『……とにかく、前みたいにはできない』
あの日から、黎の言葉が頭のど真ん中にずっといる。
友達とか、普通とか。
黎が言った言葉の意味を、何度も考えていた。
気付けば、長かった夏休みも終わりに近づいていた。
いつも通り、朝になると黎が俺のあとに起きてくる。
「おはよう」
「おはよ」
……挨拶はする。
別に、会話がないわけじゃない。
無視も、されてない。
たぶん、友達ならこれくらいが普通なんだと思う。
……これからは、これが俺たちの『普通』になるのか?
『俺にどうしてほしいの?』
あの時の黎の言葉は、ことあるごとに浮かんでくる。
「……黎、課題終わった?」
「うん」
「そっか……」
いままでなら何往復もしていた会話のラリーも、黎からのちょっかいがなければ二言くらいで終わってしまう。
「……今日は、どっか出かけんの?」
「今日はどこも行かないよ」
「そっか……」
『春は?』って聞かれるのを、期待してる俺がいる。
「……俺も今日は、家にいる予定」
「そう」
黎はそれ以上なにも言わず、ぼーっとテレビを見始めた。
……こんなだったっけ、俺と黎って。
「ふたりとも、だらだらするのもいいけど、宿題はもう終わってるの? もうすぐ新学期始まるんだから、夜更かしばっかりしてないで、生活リズムも元に戻すのよ」
食事の支度をしていた母さんが、キッチンから俺らに声をかけた。
……学校が始まるまで、あと数日だ。
ちらりと黎の後ろ姿に目を向ける。
このまま学校が始まったら、俺らはどうなるんだろう。
学校じゃ、もともとずっと一緒にいるわけじゃない。
黎には黎の友達がいて、俺には俺の友達がいる。
それは変わらない。
なのに。
いまみたいに、黎から話しかけてこなくなったら……。
教科書を忘れても、見せてなんて言わない。
帰りに勝手に待ってることも、きっとなくなるんだろう。
全部別に、『友達じゃなくなる』ってほどのことじゃない。
でも……それが普通になるのか?
俺にとっての普通って、そもそもなんだったんだろう。
『春』
黎が、俺をそう呼ぶこと。
約束なんてしてないのに、帰りに勝手に待ってること。
飯を作れば、つまみ食いに来ること。
やたら距離が近いこと。
余計なことまで口を挟んでくること。
……俺にとっては、あれが普通だったんじゃないか?
また、黎の言葉が頭をよぎる。
『……とにかく、前みたいにはできない』
俺は、どうしたいんだろう。
……前みたいに戻りたい。
前みたいに、名前を呼ばれて。
くだらないことで笑ったり怒ったり、言い合って。
勝手に、俺の隣に居座って。
そういう毎日に戻りたい。
……だけど、黎は前みたいにはできないと言った。
『……俺には、意味があるからだよ』
あの言葉の意味を、俺はまだわかってない。
わかってないのに、前みたいにしてほしいなんて、言っていいんだろうか。
前みたいに戻りたいと思うのは本当だ。
でも黎ができないって言うなら、無理に戻したくはない。
それでも、このままは嫌だ――。
◇
母さんが買い物に出かけて、リビングには俺と黎だけになった。
「……黎」
「なに?」
テレビを見ていた黎が振り向く。
俺はソファまで歩いていって、少し隙間を開けて隣に腰を下ろした。
「この前の話なんだけど」
「……前みたいにはできないって話? その話だったら、」
「違う、そうじゃなくて」
言いかけた黎を遮ったくせに、その先の言葉がすぐには出てこない。
それでも、黎から目を逸らさなかった。
「……俺、黎とこのままなのはやだ」
「……え?」
黎が、少しだけ目を見開いた。
「……俺、黎に言われていろいろ考えた。で、やっぱり前みたいに戻りたいって思った」
「……」
「でも、おまえが前みたいにできないって言うなら、無理にそうしてほしいわけでもない」
「じゃあ、なんなの?」
「……わかんない」
自分でも、情けない答えだと思う。
「おまえがなに考えてんのかも、あの『意味』がなんなのかも、まだわかんないけど」
「……」
「わかんないまま、勝手に離れてかれんのだけはやだ」
自分なりに、ちゃんと気持ちを伝えたつもりだ。
黎は、なにも言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見ている。
「はあー……ほんと、春ってさあ……」
黎は両手で顔を隠して、大きなため息をついた。
「……それ、ずるくない?」
「……なにが?」
「春が友達だって言ったから、俺はそうしようとしてるんだけど」
「え、俺ら友達だろ?」
え、違うのか?
もしかして、俺はそこから間違ってる?
「……そりゃ、友達だよ」
「……なら、前みたいにはできないの?」
「できないよ」
「なんで」
「だから、意味があるって言ったじゃん」
意味……。
そういえば、黎が変わったのはいつからだった?
そうだ、あの夜。
ふたりでドラマを見て、そのとき――。
無意識に、自分の唇に手を持っていった。
「……あの時のこと?」
黎が止まった。
「……あれ、冗談じゃなかったの?」
「……冗談であんなことしないよ」
その言葉の意味を考えているうちに、黎がぽつりと呟いた。
「……好きなやつに『友達だろ』って言われて普通にできるほど、俺は人間できてない」
……え?
好きなやつって言った? いま。
「……誰が?」
「俺が」
「誰を?」
「春を」
「……俺?」
「他に誰がいるんだよ」
「……ちなみにそれは友達として?」
「ここまでくればわかるでしょ、春でも」
黎の言葉を頭の中で噛み砕く。
つまり黎は、恋愛として俺が好き。
……そういうことか?
頭の中でそう言い直してみても、やっぱりすぐには理解できない。
「……春は? どう思った?」
「わかんない……」
「またそれ?」
「しょうがないだろ! いま初めて知ったんだから!」
思わず声を荒げると、黎が困ったように息を吐いた。
黎が俺を好き。
しかも、友達としてじゃなく。
何度頭の中で繰り返しても、まだ上手く馴染まない。
それなのに、不思議と嫌じゃない。
「俺、ずっと普通の恋愛をしたいと思ってた」
「うん、知ってる」
「……でも、終わるのが嫌なんだよ」
黎が黙って、俺の言葉を待っている。
「友達なら、ずっと一緒にいられると思ってた」
「……」
「恋愛は、いつか終わるかもしれないだろ」
俺は、傷ついた母さんをずっと近くで見てきた。
だからずっと、恋愛するなら──。
「俺、終わりのない恋愛を、見つけたいんだ」
黎が黙った。
自分でも、そんなものが本当にあるのかはわからない。
それでも、いつか終わるかもしれないと思いながら誰かと付き合うのは、怖かった。
「春は、俺だと終わると思ってるの?」
静かな声だった。
俺は、黎を見る。
少し前の俺なら、そんなことを聞かれても意味がわからなかったと思う。
でもいまは、黎がどんな気持ちでそう聞いたのか、少しだけわかる気がする。
「……黎とは、終わりがある関係でいたくないから」
黎が息を呑んだ。
俺、そんなに変なこと言ったかな。
「……それ、殺し文句だって、気付いてる?」
「なにがよ」
「……ほんと、そういうとこだよ」
黎は前髪をくしゃっと握った。
「俺、前みたいに戻りたいって言ったけど」
「うん」
「前と同じじゃなくても、いいのかもしれない」
言ってみてから、自分でも少し驚いた。
だって……。
「友達じゃなくなるわけじゃないんだろ? 俺ら」
「え?」
「黎、さっき言ってたじゃん。友達だって」
だったら、別に。
俺がただ……。
「黎といられたら、それでいいや」
「……それ、期待していいやつ?」
「なにを?」
「だからほんと、春ってさあ……」
困ったように黎が笑う。
それは、どこか嬉しそうで、幸せそうで。
ああ、久しぶりにちゃんと黎の顔を見たなって思った。



