窓の外からセミの鳴き声が聞こえる。
気だるい4限目の数学の授業。黒板を叩くチョークの音だけが、やけに大きく響いていた。
「……ねえ」
そんな静けさに溶け込むような、それより小さな声で黎が俺に話しかけた。
「なに」
俺も同じように声を落として、ただ前を見て返事だけする。
「教科書見して?」
「……いまさら言う?」
ちなみにいまは4限目に入ってから30分は経っている。最初の20分間、よく教科書なしで授業受けてたな。
「見せてよ」
俺のワイシャツの袖を小さく引っ張りながら、また黎が小さな声で呟いた。
窓際の一番後ろの席は、教壇にいる先生からは一番見えにくい死角だ。
ため息をひとつついて、俺は自分の机を黎の机へと少しだけ引き寄せ、その真ん中に教科書を置いた。
「ありがと」
黎が嬉しそうに、俺を覗き込むようにして顔を近づけてくる。その拍子に、昨日と同じシトラスの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
……なるほど。これが百戦錬磨のモテ男のやり口か。
学校での黎は、俺のいるグループとは違う、クラスで一番目立つイケメン共のグループにいる。
女子からの人気はエグいし、男子からは「女を食い散らかしてるチャラ男」なんて陰口を叩かれているくらいだ。
実際、黎とよく一緒にいる3組の真中なんかは、毎週違う女子と遊んでいるらしい。
なのに、なんでこいつは俺の隣にいるときだけ、こんなに無防備で昔と変わらない『幼馴染みの黎』のままなんだろうか。
「ねえ」
教科書に視線を落としたまま、黎がまた耳元で囁くような声を出した。
「放課後、そのまま一緒に帰ろ?」
甘えてねだるような声で、黎は俺をたぶらかそうとしてくる。
そうやってしおらしくすれば、俺が折れると思ってる。こいつのいつものやり口だ。
「……無理。俺、今日はちょっと遊び誘われてるから」
そう言った瞬間、教科書をめくろうとした黎の長い指先が、ピタッと止まった。
気のせいか、教科書の端を掴む指に少しだけ力がこもったようにも見える。
「ふーん……。誰と?」
一段低くなった黎の声。
うわ、急に不機嫌かよ。
ていうか、俺が誰と遊んだって自由でしょうが!
「……誰って、足立と渡邊」
こちらもむすっとしながら、いつも一緒にいる男友達の名前を述べた。
すると腑に落ちたように、黎はふっと鼻で笑う。
「……ああ、春の取り巻きね」
「ちょっ、おま、取り巻き言うな! あと、名前! 呼び方!」
「じゃあ略して春巻き」
「それは違うだろが!」
こそこそと交わされるこのやり取りが周りに聞こえてやしないかと、この席になってからは毎度ひやひやする。
「ふっ、おもしろ」
焦る俺を見て小さく笑う黎だけはいつもと変わらない調子で、本当に嫌になる。
小さく咳払いして、わざと声を低くした。
「……城崎、なんもおもしろくない。やめて」
冷たく言い放ってはみたが、それが黎に効いてるのかは不明だ。
──約1年前、俺と黎の共同生活、いわゆる同居が始まった。
理由は、俺の母親と黎の父親がまあいい関係になったから。
俺らのほんとの両親は、不仲で離婚している。
なんで結婚じゃなく事実婚を選んだのかは、聞いてない。きっと親たちなりの、大人の事情ってやつなんだろう。
俺も大人だし?
物分かりがいいつもりだし?
……なにより母さんがそれで幸せなら、別になんでもいいんだ。
でも、それとこれとは問題が別で。
『百戦錬磨の黎』と同居してるなんて知られたら、これまでの平和な生活が終わることは目に見えている。
俺だって、最近彼女ができた足立みたいに、かわいーい彼女がほしい!
黎なんかに流されないような、芯が強くて、俺のことを大好きになってくれる彼女が。
だから!
黎と仲がいいとか、ましてや同居してるなんて絶対にバレたくないのだ──。
◇
黎と机をくっつけていたのはせいぜい20分程度のはずなのに、すごく長く感じた。
ことあるごとにちょっかいをかけてくる黎のおかげで、授業の後半は全っ然集中できなかった。
数学苦手なのに。クソ!
この見た目で頭までいいと来たもんだから、余計に腹が立つ!
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、先生が教室を出て行くのと入れ替わるように、3組の真中が教室に入ってくるのが見えた。
緩く着崩した制服に、いかにも今どきの明るい茶髪。めちゃくちゃ校則違反だけど、その悪っぽい感じが逆に女子にはウケるのか?
黎とはまた違うベクトルの、派手なイケメンだ。
「城崎~、昼飯行こーぜ」
真中は気だるげに歩いてくると、黎の肩に馴れ馴れしく手を置いた。
かと思ったら、その真中の視線は俺たちのくっつけられた机へと向く。
「隣、西瀬だったっけ? なんで机くっつけてんの?」
嘲笑するように唇を歪ませた真中の値踏みするような視線が、じっとりと俺に注がれる。
うわ、こいつめっちゃ嫌なやつじゃん!
黎より格下の俺を見下すような態度にモヤりつつも、「バレないか?」が常々心配な俺の心臓は嫌な音を立てている。
なんて答えようか考えていると、黎が静かに立ち上がり、真中を俺の視界から遮るようにして身体を間に割り込ませた。
「ただ俺が教科書忘れて見せてもらっただけ。ありがとね。……真中、飯行こ」
そうして俺が一切口を挟む暇もなく、黎は真中の肩を組んでそのまま教室を出ていった。
俺の前では、へらへらしててどこか掴めない男。
だけど学校ではクールで、いまみたいにさりげなく助けたりする気概はあるやつ。
……ふたりのときは、ちょいちょい俺のこといじってくるくせに。
こちらを一瞥もせず、俺から見えるのは黎の広い背中だけだ。
……なんなんだよ、ほんと。
黎がなにを考えているのか、さっぱりわからない。
大方俺をおちょくりたいだけだろうけど、なんにしてもあの一軍のノリにはついていけない。
まあ、一応助けてくれたことには感謝するけど!
「あー、購買まじで戦場だったわー。西瀬、頼まれてた焼きそばパン!」
俺のもやもやを吹き飛ばすようにバタバタと足音を響かせながら、足立と渡邊がお弁当や購買の袋を持って戻ってきた。
軽く投げられた焼きそばパンを空中でキャッチし、その焼きそばパンをまじまじと見る。
これが噂の焼きそばパン……!
毎週月曜日、たった10個しか売られないこの焼きそばパンは、毎回激しい争奪戦になる。
俺は窓際の席だし、ダッシュしても一階に教室がある3年や廊下側の席のやつらにはスピードで敵わない。
今回、足立がダッシュで行ってくれたのだ。
神様、仏様、足立様!
まじで感謝、恩に着る!
「まっっっじでサンキュ! これ食ってみたかったんだよなー!」
さっそく袋を破いて、ソースのいい匂いが漂うパンに思い切りかぶりつく。
……美味い!
炭水化物×炭水化物の暴力、まじで最高っ!
さっきまで黎が座っていた隣の椅子に足立がドカッと座り、前の席から椅子だけ奪って渡邊も同じ机で弁当を広げた。
「戦場だった! けど、手に入ってよかったわー」
「そういや西瀬、放課後急だけど3組の女子も来ることになったわ! プチ合コンな」
「うっそ、まじ? 誰来んの?」
「俺の彼女とー、彼女の親友の小牧さんとー、あとは室戸」
「ほーん。いいじゃん。ってか足立、しれっと彼女誘いやがって、このー!」
「いーだろ。お前らにも早く紹介したかったんだよ」
彼女のことを思い浮かべているのか鼻の下を伸ばして照れ臭そうに笑う足立に、渡邊が「はいはいごちそうさま」と弁当の卵焼きを口に放り込んだ。
「いいなー。俺も今日こそは可愛い彼女つくってやるからな!」
「それ毎回言ってね? でも、まじで彼女はいいぞー。誰狙い? 小牧? 室戸?」
「ふたりのことよく知らないのに、どっちか決めてるわけないだろ! とにかく俺は小さくて可憐で、こう……俺のことを真っ直ぐ大好きになってくれるような女の子がいいの!」
必死にそう宣言しながらふと頭をよぎったのは、儚げでいつもいじめられて泣いていた、小さな女の子みたいだった子供の頃の黎で。
いまのデカくて生意気で何を考えているのかさっぱり分からない幼馴染の黎までなぜか思い出しちゃって、慌ててぶんぶんと頭を振って追い出した。
「……とにかく! あの一軍チャラ男共に流されないような、芯のある子が理想!」
俺が熱く語ると「なるほどな」とふたりは深く頷いた。
「まじそれな。真中とか城崎みたいな奴らに持ってかれたら、俺ら勝ち目ねえし」
渡邊が「まあ、がんばれよ」と俺の肩をぽんと叩く。
「西瀬、任せとけ。放課後はこの足立様がばっちりアシストしてやるから!」
胸を叩く足立のなんと頼もしく見えることか。
「サンキュー! ほんとのほんとーに頼んだぞ!」
焼きそばパンの最後のひとかけらを口に放り込み、足立の肩をがしっと組んだ。
──絶対に、今日こそは普通の幸せを掴み取ってやる。
そんな決意を胸に秘めたまま、放課後のプチ合コンへのカウントダウンが始まった。



