「ここどうやって解くのー?」
「初日数学とか、終わったわー」
テストがもう明日に迫っていた。
教室内は、休み時間も放課後も自主勉しているやつが多い。
俺ももちろん机に向かっている。
だけど、問題文を読んでもなかなか頭に入ってこない。
理由はもちろん……黎のことだ。
普通ってなんだっけ?
そんなふうに思うレベルで、黎と自然に話せなくなった。
「おはよう」と言えば、「おはよう」と返ってくる。
「飯食う?」って聞けば、「食べる」って返事をしてくれる。
でも、前ならくだらないことでいちいち絡んできた黎が、ずっと静かだ。
ちらりと、横目で黎を見る。
ああ、また。
もうこうやって何度も、黎の方を目で追っている自分がいる。
だけど、一度だって目が合うことはない。
黎はいつも通り友達と話したり、ひとりでぼーっとしたり。
俺が知っている黎と、なにも変わっていないように見える。
……それなのに、俺の前でだけは違う。
頭をぶんぶんと横に振った。
いや、いまは明日のテストのことだけ考えるべきだ。
俺はまた、問題集に視線を落とした。
◇
家に帰ってからも、俺は問題集を開いていた。
自分の部屋だと漫画やらゲームやら誘惑がたくさんあるから、リビングのテーブルに教科書を広げている。
そして、向かいには俺と同じように黎も座って勉強している。
いつもなら、分からないところがあれば黎に聞いている。
でも今日は、なかなか声をかけられない。
……別に、ただ聞くだけなのに。
ちらりと顔を上げる。
黎は黙々と問題を解いている。
「……黎」
普通に、平然と。
いや、意識してる時点でもうそれは破綻してるんだけど。
俺が呼ぶと、黎は小さく顔を上げた。
「なに?」
たったそれだけの言葉に、俺は少しだけ傷ついていた。
黎、やっぱり俺の名前を呼ばない。
「……ここ、わかんなくて」
俺は問題集を黎の方に向けた。
黎は少し身を乗り出して、俺が指差した問題を見る。
「これは、こっちを先に代入するといいよ」
「あ、そっか」
「うん」
そう言うと黎は、また自分が解いていた問題に向き直った。
『こんなのもわかんないの?』
『しょうがないな、教えてあげよっか?』
前だったら、俺をからかいながら笑って、それでもきっと優しく教えてくれたんだ。
別に、黎はなにも変わらない。
わからないとこはちゃんと教えてくれる。
無視されてるわけじゃない。
怒っているようにも見えない。
ただ、俺の名前を呼ばなくなっただけ。
前は会話ひとつするのに、こんなに気を遣ったりしなかった。
「……ありがと」
黎は小さく頷くだけだった。
俺も問題集に視線を戻す。
だけど、さっきよりも問題文が頭に入ってこなくなった。
◇
すべてのテストの採点が終わり、順位表が手渡された。
俺の順位は──学年19位。
前回よりも順位はほんの少し下がったけど、集中できてなかった割によくできてた方だと思う。
「西瀬、学年19位!? すごっ!」
「いや、でも前回より下がったわー」
「嫌味か!? 俺らなんて後ろから数えた方が早いわ!」
俺の席に集まった足立と渡邊と、順位表を見せ合いながらあーだこーだ言い合う。
「そういえば、小春ちゃんとはどうなってんの?」
「西瀬、普通にスペック高いしいけるんじゃね?」
「なにが普通だよ!」
「だって、頭もそこそこいいし、顔だってそこそこだし」
そこそこって!
言い方よ!
けど、そう言われて悪い気はしない。
「それに、西瀬料理めっちゃうまいじゃん? 去年の泊まりの時の飯、まじで超うまかったわー」
ああ、そんなこともあったっけ。
「まじで西瀬、いい彼氏になりそうじゃね!?」
カツーン。
足立と渡邊が俺を囃し立てていると、俺の足元にシャーペンが転がってくる。
……黎のだ。
「城崎、これ落とした」
俺は拾ったシャーペンを、黎の机の端っこに置く。
「……ありがと」
ほんの一瞬だけ、黎と目が合った。
だけど、すぐに逸らされてしまう。
そのとき、「おーい、城崎ぃ」と騒々しい声とともに、前方のドアから真中が入ってくる。
真中はこちらの方にずんずん歩いてきて、黎の順位表を少し強引に覗き込んだ。
「31位~? いっつも1桁なのにどうしちゃったわけ?」
──え?
黎が31位?
真中の声は相変わらず大きくて、聞き耳を立ててたわけじゃないのにはっきり聞こえた。
思わず、黎の机の上に投げ出されている順位表を見る。
……ほんとだ。
そこには確かに、31という数字が書かれている。
黎はいつも1桁だ。
俺よりずっと頭がよくて、前回だって5位だった。
俺に勉強を教えてくれた黎が、31位……?
「別に、そういうときくらいあるでしょ」
「いやいや、城崎が31って大事件だろ~」
ふたりは笑いながら話してるけど……。
もしかして黎も俺と同じで、ほんとは集中できてなかったのかな。
「足立くーん!」
そのとき、教室のドアの影から、足立の彼女の凛さんが手を振ってきた。
その隣には、室戸さんと小牧さんもいる。
「お! 凛じゃん!」
足立が嬉しそうに立ち上がって、ぶんぶんと手を振る。
……見えない尻尾が見える。
3人はそのまま教室に入ってきて、俺の席の周りは大所帯になった。
「西瀬くん、久しぶりー。渡邊くんも!」
「久しぶりー。カラオケ以来?」
俺も小さく手を振りながら答えた。
「あ、城崎くんと真中くんもいる! 久しぶりだねー!」
小牧さんが無邪気に笑った。
「おっす、久々~」
「久しぶり」
真中と黎も、口々に答えた。
気付けば、俺と黎の机を中心にでっかい輪ができていた。
……なんかこのメンツ見覚えあるな。
あ、カラオケに行ったときのメンバーじゃん!
「足立くんはテストどうだった?」
「聞くな、凛」
「え、なにその反応」
カップルふたりはいちゃいちゃしてる。
すかさず渡邊が「こいつ、後ろから数えた方が早いんだってさ」と、バラした!
「おい、言うなよ! てか、おまえもだろ、渡邊!」
女子たちは足立と渡邊のやり取りに、ケラケラと笑い声をこぼしている。
「西瀬くんは? どうだった? テスト」
室戸さんがにこやかに俺に話しかけてくれる。
間髪を入れずに答えたのは足立だった。
「西瀬19位! すごくね?」
「えっ、上位だね!」
「だろ? 西瀬顔もそこそこいいし、料理もできるし、いい彼氏になるよなってさっき話してたとこ」
足立がまた余計な一言を口走る。
「だーから、そこそこ言うな!」
「西瀬くんって、なんか出会い求めてる的なこと言ってたもんね! 足立くんから聞いたけど、5組の彩葉ちゃんといい感じって聞いたよ!」
そこで凛さんがぶっ込んでくる。
小牧さんと室戸さんも、興味津々で身を乗り出した。
「彩葉ちゃんって、西瀬くんの好みのタイプにばっちりだよね! ね、そう思わない?」
小牧さんが室戸さんに同意を求める。
「わかる! 前に小さくて守ってあげたくなるような子がいいって言ってたよね?」
「あー……うん」
答えたあと、なんとなく隣を見る。
黎は俺らの会話を聞いているのかいないのか、机の上の順位表に視線を落としたままだった。
「じゃあ、いい感じなんだ!?」
「LINEとかしてるの?」
小牧さん、室戸さんから矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
女子はやっぱり好きなんだなー、恋バナ。
「んー、まあLINEはしてる」
「えー!! もしかして足立×凛カップルの次は、西瀬くん×彩葉ちゃんカップル誕生しちゃう!?」
キャーなんて聞こえてきそうな勢いで、小牧さんと室戸さんは盛り上がっている。
「いやいや、まだそんなんじゃないって」
「まだってことは、可能性あるじゃん!?」
「そういう意味じゃなくて!」
こういうときの女子の食いつき、すご!
当事者より盛り上がってるし。
「でも、彩葉ちゃんかわいいって思うんでしょ?」
「それは……まあ」
「ほらあー!」
またふたりが盛り上がる。
小春ちゃんがかわいいのは本当だ。
小さくて、素直で、一緒にいて話しやすい。
俺がずっと思い描いてた『理想の女の子』に近いのも、間違ってないと思う。
「付き合えたら、嬉しい?」
「えっ」
室戸さんにふいに聞かれて、言葉に詰まった。
一瞬考えてから、口を開く。
「……まあ、そりゃ嬉しいけどさ」
「キャー!!」
今度こそほんとに悲鳴が聞こえた。
その横で、結局、黎は一度も会話に入ってこなかった。
◇
それから数日が過ぎて終業式も終わり、教室内は解放感で溢れていた。
すっかり夏休み特有の浮ついた空気に包まれている。
部活だ、旅行だ、夏祭りだ。
そんな話ばかりがあちこちから聞こえてきて、窓の外ではうるさいくらいに蝉が鳴いていた。
俺も待ちに待った夏休みを満喫する――なんて意気込んでたところだ、いつもなら。
なのに今年は、周りほど浮かれた気持ちにはなれなかった。
黎との間にできた微妙な距離だけは、相変わらずだった。
教室からもぼちぼち人が減り始め、俺も帰るかと鞄を手に取ろうとした時だった。
「西瀬くん」
教室のドアの向こうから、小春ちゃんが俺を呼んだ。
「どうしたの?」
そのまま鞄を手に、小春ちゃんへ駆け寄った。
「……あの、ちょっとふたりで話したくて。時間、あるかな?」
小春ちゃんは普段より少しだけ顔を強張らせながらも、口元には小さく笑みを浮かべている。
「うん、時間はあるけど」
俺がそう答えると、小春ちゃんはあからさまにほっとしたような顔で俺を見上げた。
「よかった。じゃあ……、ちょっと来てくれる?」
「う、うん」
小春ちゃんに促されて、廊下を一緒に歩いていく。
教室を出る時になんとなく後ろを振り返った。
黎は、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
ふたりで昇降口へ降りて、外へ出る。
終業式を終えた午後。
学校からは生徒がどんどん出ていって、もう人はまばらだ。
校舎の陰になったこの場所には、蝉の鳴き声と、部活組の声だけが遠くから聞こえてくる。
「ごめんね、暑いのに」
「いや、全然。それより、話って?」
立ち止まって小春ちゃんを見る。
緊張した面持ちで、その薄ピンクの唇が動いた。
「本当は、もっと仲良くなってから、と思ってたんだけど。夏休みになったら、学校で会えなくなっちゃうから。その前に、ちゃんと言っておきたくて」
小春ちゃんが、一度だけ小さく息を吸った。
「……私、西瀬くんのことが、好き」
「え?」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
だけど、じわじわと言葉の意味が頭に入ってくる。
小春ちゃんが、俺を?
本当に?
そんなの、嬉しくないわけがない。
「びっくりした、よね?」
「あ、いや……うん」
「ふふ、だよね」
そう言って笑ったあと、小春ちゃんは少しだけ視線を落とした。
「それで……もし、西瀬くんが嫌じゃなかったら」
小春ちゃんは、またまっすぐに俺を見る。
「私と、付き合ってほしい」
――付き合う。
小春ちゃんと、俺が。
本当に?
このかわいい子が、俺の彼女になる?
ずっと欲しかった普通の幸せが、今日こそ掴めるかもしれない。
それなら――。
「俺……」
口を開いた、その時だった。
なぜか、黎の顔が浮かんだ。
……なんでいま、黎の顔が浮かぶんだよ。
「……」
「……やっぱり、まだ早かったかな」
「え?」
「ごめん。困らせちゃったよね」
小春ちゃんはちょっと困ったように笑った。
「いや、違う。ほんとに嬉しくて、俺。でも……」
小春ちゃんから告白されて嬉しいのは本当だ。
嘘じゃない。
でも……。
その後に続く言葉が出てこない。
「聞いてくれて、ありがとう」
小春ちゃんはそう言って、今度はいつものように笑った。
「でも、言えてよかった」
「……小春ちゃん」
「じゃあ、またね。西瀬くん」
「うん……また」
小春ちゃんは俺に手を振って、校門の方へ歩いていった。
その背中が見えなくなっても、俺はしばらくその場から動けなかった。
嬉しかった。
本当に、嬉しかったのに。
――なんであの時、黎の顔が浮かんだんだろう。



