あの夜を経て、俺たちの三日間にわたる冷戦はあっけなく幕を閉じた。
翌日からはまた、学校では隣の席の「ただのクラスメイト」として、つかず離れずの距離を保つ平穏な日常に戻る──はずだったのだ。
あの放課後が訪れるまでは。
◇
帰りのホームルームを告げるチャイムが鳴り、担任が教室を出ていった直後のことだった。
ザワザワとした教室の前方のドアから、ひょっこりと顔を出した女の子がいた。
5組の、小春ちゃんだ。
小さくて可憐な、まさに俺の理想を形にしたような女の子。
小春ちゃんを見かけたのは、あのスポッチャ以来だ。
誰かに用事でもあるのか?
……いや、この前黎のことばっか見てたし、大方黎目当てだろう。
そもそも小春ちゃんは、俺が一緒にスポッチャにいたことすらも知らなさそうだ。
思っていた通り、小春ちゃんは黎のもとへ真っ直ぐに歩いてくる。
真っ赤な顔できょどきょどしながらも、一切立ち止まらずに。
その健気で可愛い姿に、クラスの男子たちの視線が一斉に集まった。
やっぱ一軍のモテ男は違うわー。
なんて、他人事のように机の上の教科書を片付けていると、小春ちゃんが俺の机の前でピタッと足を止めた。
「あ、あの……! 西瀬、くん……っ」
「……へ?」
急に呼ばれた自分の名前に驚き、反射的に顔を上げる。
そこには、今にも破裂しそうなほど顔を真っ赤に染め上げた小春ちゃんがいた。
目をそらさず、じっと俺を見つめている。
「……え、俺?」
まじで?
黎じゃなく?
まじで俺なの?
「あの、この前のスポッチャ、すごく楽しかったから……。もしよかったら、また今度みんなで遊びに行かないかな、って……!」
小春ちゃんは小さな手をきゅっと握りしめ、真っ赤な顔のままさらに言葉を紡いだ。
まっ、まじでー!?
てか、隣に黎もいるのに、なんで俺!?
いや、そんなことはどうでもいい!
バンザイ、俺!
ビバ青春!
「まじ? 俺もすげー楽しかったから、誘ってくれて嬉しいわ!」
心の中で軽く小躍りしている自分を戒め、平然を装ってみる。
内心はまじでガッツポーズ。
俺の言葉に小春ちゃんはにっこり笑って、「ほんとに? よかった、うれしー!」なんて手をパチパチと小さく叩く。
仕草、可愛すぎか!
「どうする? いつにする? 今日はいきなりすぎ?」
小春ちゃんの言動に浮かれに浮かれた俺は、矢継ぎ早に質問する。
もうここまで来たら、早く遊びたい!
なのに、浮かれた俺に水を差してくる男がいた。
「今日は無理なんじゃない? 家の用事あるって言ってたじゃん」
窓際の、隣に座っている黎だ。
「はあ!? なに言ってんだ、そんな用事ない──」
「あるでしょ。朝自分で言ってたじゃん。『今日は母さんいないから、俺が夜飯作らないと』って。だから早く帰んなきゃなんじゃないの?」
「あ……っ!」
やべー。そうだった、忘れてた。
今日は母さんがいないから、俺が作るよって言ってたんだった!
「ごめん! 今日は無理だった! 別の日にしよ!?」
手を勢いよく顔の前で合わせて謝ると、小春ちゃんはぶんぶんと顔を振った。
「全然いいの……! あの、それじゃあ予定とか立てたいから、LINE教えてくれる……?」
「はっ、LINE……! もちろん!」
「あ、ありがとう! ごめんね。この間のグループLINEから勝手に登録しちゃおうかとも思ったんだけど、なんかそれも気持ち悪いかなって思って」
小春ちゃんはそう言うけど、小春ちゃんだったら全然ウェルカムなんだけど!
でも、そういう律儀なところも素敵だ……っ!
いそいそとポケットからスマホを取り出して、お互いのQRコードを読み取る。
俺のスマホの友達リストには、新たに『小春彩葉』という名前が加わった。
まじか!
ついに俺のLINEに、小春ちゃんの名前が……!
そして、俺的新事実発覚。
小春って、名前じゃなかったんだ!
いろはって名前も小春ちゃんに合っててかわいいけど、普通にみんなが『小春ちゃん』って言うから、てっきり名前だと思ってた。
そのとき、ポコンとLINEの通知が画面で光った。
『いろはです。よろしくお願いします』
シンプルな文章のあと、ハートを抱えたかうさぎのかわいい『よろしくね』スタンプも送られてきている。
びっくりして小春ちゃんを見ると、はにかみながら笑うその目と、ばっちり視線が絡み合う。
「えへへ、送ってみちゃった」
照れ臭そうに笑うその姿がかわいすぎて、もうほんとに悶える。
俺も真似して『西瀬です。よろしくー!』なんて送ってみた。
最近気に入って使っているゴリラの変なスタンプも添えて。
「ふふっ、なにこのスタンプ!」
「うけるっしょ? 最近のお気に入り!」
「わたしも買ってみようかな?」
調子に乗ってさらに浮かれた言葉を口にしようとした、その瞬間だった。
「ちなみに、その集まりって俺も行っていいんだよね? 前のメンバー全員で集まる感じでしょ?」
うげっ。いたんだった、こいつ。
完全に小春ちゃんとの世界に入り込んでいたせいで、すぐ隣にモンスターが鎮座していることを失念していた。
ぐぎぎ、と首を動かして黎の方を見る。
こっわ!
口許は柔和な笑み!
目は全然笑ってない!
こわっ!!
そんなに俺が誘われたことが、プライドとして許せないんか!?
まさか一軍トップの黎から「行っていい?」と言われると思っていなかっただろう小春ちゃんは、完全に圧倒されている。
「あ、えっと、城崎くんも……?」
「うん。俺も楽しかったし。だめ?」
黎は机に頬杖をついたまま、いつも通りのへらへらした笑顔を浮かべている。
だけど、その瞳の奥にある強烈な光に、俺の背筋はぞわぞわと粟立つ。
「も、もちろんだよ。みんなで行こうね」
言いながら視線を泳がせた小春ちゃんは、黎の放つ目には見えない圧力に耐えかねたように、「じゃ、じゃあまたLINEするねっ」と、嵐のように教室を去っていった。
あーあ。行っちゃった……。
でも、またLINEするって!
あー、まじで俺モテ期到来かも!?
夏休み前に彼女できちゃう感じ!?
そのとき、隣から冷ややかな視線を感じてそちらを見る。
「……」
こっわ。
なんでこいつがモテんの?
めちゃくちゃ冷たい目をした黎が、俺を静かに見つめていた。
◇
機嫌が悪すぎる。
誰のって?
黎の。
母さんがいないから、約束通り俺が夕飯を作っているけど、キッチンから見える黎の後ろ姿はやっぱりまだ変わらないままだった。
あのあと、黎は鞄を乱暴に持つと、不機嫌オーラを全身から撒き散らしながら、ひとり教室を出ていった。
一方俺はというと、クラスの男子から「なに、小春ちゃんって西瀬狙い!?」とか「西瀬にもついに春がくるか~!? 春樹だけに!」なんてからかわれた。
内心では「そうかも!?」なんて浮かれてたけど、「いやいや、ただ単に俺になら話しやすかっただけじゃね?」っていう複雑な心境ではある。
だって、隣には黎がいる。
これまでだって、ずーっと黎にいいところを奪われてきたんだ。
帰り道、家まであと10分というところで、黎を見つけた。
ただ電信柱に寄りかかって立っているだけなのに絵になってて、それはそれはムカついた。
こんな暑いなか待ってたんかい。
と思いつつ、黎に近づくと向こうも俺に気付いて、そのうち並んで歩き始めた。
帰り道もずっと無言。
別にこっちから話すこともないし、無言で歩き続けて家に着いた。
黎が何にキレているのかさっぱり分からないまま、俺たちは家へと帰ってきたのだった。
……もしかして、黎は小春ちゃん狙いだった?
これまで特定の彼女がいる様子はなかったけど、小春ちゃんが黎にとってそういう相手だったのかもしれない、という考えは否定できない。
でも、こればかりは俺も譲れない!
いや、俺の勘違いだったらめっちゃはずいけど。
どうして黎の機嫌がこんなに悪いのか、ほんとの理由はわからないけど。
こんなに機嫌が悪いのもすごく珍しいから、俺は夕飯に“あるもの”を作ろうと決めていた。
名付けて、『ご機嫌取り大作戦』だ──。
「……できたよ」
俺は言いながら、できあがった夕飯をダイニングテーブルに並べていく。
匂いでわかっていたのか、黎はしばらく前からちょっとそわそわしていて、見てて内心ウケた。
返事はないけど、俺が声をかけると立ち上がり、いつものようにカトラリーやコップをそれぞれの席に準備してくれる。
向かい合わせの席について黎を見ると、むっとしているのに目はずーっと机の上に注がれていて、まるで小さい子どもみたいだ。
「はい、これ黎の」
作ったのはオムライス。
もちろん卵はふわとろで、なんと今回はハンバーグまで焼いてやった。
これを作れば、いくら機嫌が悪くたって、少しは毒気が抜けるはずだ。
黎は「……いただきます」とボソッと呟くと、さっそくオムライスを口に運んだ。
その瞬間、むっとしていた顔が分かりやすく、ふにゃりと緩む。
よし、作戦大成功だ!
やっぱり、こいつはどれだけデカくなっても、俺にとってはあの頃の弱虫なれいちゃんのままだ。
◇
──そして、その日の夜。
ご機嫌取りも無事に終えて風呂にも入り、リビングのソファに寝転がった俺は、小春ちゃんから届くLINEにニヤニヤしながら返信を打っていた。
例のゴリラのスタンプを返すと、すぐに『ふふ、やっぱりおもしろい』と可愛い返信がくる。
猫やうさぎなどの小動物が好きなようで、必ずかわいいスタンプも送ってくれる。
楽しすぎる……!
これぞまさに、俺が夢にまで見た青春だ。
ふと、トーク画面の上部に表示されている彼女のフルネームが目に入り、俺はなんとなく声を漏らした。
「みんなが『小春ちゃん』って呼ぶから名前だと思ってたけど、苗字だったんだなあ……」
昼間の「黎が小春ちゃんを狙っているのかも」という一抹の不安をかき消すように、何気なく呟いた、その瞬間だった。
「小春ちゃんみたいな子と付き合いたいって言ってたけど、フルネーム知らなかったんだ?」
「うおっ!? って、またおまえかよ! びっくりさせんな!」
慌ててスマホを隠すように胸に抱え込んで、起き上がる。
その空いたスペースに、黎はしれっと座ってきた。
風呂上がりのせいで、いまはシトラスの匂いはしない。
いつも綺麗にセットされている髪もいまは濡れて、普段より幼く見える。
低く冷ややかな声で、黎はまた俺の耳元を打った。
「本当に好きだったら、フルネームくらい最初から知ってるんじゃない? 春が欲しいのってその子じゃなくて、ただの『理想の彼女』って条件だけなんじゃないの?」
言われた瞬間、どきりと心臓が音を立てた。
きっと、図星を突かれたからだ。
「……っ、んなわけねえだろ!」
それを誤魔化すように俺は顔を真っ赤にして声を荒らげ、言い訳混じりに言い返した。
「これから付き合っていくうちに、どんどん好きになっていけばいいんだよ! 相手のことだって、付き合ってから知ることなんてたくさんあるだろ! てか、おまえには関係ないじゃん!」
いや、まず小春ちゃんが俺を好きと決まったわけじゃないんだけど。
でもなんか、言い返さずにはいられなかった。
「ふーん……」
黎は濡れた髪の隙間から、冷たく据わった瞳で俺をじっと見つめてくる。
やっぱり、オムライスを食べてふにゃりと緩んでいたさっきの黎とは訳が違う。
目が、本気だ。
「……関係、なくないし」
黎は小さく、ぽつりと呟いた。
「え?」
黎はそれ以上何も言わずにソファから立ち上がり、自室へと戻っていった。
あとに残されたのは、黎の濡れた髪から移った、微かなシャンプーの匂いだけ。
俺と、おんなじ匂い。
──関係、なくない。
黎のその言葉の意味を、俺はまだ、何も分かっていなかった。



