「起きないと、全部食べちゃうよ〜?」
耳元で喋る、可愛らしいけれど無遠慮な声。
うっすらと目を開ける。けれど、追い打ちをかけるようにまた声がした。
「おいしい〜。あーあ。もうなくなっちゃうよ〜?」
(私の……食べないで……)
本能に促され、私はのろのろと手を伸ばす。
好きなゆるキャラ「つきぷく」の声に設定した、スマホのアラームだ。
6時半に鳴るようにしているけれど、スヌーズ機能をつけているので、今が何度目なのかはわからない。停止ボタンをタップして、時刻を確認する。
6時半――どうやら一度目だったらしい。
ほっとしながらLINEを開くと、なあ子からメッセージが届いていた。
『東都大のオープンキャンパス、充希が一緒に行かないかって。どうする?』
ぼんやりした頭で文字をゆっくり追っていき――最後まで読み終えた瞬間、眠気が吹き飛んだ。
(と、東都大ーーー!?)
真尋の通う大学だ。
お昼のチャイムが鳴り、私となあ子は席をくっつけて向かい合った。
なあ子が購買で買ったパンの袋を開ける。私もお弁当を広げたところで、さっそくなあ子が切り出した。
「来週の土曜日、楽しみだね」
「え?」
「ほら、東都大」
一瞬、どきりとした。
「……ああ、うん。そうだね」
もちろん、なあ子は私の知り合いが東都大にいることなんて知らない。私はなるべく平静を装った――つもりだった。
「ん〜? ラインでは『行く!』って食い気味だったのに。なによ、その落差は」
なあ子の目がすっと細くなる。
「べ、別に……あのときはちょっとテンション上がってただけ」
「朝六時に?」
訝しむなあ子に、返事に詰まる。私は慌てて話題を変えた。
「……それより、なんで充希が行きたがってるの? 東都大なんて、縁もゆかりもないじゃん」
お弁当から卵焼きをつまみ上げながら私が尋ねると、なあ子が呆れたように私を見た。
「……あんたはともかく、充希なら十分射程圏内でしょ。知らないの?」
「え?」
「充希、毎回学年5位以内には入ってるよ。模試でも東都大、わりといい判定出てたって」
「えぇっ!?」
驚いた拍子に、卵焼きを持った箸が止まる。
待って。理解が追いつかない。
(あいつ、そんな頭良かったの?)
「……おい。その驚き方、地味に失礼だな」
不意に背後から声がした。振り返るより早く箸の先がふっと軽くなり、目の前から卵焼きが消える。
「ちょっと! それ最後の一個だったのに!」
「ごちそうさま」
「いつからいたの!?」
「『朝六時に?』あたり?」
充希は悪びれもせず、空いている椅子を引き寄せて腰を下ろした。
私は充希を恨めしげに睨んだ。今日の卵焼きは白だしまで入れた、ちょっとした自信作だったのに。
けれど当の本人はどこ吹く風で、ふと私の足元へ視線を落とす。
「……お、つきぷくじゃん」
「え?」
充希の視線を追うと、鞄につけたマスコットが目に入った。
少し前に放送が終わったアニメのキャラクターで、知っている人も少なければグッズだってほとんどない。
「充希、知ってるの?」
「妹が好きで、よく一緒に見てた。俺も嫌いじゃない」
まさか充希とつきぷくの話ができるなんて。卵焼きの恨みも一瞬で消えた。
「可愛いよね! いつも売れ残りの大福食べて、ほっぺパンパンにしてるの」
「ああ。あいつ、だいたい食ってるよな」
「そうそう。ちょい役なのに、気づくと画面の端で何か食べててさ。1話ではインパクトある登場で笑ったけど、なんと最終回でも同じの食べてたの! それがまた――」
「好きすぎだろ」
充希がふはっと笑う。
「……にしてもさ」
やり取りを聞いていたなあ子が、充希に顔を向けた。
「なんでうちら誘ったの? 男子と行けばいいじゃん」
「誘ったよ。けど、みんな『東都は狙ってないから』って。小宮にも断られたし」
「小宮が? 珍しいね」
「だろ? あいつも東都狙ってるのに。最近なんか付き合い悪いんだよな」
充希の視線が、教室の隅へ向く。
つられてそちらを見ると、小宮は一人で机に向かい、スマホをいじっていた。
「で、男子が全滅したからうちら?」
「……まあ。お前らなら来そうだったし」
「雑だな」
なあ子が呆れたように言う。
そのとき、小宮の背中に、一瞬、黒い影のようなものが重なって見えた。
(……え?)
ぞくりと背中が粟立った。
思わず目を凝らしそうになり、真尋の言葉が脳裏によみがえる。
『見えても、見えないふりをしてください』
とっさに目をそらした。
「……みと?」
なあ子の声に、曖昧な笑みを返す。
「な、何でもない」
少ししてもう一度そっと視線を戻すと、小宮の背中から黒い影は消えていた。
(……見間違い?)
そう思った、そのときだった。
ふいに、小宮が顔を上げた。
目が合う。
(……っ)
小宮は何も言わず、じっとこちらを見ていた。
まさか――見てたの、気づかれた……?
帰宅して着替え、今日も少し早めに夕飯を済ませて寺へ向かう。
境内に入ると、夏の夕暮れの中、住職が箒を手に向こうから歩いてくるところだった。
「住職さん、こんにちは」
「おお。こんにちは、みとさん。昨日は邪魔してしまって申し訳なかった」
「え? 昨日……」
記憶を遡り――真尋に覆いかぶさったところを住職に見られた、あの瞬間が脳裏に蘇る。
途端、顔がかっと熱くなった。
「あ、あれは誤解ですってば!」
思わず大きな声を出してしまい、参拝者らしき人がこちらを見た。はっとして声を落とす。
「そ、それより掃き仕事、私がやるので、住職さんは休んでてください。私、鞄置いてきます!」
住職の返事も待たず、私は母屋に向かって走り出した。
(恥ずかしい。やっぱりそんな風に見られていたんだ……)
誤解されたことも恥ずかしいけれど、改めて真尋に申し訳ないと思った。彼にとっては迷惑でしかないだろう。
掃き仕事を終え、ひと汗かいたところで、住職がお茶にしようと声をかけてくれた。
「今日は私が入れます。住職さんは座っててください」
昨日一度使ったおかげで、急須や茶葉の場所はもうわかっている。
台所へ向かおうとすると、住職が感心したように目を細めた。
「おやおや。もうすっかり、うちの勝手を覚えましたな」
「昨日覚えたので。今日は住職さん、ゆっくりしててください」
「それはありがたいですな」
お茶を淹れて戻ると、住職は庭をぼんやりと眺めていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯呑みを住職の前に置き、私も腰を下ろす。
「何を見てたんですか?」
私が尋ねると、住職は庭の奥へ目を向けた。
「あれですよ」
視線を追う。池の向こう、木々に半分隠れるようにして、大きな石がいくつも重なっている場所があった。
「あれ?」
何度も庭には出ているのに、ちゃんと見たことがなかった。
よく見ると、大きな石と石の間に、ぽっかりと黒い隙間が開いている。
「……穴?」
「はは。そう見えますか」
「違うんですか?」
「あれも庭の一部なんですよ。石を組んで造った、小さな洞のようなものでしてね」
そんなものがあったんだ。
ここからだと、木の陰になっていてよく見えない。入り口は屈んでようやく通れそうなくらい低かった。
「中、入れるんですか?」
「ええ。入り口は狭いですが、中はもう少し広くなっていますよ」
住職は湯呑みを持ち上げ、懐かしそうに笑った。
「真尋は小さい頃、よくあそこに入っていましたよ」
「真尋さんが?」
意外だった。
今の真尋からは、庭の石の隙間に潜り込んで遊んでいる姿なんて、どうにも想像がつかない。
「ええ。姿が見えないと思えば、たいていあそこにいました」
「何してたんですか?」
「さあ」
住職は小さく首を傾げる。
「尋ねても教えてくれませんでしたからな」
「秘密基地みたいなものだったのかな」
「そうだったのかもしれません」
もう一度、石の洞を見る。
木漏れ日の下にある入り口は、ここからでは中まで見通せない。
「今でも入るんですか?」
「真尋がですか?」
「はい」
「いやあ……もう長いこと、入っているところは見ていませんな」
住職は少し考えてから、穏やかに続けた。
「いつの間にか、ぱたりと近づかなくなりました」
「……そうなんですね」
私は湯呑みに口をつけながら、もう一度そちらを見た。
苔のついた石。その奥に開いた、小さな暗がり。
真尋が小さい頃、よくいた場所。
いったい、中で何をしていたんだろう。
「……あの、入ってみてもいいですか?」
「ええ。構いませんよ」
住職が穏やかに頷く。
私は残っていたお茶を飲み干すと、立ち上がった。
耳元で喋る、可愛らしいけれど無遠慮な声。
うっすらと目を開ける。けれど、追い打ちをかけるようにまた声がした。
「おいしい〜。あーあ。もうなくなっちゃうよ〜?」
(私の……食べないで……)
本能に促され、私はのろのろと手を伸ばす。
好きなゆるキャラ「つきぷく」の声に設定した、スマホのアラームだ。
6時半に鳴るようにしているけれど、スヌーズ機能をつけているので、今が何度目なのかはわからない。停止ボタンをタップして、時刻を確認する。
6時半――どうやら一度目だったらしい。
ほっとしながらLINEを開くと、なあ子からメッセージが届いていた。
『東都大のオープンキャンパス、充希が一緒に行かないかって。どうする?』
ぼんやりした頭で文字をゆっくり追っていき――最後まで読み終えた瞬間、眠気が吹き飛んだ。
(と、東都大ーーー!?)
真尋の通う大学だ。
お昼のチャイムが鳴り、私となあ子は席をくっつけて向かい合った。
なあ子が購買で買ったパンの袋を開ける。私もお弁当を広げたところで、さっそくなあ子が切り出した。
「来週の土曜日、楽しみだね」
「え?」
「ほら、東都大」
一瞬、どきりとした。
「……ああ、うん。そうだね」
もちろん、なあ子は私の知り合いが東都大にいることなんて知らない。私はなるべく平静を装った――つもりだった。
「ん〜? ラインでは『行く!』って食い気味だったのに。なによ、その落差は」
なあ子の目がすっと細くなる。
「べ、別に……あのときはちょっとテンション上がってただけ」
「朝六時に?」
訝しむなあ子に、返事に詰まる。私は慌てて話題を変えた。
「……それより、なんで充希が行きたがってるの? 東都大なんて、縁もゆかりもないじゃん」
お弁当から卵焼きをつまみ上げながら私が尋ねると、なあ子が呆れたように私を見た。
「……あんたはともかく、充希なら十分射程圏内でしょ。知らないの?」
「え?」
「充希、毎回学年5位以内には入ってるよ。模試でも東都大、わりといい判定出てたって」
「えぇっ!?」
驚いた拍子に、卵焼きを持った箸が止まる。
待って。理解が追いつかない。
(あいつ、そんな頭良かったの?)
「……おい。その驚き方、地味に失礼だな」
不意に背後から声がした。振り返るより早く箸の先がふっと軽くなり、目の前から卵焼きが消える。
「ちょっと! それ最後の一個だったのに!」
「ごちそうさま」
「いつからいたの!?」
「『朝六時に?』あたり?」
充希は悪びれもせず、空いている椅子を引き寄せて腰を下ろした。
私は充希を恨めしげに睨んだ。今日の卵焼きは白だしまで入れた、ちょっとした自信作だったのに。
けれど当の本人はどこ吹く風で、ふと私の足元へ視線を落とす。
「……お、つきぷくじゃん」
「え?」
充希の視線を追うと、鞄につけたマスコットが目に入った。
少し前に放送が終わったアニメのキャラクターで、知っている人も少なければグッズだってほとんどない。
「充希、知ってるの?」
「妹が好きで、よく一緒に見てた。俺も嫌いじゃない」
まさか充希とつきぷくの話ができるなんて。卵焼きの恨みも一瞬で消えた。
「可愛いよね! いつも売れ残りの大福食べて、ほっぺパンパンにしてるの」
「ああ。あいつ、だいたい食ってるよな」
「そうそう。ちょい役なのに、気づくと画面の端で何か食べててさ。1話ではインパクトある登場で笑ったけど、なんと最終回でも同じの食べてたの! それがまた――」
「好きすぎだろ」
充希がふはっと笑う。
「……にしてもさ」
やり取りを聞いていたなあ子が、充希に顔を向けた。
「なんでうちら誘ったの? 男子と行けばいいじゃん」
「誘ったよ。けど、みんな『東都は狙ってないから』って。小宮にも断られたし」
「小宮が? 珍しいね」
「だろ? あいつも東都狙ってるのに。最近なんか付き合い悪いんだよな」
充希の視線が、教室の隅へ向く。
つられてそちらを見ると、小宮は一人で机に向かい、スマホをいじっていた。
「で、男子が全滅したからうちら?」
「……まあ。お前らなら来そうだったし」
「雑だな」
なあ子が呆れたように言う。
そのとき、小宮の背中に、一瞬、黒い影のようなものが重なって見えた。
(……え?)
ぞくりと背中が粟立った。
思わず目を凝らしそうになり、真尋の言葉が脳裏によみがえる。
『見えても、見えないふりをしてください』
とっさに目をそらした。
「……みと?」
なあ子の声に、曖昧な笑みを返す。
「な、何でもない」
少ししてもう一度そっと視線を戻すと、小宮の背中から黒い影は消えていた。
(……見間違い?)
そう思った、そのときだった。
ふいに、小宮が顔を上げた。
目が合う。
(……っ)
小宮は何も言わず、じっとこちらを見ていた。
まさか――見てたの、気づかれた……?
帰宅して着替え、今日も少し早めに夕飯を済ませて寺へ向かう。
境内に入ると、夏の夕暮れの中、住職が箒を手に向こうから歩いてくるところだった。
「住職さん、こんにちは」
「おお。こんにちは、みとさん。昨日は邪魔してしまって申し訳なかった」
「え? 昨日……」
記憶を遡り――真尋に覆いかぶさったところを住職に見られた、あの瞬間が脳裏に蘇る。
途端、顔がかっと熱くなった。
「あ、あれは誤解ですってば!」
思わず大きな声を出してしまい、参拝者らしき人がこちらを見た。はっとして声を落とす。
「そ、それより掃き仕事、私がやるので、住職さんは休んでてください。私、鞄置いてきます!」
住職の返事も待たず、私は母屋に向かって走り出した。
(恥ずかしい。やっぱりそんな風に見られていたんだ……)
誤解されたことも恥ずかしいけれど、改めて真尋に申し訳ないと思った。彼にとっては迷惑でしかないだろう。
掃き仕事を終え、ひと汗かいたところで、住職がお茶にしようと声をかけてくれた。
「今日は私が入れます。住職さんは座っててください」
昨日一度使ったおかげで、急須や茶葉の場所はもうわかっている。
台所へ向かおうとすると、住職が感心したように目を細めた。
「おやおや。もうすっかり、うちの勝手を覚えましたな」
「昨日覚えたので。今日は住職さん、ゆっくりしててください」
「それはありがたいですな」
お茶を淹れて戻ると、住職は庭をぼんやりと眺めていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯呑みを住職の前に置き、私も腰を下ろす。
「何を見てたんですか?」
私が尋ねると、住職は庭の奥へ目を向けた。
「あれですよ」
視線を追う。池の向こう、木々に半分隠れるようにして、大きな石がいくつも重なっている場所があった。
「あれ?」
何度も庭には出ているのに、ちゃんと見たことがなかった。
よく見ると、大きな石と石の間に、ぽっかりと黒い隙間が開いている。
「……穴?」
「はは。そう見えますか」
「違うんですか?」
「あれも庭の一部なんですよ。石を組んで造った、小さな洞のようなものでしてね」
そんなものがあったんだ。
ここからだと、木の陰になっていてよく見えない。入り口は屈んでようやく通れそうなくらい低かった。
「中、入れるんですか?」
「ええ。入り口は狭いですが、中はもう少し広くなっていますよ」
住職は湯呑みを持ち上げ、懐かしそうに笑った。
「真尋は小さい頃、よくあそこに入っていましたよ」
「真尋さんが?」
意外だった。
今の真尋からは、庭の石の隙間に潜り込んで遊んでいる姿なんて、どうにも想像がつかない。
「ええ。姿が見えないと思えば、たいていあそこにいました」
「何してたんですか?」
「さあ」
住職は小さく首を傾げる。
「尋ねても教えてくれませんでしたからな」
「秘密基地みたいなものだったのかな」
「そうだったのかもしれません」
もう一度、石の洞を見る。
木漏れ日の下にある入り口は、ここからでは中まで見通せない。
「今でも入るんですか?」
「真尋がですか?」
「はい」
「いやあ……もう長いこと、入っているところは見ていませんな」
住職は少し考えてから、穏やかに続けた。
「いつの間にか、ぱたりと近づかなくなりました」
「……そうなんですね」
私は湯呑みに口をつけながら、もう一度そちらを見た。
苔のついた石。その奥に開いた、小さな暗がり。
真尋が小さい頃、よくいた場所。
いったい、中で何をしていたんだろう。
「……あの、入ってみてもいいですか?」
「ええ。構いませんよ」
住職が穏やかに頷く。
私は残っていたお茶を飲み干すと、立ち上がった。


