【完結】初恋めおと日記~結婚初夜に旦那さまから「愛人を作ってください」と云われまして~

 ほおずき市は七月九日から十日の四万(しまん)六千日――この日に参拝すると四万六千日お参りしたぶんのご利益があるという、とてもとても()()な日のことです――の縁日にかけて浅草寺に立つ市です。
 夜までやっていますが、仕事から帰ってきてからではあわただしいということで九日の日曜の夜にいこうという話になりました。

 双龍さまにどこかへいこうと誘っていただいたのはこれがはじめてです。
 またどこかに連れていってくださいね、とお約束したことを覚えていてくださったのでしょう。浮きたつような気持ちで私は当日着ていく着物をえらびました。

 どうか雨が降りませんように、と毎日願っていたのが効いたのでしょうか。当日はからりとした晴天でした。通りにでて空を見上げても雨雲の気配はありません。

「楽しみですね、双龍さま」

 朝ご飯を食べながら双龍さまにそう話しかけると、ええ、と彼も顔をほころばせました。

「そんなに待ちきれないようなら朝からでかけてもかまいませんよ」
「いえ、せっかくですもの。夜のほうが風情があるでしょう?」

 それに、と私は云いそえます。「あとにとっておけば、今日いちにちわくわくしながら過ごせますから」

 しかし、なにかを待つ時間は長いものです。お友達へのお手紙を書いたり繕いものをしたりしていてもちっとも時間が進まず、そのもどかしさといったら、柱時計の針を進めてしまおうかしらと真剣に悩むほどでした。

 それでもすこしずつ日が暮れていきます。
 東の空が藍色に染まるころ、書斎でお仕事をされていた双龍さまがでてきて「初音さん、そろそろでかけましょうか」と微笑みました。

「いいのですか?」
「もう待ちきれないでしょう」

「そんなことはありません……」と一応云ってみましたが、双龍さまとのおでかけに童女のように浮かれてしまっているのはほんとうです。先に玄関に行っていますよ、と藍染の浴衣姿で彼は云いました。

 この浴衣を仕立てて以来、ほぼ毎日双龍さまは着ていらっしゃいます。よっぽど着心地がいいのかと思うと嬉しいです。
 そのうちもう一枚縫ってさしあげましょう、と思いながら私は自分の鏡台に座って髪が乱れていないかたしかめました。

 迷いに迷って浴衣は白地に浅葱色の流水紋、髪は外巻きにして朝顔の花かんざしをつけました。
 こんな出かける間際になってほんとうにこの柄でよかったのかしら、かんざしもべつのものにしたほうが、と悩んでしまうのを双龍さまを待たせてはいけないとなんとか断ちきり、私は玄関に向かいました。

「お待たせしました、双龍さま」

 手でひさしを作ってまぶしそうに太陽のほうを見ていた双龍さまは、私を見て「いえ、……」となにか云いかけました。私は首をかしげます。

「どうかなさいました?」
「……いえ。不思議な髪形だと思いまして」

 私はにこりと笑います。「外巻きというのです。まず髪を二本の三つ編みにして、それを根元で交差させて、頭に沿わせながら上に持っていって……」と手で再現します。「最後に、こうです」

「こう?」
「はい、こうです」

 双龍さまは私の手つきを真似して首をひねりました。「……世の中には解明できないことが山ほどありますが、俺にとっては女性の髪形もそのひとつです」と大真面目な顔で云います。

 私は彼が女性の髪形を研究しているところを想像してくすくす笑いました。


「双龍さまの学生時代のお話、聞いてみたいです」

 浅草寺に向けて歩きだしながら私がつと水を向けると、双龍さまは苦笑しました。

「俺はいまとなにも変わっていませんよ。本さえあればいつまでも机に向かっていられて、融通が利かないところがあって、女性が苦手で……」
「英語の先生を志されたのはなぜですか?」
「尋常小学校のときの先生がとてもよいひとだったからですね。父は自分のように官僚にするつもりだったのですが、押しきってしまいました。英語教師になったのは偶々英語の成績がよかったからにすぎません」
「偶々、なんて。双龍さまはとても努力される方ですもの。努力の成果でしょう?」

 休みの日でも彼が洋書を紐解いていることを思いだしながら云うと、「……そう云ってくださるのは初音さんだけです」と彼はくすぐったそうに頭を掻きました。

「ですがたしかに、英語の理解を深めれば海外の好きな作家の書を読むときに困らないと思って勉強にいそしんだのはたしかです。小さなころに日本語に訳されたディケンズの『クリスマス・キャロル』を読み、これを原文で読んでみたい、と思いました。それがはじまりですね。
 英語から日本語に訳すとき、直で訳したら風情がなくなる。なので訳者は工夫を凝らして、もとの文に込められた作者のウェットや登場人物の想いをなるべく伝えられるようにしながら自分の言葉で訳す。
 ですが――その過程でどうしても零れてしまうものがあるのです。背景も文化もまったくちがう言葉から言葉へ移しかえるのだから仕方がない。
 俺はその零れてしまうものをあますことなく読みたいのです」

 そう語る双龍さまの横顔はとても真剣で、とても誠実に見えました。
 彼はきっと物語にたいして真面目に向きあっているのでしょう。真剣なまなざしで英文を読み、誠実に自分のなかに取りこむのでしょう。

 きっと授業中も彼はこの表情をしているにちがいありません。そう考えると、双龍さまが生徒さんたちに慕われている様子が目に浮かぶようでした。


 夜でもにぎやかななかを参拝し、雷除けのお守りをいただきました。
「これは昔は赤とうもろこしだったそうですよ」と双龍さまが教えてくださいます。
 
「赤とうもろこし? 赤とうもろこしがどうして雷除けになるのですか?」
「なんでも、赤とうもろこしを作っていた農家だけが落雷をまぬがれたからだとか。それから雷除けのお守りとして縁日に売られるようになったのですが、不作で取れなかった年があり、かわりにこのお守りが売られるようになったと」

「面白いですねえ」と私は竹串にはさまれた三角形の守護札を眺めました。
 参拝の記念品としていただいたのですが、落雷が多い地域ではとても大切な信仰でしょう。帰ったらきちんと神棚にあげなければいけません。

「そうだ。先程、双龍さまはなにを願われたのですか?」
「……いつもどおりです。『女性恐怖症が治りますように』と」
「双龍さまにとっては雷よりも怖いのですね」
「そういう初音さんは?」
「私は……」

 答えようとしたとき、小さな男の子が人混みのなかを走ってきて私にぶつかりそうになりました。それは間一髪でよけられたのですが、その拍子に体がぐらついて倒れそうになったのをとっさにだれかに抱きとめられました。

 だれか。ほかでもない双龍さまです。

「平気ですか、初音さん!」
「は……、はい」

 さっきの男の子の母親らしい女性がやってきて私に「すみません!」と頭を下げると、あわてて子供を追いかけていきました。私は戸惑いながら双龍さまから離れます。

 ――抱きしめられてしまいました。双龍さまに。

「まったくあぶない……」と云いかけて、双龍さまは自分がなにを抱きしめたのか思いだしてしまったようです。私の肩をつかんでいた手を見つめたかと思うと、さあっとその顔から血の気が引いていきました。

「双龍さま!」
「す……すみません。すこし……どこか……休めるところに……」


「なんだなんだ、だらしねえなあ」と気がついた男性が双龍さまを近くの床几(しょうぎ)までつれていってくださいました。
 はあ、と双龍さまは肩で大きく息をします。

「大丈夫ですか?」
「ええ……。面目ありません」

 まだ双龍さまの顔は真っ青です。
 私にふれたせいでこんなことに……。そう思うと申しわけなくてなにかしてあげたいのですが、私が背中なんてさすったらもっとひどくなってしまうでしょう。すみません、とそばで立ちすくむしかありません。

「謝らないでください。俺の体質のせいで、初音さんは悪くないのですから」
「でも……」
「ほんとうに自分が情けない」

 家でも彼にふれないよう気をつけていたつもりでした。でも、内心ではもしかしたらと思ってもいたのです。

 もしかしたら。
 夫婦としてすごすうちに、私にはすこしでも慣れてくださったのではないかと。

 でもそんなものは思いちがいでした。しゅんとうつむいていると、「でもあなたに怪我がなくてよかった」と双龍さまが顔をあげて云いました。

「目の前で妻に怪我なんてさせたら夫失格です。もっとも、俺はもう落第決定ですが」
「そんなことありません!」

 私はきっぱり云いかえします。「双龍さまは私の旦那さまです。なにがあっても……」

「初音さん……」

 でも――今夜、私が彼の具合を悪くさせてしまったのはほんとうです。
 妻なのに。私にふれたせいで、双龍さまはこんなに青褪めた顔をしているのです。

 自分は彼のそばにいないほうがいいのかもしれない。そう思ったことが伝わったのか、「初音さん、待ってください」と呼びとめられます。

「まだろくに出店を見ていないでしょう。あんなに楽しみにしていたのに」
「……でも」
「俺ならもう大丈夫です。それよりせっかくきたのですから、片っ端から見てやりましょう。ほおずきを買うのもいいですね」

 ふらつきながらも双龍さまは立ちあがり、私に微笑みかけます。
 私は雷除けのお守りを胸のまえでにぎりしめずにはいられませんでした。

 先程、私は観音さまにこうお願いしたのです。
 双龍さまの女性恐怖症が治りますように。そしていつか双龍さまとほんとうの夫婦になれますように、と。

 ――どうかその願いが叶いますようにと。
 双龍さまの優しい笑顔を見上げながら、あらためて願わずにはいられませんでした。