「おはよ」
「……おはよ」
今日は土曜日。
珍しくなんの用事もない俺は、家でゆっくりしていた。
と言っても早起きはしていて、朝から仕事へ行く母さんと父さんに簡単な朝食を作って、たったいま送り出したところだった。
匂いにつられたのか、いつもはもっと遅くまで寝ている黎も起きてきた。
……ひとまず、昨日のことは気にしないことにした。
そう決めたのに、黎に触れられた唇が気になって、なかなか寝付けなかったけど。
「朝飯作ったけど、黎も食べる?」
作ったのは、ベーコンエッグとコンソメスープ。
とりあえず俺は一旦すべて忘れたことにして、いつも通りに話しかける。
「……うん」
黎もいつも通り、に見える。
内心ほっとしながら、俺は冷めかけたスープを温めるためにまた台所に立った。
「じゃあ、準備するから座ってて」
俺は黎に背を向けてスープを温め直して、もう焼いていたベーコンエッグは自分用に避けて、黎に新しいものを焼き始める。
時間にしたら、たった数分。
「できたよ——」
出来立てのベーコンエッグを手に、振り返る。
いつも通り、のはずだった。
黎は、父さんの席についている。
……いつもなら、俺の向かいに座るのに。
いや、席なんて別にどこでもいい。
父さんの席だって、いまは空いてるんだから。
そう思った。
なのに、その日はなんとなく落ち着かなかった。
それからも、黎はいつも通りだった。
話しかければ普通に返事をするし、飯も食う。
なのに、なぜか俺の近くには来ない。
その小さな違和感は、次の日も消えなかった。
日曜日の夜になっても、黎との距離は変わらないままだった。
「なんなんだ……?」
思わず漏れ出た独り言は、夜の空気に溶けていった。
結局、俺はその理由が分からないまま眠りについた。
◇
授業中、変にちょっかいをかけてこない。
そもそもこっちを見もしない。
よく忘れるくせに今日はちゃんと教科書持ってきてるし。
……いや、それは普段からちゃんとしてほしいけど。
とにかく、黎が変だ。
放課後になった。
普段ならなんだかんだ一緒に帰ろうとしてくるのに、今日はさっさと教室をひとりで出て行った。
窓から下を眺めると、ちょうど黎が校門を通っていくところだった。
黎の姿が見えなくなるまで、なんとなく窓の外を眺める。
「……西瀬くん、あの」
すると、後ろから突然声をかけられた。
「何度もごめんね。週末のこと……どうかなって話してたけど、LINE来なかったから」
「あ……っ」
すっかり忘れてた。
「ご、ごめん!」
「ううん。そうじゃなくて……」
小春ちゃんは言いながら、慌てて首を横に振った。
「具合悪いのかなとか、何かあったのかなって心配してただけだから。気にしないでっ」
「……そっか」
そう言われて、ますます申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
だって、週末の予定を決めるどころか、小春ちゃんに連絡することすら頭から抜け落ちていた。
……なんでだろう。
土曜日からずっと、黎の態度が気になっている。
ちらりと視線だけ、黎の机の方に向ける。
いつもだったら、そこにはまだ黎がいて──。
「西瀬くん、なんか元気ない……?」
小春ちゃんが俺の顔を覗き込んで、心配そうに聞いてきた。
「え? そう?」
「うん。さっきから窓の外、ずっと見てたから」
「……あ」
「なに見てたの?」
「…………」
そう言われてハッと気が付いた。
何を見てたって……、黎だ。
その答えが頭に浮かんで、俺は少しだけ戸惑った。
小春ちゃんは困ったように少しだけ笑って、さっきまでの俺と同じように窓から外を見下ろした。
「城崎くん、今日は先に帰ったんだね」
「え……うん」
「……喧嘩、したの? 城崎くんと」
「喧嘩……」
そう言われて、あのときのことが頭をよぎった。
黎の、少しだけ冷たい指先。
唇に触れた、あの優しい手つき。
それから。
『そうだね。友達、だもんね……』
「してない、と思う……」
そう答えた声は掠れていて、自分で思っていたより小さかった。
「そっか……」
小春ちゃんはそれ以上、何も聞かなかった。
「でも、」
「ん?」
「城崎くんって、いつも西瀬くんのところにいるでしょ?」
「……そう、だっけ」
「うん。席が隣だからなのかな、と思ってたけど。休み時間とか、帰るときもたまに一緒、だよね? 城崎くんって、ひとりでいることが多いイメージだったから……」
「……」
言われてみれば、そうだった。
それが当たり前すぎて、考えたこともなかった。
「だから、今日はちょっと珍しいなと思って」
「そう、かな」
俺にとっては、普通のことだった。
黎が隣にいることも。
変なちょっかいをかけてくることも。
一緒に、帰ることも。
いつの間にかそれが、当たり前になっていた。
……なのに。
今日、黎がいないだけで、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。
小春ちゃんはそんな俺を見て、「遊ぶのは、また今度にしよっか。テスト、がんばろうね」と手を振って教室を出ていった。
俺も鞄を持ち、人がまばらになった教室を出る。
いつもの帰り道を、ひとりで歩いていく。
家に着いて玄関を開けると、先に帰ったと思っていた黎の靴はまだなかった。
それからしばらくしても、家には誰の気配もないまま。
夕飯の時間を過ぎて、時計が20時を指しても、黎は帰ってこなかった。
LINEを開いて、文字を打っては消す。
『いまどこ?』
そう聞くだけのはずなのに、結局できずに時間だけ過ぎていった。
次に玄関のドアが開いたのは、母さんと父さんが帰ってきたとき。
そのすぐあと、黎はやっと帰ってきた。



