玄関を開けて「ただいま」と声をかけるなり、母がリビングから顔を出した。
「みと。先生に渡してくれた? お母さんの連絡先」
「うん。渡したよ」
靴を脱ぎながら答え、そのまま母のあとについてリビングへ入る。リュックをソファに下ろしながら、付け加えた。
「でも、月謝はいらないって」
その瞬間、母の顔が険しくなった。 嫌な予感がした。
「……それでまさか、そうですかって言ったんじゃないでしょうね?」
「言ったよ。だって真尋さん――」
その代わり、寺の手伝いをしてほしいと言われたのだ。そう説明する間もなく、母の言葉が飛んできた。
「だから、世間知らずだって言うのよ」
母は呆れたように眉間を押さえた。
ほら。やっぱり。
わかってた。こうなることくらい。
それでも、胸の奥はちくりと痛んだ。
「大学生とはいえ、他人に勉強を教えてもらうのよ? 普通はお金を払うものでしょ。向こうがいらないって言ったからって、『はい、そうですか』で済ませる話じゃないの」
「でも、真尋さんが――」
「だったら、せめて『何かお礼をさせてください』くらい言うでしょう?」
「だから、その代わりに寺の手伝いを――」
「そういう問題じゃないの」
まただ。何を言っても、最後まで聞いてもらえない。
やっぱり、まともに話をするのは無理なんだ。
「向こうがいいって言ったからって、何でもそのまま受け取ってたら駄目でしょう。もう高校生なんだから、そのくらい自分で考えなさい」
「……考えてるよ」
「考えてないから言ってるんでしょう」
母は腕を組んだまま、ぴしゃりと言い切った。私は口をつぐむ。
別に、母の言っていることが全部間違っているとは思わない。
お金はいらないと言われて、そのまま帰ってきた私にも問題はあるのかもしれない。
でも。
「それに、せっかく教えていただくなら、うちでもしっかり勉強しなきゃね。みと、来年は受験だってわかってる?」
「わかってる」
「本当に? 配信だって、いつまで続けるつもりなの」
「……今、その話関係ないじゃん」
「関係あるでしょう。そうやって自分のやりたいことばっかり優先して――」
「だから、勉強するって言ってるじゃん!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。母が一瞬、目を見開く。
私も、それ以上何も言えなくなった。
「……もういい」
リュックを掴み、そのまま自分の部屋へ向かう。
「みと、話はまだ終わってないわよ」
背中から声が飛んできたけれど、振り返らなかった。
部屋に入り、ドアを閉める。
耳に痛いくらいの静けさが、今は何よりありがたい。
電気は付けないまま、ベッドに腰を下ろす。
ふと、さっきまでいた寺の客間が頭に浮かんだ。
畳の匂い。縁側から入ってくる風。ほうじ茶の香り。
それから――。
『足、汚れたでしょう』
濡れた手ぬぐいを差し出した、真尋の顔。ついさっきのことなのに、なぜかもう懐かしい気がした。
「…………」
ベッドにごろりと倒れ込む。
(ごめん、真尋さん。配信を続けたいこと話してみようと思ったけど、やっぱり無理だった……)
ふと、渡せなかったメモを思い出した。リュックからそれを取り出し、ぼんやりと見つめる。
藤代真尋、と書かれた下の番号。それは確かに、固定電話の番号だった。
「…………」
気がつくと、スマホを手にしていた。
(……次、いつ行けばいいか、聞いてなかったよね)
別に、今じゃなくてもいい。
明日になってから聞いたって、何も困らない。
それなのに。
メモに書かれた番号を、一つずつ入力していく。
数回の呼び出し音のあと、ふっと音が途切れた。
『はい、藤代です』
――耳に馴染む、低い声。
(あ……)
急に緊張して、すぐには声が出なかった。
『……もしもし?』
真尋の声に、はっとする。
「みとです」
『みとさん? どうしました?』
「あの……次、いつ行けばいいのかなって……さっき、聞くの忘れちゃったから」
『いつでも構いませんよ』
聞こえてきた声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「いつでも?」
『はい。夕方以降なら、だいたい寺にいますから』
「……そっか」
ほっとしたところで、ふとさっきの出来事を思い出す。
「でも、手紙の件は?」
『ああ、あの話はまだ彼女と話していないので、詳しいことは何も。ただ、みとさんが次に来られる予定がわかるのなら、そちらを優先しますよ』
「……優先?」
『はい』
特に深い意味なんてないのだろう。
それでも、なぜか少しだけ嬉しかった。
「じゃあ……明日でもいいの?」
『もちろんです』
「そっか。じゃあ、明日行く」
そこまで言って、母の言葉が頭をよぎった。
――向こうがいらないって言ったからって、『はい、そうですか』で済ませる話じゃないの。
「あのさ……お手伝いは? 何をすればいい?」
『そうですね』
真尋が少し考えるように間を置く。
そのわずかな沈黙に、胸がキュッとなった。
(……やっぱり、ただの気遣いだったのかな。本当はお金をもらうつもりだったんじゃ……)
『では、明日はお願いしてもいいですか?』
「え?」
『僕が大学から帰ってくるまでの間、住職を手伝ってもらえたら助かります』
「住職さんを?」
『はい。腰の調子があまり良くないので、境内の掃除をお願いしたいです』
「…………」
『みとさん?』
「あ、ううん。そっか……。うん、わかった」
よかった、ちゃんとあった。
私に頼もうと思っていたことが。
それだけで、胸につかえていたものが少し軽くなった。
『何かありましたか?』
「え?」
『さっきから、少し元気がないように聞こえます』
思わず黙り込む。
電話越しなのに。
どうして、こういうことには気づくんだろう。
「……なんでもない」
『そうですか』
真尋はそれ以上、追求しなかった。ほっとしたところで、ふと今日の配信のことを思い出した。
「……それにしても、悠斗さん、すごかったね」
『悠斗が?』
「うん。配信、いきなりだったのに、ちゃんと相談に乗ってたし。もしかして悠斗さんも、ああいうことやってるのかな」
『さあ……そういう話は聞いたことありませんが』
「じゃあ、素であれなんだ」
『悠斗は、ああいうところは器用なので』
「へえ。私より向いてたりして」
『どうでしょう。ただ――』
「?」
『みとさんには、みとさんの良さがあると思いますよ』
「私の?」
『はい。あれだけ真剣に、人の悩みに向き合っているんですから』
「そ、そんな大したことしてないって。小さい配信だし、見てくれてる人だって100人くらいだよ」
『……100人もいるんですか?』
「“も”って。そんな多くないよ」
『僕には十分多く感じます』
「……そっか」
暗闇の中、照れくささを誤魔化すようにスマホを持ち直す。
「でも、それなら真尋さんだって同じじゃん。いつも人の話聞いてるんでしょ?」
『そうですね。寺に来る方の話を聞くことはあります』
考えてみれば、やり方も相手も全然違うけれど、していることは似ているのかもしれない。
「私も真尋さんも、いつも聞く側なんだね」
『……そうですね』
「…………」
膝を抱え、ベッドの上で小さく丸くなる。
「でもさ……聞く側だって、誰かに話聞いてほしいとき、あるじゃん」
口にした途端、それが妙に自分のことのように聞こえた。
「もし……自分が誰かに話を聞いてほしいって思ったらさ」
一瞬、言葉に詰まる。
なんだか急に恥ずかしくなって、意味もなく布団の端を指でつまんだ。
「そのときは、お互いの話を聞くっていうのはどう?」
『…………』
予想していなかったのか、真尋は少しの間、黙っていた。
(やば。引かれた……?)
でも、もう言ってしまったものは仕方ない。
「……だめ?」
受話器の向こうで、真尋が小さく息を漏らした。笑ったようにも聞こえた。
『いえ。いいと思います』
落ちてきた声は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
「……そっか」
その言葉に、張りつめていた気持ちがほどけていく。
『では、明日。気を付けて来てくださいね』
「……うん。また明日」
通話を切ると、部屋に静けさが戻ってきた。
暗闇の中で、スマホの画面だけがぼんやりと青白く光っている。母と言い争ったときのもやもやは、いつの間にか薄れていた。
明日になれば、またあの静かな寺へ行ける。それだけで、今夜は救われた気がした。
布団を引き寄せると、ふと、焦げた便箋を見つめていた真尋の顔が浮かんだ。
(……私にも、何かできればいいのにな)
そんなことを考えながら、静かに目を閉じる。
枕元でピコン、とLINEの通知音が鳴ったけれど、重たい睡魔に勝てず、私はそのまま眠りに落ちていった。
そのLINEを見て、翌朝ベッドから飛び起きることになるとも知らずに。
「みと。先生に渡してくれた? お母さんの連絡先」
「うん。渡したよ」
靴を脱ぎながら答え、そのまま母のあとについてリビングへ入る。リュックをソファに下ろしながら、付け加えた。
「でも、月謝はいらないって」
その瞬間、母の顔が険しくなった。 嫌な予感がした。
「……それでまさか、そうですかって言ったんじゃないでしょうね?」
「言ったよ。だって真尋さん――」
その代わり、寺の手伝いをしてほしいと言われたのだ。そう説明する間もなく、母の言葉が飛んできた。
「だから、世間知らずだって言うのよ」
母は呆れたように眉間を押さえた。
ほら。やっぱり。
わかってた。こうなることくらい。
それでも、胸の奥はちくりと痛んだ。
「大学生とはいえ、他人に勉強を教えてもらうのよ? 普通はお金を払うものでしょ。向こうがいらないって言ったからって、『はい、そうですか』で済ませる話じゃないの」
「でも、真尋さんが――」
「だったら、せめて『何かお礼をさせてください』くらい言うでしょう?」
「だから、その代わりに寺の手伝いを――」
「そういう問題じゃないの」
まただ。何を言っても、最後まで聞いてもらえない。
やっぱり、まともに話をするのは無理なんだ。
「向こうがいいって言ったからって、何でもそのまま受け取ってたら駄目でしょう。もう高校生なんだから、そのくらい自分で考えなさい」
「……考えてるよ」
「考えてないから言ってるんでしょう」
母は腕を組んだまま、ぴしゃりと言い切った。私は口をつぐむ。
別に、母の言っていることが全部間違っているとは思わない。
お金はいらないと言われて、そのまま帰ってきた私にも問題はあるのかもしれない。
でも。
「それに、せっかく教えていただくなら、うちでもしっかり勉強しなきゃね。みと、来年は受験だってわかってる?」
「わかってる」
「本当に? 配信だって、いつまで続けるつもりなの」
「……今、その話関係ないじゃん」
「関係あるでしょう。そうやって自分のやりたいことばっかり優先して――」
「だから、勉強するって言ってるじゃん!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。母が一瞬、目を見開く。
私も、それ以上何も言えなくなった。
「……もういい」
リュックを掴み、そのまま自分の部屋へ向かう。
「みと、話はまだ終わってないわよ」
背中から声が飛んできたけれど、振り返らなかった。
部屋に入り、ドアを閉める。
耳に痛いくらいの静けさが、今は何よりありがたい。
電気は付けないまま、ベッドに腰を下ろす。
ふと、さっきまでいた寺の客間が頭に浮かんだ。
畳の匂い。縁側から入ってくる風。ほうじ茶の香り。
それから――。
『足、汚れたでしょう』
濡れた手ぬぐいを差し出した、真尋の顔。ついさっきのことなのに、なぜかもう懐かしい気がした。
「…………」
ベッドにごろりと倒れ込む。
(ごめん、真尋さん。配信を続けたいこと話してみようと思ったけど、やっぱり無理だった……)
ふと、渡せなかったメモを思い出した。リュックからそれを取り出し、ぼんやりと見つめる。
藤代真尋、と書かれた下の番号。それは確かに、固定電話の番号だった。
「…………」
気がつくと、スマホを手にしていた。
(……次、いつ行けばいいか、聞いてなかったよね)
別に、今じゃなくてもいい。
明日になってから聞いたって、何も困らない。
それなのに。
メモに書かれた番号を、一つずつ入力していく。
数回の呼び出し音のあと、ふっと音が途切れた。
『はい、藤代です』
――耳に馴染む、低い声。
(あ……)
急に緊張して、すぐには声が出なかった。
『……もしもし?』
真尋の声に、はっとする。
「みとです」
『みとさん? どうしました?』
「あの……次、いつ行けばいいのかなって……さっき、聞くの忘れちゃったから」
『いつでも構いませんよ』
聞こえてきた声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「いつでも?」
『はい。夕方以降なら、だいたい寺にいますから』
「……そっか」
ほっとしたところで、ふとさっきの出来事を思い出す。
「でも、手紙の件は?」
『ああ、あの話はまだ彼女と話していないので、詳しいことは何も。ただ、みとさんが次に来られる予定がわかるのなら、そちらを優先しますよ』
「……優先?」
『はい』
特に深い意味なんてないのだろう。
それでも、なぜか少しだけ嬉しかった。
「じゃあ……明日でもいいの?」
『もちろんです』
「そっか。じゃあ、明日行く」
そこまで言って、母の言葉が頭をよぎった。
――向こうがいらないって言ったからって、『はい、そうですか』で済ませる話じゃないの。
「あのさ……お手伝いは? 何をすればいい?」
『そうですね』
真尋が少し考えるように間を置く。
そのわずかな沈黙に、胸がキュッとなった。
(……やっぱり、ただの気遣いだったのかな。本当はお金をもらうつもりだったんじゃ……)
『では、明日はお願いしてもいいですか?』
「え?」
『僕が大学から帰ってくるまでの間、住職を手伝ってもらえたら助かります』
「住職さんを?」
『はい。腰の調子があまり良くないので、境内の掃除をお願いしたいです』
「…………」
『みとさん?』
「あ、ううん。そっか……。うん、わかった」
よかった、ちゃんとあった。
私に頼もうと思っていたことが。
それだけで、胸につかえていたものが少し軽くなった。
『何かありましたか?』
「え?」
『さっきから、少し元気がないように聞こえます』
思わず黙り込む。
電話越しなのに。
どうして、こういうことには気づくんだろう。
「……なんでもない」
『そうですか』
真尋はそれ以上、追求しなかった。ほっとしたところで、ふと今日の配信のことを思い出した。
「……それにしても、悠斗さん、すごかったね」
『悠斗が?』
「うん。配信、いきなりだったのに、ちゃんと相談に乗ってたし。もしかして悠斗さんも、ああいうことやってるのかな」
『さあ……そういう話は聞いたことありませんが』
「じゃあ、素であれなんだ」
『悠斗は、ああいうところは器用なので』
「へえ。私より向いてたりして」
『どうでしょう。ただ――』
「?」
『みとさんには、みとさんの良さがあると思いますよ』
「私の?」
『はい。あれだけ真剣に、人の悩みに向き合っているんですから』
「そ、そんな大したことしてないって。小さい配信だし、見てくれてる人だって100人くらいだよ」
『……100人もいるんですか?』
「“も”って。そんな多くないよ」
『僕には十分多く感じます』
「……そっか」
暗闇の中、照れくささを誤魔化すようにスマホを持ち直す。
「でも、それなら真尋さんだって同じじゃん。いつも人の話聞いてるんでしょ?」
『そうですね。寺に来る方の話を聞くことはあります』
考えてみれば、やり方も相手も全然違うけれど、していることは似ているのかもしれない。
「私も真尋さんも、いつも聞く側なんだね」
『……そうですね』
「…………」
膝を抱え、ベッドの上で小さく丸くなる。
「でもさ……聞く側だって、誰かに話聞いてほしいとき、あるじゃん」
口にした途端、それが妙に自分のことのように聞こえた。
「もし……自分が誰かに話を聞いてほしいって思ったらさ」
一瞬、言葉に詰まる。
なんだか急に恥ずかしくなって、意味もなく布団の端を指でつまんだ。
「そのときは、お互いの話を聞くっていうのはどう?」
『…………』
予想していなかったのか、真尋は少しの間、黙っていた。
(やば。引かれた……?)
でも、もう言ってしまったものは仕方ない。
「……だめ?」
受話器の向こうで、真尋が小さく息を漏らした。笑ったようにも聞こえた。
『いえ。いいと思います』
落ちてきた声は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
「……そっか」
その言葉に、張りつめていた気持ちがほどけていく。
『では、明日。気を付けて来てくださいね』
「……うん。また明日」
通話を切ると、部屋に静けさが戻ってきた。
暗闇の中で、スマホの画面だけがぼんやりと青白く光っている。母と言い争ったときのもやもやは、いつの間にか薄れていた。
明日になれば、またあの静かな寺へ行ける。それだけで、今夜は救われた気がした。
布団を引き寄せると、ふと、焦げた便箋を見つめていた真尋の顔が浮かんだ。
(……私にも、何かできればいいのにな)
そんなことを考えながら、静かに目を閉じる。
枕元でピコン、とLINEの通知音が鳴ったけれど、重たい睡魔に勝てず、私はそのまま眠りに落ちていった。
そのLINEを見て、翌朝ベッドから飛び起きることになるとも知らずに。


