その後、キャンパスツアーは何事もなく終了した。
靴箱近くのロビーで、参加していた高校生や保護者が散っていく。
「みと、ちょっと待ってて」
「うん」
なあ子と充希は、少し離れたところにある案内ボードを見に行った。私はその場で待ちながら、なんとなく辺りを見回す。
少し離れたところで、真尋たち3人が話しているのが目に入った。詩織が何かを話し、真尋が少しだけ目元を緩める。
(……なんか、絵になるなぁ)
並んでいると、やっぱり美男美女だ。
悠斗だって十分かっこいいはずなのに、あの人はなんというか――中身を知ってしまったせいか、ちょっと違う。
(…………)
なんとなく面白くなくて、そのまま2人を眺めていると、不意に真尋がこちらを向いた。
真尋は詩織たちに何か一言告げると、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
(え? なになに!?)
思わず姿勢を正す。真尋は私の前まで来ると、ふと視線を落とした。
「……それ」
「え?」
視線の先には、私の鞄にぶら下がったつきぷく。
「かわいいですね」
「知ってるの?」
「あ、いえ。初めて見ました」
「これ、つきぷくっていうの。ほら」
よく見えるようにつきぷくを持ち上げると、真尋は少し身を屈めた。
「お饅頭かと思ったら、うさぎなんですね」
「お饅頭!?」
思わず声を上げると、真尋がくすりと小さく笑った。
「――そういえば、みとさん」
「ん?」
「今日か明日、うちに来られますか?」
「明日なら行けるけど……」
明日は日曜日だ。詩織が来るのは、週明けの月曜日か火曜日だったはず。
そこで、はっとする。
「あ、そっか。小宮くんのこと?」
「それもあるんですが」
「え?」
真尋がわずかに言いにくそうな顔をした。
「みとさんに、会いたがっている人がいまして」
「……私に?」
「ええ」
「誰?」
「僕としては、正直あまり乗り気ではないのですが……」
「なにそれ。余計気になるんだけど」
「明日来ればわかりますよ」
「えー! そこまで言って教えてくれないの!?」
真尋は答えず、ほんの少しだけ楽しそうに口元を綻ばせた。
「では、また明日」
「……うん。また明日」
真尋が踵を返し、離れていく。その背中を、なんとなく目が離せず追ってしまう。
(…………)
さっきの柔らかい笑顔が、妙に頭に残っていた。
「みこにゃん、楽しめた?」
「ひゃあっ!?」
突然、すぐ後ろから声がした。
飛び上がるように振り返ると、悠斗がニヤニヤしながら立っている。
「ゆ、悠斗さん!?」
「声でか。バレるって」
「誰のせいですか! ていうか、ここでその名前で呼ばないでください!」
「ごめんごめん。で、楽しめた?」
「もう……!楽しかったですけど」
「そっか。真尋もなんだか楽しそうだったし」
「え?」
「ん?」
「……真尋さんが?」
「さあ?」
「今言ったじゃないですか!」
悠斗は答える代わりに、面白そうに肩を揺らすだけだった。
「もう……なんなんですか」
「みとー、そろそろ行くよー!」
「あ、うん!」
なあ子の声に、慌ててそちらへ向き直る。
「じゃあね、みこにゃん」
「だからそれやめてくださいって!」
ヒラヒラと手を振って去っていく悠斗を見送りながら、私はため息をついた。そこへ、なあ子が近付いてくる。
なあ子は悠斗の背中を意外そうに見ながら、口を開いた。
「今の、橘さんだよね。なに話してたの?」
「あ、なんか、『楽しかった?』って」
「えー、なにそのアフターケア。わざわざ声かけてくれるなんて優しい〜」
「いや、あれ絶対面白がってるだけだから」
なあ子と一緒に歩き出す。
靴箱のほうでは、充希が私たちを待っていた。
「それに橘さん、かっこいいし。モテそうだよね」
「最初はそう思うよね」
「……最初は?」
数歩進んだところで、隣になあ子がいないことに気づいた。
「……ん?」
振り返ると、なあ子は少し後ろで足を止め、私をまじまじと見ていた。
「……あんた、初対面だよね?」
「…………あ」
その日の夜。
お風呂を済ませて部屋に戻った私は、ベッドの上で例の恋愛本を開いていた。なんとなく気になって、ぱらぱらとページをめくっていく。
『好きな人のことは、つい目で追ってしまう』
『ほかの女の子と一緒にいるところを見て、嫌な気持ちになる』
『手が触れただけで、ドキドキする』
「…………」
ページをめくろうとした手が、止まった。
(……あれ?)
なんか、これ。
知ってる気がする。
少し離れたところで、詩織と話していた真尋。
何を話しているんだろうって、気になって仕方がなかった。
2人が並んでいるところを見て、なんとなく面白くなかった。
それから、今日繋いだ手。
大きくて、少し骨ばった手。
離したあとになって急に恥ずかしくなって、まともに顔を見られなかった。
「…………」
(これって……)
急に、顔が熱くなるのがわかる。
(え、ちょっと待って……)
そばにあったクッションを引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
ここに書いてあることに、心当たりがある。
というか――ありすぎる。
(私、もしかして――)
「…………っ」
その先まで考えるのが怖くなって、クッションに思いきり顔を埋めた。
「いやいやいやいや……!」
まだわからない。
たまたまかもしれない。
そっと顔を上げて、開いたままの恋愛本を見る。
(……たまたまで、こんなに当てはまる?)
答えは出ない。でも、今まで自分でもよくわからなかった胸のざわめきが、少しずつ確かな形を持ち始めた気がした。
翌日の夕方。いつものように寺の門をくぐった、そのときだった。
「わっ!!」
「ぎゃあああああっ!?」
門柱の陰から、突然狐のお面が飛び出してきた。思わず後ずさる。
「な、なに!?」
「はっはっは。いい声じゃ」
「…………」
お面を外したのは、見覚えのない小柄なおじいさんだった。
「誰ですか!?」
「さて、誰じゃろうな」
「知らないから聞いてるんですけど!……っていうか、いつからそこにいたんですか?」
「うん? 1時間ほど前からかの」
「1時間も……?」
「はっはっは」
得体の知れない老人に、背中にぞわりと冷たいものが走る。
「これこれ。あまりいじめないでもらえますかな」
聞き慣れた声がして、顔を上げる。縁側では、住職がこちらを眺めていた。
「住職さん! この人知ってるんですか!?」
「久世源蔵。近所の神社の宮司ですよ。昔からの付き合いでしてな」
「久しぶりじゃな、恒一。まだ生きとったか」
「そちらこそ。先に逝ったかと思っておりましたよ」
「はっはっは。縁起でもない」
「神主が縁起を気にしますか」
「お前に言われたくないわ」
(仲いいの、この二人……?)
宮司は勝手知ったる様子で縁側へ上がると、ふと私を振り返った。
「この子か。例の娘さんは」
「ええ。最近よく寺に来てくれましてな」
「ほうほう」
宮司が、上から下まで私を見る。
「真尋の嫁さんか」
「――っ、違います!」
「まだ違うのか」
「そういうんじゃないです!」
「なんだ、つまらん」
「久世さん、からかうのはそのくらいにしてくだされ」
住職が苦笑する。
その後も2人は、近所の店がどうだとか、誰それの腰が悪くなったとか、取り留めのない話を始めてしまった。
私は仕方なく台所へ向かい、お茶を入れて戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「おお、すまんの」
宮司は湯呑みを受け取ると、満足そうにひと口啜った。
「うむ。うまい。真尋もいい嫁さんをもらったのう」
「だから違いますって!!」
「まだ違うんじゃったか」
「さっきもその話しましたよね!?」
「……何をしているんですか」
不意に、後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、真尋が立っていた。
「……っ」
顔を見た瞬間、胸がどきっと跳ねる。
(……やば)
昨日、あんなことを考えたせいだ。
なんだかまともに顔が見られなくて、思わず視線を逸らす。
宮司が軽く手を上げた。
「おお、真尋。来たぞ」
「こんにちは、久世さん。ご無沙汰しております」
「この子が例の巫女か?」
「そうです。先日もお話しした通り、本当の巫女ではないですが」
「違うのか?」
「えっと……なんちゃって巫女です」
私が横から口を挟むと、宮司は興味深そうに頷いた。
「ほう。なんちゃって巫女」
「はい!」
「巫女なんじゃな」
「違います!」
「???」
宮司は本気でわからないという顔をしている。
隣で、真尋が小さくため息をついた。
「ほっほっほ。相変わらず話が噛み合いませんな」
「お前が説明してみろ」
「わしは遠慮しておきましょう」
「なんじゃ、役に立たんのう」
真尋が小さくため息をつく。
「みとさん、行きましょう」
「え、どこに?」
「中です」
それだけ言って、真尋はさっさと歩き出した。
「あ、待って」
慌ててそのあとを追う。
「おい真尋。嫁さんをどこへ連れていくんじゃ」
「嫁ではありません」
「二人きりか?」
真尋はもう答えなかった。
背後から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
(……絶対、面白がってる)
廊下を進み、いつもの和室に入る。
真尋は私を先に通すと、後ろから戸を閉めた。
途端に、縁側の騒がしさが少し遠くなる。
「…………」
(……あれ)
今までだって、ここで2人きりになることなんて何度もあった。
なのに、今日はなんだか妙に落ち着かない。
「……すみません」
「え?」
急に声をかけられて、思わず肩が揺れた。
「どうしてもみとさんに会いたいと聞かなくて」
「あ、ああ……昨日言ってたの、宮司さんのことだったんだ」
「ええ。僕としては、あまり会わせたくなかったんですが」
「なんで?」
「……今ので、だいたいわかったでしょう」
「あはは。まあ……ちょっとだけ」
思わず笑うと、真尋が困ったように息を吐いた。
「でも、面白い人だね」
「面白がらなくていいです」
「住職さんとは、昔から仲いいの?」
「ええ。僕が小さい頃から、よく寺に来ていました」
「へえ……」
じゃあ、真尋が子どもの頃のことも知ってるんだ。
そう思って、ふとさっきの2人を思い出す。
「なんかいいね」
「何がですか?」
「あの二人。言いたいこと言い合ってるのに、ずっと仲いいんだなって」
真尋は少しだけ考えてから、
「……そうですね」
と、静かに答えた。
その声がなんとなく柔らかくて、私もつられて笑った。
――そのとき。
ガラッ!
「プロポーズはやっぱり花畑にするんか?」
「きゃああっ!?」
突然開いた戸に、思わず飛び上がる。
「なんじゃ。そんなに驚かんでもええじゃろ」
「宮司さん!」
「二人でこそこそ、何を話しとるんじゃ」
「何もこそこそしていません」
「プロポーズの場所で悩んどるなら、よい場所をと思ってな」
「悩んでません」
「そうか。もう決めたか」
「そういう意味ではありません」
「わかったわかった。そう怖い顔をするな」
まったくわかっていなさそうな顔で、宮司が笑う。
そのとき、鞄の中でスマホが鳴った。
「……あ」
取り出した画面に表示された名前を見て、指が止まる。
――お母さん。
「…………」
なんで電話?
小言なら、いつもメッセージで送ってくるのに。
「出ないんですか?」
真尋に聞かれて、私は画面を見つめたまま首を振った。
「……いい」
今は、話したくない。
着信音が鳴り続ける。
(……もう、放っておいてよ)
胸の奥に、嫌な感情がじわりと広がる。
けれど、やがて着信音が途切れると、それもすっと消えていった。
「…………」
なんの用だったんだろう。
用事があるなら、あとでメッセージが来るだろう。
そう思ってスマホを鞄へ戻そうとした、そのときだった。
「……あんた」
「え?」
低い声に、顔を上げる。
宮司が、じっと私を見ていた。
さっきまでのふざけた顔とは、まるで違う。
「……なに?」
宮司の目が、一瞬だけ私の首元へ落ちた。
「久世さん?」
真尋が眉を寄せ、私との間に入るように一歩前へ出た。
「……何ですか」
宮司はそんな真尋をちらりと見ると、再び私に目を向けた。
「……あんた、和食派か?」
「…………は?」
「食の好みは同じほうがええからな。真尋も和食派じゃろ」
「久世さん!」
「なんじゃ。大事なことじゃぞ」
「もういいですから。出ていってください」
「おい、押すな。年寄りは大事にせんか」
「元気でしょう、十分」
真尋はぶつぶつ言う宮司を廊下へ追いやると、ぴしゃりと戸を閉めた。
「……まったく」
「…………」
急に静かになった和室で、私は閉じた戸を見つめる。
「ねえ」
「はい?」
「さっき言ってた、プロポーズとか花畑って……なんのこと?」
「ああ……」
真尋は少しだけ間を置いた。
「僕の父が、母にプロポーズしたのが、秋桜の花畑の中なんです」
「……秋桜?」
ふと、あのアルバムの写真が頭に浮かぶ。
若い二人が並んでいた、桃色の花畑。
(……あの場所だったんだ)
大輪の花ではなく秋桜というのが、真尋のご両親のイメージにしっくりくる。
「……ロマンチックだね」
「……そうですね」
真尋が、かすかに笑った。
その笑顔は、少し寂しそうに見えて――
私はそれ以上、何も言えなくなった。
靴箱近くのロビーで、参加していた高校生や保護者が散っていく。
「みと、ちょっと待ってて」
「うん」
なあ子と充希は、少し離れたところにある案内ボードを見に行った。私はその場で待ちながら、なんとなく辺りを見回す。
少し離れたところで、真尋たち3人が話しているのが目に入った。詩織が何かを話し、真尋が少しだけ目元を緩める。
(……なんか、絵になるなぁ)
並んでいると、やっぱり美男美女だ。
悠斗だって十分かっこいいはずなのに、あの人はなんというか――中身を知ってしまったせいか、ちょっと違う。
(…………)
なんとなく面白くなくて、そのまま2人を眺めていると、不意に真尋がこちらを向いた。
真尋は詩織たちに何か一言告げると、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
(え? なになに!?)
思わず姿勢を正す。真尋は私の前まで来ると、ふと視線を落とした。
「……それ」
「え?」
視線の先には、私の鞄にぶら下がったつきぷく。
「かわいいですね」
「知ってるの?」
「あ、いえ。初めて見ました」
「これ、つきぷくっていうの。ほら」
よく見えるようにつきぷくを持ち上げると、真尋は少し身を屈めた。
「お饅頭かと思ったら、うさぎなんですね」
「お饅頭!?」
思わず声を上げると、真尋がくすりと小さく笑った。
「――そういえば、みとさん」
「ん?」
「今日か明日、うちに来られますか?」
「明日なら行けるけど……」
明日は日曜日だ。詩織が来るのは、週明けの月曜日か火曜日だったはず。
そこで、はっとする。
「あ、そっか。小宮くんのこと?」
「それもあるんですが」
「え?」
真尋がわずかに言いにくそうな顔をした。
「みとさんに、会いたがっている人がいまして」
「……私に?」
「ええ」
「誰?」
「僕としては、正直あまり乗り気ではないのですが……」
「なにそれ。余計気になるんだけど」
「明日来ればわかりますよ」
「えー! そこまで言って教えてくれないの!?」
真尋は答えず、ほんの少しだけ楽しそうに口元を綻ばせた。
「では、また明日」
「……うん。また明日」
真尋が踵を返し、離れていく。その背中を、なんとなく目が離せず追ってしまう。
(…………)
さっきの柔らかい笑顔が、妙に頭に残っていた。
「みこにゃん、楽しめた?」
「ひゃあっ!?」
突然、すぐ後ろから声がした。
飛び上がるように振り返ると、悠斗がニヤニヤしながら立っている。
「ゆ、悠斗さん!?」
「声でか。バレるって」
「誰のせいですか! ていうか、ここでその名前で呼ばないでください!」
「ごめんごめん。で、楽しめた?」
「もう……!楽しかったですけど」
「そっか。真尋もなんだか楽しそうだったし」
「え?」
「ん?」
「……真尋さんが?」
「さあ?」
「今言ったじゃないですか!」
悠斗は答える代わりに、面白そうに肩を揺らすだけだった。
「もう……なんなんですか」
「みとー、そろそろ行くよー!」
「あ、うん!」
なあ子の声に、慌ててそちらへ向き直る。
「じゃあね、みこにゃん」
「だからそれやめてくださいって!」
ヒラヒラと手を振って去っていく悠斗を見送りながら、私はため息をついた。そこへ、なあ子が近付いてくる。
なあ子は悠斗の背中を意外そうに見ながら、口を開いた。
「今の、橘さんだよね。なに話してたの?」
「あ、なんか、『楽しかった?』って」
「えー、なにそのアフターケア。わざわざ声かけてくれるなんて優しい〜」
「いや、あれ絶対面白がってるだけだから」
なあ子と一緒に歩き出す。
靴箱のほうでは、充希が私たちを待っていた。
「それに橘さん、かっこいいし。モテそうだよね」
「最初はそう思うよね」
「……最初は?」
数歩進んだところで、隣になあ子がいないことに気づいた。
「……ん?」
振り返ると、なあ子は少し後ろで足を止め、私をまじまじと見ていた。
「……あんた、初対面だよね?」
「…………あ」
その日の夜。
お風呂を済ませて部屋に戻った私は、ベッドの上で例の恋愛本を開いていた。なんとなく気になって、ぱらぱらとページをめくっていく。
『好きな人のことは、つい目で追ってしまう』
『ほかの女の子と一緒にいるところを見て、嫌な気持ちになる』
『手が触れただけで、ドキドキする』
「…………」
ページをめくろうとした手が、止まった。
(……あれ?)
なんか、これ。
知ってる気がする。
少し離れたところで、詩織と話していた真尋。
何を話しているんだろうって、気になって仕方がなかった。
2人が並んでいるところを見て、なんとなく面白くなかった。
それから、今日繋いだ手。
大きくて、少し骨ばった手。
離したあとになって急に恥ずかしくなって、まともに顔を見られなかった。
「…………」
(これって……)
急に、顔が熱くなるのがわかる。
(え、ちょっと待って……)
そばにあったクッションを引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
ここに書いてあることに、心当たりがある。
というか――ありすぎる。
(私、もしかして――)
「…………っ」
その先まで考えるのが怖くなって、クッションに思いきり顔を埋めた。
「いやいやいやいや……!」
まだわからない。
たまたまかもしれない。
そっと顔を上げて、開いたままの恋愛本を見る。
(……たまたまで、こんなに当てはまる?)
答えは出ない。でも、今まで自分でもよくわからなかった胸のざわめきが、少しずつ確かな形を持ち始めた気がした。
翌日の夕方。いつものように寺の門をくぐった、そのときだった。
「わっ!!」
「ぎゃあああああっ!?」
門柱の陰から、突然狐のお面が飛び出してきた。思わず後ずさる。
「な、なに!?」
「はっはっは。いい声じゃ」
「…………」
お面を外したのは、見覚えのない小柄なおじいさんだった。
「誰ですか!?」
「さて、誰じゃろうな」
「知らないから聞いてるんですけど!……っていうか、いつからそこにいたんですか?」
「うん? 1時間ほど前からかの」
「1時間も……?」
「はっはっは」
得体の知れない老人に、背中にぞわりと冷たいものが走る。
「これこれ。あまりいじめないでもらえますかな」
聞き慣れた声がして、顔を上げる。縁側では、住職がこちらを眺めていた。
「住職さん! この人知ってるんですか!?」
「久世源蔵。近所の神社の宮司ですよ。昔からの付き合いでしてな」
「久しぶりじゃな、恒一。まだ生きとったか」
「そちらこそ。先に逝ったかと思っておりましたよ」
「はっはっは。縁起でもない」
「神主が縁起を気にしますか」
「お前に言われたくないわ」
(仲いいの、この二人……?)
宮司は勝手知ったる様子で縁側へ上がると、ふと私を振り返った。
「この子か。例の娘さんは」
「ええ。最近よく寺に来てくれましてな」
「ほうほう」
宮司が、上から下まで私を見る。
「真尋の嫁さんか」
「――っ、違います!」
「まだ違うのか」
「そういうんじゃないです!」
「なんだ、つまらん」
「久世さん、からかうのはそのくらいにしてくだされ」
住職が苦笑する。
その後も2人は、近所の店がどうだとか、誰それの腰が悪くなったとか、取り留めのない話を始めてしまった。
私は仕方なく台所へ向かい、お茶を入れて戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「おお、すまんの」
宮司は湯呑みを受け取ると、満足そうにひと口啜った。
「うむ。うまい。真尋もいい嫁さんをもらったのう」
「だから違いますって!!」
「まだ違うんじゃったか」
「さっきもその話しましたよね!?」
「……何をしているんですか」
不意に、後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、真尋が立っていた。
「……っ」
顔を見た瞬間、胸がどきっと跳ねる。
(……やば)
昨日、あんなことを考えたせいだ。
なんだかまともに顔が見られなくて、思わず視線を逸らす。
宮司が軽く手を上げた。
「おお、真尋。来たぞ」
「こんにちは、久世さん。ご無沙汰しております」
「この子が例の巫女か?」
「そうです。先日もお話しした通り、本当の巫女ではないですが」
「違うのか?」
「えっと……なんちゃって巫女です」
私が横から口を挟むと、宮司は興味深そうに頷いた。
「ほう。なんちゃって巫女」
「はい!」
「巫女なんじゃな」
「違います!」
「???」
宮司は本気でわからないという顔をしている。
隣で、真尋が小さくため息をついた。
「ほっほっほ。相変わらず話が噛み合いませんな」
「お前が説明してみろ」
「わしは遠慮しておきましょう」
「なんじゃ、役に立たんのう」
真尋が小さくため息をつく。
「みとさん、行きましょう」
「え、どこに?」
「中です」
それだけ言って、真尋はさっさと歩き出した。
「あ、待って」
慌ててそのあとを追う。
「おい真尋。嫁さんをどこへ連れていくんじゃ」
「嫁ではありません」
「二人きりか?」
真尋はもう答えなかった。
背後から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
(……絶対、面白がってる)
廊下を進み、いつもの和室に入る。
真尋は私を先に通すと、後ろから戸を閉めた。
途端に、縁側の騒がしさが少し遠くなる。
「…………」
(……あれ)
今までだって、ここで2人きりになることなんて何度もあった。
なのに、今日はなんだか妙に落ち着かない。
「……すみません」
「え?」
急に声をかけられて、思わず肩が揺れた。
「どうしてもみとさんに会いたいと聞かなくて」
「あ、ああ……昨日言ってたの、宮司さんのことだったんだ」
「ええ。僕としては、あまり会わせたくなかったんですが」
「なんで?」
「……今ので、だいたいわかったでしょう」
「あはは。まあ……ちょっとだけ」
思わず笑うと、真尋が困ったように息を吐いた。
「でも、面白い人だね」
「面白がらなくていいです」
「住職さんとは、昔から仲いいの?」
「ええ。僕が小さい頃から、よく寺に来ていました」
「へえ……」
じゃあ、真尋が子どもの頃のことも知ってるんだ。
そう思って、ふとさっきの2人を思い出す。
「なんかいいね」
「何がですか?」
「あの二人。言いたいこと言い合ってるのに、ずっと仲いいんだなって」
真尋は少しだけ考えてから、
「……そうですね」
と、静かに答えた。
その声がなんとなく柔らかくて、私もつられて笑った。
――そのとき。
ガラッ!
「プロポーズはやっぱり花畑にするんか?」
「きゃああっ!?」
突然開いた戸に、思わず飛び上がる。
「なんじゃ。そんなに驚かんでもええじゃろ」
「宮司さん!」
「二人でこそこそ、何を話しとるんじゃ」
「何もこそこそしていません」
「プロポーズの場所で悩んどるなら、よい場所をと思ってな」
「悩んでません」
「そうか。もう決めたか」
「そういう意味ではありません」
「わかったわかった。そう怖い顔をするな」
まったくわかっていなさそうな顔で、宮司が笑う。
そのとき、鞄の中でスマホが鳴った。
「……あ」
取り出した画面に表示された名前を見て、指が止まる。
――お母さん。
「…………」
なんで電話?
小言なら、いつもメッセージで送ってくるのに。
「出ないんですか?」
真尋に聞かれて、私は画面を見つめたまま首を振った。
「……いい」
今は、話したくない。
着信音が鳴り続ける。
(……もう、放っておいてよ)
胸の奥に、嫌な感情がじわりと広がる。
けれど、やがて着信音が途切れると、それもすっと消えていった。
「…………」
なんの用だったんだろう。
用事があるなら、あとでメッセージが来るだろう。
そう思ってスマホを鞄へ戻そうとした、そのときだった。
「……あんた」
「え?」
低い声に、顔を上げる。
宮司が、じっと私を見ていた。
さっきまでのふざけた顔とは、まるで違う。
「……なに?」
宮司の目が、一瞬だけ私の首元へ落ちた。
「久世さん?」
真尋が眉を寄せ、私との間に入るように一歩前へ出た。
「……何ですか」
宮司はそんな真尋をちらりと見ると、再び私に目を向けた。
「……あんた、和食派か?」
「…………は?」
「食の好みは同じほうがええからな。真尋も和食派じゃろ」
「久世さん!」
「なんじゃ。大事なことじゃぞ」
「もういいですから。出ていってください」
「おい、押すな。年寄りは大事にせんか」
「元気でしょう、十分」
真尋はぶつぶつ言う宮司を廊下へ追いやると、ぴしゃりと戸を閉めた。
「……まったく」
「…………」
急に静かになった和室で、私は閉じた戸を見つめる。
「ねえ」
「はい?」
「さっき言ってた、プロポーズとか花畑って……なんのこと?」
「ああ……」
真尋は少しだけ間を置いた。
「僕の父が、母にプロポーズしたのが、秋桜の花畑の中なんです」
「……秋桜?」
ふと、あのアルバムの写真が頭に浮かぶ。
若い二人が並んでいた、桃色の花畑。
(……あの場所だったんだ)
大輪の花ではなく秋桜というのが、真尋のご両親のイメージにしっくりくる。
「……ロマンチックだね」
「……そうですね」
真尋が、かすかに笑った。
その笑顔は、少し寂しそうに見えて――
私はそれ以上、何も言えなくなった。


