
「そういうのって?」
「…………」
「……遊んだり、好きなことしたりするのが?」
真尋は答えない。
その横顔を見ているうちに、ふと住職の言葉を思い出した。
『真尋自身が、取り憑かれているようなものなのですから』
何か言おうとして、やめた。
何を聞けばいいのか、自分でもわからない。
私はただ、黙ったまま真尋の横顔を見つめた。
「真尋」
不意に声がして、2人で振り返る。
住職が本堂のほうからこちらへ歩いてくるところだった。
「悪いが、少し頼めるか」
「はい。何ですか?」
「本堂のほうをお願いしたくてね。明日の法要の準備をしておいてもらえるかな」
「わかりました」
真尋は箒を持ったまま、私を見る。
「すみません。残り、お願いしてもいいですか?」
「うん。大丈夫」
真尋が箒を片づけ、本堂へ向かっていく。
その背中を見送りながら、さっきの言葉が頭に残っていた。
『僕は、そういうのはいいんです』
(……どういう意味なんだろ)
箒を動かしているうちに、ふと洞のことを思い出した。
「……住職さん」
「はい?」
まだ近くにいた住職が振り返る。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「なんでしょう」
「この間の洞のことなんですけど……真尋さんって、ご両親が遠征に行かれてた頃も入ってました?」
「ええ。入っていましたよ」
住職は懐かしむように目を細めた。
「クレヨンなんか持って入っていましたから、中で絵でも描いていたんでしょうね。見せてくれたことはありませんが」
「……絵」
思わず手を止める。
薄暗い洞の中。
壁一面に、かすかに残っていた色。
「何かありましたか?」
「洞の壁に……絵があるんです」
「壁に?」
住職が意外そうに目を瞬く。
「はい。かなり消えかけてるんですけど。たぶん、真尋さんが描いてたんだと思います」
「それは……知りませんでした」
住職は驚いたように呟いた。
「住職さんは、中に入ったことないんですか?」
「ええ。その頃にはもう腰を痛めておりましてね。真尋が何をしているのかまでは」
「そうだったんだ……」
もう一度、洞の絵を思い浮かべる。
誰にも見せず、あの場所で一人、絵を描いていた真尋。
いつ帰ってくるかわからない両親を待ちながら、何を思って描いていたんだろう。
『父が、母にプロポーズしたのが、秋桜の花畑の中なんです』
ふと、真尋の言葉が蘇る。
(……やっぱり、秋桜だったのかな)
真尋が両親から聞いた、大切な思い出。
それを忘れないように、あの壁に残していたのかもしれない。
そう思ったら、あの絵がこのまま消えてしまうのが、急に嫌になった。
「あの、住職さん」
「はい」
「私があの絵、直してもいいですか?」
「直す?」
「消えてるところに色を足して……できるだけ、元の絵を残すように。消えちゃう前に」
住職はしばらく私の顔を見ていた。
「それは構いませんが……大変でしょう。真尋にも手伝わせましょうか」
「いえ」
私はすぐに首を振った。
「なるべく、真尋さんには内緒にしてほしいんです」
「内緒に?」
「……怒られちゃうかもしれないから」
あの絵は、真尋が誰にも見せなかったものだ。
勝手に触ったら、嫌がるかもしれない。
それでも――。
あのまま消えてしまうのは、なんだか嫌だった。
「わかりました。では、私からは黙っておきましょう」
「ありがとうございます」
ほっとしていると、住職がふと思い出したように続けた。
「そうそう。今日はこのあと母屋にお客さまがいらっしゃるので、いつもの部屋は使えませんよ」
「あ、そうなんですか」
「真尋にはまだ伝えていませんから、相談してみてください」
「わかりました」
私は頷いた。
掃除を終えると、私はいつもの和室へ戻った。
棚を見ると、つきぷくがいつもの場所にちょこんと飾られている。今日もそのままなのが、ちょっと嬉しい。
(あ。でも、お客さんに見られちゃう)
このまま置いておくわけにもいかない。私はつきぷくを手に取ると、棚の奥の見えないところへ移した。
「ちょっとだけ、ここにいてね」
しばらくして、真尋が戻ってきた。手には参考書を持っている。
「お待たせしました」
「あ、お疲れさま」
さっきと同じ濃紺の作務衣姿だけれど、袖は肘のあたりまでまくられている。
腕に巻かれていた包帯はもうなく、傷のところに小さなガーゼが貼られていた。
(だいぶ良くなったんだ)
少しだけほっとする。
「さて、では始めましょうか」
「待って。あの、さっき住職さんから聞いたんだけど、今日このお部屋、使う予定があるみたいなの」
「え? そうなんですか」
真尋は参考書を開こうとした手を止めた。
「それなら、今日はやめておきましょうか」
「えー。でも昨日やった問題、まだ見てもらってない」
「あ……そうでしたね」
昨日は結局、それどころではなくなってしまった。
「ほかに使える部屋ないの?」
「そうですね……」
「真尋さんの部屋は?」
「……僕の部屋ですか?」
「うん。そこなら空いてるでしょ?」
「…………」
真尋はしばらく黙ったあと、ほんの少しだけ顔を逸らした。
「……そこは、やめておきましょう」
「なんで?」
「なんでと言われても……」
「?」
「とにかく、別の場所にしましょう」
「別の場所って……」
少し考えて、ふと思いつく。
「じゃあ、うち来る?」
「……え?」
「うち。昨日の問題見るだけなら、そんなに時間かからないでしょ?」
「お母さまは?」
「いると思うけど」
「……そうですか」
「だったら、いいじゃん」
「待ってください。まだ決まってません」
「え?」
「お母さまが構わないのであれば、です」
「大丈夫だって。たぶん」
「たぶんじゃダメです」
「……わかった。じゃあ聞いてみる」
私は渋々スマホを片手に廊下へ出る。
数回のコールで出た母に、事情を簡単に話した。
「そんなわけで……今日は藤代さん、家に来てもらってもいい?」
『藤代さんが?』
母の声に、わずかに驚きが混じる。
「うん」
『いいわよ。勉強を見てもらうんでしょ? ちゃんとお礼言いなさいよ』
「わかってるって」
通話を切り、和室に戻りかけて――ふと、足を止めた。
家に来る?
――真尋さんが?
どこで勉強する?
この時間、リビングは夕飯の支度までお母さんの韓国ドラマタイムだ。
じゃあ――。
(……私の部屋?)
一気に顔が熱くなった。
(待って待って。掃除、いつしたっけ!?)
床に何か落ちてなかったっけ。
ベッドの上は?
というか、人に見られて困るものとか――。
急に心臓が最速ビートを刻み始める。
(やばい。帰ったら速攻で片づけなきゃ……!)


