翌朝、教室へ入ると、すでに小宮の話でもちきりだった。
昨日、寺でなあ子から聞いたあと、家に帰ると母からも同じ話をされた。保護者の間でも、すでに噂になっているらしい。
昨日の着信も、そのことを知らせるためだったようだ。
「席につけー」
担任が入ってきて、ざわついていた教室が少しずつ静かになる。
出席簿を教卓に置くと、担任はいつもより硬い表情で教室を見回した。
「……もう知ってるやつも多いと思うが、小宮のことについて話しておく」
教室が、しんと静まり返った。
「詳しい経緯については、学校でもまだ把握できていない。現在、警察が調べているところだ」
担任から『警察』という言葉が出たのは初めてだ。何人かが、不安な表情で顔を見合わせた。
「警察が調べている最中だ。憶測で話を広げたり、SNSに書き込んだりしないように」
休み時間になると、教室は再び小宮の話で持ちきりになった。
「小宮、昨日親と喧嘩したらしいよ」
「俺も聞いた。家飛び出したあと、駅前で暴れたんだろ?」
「店の看板倒したって」
「え、ガラス割ったって聞いたけど」
「それほんと?」
あちこちから飛び交う話は、少しずつ内容が違っている。
どこまでが本当なのかは、誰にもわからない。
「でもさ、警察が来たときには、もう大人しくなってたらしいよ」
「なにそれ。急に?」
「知らねーよ」
「…………」
私は黙ったまま、その会話を聞いていた。
親と喧嘩して、家を出た。
それから――突然、暴れ出した。
(もしかして……)
「いや、やっぱ俺、信じらんねーわ」
隣で、充希がぼそっと呟いた。
「だってあいつ、真面目なやつじゃん。親が四大行けってうるせえって愚痴ってんのは聞いたことあるけど、それであんなふうになるとは思えねえんだよな」
「うん。私もそう思う」
なあ子も頷く。
「前に委員で一緒になったことあるけど、急にキレたりするようなタイプには見えなかったよ」
「……そうだよね」
小宮がそんなことをするなんて思えない。それは私も同意見だった。
でも――あの日、私に向かって小刀を振り上げた小宮も、確かに小宮だった。
見た目だけは。
(やっぱり、妖のせいだったんじゃ……)
境内で、小宮が来たときのことを思い出す。
『面白いなと思って』
『教えてやろうか?』
あの言葉の意味は――結局、わからないままだ。
彼は一体、何を言おうとしていたんだろう。
チャイムが鳴り、次の授業が始まっても、そのことばかりが渦巻いていた。
先生の話を聞きながら教科書を眺めているうちに、頭が重くなってくる。
(……眠い)
先生の声が、少しずつ遠のいていく。
――暗い。
辺りを見回すけれど、何も見えない。
立っているのか、それとも浮かんでいるのか、それすらも曖昧だった。
ただ、ひどく寂しかった。
遠くに、かすかな光が見える。
けれど、どれだけ歩いても、近づかない。
足を動かしているはずなのに、少しも前へ進めなかった。
『……居場所がない』
声が聞こえる。
すぐそばから聞こえた気がして、振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
暗闇が広がっているだけだった。
「誰……?」
返事はない。
(居場所が、ない……)
なぜか、その言葉がひどく身近に感じられた。
そのとき、遠くにあった光が急に近づいてきた。
白い光に視界が覆われる。
「朝霧」
「はいっ!」
がばっと顔を上げた。
教壇から、先生がじっと私を見ている。
窓の外には、いつの間にか昼の光が広がっていた。
「よく眠れたか?」
「……おかげさまで」
「廊下に出るか?」
「すみませんでした」
教室に笑いが起きる。
私は慌てて教科書に目を落とした。
けれど、文字がうまく頭に入ってこない。
(……なんだったんだろ、今の)
夢だった。
たぶん、ただの夢だ。
それなのに、あの声だけが妙に耳に残っている。
「…………」
考え込んでいると、また先生の声が飛んできた。
「朝霧」
「起きてます!」
「なら教科書、逆さまだぞ」
「…………」
そして翌日――火曜日。
学校から帰って着替え、軽くご飯を済ませてから寺へ向かった。
今日は、詩織が寺に来る日だ。
寺へ向かいながら、リュックにつけたつきぷくが揺れた。
そういえば、この間、寺に持っていったもう1つのつきぷく。
(……置いてきた)
今さら気づいた。
どこかに片付けられたかもしれない。暗い引き出しの中で心細い思いをしてるかもしれない。
そんなことを考えながら歩くうち、気づいたら足取りが速くなっていた。
「こんにちはー!」
「おお、みとさん。いらっしゃい」
住職に挨拶をして和室へ行くと、この前置いていったつきぷくが、ちゃんと同じ場所に鎮座していた。
(よしよし。今日もかわいい)
リュックを置き、さっそく境内の掃除を手伝う。
落ち葉を掃き終えて戻ると、住職に声をかけた。
「他にも何かありますか?」
「では、廊下の水拭きをお願いしましょうかな」
「はい!」
バケツと雑巾を借り、廊下を端から拭いていく。
しばらくして――玄関のほうから声がした。
「ただいま戻りました」
「お邪魔します」
顔を上げる。そこには、大学から帰ってきた真尋と詩織が並んでいた。
白いシャツに黒いパンツの真尋と、落ち着いた服装の詩織。
(……なんか、大人のカップルみたい)
ずきん、と胸が痛む。
対する私は、腕まくりに雑巾。
(……この差はなに)
すると、詩織が私に気づいて、にこっと笑った。
「香月詩織です。オープンキャンパスではどうも」
「あ、朝霧みとです。こちらこそ」
「覚えてるよ。講義室で元気だった子だよね」
「……はい」
(よりによって、あの場面で覚えられてる……)
詩織は私の手元を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……藤代くん、なんで朝霧さんにお掃除させてるの?」
「ああ。勉強を見る代わりに、寺の手伝いをしてもらってるんです」
「え、そうなの?」
「月謝はいらないって言われたから、その代わりなんです」
「なるほど。そういうことね」
私が横から付け足すと、詩織は納得したように頷いた。
掃除を終えて、3人で和室へ入る。
私はいつもの場所に腰を下ろし、テーブルに教科書とノートを広げた。向かいには、真尋と詩織が並んで座っている。
ちらりと2人を見る。
(……なんで並ぶの)
別におかしくない。話をするんだから、むしろ普通だ。
普通なんだけど――。
「……あの、お茶入れてきますね」
立ち上がろうとすると、真尋が先に腰を上げた。
「いえ、僕が入れてきます」
「え、でも」
「これ以上みとさんに働いてもらったら、香月さんに何を言われるかわかりませんから」
「私、そんな怖くないんだけど」
詩織が笑った。
その笑顔に、思わずどきっとする。
(モデルさんなだけあって、どんな表情もさまになるなぁ……)
ほどなくして、真尋がお茶を持って戻ってきた。
それぞれの前に湯呑みが置かれ、私は教科書を開いて宿題に取りかかる。
「それで……相談なんだけど」
詩織の声に、シャーペンを動かしながら耳を傾ける。
「また例の夢を見るの」
真尋の表情がわずかに変わった。
「でも、あの頃みたいに記憶をなくしたりすることはないし、それだけなんだけど……」
「……お札は?」
「もちろん持ってる」
「…………」
真尋は何かを考えるように黙り込んだ。
しばらくして、詩織がちらりと私を見る。
「藤代くん、ちょっと2人で話せる?」
「え……」
真尋も私に視線を向けた。
目が合って、私は慌ててノートに目を落とす。
「……じゃあ、僕の部屋で」
「うん」
(……部屋?)
シャーペンの先が、ぴたりと止まった。
2人が和室を出ていってから、私はしばらくノートに向かっていた。
「…………」
さっきから、同じ問題を何度も読み返している。
全然、頭に入ってこない。
(……別に、気になってるわけじゃないし)
シャーペンを置いた。
(そうだ。わからないところあるから、教えてほしいだけだし!)
教科書を手に、和室を出る。
――ところで。
(真尋さんの部屋って、どこ?)
そういえば、一度も聞いたことがない。
廊下を歩きながらそれらしい部屋を探していると、どこからか話し声が聞こえてきた。
真尋の声だ。
(ここ……?)
声のする部屋の前まで行くと、襖がほんの少し開いていた。
声をかけようとして――ふと、その隙間から中が見えた。
「…………え?」
こちらに背を向けた詩織が、服をはだけさせていた。
肩からずり落ちかけた服を押さえ、その正面には真尋が座っている。
一瞬、頭が真っ白になった。
(え。なにしてるの……?)
真尋は何かを話しながら、詩織をじっと見ていた。
やがて、詩織の肩へゆっくりと手を伸ばした。
「――っ」
その先を見ることができなくて、私はそっと襖から離れた。
(な、なに!? 今の……!)
足音を立てないようにその場を離れ、和室へ戻る。
教科書とノートをリュックに突っ込んだ。
(帰ろ。もう帰る!)
別に怒ってない。
真尋が詩織と何してようが、私には関係ないし。
そもそも付き合ってるわけでもないんだから。
「…………」
そこで、ふと目に入った。
部屋の隅に鎮座している、つきぽよ。
(……なんで私が帰らなきゃいけないの)
教科書とノートをもう一度取り出し、テーブルの前に座った。
「…………」
少しだけ頭が冷えてくる。
(真尋さん、詩織さんが好きなんだ……)
それどころか、さっきのあれ。
(もしかして……付き合ってる?)
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
考えてみれば、真尋に彼女がいないなんて、一度も聞いたことがない。
(なんで私、いないって思い込んでたんだろ……)
急に恥ずかしくなってくる。
恋愛本を読んで、好きかもしれないなんて浮かれて。
詩織に嫉妬までして。
「……ばかみたい」
視界がじわっと滲んだ。
慌てて目元を拭った、そのとき。
「戻りました」
「――!」
顔を上げると、真尋と詩織が和室へ入ってきた。
私はそっと2人の様子を窺った。
詩織はいつもと変わらない顔をしている。真尋も、特に変わった様子はない。
なのに――なんだろう。
さっきまで2人きりで何かを話していたせいか、私には入り込めない空気があるような気がした。
また胸の奥がちくりと痛む。
そのとき、真尋と目が合った。
「みとさん? ……どうしたんですか?」
「え?」
「目が赤いですが」
私は咄嗟にノートへ目を落とした。
「……問題が難しくて」
「…………」
真尋がノートを見る。
私を見る。
もう一度、ノートを見る。
「……そんなに?」
「難しかったの!」
「どこですか?」
「え」
「わからないところです」
「あ……ここ」
私が指差すと、真尋は詩織に顔を向けた。
「詩織さん、少し待ってもらってもいい?」
「もちろん。どうぞ」
真尋が私の隣へ移動してくる。
「これは――」
すぐそばから聞こえる声に、さっき見た光景が頭をよぎった。
「……みとさん?」
「えっ」
「聞いてますか?」
「き、聞いてます!」
慌ててノートに目を戻した。
ひと通り教えてもらい、なんとか問題を解き終える。
「できた……」
「大丈夫そうですね」
「……うん」
真尋は元の場所へ戻ると、詩織に向き直った。
「さっきのこと、何かあればすぐ教えて」
「うん……ありがとう」
詩織は小さく頷いた。
そのやり取りを、私はノートに目を落としたまま聞いていた。
(……さっきのこと)
なんのことかなんて、聞けるわけがない。
「じゃあ、今日は帰るね」
「うん。気をつけて」
「朝霧さんも、またね」
「あ……はい。また」
詩織は立ち上がると、和室を出ていった。
真尋は詩織を玄関まで見送り、しばらくして和室へ戻ってきた。
「さて。続きをやりますか?」
「…………」
「みとさん?」
「……やっぱり、今日私、いないほうがよかった?」
「え?」
「お邪魔だったみたいだし」
私はノートを閉じ、教科書と一緒に鞄へ押し込んだ。
「今日はもう帰る」
「どうしてそうなるんですか?」
少しだけ、咎めるような響きがあった。
「だって……2人で話したかったんでしょ」
「あれは、香月さんが人に聞かれたくない話だっただけです」
「……ふーん」
鞄のファスナーを閉め、立ち上がる。
「みとさん」
「なに?」
「怒ってるんですか?」
「……怒ってないよ」
そのまま背を向けた瞬間、腕を掴まれた。
「……え」
思わず振り返る。
本人も無意識だったのか、一瞬だけ驚いたような顔をした。
けれど、手は離れなかった。
「邪魔なんて、思ってません」
「…………」
「みとさんがここにいることを、そんなふうに思ったことは一度もありません」
いつもより少しだけ強い声だった。
胸が、どくんと鳴る。
「……ほんと?」
「本当です」
「でも……」
「来てほしくなかったら、最初から呼びません」
「…………」
まっすぐ見つめられて、今度は私のほうが目を逸らしたくなる。
(なに、その言い方……)
さっきまであんなに苦しかった胸が、今度は別の意味でうるさい。
掴まれた腕から、真尋の手のぬくもりがじんじんと伝わってくる。
もう、どうしていいかわからなかった。
「か、彼女いる人が、そんなふうに他の女子に触るの反則!!」
「…………」
真尋が目を見開く。
私も固まった。
(…………言った)
次の瞬間、顔が一気に熱くなった。
「……帰る!」
真尋の手を振りほどき、鞄をひっ掴む。
「ちょっと待ってください」
「真尋さんのばか!!」
真尋の顔も見ず、和室を飛び出した。
昨日、寺でなあ子から聞いたあと、家に帰ると母からも同じ話をされた。保護者の間でも、すでに噂になっているらしい。
昨日の着信も、そのことを知らせるためだったようだ。
「席につけー」
担任が入ってきて、ざわついていた教室が少しずつ静かになる。
出席簿を教卓に置くと、担任はいつもより硬い表情で教室を見回した。
「……もう知ってるやつも多いと思うが、小宮のことについて話しておく」
教室が、しんと静まり返った。
「詳しい経緯については、学校でもまだ把握できていない。現在、警察が調べているところだ」
担任から『警察』という言葉が出たのは初めてだ。何人かが、不安な表情で顔を見合わせた。
「警察が調べている最中だ。憶測で話を広げたり、SNSに書き込んだりしないように」
休み時間になると、教室は再び小宮の話で持ちきりになった。
「小宮、昨日親と喧嘩したらしいよ」
「俺も聞いた。家飛び出したあと、駅前で暴れたんだろ?」
「店の看板倒したって」
「え、ガラス割ったって聞いたけど」
「それほんと?」
あちこちから飛び交う話は、少しずつ内容が違っている。
どこまでが本当なのかは、誰にもわからない。
「でもさ、警察が来たときには、もう大人しくなってたらしいよ」
「なにそれ。急に?」
「知らねーよ」
「…………」
私は黙ったまま、その会話を聞いていた。
親と喧嘩して、家を出た。
それから――突然、暴れ出した。
(もしかして……)
「いや、やっぱ俺、信じらんねーわ」
隣で、充希がぼそっと呟いた。
「だってあいつ、真面目なやつじゃん。親が四大行けってうるせえって愚痴ってんのは聞いたことあるけど、それであんなふうになるとは思えねえんだよな」
「うん。私もそう思う」
なあ子も頷く。
「前に委員で一緒になったことあるけど、急にキレたりするようなタイプには見えなかったよ」
「……そうだよね」
小宮がそんなことをするなんて思えない。それは私も同意見だった。
でも――あの日、私に向かって小刀を振り上げた小宮も、確かに小宮だった。
見た目だけは。
(やっぱり、妖のせいだったんじゃ……)
境内で、小宮が来たときのことを思い出す。
『面白いなと思って』
『教えてやろうか?』
あの言葉の意味は――結局、わからないままだ。
彼は一体、何を言おうとしていたんだろう。
チャイムが鳴り、次の授業が始まっても、そのことばかりが渦巻いていた。
先生の話を聞きながら教科書を眺めているうちに、頭が重くなってくる。
(……眠い)
先生の声が、少しずつ遠のいていく。
――暗い。
辺りを見回すけれど、何も見えない。
立っているのか、それとも浮かんでいるのか、それすらも曖昧だった。
ただ、ひどく寂しかった。
遠くに、かすかな光が見える。
けれど、どれだけ歩いても、近づかない。
足を動かしているはずなのに、少しも前へ進めなかった。
『……居場所がない』
声が聞こえる。
すぐそばから聞こえた気がして、振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
暗闇が広がっているだけだった。
「誰……?」
返事はない。
(居場所が、ない……)
なぜか、その言葉がひどく身近に感じられた。
そのとき、遠くにあった光が急に近づいてきた。
白い光に視界が覆われる。
「朝霧」
「はいっ!」
がばっと顔を上げた。
教壇から、先生がじっと私を見ている。
窓の外には、いつの間にか昼の光が広がっていた。
「よく眠れたか?」
「……おかげさまで」
「廊下に出るか?」
「すみませんでした」
教室に笑いが起きる。
私は慌てて教科書に目を落とした。
けれど、文字がうまく頭に入ってこない。
(……なんだったんだろ、今の)
夢だった。
たぶん、ただの夢だ。
それなのに、あの声だけが妙に耳に残っている。
「…………」
考え込んでいると、また先生の声が飛んできた。
「朝霧」
「起きてます!」
「なら教科書、逆さまだぞ」
「…………」
そして翌日――火曜日。
学校から帰って着替え、軽くご飯を済ませてから寺へ向かった。
今日は、詩織が寺に来る日だ。
寺へ向かいながら、リュックにつけたつきぷくが揺れた。
そういえば、この間、寺に持っていったもう1つのつきぷく。
(……置いてきた)
今さら気づいた。
どこかに片付けられたかもしれない。暗い引き出しの中で心細い思いをしてるかもしれない。
そんなことを考えながら歩くうち、気づいたら足取りが速くなっていた。
「こんにちはー!」
「おお、みとさん。いらっしゃい」
住職に挨拶をして和室へ行くと、この前置いていったつきぷくが、ちゃんと同じ場所に鎮座していた。
(よしよし。今日もかわいい)
リュックを置き、さっそく境内の掃除を手伝う。
落ち葉を掃き終えて戻ると、住職に声をかけた。
「他にも何かありますか?」
「では、廊下の水拭きをお願いしましょうかな」
「はい!」
バケツと雑巾を借り、廊下を端から拭いていく。
しばらくして――玄関のほうから声がした。
「ただいま戻りました」
「お邪魔します」
顔を上げる。そこには、大学から帰ってきた真尋と詩織が並んでいた。
白いシャツに黒いパンツの真尋と、落ち着いた服装の詩織。
(……なんか、大人のカップルみたい)
ずきん、と胸が痛む。
対する私は、腕まくりに雑巾。
(……この差はなに)
すると、詩織が私に気づいて、にこっと笑った。
「香月詩織です。オープンキャンパスではどうも」
「あ、朝霧みとです。こちらこそ」
「覚えてるよ。講義室で元気だった子だよね」
「……はい」
(よりによって、あの場面で覚えられてる……)
詩織は私の手元を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……藤代くん、なんで朝霧さんにお掃除させてるの?」
「ああ。勉強を見る代わりに、寺の手伝いをしてもらってるんです」
「え、そうなの?」
「月謝はいらないって言われたから、その代わりなんです」
「なるほど。そういうことね」
私が横から付け足すと、詩織は納得したように頷いた。
掃除を終えて、3人で和室へ入る。
私はいつもの場所に腰を下ろし、テーブルに教科書とノートを広げた。向かいには、真尋と詩織が並んで座っている。
ちらりと2人を見る。
(……なんで並ぶの)
別におかしくない。話をするんだから、むしろ普通だ。
普通なんだけど――。
「……あの、お茶入れてきますね」
立ち上がろうとすると、真尋が先に腰を上げた。
「いえ、僕が入れてきます」
「え、でも」
「これ以上みとさんに働いてもらったら、香月さんに何を言われるかわかりませんから」
「私、そんな怖くないんだけど」
詩織が笑った。
その笑顔に、思わずどきっとする。
(モデルさんなだけあって、どんな表情もさまになるなぁ……)
ほどなくして、真尋がお茶を持って戻ってきた。
それぞれの前に湯呑みが置かれ、私は教科書を開いて宿題に取りかかる。
「それで……相談なんだけど」
詩織の声に、シャーペンを動かしながら耳を傾ける。
「また例の夢を見るの」
真尋の表情がわずかに変わった。
「でも、あの頃みたいに記憶をなくしたりすることはないし、それだけなんだけど……」
「……お札は?」
「もちろん持ってる」
「…………」
真尋は何かを考えるように黙り込んだ。
しばらくして、詩織がちらりと私を見る。
「藤代くん、ちょっと2人で話せる?」
「え……」
真尋も私に視線を向けた。
目が合って、私は慌ててノートに目を落とす。
「……じゃあ、僕の部屋で」
「うん」
(……部屋?)
シャーペンの先が、ぴたりと止まった。
2人が和室を出ていってから、私はしばらくノートに向かっていた。
「…………」
さっきから、同じ問題を何度も読み返している。
全然、頭に入ってこない。
(……別に、気になってるわけじゃないし)
シャーペンを置いた。
(そうだ。わからないところあるから、教えてほしいだけだし!)
教科書を手に、和室を出る。
――ところで。
(真尋さんの部屋って、どこ?)
そういえば、一度も聞いたことがない。
廊下を歩きながらそれらしい部屋を探していると、どこからか話し声が聞こえてきた。
真尋の声だ。
(ここ……?)
声のする部屋の前まで行くと、襖がほんの少し開いていた。
声をかけようとして――ふと、その隙間から中が見えた。
「…………え?」
こちらに背を向けた詩織が、服をはだけさせていた。
肩からずり落ちかけた服を押さえ、その正面には真尋が座っている。
一瞬、頭が真っ白になった。
(え。なにしてるの……?)
真尋は何かを話しながら、詩織をじっと見ていた。
やがて、詩織の肩へゆっくりと手を伸ばした。
「――っ」
その先を見ることができなくて、私はそっと襖から離れた。
(な、なに!? 今の……!)
足音を立てないようにその場を離れ、和室へ戻る。
教科書とノートをリュックに突っ込んだ。
(帰ろ。もう帰る!)
別に怒ってない。
真尋が詩織と何してようが、私には関係ないし。
そもそも付き合ってるわけでもないんだから。
「…………」
そこで、ふと目に入った。
部屋の隅に鎮座している、つきぽよ。
(……なんで私が帰らなきゃいけないの)
教科書とノートをもう一度取り出し、テーブルの前に座った。
「…………」
少しだけ頭が冷えてくる。
(真尋さん、詩織さんが好きなんだ……)
それどころか、さっきのあれ。
(もしかして……付き合ってる?)
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
考えてみれば、真尋に彼女がいないなんて、一度も聞いたことがない。
(なんで私、いないって思い込んでたんだろ……)
急に恥ずかしくなってくる。
恋愛本を読んで、好きかもしれないなんて浮かれて。
詩織に嫉妬までして。
「……ばかみたい」
視界がじわっと滲んだ。
慌てて目元を拭った、そのとき。
「戻りました」
「――!」
顔を上げると、真尋と詩織が和室へ入ってきた。
私はそっと2人の様子を窺った。
詩織はいつもと変わらない顔をしている。真尋も、特に変わった様子はない。
なのに――なんだろう。
さっきまで2人きりで何かを話していたせいか、私には入り込めない空気があるような気がした。
また胸の奥がちくりと痛む。
そのとき、真尋と目が合った。
「みとさん? ……どうしたんですか?」
「え?」
「目が赤いですが」
私は咄嗟にノートへ目を落とした。
「……問題が難しくて」
「…………」
真尋がノートを見る。
私を見る。
もう一度、ノートを見る。
「……そんなに?」
「難しかったの!」
「どこですか?」
「え」
「わからないところです」
「あ……ここ」
私が指差すと、真尋は詩織に顔を向けた。
「詩織さん、少し待ってもらってもいい?」
「もちろん。どうぞ」
真尋が私の隣へ移動してくる。
「これは――」
すぐそばから聞こえる声に、さっき見た光景が頭をよぎった。
「……みとさん?」
「えっ」
「聞いてますか?」
「き、聞いてます!」
慌ててノートに目を戻した。
ひと通り教えてもらい、なんとか問題を解き終える。
「できた……」
「大丈夫そうですね」
「……うん」
真尋は元の場所へ戻ると、詩織に向き直った。
「さっきのこと、何かあればすぐ教えて」
「うん……ありがとう」
詩織は小さく頷いた。
そのやり取りを、私はノートに目を落としたまま聞いていた。
(……さっきのこと)
なんのことかなんて、聞けるわけがない。
「じゃあ、今日は帰るね」
「うん。気をつけて」
「朝霧さんも、またね」
「あ……はい。また」
詩織は立ち上がると、和室を出ていった。
真尋は詩織を玄関まで見送り、しばらくして和室へ戻ってきた。
「さて。続きをやりますか?」
「…………」
「みとさん?」
「……やっぱり、今日私、いないほうがよかった?」
「え?」
「お邪魔だったみたいだし」
私はノートを閉じ、教科書と一緒に鞄へ押し込んだ。
「今日はもう帰る」
「どうしてそうなるんですか?」
少しだけ、咎めるような響きがあった。
「だって……2人で話したかったんでしょ」
「あれは、香月さんが人に聞かれたくない話だっただけです」
「……ふーん」
鞄のファスナーを閉め、立ち上がる。
「みとさん」
「なに?」
「怒ってるんですか?」
「……怒ってないよ」
そのまま背を向けた瞬間、腕を掴まれた。
「……え」
思わず振り返る。
本人も無意識だったのか、一瞬だけ驚いたような顔をした。
けれど、手は離れなかった。
「邪魔なんて、思ってません」
「…………」
「みとさんがここにいることを、そんなふうに思ったことは一度もありません」
いつもより少しだけ強い声だった。
胸が、どくんと鳴る。
「……ほんと?」
「本当です」
「でも……」
「来てほしくなかったら、最初から呼びません」
「…………」
まっすぐ見つめられて、今度は私のほうが目を逸らしたくなる。
(なに、その言い方……)
さっきまであんなに苦しかった胸が、今度は別の意味でうるさい。
掴まれた腕から、真尋の手のぬくもりがじんじんと伝わってくる。
もう、どうしていいかわからなかった。
「か、彼女いる人が、そんなふうに他の女子に触るの反則!!」
「…………」
真尋が目を見開く。
私も固まった。
(…………言った)
次の瞬間、顔が一気に熱くなった。
「……帰る!」
真尋の手を振りほどき、鞄をひっ掴む。
「ちょっと待ってください」
「真尋さんのばか!!」
真尋の顔も見ず、和室を飛び出した。


