体育館を出ると、少し離れたところで真尋が待っていた。
私は首筋の痣に意識を向けながら、歩き出す。
真尋も黙ってあとに続いた。
(こっち……? ううん、痛みが弱まった)
足を止め、反対へ向かう。
すると、痣がずきりと疼いた。
痛みが強くなるほうを辿っていくと、次第に人の姿が減っていく。
やがて、廊下の突き当たりまで来た。
いくつか並んだ扉の前を通り過ぎたところで、首筋に鋭い痛みが走る。
「……ここ」
足を止めたのは、廊下の突き当たりにある一枚の扉の前だった。
今日は使われていないのか、中から物音はしない。
真尋の表情が、わずかに険しくなる。
私は真尋と視線を交わし、そっと扉に手をかけた。
ゆっくりと開ける。
中は、机と椅子がいくつか並んだ小さな部屋だった。
そして、その奥に――ひとりの男子学生が立っている。
俯いたまま、ゆら、ゆら、と身体を揺らしていた。
その足元から、黒い影がゆっくりと這い出している。
真尋は私が中へ入ったのを確認すると、静かに扉を閉めた。
「……この人ですね」
ポケットから数珠を取り出し、左手に巻きつけた。
「みとさんは、ここにいてください」
そう言い残すと、真尋はひとり、男子学生のほうへ歩いていった。
「……何があったんですか」
「…………」
返事はない。男子学生は俯いたまま、ゆら、ゆら、と身体を揺らしている。
「あいつら……」
ぽつりと、声が漏れた。
「あいつら、俺のこと……」
私は扉のそばから、その様子をじっと見つめる。
(……小宮くんのときと違う)
男子学生は真尋が近づいても、こちらを見ようともしない。まるで、私たちの存在すら目に入っていないようだった。
真尋は左手の数珠を構える。
「……祓います」
その瞬間、男子学生の足元で黒い影が蠢いた。
真尋を敵と認めたかのように、床を這って一気に襲いかかる。
真尋は素早く身をかわす。
左手に巻いた数珠が、淡い光を帯びた。
その手をかざすと、影が弾かれるように大きく揺らぐ。
けれど、すぐに形を取り戻した。
影は天井近くまで伸び上がり、黒い腕を振り下ろす。
真尋はそれをかわし、迫る二本目を数珠で弾いた。
影が大きくのけぞる。
「迷えるものよ――」
その隙に真尋が唱え始める。
けれど、影はすぐさま身を起こし、再び黒い腕を伸ばした。
真尋は言葉を止め、咄嗟にそれをかわす。
(……唱えられないんだ)
攻撃はかわせても、祓うための言葉を最後まで紡ぐ隙がない。
私は腰のお守り袋に触れた。
(……これ、使えないかな)
中から札を一枚取り出す。
影の意識は、完全に真尋へ向いている。
私は札を握りしめたまま、そろそろと影の背後へ回り込んだ。
一歩、また一歩。
近づくほど、黒い影が大きく見える。
それでも足を止めず、あと少し――。
(よし……!)
思いきって腕を伸ばす。
「えいっ! 悪霊退散ーっ!!」
ぺしっ。
勢いよく、札を影に貼りつけた。
――次の瞬間。
札がまばゆい光を放つ。
「えっ」
黒い影が大きくのけぞった。
(き、効いた!?)
慌てて手を離そうとする。
「……あれ?」
離れない。
「ちょ、ちょっと待って……!」
札を押さえた右手が、影に吸いついたようにびくともしない。
「みとさん!?」
「手が離れない!」
影が激しく身をよじった。
「わ、わ、わっ……!」
引っ張られるまま身体が大きく揺れる。
次の瞬間、札がひときわ強い光を放った。
ぱっと手が離れた。
「わっ――!」
勢い余って身体が後ろへ傾く。
倒れる――。
そう思った瞬間、背中に腕が回った。
「……っ」
ぐい、と引き寄せられる。
気づけば、真尋の腕の中にいた。
真尋は右腕で私を支えたまま、すぐに影へ視線を戻す。 札を貼りつけられた影は、大きく身をよじったまま動きを止めていた。
真尋が左手を上げ、数珠を影へ向ける。
「迷えるものよ――執を離れ」
数珠が強い光を帯び、黒い影が大きく揺らいだ。
「――安らぎへ還れ」
ひときわ強い光が、影を包み込む。
その輪郭がゆっくりと崩れ、やがて霧が晴れるように消えていった。
同時に、男子学生も力が抜けたようにその場に座り込み、壁にもたれかかる。
「…………」
静寂が戻る。
「……また、無茶しましたね」
すぐそばから落ちてきた声に、ようやく自分が真尋にしがみついたままだったことに気づいた。
「……ごめん」
真尋の胸元から離れた途端、張りつめていた糸が切れたように力が抜けた。
その場にぺたんと座り込む。
「みとさん?」
真尋がわずかに身動ぎした。
「……あっ」
とっさに、その手首を掴んでいた。
「もうちょっとだけ……ここにいて」
真尋は一瞬、目を瞬かせたあと、ふっと表情を緩めた。
「行きませんよ」
そう言って、私の隣に腰を下ろす。
ふと、右腕の包帯に目がいった。
「……ごめん。さっき私を支えたから……傷、ひどくなってない?」
「大丈夫ですよ」
真尋が微笑む。
その顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「昨日は――」
「みとさん」
言葉を遮られ、顔を上げる。
「僕から言わせてください」
真尋はまっすぐに私を見ていた。
「昨日は、すみませんでした」
「…………」
「あなたに怒るようなことではなかったのに、あんな言い方をしてしまって」
「でも、私が――」
「『ヒーロー』という言葉が、苦手なんです」
思いがけない言葉に、口をつぐむ。
「……どうして?」
真尋は少しだけ視線を落とした。
「昔、両親に同じことを言ったことがあるんです」
「ご両親に……?」
「ええ。僕がまだ、小さかった頃です」
真尋の静かな声だけが、教室に響いた。
「二人とも妖を祓う仕事をしていました。僕にとっては、本当に強くて……何でもできる人たちに見えていたんでしょうね」
真尋がわずかに目を細める。
「ある日、山間の小さな集落から、手紙が届いたんです。近くの山に古い廃寺がある。そこへ入った者が、何人も戻ってこない。何とかしてほしい――そういう依頼でした」
「……」
「両親もその噂は知っていて、引き受けるべきか随分悩んでいたそうです。そのとき、僕が言ったんです。『村を救うなんて、すごい。ヒーローみたいだね』って」
嫌な予感がした。
「二人とも笑っていました。そして、その依頼を引き受けた。数日後、行ってくる、と言って――」
真尋の声が途切れた。
「それきり、帰ってきませんでした」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「だから、あの言葉を聞くと、どうしても思い出してしまうんです」
「……でも、それは真尋さんのせいじゃないよ。真尋さんが何を言っても、ご両親は自分たちで決めたんだと思う」
真尋は少しだけ目を伏せた。
「……ええ。僕も、そう思います」
静かな声だった。
「頭では、わかっているんですけどね」
何も言えなくなった。
小さかった真尋さん。両親が出ていったあと、どんなふうに待っていたんだろう。
「……真尋さん」
「とはいえ、もう昔のことです。みとさんは何も知らなかったんですから、気にしないでください」
「……ずっと、待ってたんだよね。ご両親が帰ってくるの」
真尋がこちらを見る。
一瞬だけ、その表情が止まった。
今日こそ帰ってくるかな、とか。
明日は帰ってくるかな、とか――。
どれほどの時間、両親を思って待ちわびたんだろう。
ぽたり、と膝に涙が落ちた。
「みとさん?」
真尋が困ったように眉を寄せる。
「いや、もう僕は大丈夫――」
「そうじゃなくて」
首を振った。
「子どもの真尋さんが……ずっと待ってたんだろうなって思ったら……悲しくて」
またひとつ、涙が頬を伝った。
真尋は何も言わず、ただじっと私を見ていた。
その視線から逃げるように俯く。
気づけば、すぐそばにあった真尋の右手に触れていた。
そのまま両手で包み、自分の膝の上へ乗せる。
大きくて、少し骨ばった手。
両手で包んでも、まだ余る。
離したほうがいいのかもしれない。
そう思うのに、指は動かなかった。
「……もう少し、このままでもいい?」
少しの間があった。
両手で包んだ真尋の指先が、私の手を包み返すように、かすかに動いた。
「……いいですよ」
真尋は、最後まで手を引こうとはしなかった。
私は首筋の痣に意識を向けながら、歩き出す。
真尋も黙ってあとに続いた。
(こっち……? ううん、痛みが弱まった)
足を止め、反対へ向かう。
すると、痣がずきりと疼いた。
痛みが強くなるほうを辿っていくと、次第に人の姿が減っていく。
やがて、廊下の突き当たりまで来た。
いくつか並んだ扉の前を通り過ぎたところで、首筋に鋭い痛みが走る。
「……ここ」
足を止めたのは、廊下の突き当たりにある一枚の扉の前だった。
今日は使われていないのか、中から物音はしない。
真尋の表情が、わずかに険しくなる。
私は真尋と視線を交わし、そっと扉に手をかけた。
ゆっくりと開ける。
中は、机と椅子がいくつか並んだ小さな部屋だった。
そして、その奥に――ひとりの男子学生が立っている。
俯いたまま、ゆら、ゆら、と身体を揺らしていた。
その足元から、黒い影がゆっくりと這い出している。
真尋は私が中へ入ったのを確認すると、静かに扉を閉めた。
「……この人ですね」
ポケットから数珠を取り出し、左手に巻きつけた。
「みとさんは、ここにいてください」
そう言い残すと、真尋はひとり、男子学生のほうへ歩いていった。
「……何があったんですか」
「…………」
返事はない。男子学生は俯いたまま、ゆら、ゆら、と身体を揺らしている。
「あいつら……」
ぽつりと、声が漏れた。
「あいつら、俺のこと……」
私は扉のそばから、その様子をじっと見つめる。
(……小宮くんのときと違う)
男子学生は真尋が近づいても、こちらを見ようともしない。まるで、私たちの存在すら目に入っていないようだった。
真尋は左手の数珠を構える。
「……祓います」
その瞬間、男子学生の足元で黒い影が蠢いた。
真尋を敵と認めたかのように、床を這って一気に襲いかかる。
真尋は素早く身をかわす。
左手に巻いた数珠が、淡い光を帯びた。
その手をかざすと、影が弾かれるように大きく揺らぐ。
けれど、すぐに形を取り戻した。
影は天井近くまで伸び上がり、黒い腕を振り下ろす。
真尋はそれをかわし、迫る二本目を数珠で弾いた。
影が大きくのけぞる。
「迷えるものよ――」
その隙に真尋が唱え始める。
けれど、影はすぐさま身を起こし、再び黒い腕を伸ばした。
真尋は言葉を止め、咄嗟にそれをかわす。
(……唱えられないんだ)
攻撃はかわせても、祓うための言葉を最後まで紡ぐ隙がない。
私は腰のお守り袋に触れた。
(……これ、使えないかな)
中から札を一枚取り出す。
影の意識は、完全に真尋へ向いている。
私は札を握りしめたまま、そろそろと影の背後へ回り込んだ。
一歩、また一歩。
近づくほど、黒い影が大きく見える。
それでも足を止めず、あと少し――。
(よし……!)
思いきって腕を伸ばす。
「えいっ! 悪霊退散ーっ!!」
ぺしっ。
勢いよく、札を影に貼りつけた。
――次の瞬間。
札がまばゆい光を放つ。
「えっ」
黒い影が大きくのけぞった。
(き、効いた!?)
慌てて手を離そうとする。
「……あれ?」
離れない。
「ちょ、ちょっと待って……!」
札を押さえた右手が、影に吸いついたようにびくともしない。
「みとさん!?」
「手が離れない!」
影が激しく身をよじった。
「わ、わ、わっ……!」
引っ張られるまま身体が大きく揺れる。
次の瞬間、札がひときわ強い光を放った。
ぱっと手が離れた。
「わっ――!」
勢い余って身体が後ろへ傾く。
倒れる――。
そう思った瞬間、背中に腕が回った。
「……っ」
ぐい、と引き寄せられる。
気づけば、真尋の腕の中にいた。
真尋は右腕で私を支えたまま、すぐに影へ視線を戻す。 札を貼りつけられた影は、大きく身をよじったまま動きを止めていた。
真尋が左手を上げ、数珠を影へ向ける。
「迷えるものよ――執を離れ」
数珠が強い光を帯び、黒い影が大きく揺らいだ。
「――安らぎへ還れ」
ひときわ強い光が、影を包み込む。
その輪郭がゆっくりと崩れ、やがて霧が晴れるように消えていった。
同時に、男子学生も力が抜けたようにその場に座り込み、壁にもたれかかる。
「…………」
静寂が戻る。
「……また、無茶しましたね」
すぐそばから落ちてきた声に、ようやく自分が真尋にしがみついたままだったことに気づいた。
「……ごめん」
真尋の胸元から離れた途端、張りつめていた糸が切れたように力が抜けた。
その場にぺたんと座り込む。
「みとさん?」
真尋がわずかに身動ぎした。
「……あっ」
とっさに、その手首を掴んでいた。
「もうちょっとだけ……ここにいて」
真尋は一瞬、目を瞬かせたあと、ふっと表情を緩めた。
「行きませんよ」
そう言って、私の隣に腰を下ろす。
ふと、右腕の包帯に目がいった。
「……ごめん。さっき私を支えたから……傷、ひどくなってない?」
「大丈夫ですよ」
真尋が微笑む。
その顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「昨日は――」
「みとさん」
言葉を遮られ、顔を上げる。
「僕から言わせてください」
真尋はまっすぐに私を見ていた。
「昨日は、すみませんでした」
「…………」
「あなたに怒るようなことではなかったのに、あんな言い方をしてしまって」
「でも、私が――」
「『ヒーロー』という言葉が、苦手なんです」
思いがけない言葉に、口をつぐむ。
「……どうして?」
真尋は少しだけ視線を落とした。
「昔、両親に同じことを言ったことがあるんです」
「ご両親に……?」
「ええ。僕がまだ、小さかった頃です」
真尋の静かな声だけが、教室に響いた。
「二人とも妖を祓う仕事をしていました。僕にとっては、本当に強くて……何でもできる人たちに見えていたんでしょうね」
真尋がわずかに目を細める。
「ある日、山間の小さな集落から、手紙が届いたんです。近くの山に古い廃寺がある。そこへ入った者が、何人も戻ってこない。何とかしてほしい――そういう依頼でした」
「……」
「両親もその噂は知っていて、引き受けるべきか随分悩んでいたそうです。そのとき、僕が言ったんです。『村を救うなんて、すごい。ヒーローみたいだね』って」
嫌な予感がした。
「二人とも笑っていました。そして、その依頼を引き受けた。数日後、行ってくる、と言って――」
真尋の声が途切れた。
「それきり、帰ってきませんでした」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「だから、あの言葉を聞くと、どうしても思い出してしまうんです」
「……でも、それは真尋さんのせいじゃないよ。真尋さんが何を言っても、ご両親は自分たちで決めたんだと思う」
真尋は少しだけ目を伏せた。
「……ええ。僕も、そう思います」
静かな声だった。
「頭では、わかっているんですけどね」
何も言えなくなった。
小さかった真尋さん。両親が出ていったあと、どんなふうに待っていたんだろう。
「……真尋さん」
「とはいえ、もう昔のことです。みとさんは何も知らなかったんですから、気にしないでください」
「……ずっと、待ってたんだよね。ご両親が帰ってくるの」
真尋がこちらを見る。
一瞬だけ、その表情が止まった。
今日こそ帰ってくるかな、とか。
明日は帰ってくるかな、とか――。
どれほどの時間、両親を思って待ちわびたんだろう。
ぽたり、と膝に涙が落ちた。
「みとさん?」
真尋が困ったように眉を寄せる。
「いや、もう僕は大丈夫――」
「そうじゃなくて」
首を振った。
「子どもの真尋さんが……ずっと待ってたんだろうなって思ったら……悲しくて」
またひとつ、涙が頬を伝った。
真尋は何も言わず、ただじっと私を見ていた。
その視線から逃げるように俯く。
気づけば、すぐそばにあった真尋の右手に触れていた。
そのまま両手で包み、自分の膝の上へ乗せる。
大きくて、少し骨ばった手。
両手で包んでも、まだ余る。
離したほうがいいのかもしれない。
そう思うのに、指は動かなかった。
「……もう少し、このままでもいい?」
少しの間があった。
両手で包んだ真尋の指先が、私の手を包み返すように、かすかに動いた。
「……いいですよ」
真尋は、最後まで手を引こうとはしなかった。


