隣を歩く初音はきらめいている。
もちろん比喩表現だ。比喩表現なのだけれど、彼女の笑顔は内側から光っているかのようだし全身は彼女専用の電球で照らされているかのようだ。
つまりまぶしい。
いつも初音を直視することはなかなかできないが、今日は特に難しい。
「初音さん、道が悪くなっていますから気をつけて」と声をかけるのが精一杯で、大通りを歩くふたりの距離はいつもより離れていた。
「わかっていますよ」と初音は双龍を見上げて笑う。
それは水溜まりに反射する太陽の光よりもまぶしく、う、と双龍は袖で自分の顔を隠した。
なんなのだこれは。なんという攻撃なのだこれは。
まさか体を光らせて攻撃してくるとは夢にも思わなかった。螢じゃあるまいし。
初音に注意したばかりの双龍があやうく水溜まりを踏みかけたとき、「Excuse me.」と英語でだれかが呼びかける声がした。
見ると初音のまえに外国人の男女ふたりがいる。男はタキシード、女はドレスだ。一目で身なりがいいことがわかる。
夫婦なのだろう、ふたりはそろいの金の指輪をつけている。ぎらりと輝くそれに初音は目をぱちぱちさせた。
「わ、私ですか」
「Where are some good tempura restaurants around here?」
「天ぷら……? お店を聞いてるのかしら……。ええと、それでしたら……ええと、」
双龍はわたわたしている初音と外国人の男女との間に入った。
女性は次女の葉子に気の強そうな目が似ている。化粧をした華やかな姿に動悸がするが初音を助けなければいけない。
女性のほうは見ないようにして、「Excuse me, she's my wife.」と断ってから場所と道順を英語で説明する。
ふたりは英語でお礼を言うと手を振りながら歩いていった。
ほーっと初音は安心したように息を吐きだす。
「びっくりしました、急に話しかけられてしまうとだめですね。ありがとうございます、双龍さま」
「……いえ」
「さすが先生ですね」
初音は尊敬のまなざしで双龍を見てくる。こちらは内心冷や汗をかいたというのに。
――姉の葉子を思いだしてしまった。いや、そんなことより。
――“my wife“呼ばわりしてしまった。初音さんを。
いや間違ってはいない。間違ってはいないのだが。
『なにが“まいわいふ“ですかいまだに手もにぎれないくせに』と怒られるかと思ったが、初音は「?」と首をかしげてくる。
「双龍さま、行かないのですか?」
「……ええ。行きましょうか」
日曜の三越呉服店は客であふれていてにぎやかで、売り場の棚にずらりとならんだ色とりどりの反物たちもどこか誇らしげだ。
初音は「あ、この色は双龍さまによく似合いそう」とひとりごちる。
「俺に?」と双龍は驚いた。てっきり初音が自分用の着物を新しく仕立てたいのだと思っていたのである。
「ええ、浴衣を。それとも一年を通して着られるようなものがいいでしょうか」
「俺は……特に着るものには困ってないのですが」
「記念です」
双龍を見て初音は笑う。「双龍さまのもとに嫁いだ記念になにか仕立てたいのです。おいやでしょうか?」
「……そのようなことは……」
「なら、初音のわがままにつきあってください」
妻となった記念に着物を仕立てたい。
世の中にそんないじらしいことを考える女性がいるなんて思いもしなかった。
女という生きものは双龍からすると理解しがたいくらい自分を着飾ることが好きで、それは初音も例外ではないはずで、――なのに自分のものではなく双龍のための反物を買いたいという。
双龍の心臓がどくりと鳴る。
――なんだ、この気持ちは……。
「失敬」と双龍は接客のために近づいてきた店員に声をかけた。
「この辺りに思いきり頭をぶつけてもよい壁などはありますか?」
「申しわけございませんお客さま、そのような壁は当店にはご用意がなく……」
「……なるほど」
ならば仕方ない。壁に頭をぶつけるのはやめよう。
双龍は和服の袖に手を入れて腕を組み、腕をぎりっとつねることで未知の感情に耐える。
長い時間をかけて初音は藍地に白い格子柄が入った反物をえらんだ。
くるりと巻かれた反物をかかえ、「いいお買いものができました」と初音が笑う。持ちますよ、と双龍は手を差しのべた。
エスカレーターでゆっくり下りながら、「これを作った方は『階段が自分から動いてくれたら楽なのに』と思ったのですよね。夢を現実にしてしまうなんてすごいですねえ」と初音は感動する。
「そのうち道も自分から動くようになって、私たちが歩かなくてもよくなる日がくるのでしょうか」
「……そうですね、日本の技術の進歩は目覚ましい。そのような道も近いうちにできるかもしれません」
「まあ」
初音は楽しそうに笑う。
ちゃんと足下を見てくださいね、と双龍はそっと注意した。
帰りにそば屋で昼食にした。
そば屋をでて、駅のほうへ歩きだしながら初音が歌うように云う。
「親しい男女がともにでかけることを『でぇと』というのでしょう? 双龍先生」
ふふ、と初音は笑う。
「『でぇと』というものは楽しいものですね」
だが、その『でぇと』ももう終わってしまう。
そう思ったとき双龍は「初音さん」と声をかけていた。
初音は立ちどまる。
「なんでしょう?」
「なに、というわけではありませんが……初音さんはなにかほしいものはないのですか。……すみません、店にいるときに聞けばよかったのに」
だが初音がもどりたいと云えばいつでももどるつもりだ。
「そうですねえ」と初音は頬に手をあてる。
「まだお醤油もみりんもあったと思うのですが……。あ、麺麭でも買っていきますか?」
「そういうことではなく」
「はい?」
この気持ちのお返しをしたいのだ。これから初音が仕立ててくれる浴衣だけではなく、この、名前のわからない気持ちのお返しを。
けれどそれを言葉にする手段を双龍は持ちあわせていない。
情けない。英語教師といっても、学んできた知識は女性相手にはなんの役にも立たない。物語のなかの色男のように彼女の心に近づけたらどんなにいいか。
「――ほしいもの……」
彼女はちらりと自分の左手を見る。
そこにはなにもつけていない。結婚指輪も贈らなかった。そんなもの、自分には贈る資格はないし彼女も迷惑だろうと思ったからだ。
初音は自分の胸のまえで手をにぎって考えこんでいたかと思うと、「そうです」とぱちりとその手を叩いた。
「ほしいもの決まりましたわ、双龍さま」
「なんでしょう」
「次の約束です」
――また、どこかにつれていってください。
「必ず叶えてくださいな」と初音は小指を立てて微笑んでみせる。
雨上がりの光を受けて、やはり“まいわいふ“はきらきらと輝いていたのだった。
「……はい。あなたが望むなら」
その約束を叶えることができたのは七月になってから。
ほおずき市が立った日のことだった。
もちろん比喩表現だ。比喩表現なのだけれど、彼女の笑顔は内側から光っているかのようだし全身は彼女専用の電球で照らされているかのようだ。
つまりまぶしい。
いつも初音を直視することはなかなかできないが、今日は特に難しい。
「初音さん、道が悪くなっていますから気をつけて」と声をかけるのが精一杯で、大通りを歩くふたりの距離はいつもより離れていた。
「わかっていますよ」と初音は双龍を見上げて笑う。
それは水溜まりに反射する太陽の光よりもまぶしく、う、と双龍は袖で自分の顔を隠した。
なんなのだこれは。なんという攻撃なのだこれは。
まさか体を光らせて攻撃してくるとは夢にも思わなかった。螢じゃあるまいし。
初音に注意したばかりの双龍があやうく水溜まりを踏みかけたとき、「Excuse me.」と英語でだれかが呼びかける声がした。
見ると初音のまえに外国人の男女ふたりがいる。男はタキシード、女はドレスだ。一目で身なりがいいことがわかる。
夫婦なのだろう、ふたりはそろいの金の指輪をつけている。ぎらりと輝くそれに初音は目をぱちぱちさせた。
「わ、私ですか」
「Where are some good tempura restaurants around here?」
「天ぷら……? お店を聞いてるのかしら……。ええと、それでしたら……ええと、」
双龍はわたわたしている初音と外国人の男女との間に入った。
女性は次女の葉子に気の強そうな目が似ている。化粧をした華やかな姿に動悸がするが初音を助けなければいけない。
女性のほうは見ないようにして、「Excuse me, she's my wife.」と断ってから場所と道順を英語で説明する。
ふたりは英語でお礼を言うと手を振りながら歩いていった。
ほーっと初音は安心したように息を吐きだす。
「びっくりしました、急に話しかけられてしまうとだめですね。ありがとうございます、双龍さま」
「……いえ」
「さすが先生ですね」
初音は尊敬のまなざしで双龍を見てくる。こちらは内心冷や汗をかいたというのに。
――姉の葉子を思いだしてしまった。いや、そんなことより。
――“my wife“呼ばわりしてしまった。初音さんを。
いや間違ってはいない。間違ってはいないのだが。
『なにが“まいわいふ“ですかいまだに手もにぎれないくせに』と怒られるかと思ったが、初音は「?」と首をかしげてくる。
「双龍さま、行かないのですか?」
「……ええ。行きましょうか」
日曜の三越呉服店は客であふれていてにぎやかで、売り場の棚にずらりとならんだ色とりどりの反物たちもどこか誇らしげだ。
初音は「あ、この色は双龍さまによく似合いそう」とひとりごちる。
「俺に?」と双龍は驚いた。てっきり初音が自分用の着物を新しく仕立てたいのだと思っていたのである。
「ええ、浴衣を。それとも一年を通して着られるようなものがいいでしょうか」
「俺は……特に着るものには困ってないのですが」
「記念です」
双龍を見て初音は笑う。「双龍さまのもとに嫁いだ記念になにか仕立てたいのです。おいやでしょうか?」
「……そのようなことは……」
「なら、初音のわがままにつきあってください」
妻となった記念に着物を仕立てたい。
世の中にそんないじらしいことを考える女性がいるなんて思いもしなかった。
女という生きものは双龍からすると理解しがたいくらい自分を着飾ることが好きで、それは初音も例外ではないはずで、――なのに自分のものではなく双龍のための反物を買いたいという。
双龍の心臓がどくりと鳴る。
――なんだ、この気持ちは……。
「失敬」と双龍は接客のために近づいてきた店員に声をかけた。
「この辺りに思いきり頭をぶつけてもよい壁などはありますか?」
「申しわけございませんお客さま、そのような壁は当店にはご用意がなく……」
「……なるほど」
ならば仕方ない。壁に頭をぶつけるのはやめよう。
双龍は和服の袖に手を入れて腕を組み、腕をぎりっとつねることで未知の感情に耐える。
長い時間をかけて初音は藍地に白い格子柄が入った反物をえらんだ。
くるりと巻かれた反物をかかえ、「いいお買いものができました」と初音が笑う。持ちますよ、と双龍は手を差しのべた。
エスカレーターでゆっくり下りながら、「これを作った方は『階段が自分から動いてくれたら楽なのに』と思ったのですよね。夢を現実にしてしまうなんてすごいですねえ」と初音は感動する。
「そのうち道も自分から動くようになって、私たちが歩かなくてもよくなる日がくるのでしょうか」
「……そうですね、日本の技術の進歩は目覚ましい。そのような道も近いうちにできるかもしれません」
「まあ」
初音は楽しそうに笑う。
ちゃんと足下を見てくださいね、と双龍はそっと注意した。
帰りにそば屋で昼食にした。
そば屋をでて、駅のほうへ歩きだしながら初音が歌うように云う。
「親しい男女がともにでかけることを『でぇと』というのでしょう? 双龍先生」
ふふ、と初音は笑う。
「『でぇと』というものは楽しいものですね」
だが、その『でぇと』ももう終わってしまう。
そう思ったとき双龍は「初音さん」と声をかけていた。
初音は立ちどまる。
「なんでしょう?」
「なに、というわけではありませんが……初音さんはなにかほしいものはないのですか。……すみません、店にいるときに聞けばよかったのに」
だが初音がもどりたいと云えばいつでももどるつもりだ。
「そうですねえ」と初音は頬に手をあてる。
「まだお醤油もみりんもあったと思うのですが……。あ、麺麭でも買っていきますか?」
「そういうことではなく」
「はい?」
この気持ちのお返しをしたいのだ。これから初音が仕立ててくれる浴衣だけではなく、この、名前のわからない気持ちのお返しを。
けれどそれを言葉にする手段を双龍は持ちあわせていない。
情けない。英語教師といっても、学んできた知識は女性相手にはなんの役にも立たない。物語のなかの色男のように彼女の心に近づけたらどんなにいいか。
「――ほしいもの……」
彼女はちらりと自分の左手を見る。
そこにはなにもつけていない。結婚指輪も贈らなかった。そんなもの、自分には贈る資格はないし彼女も迷惑だろうと思ったからだ。
初音は自分の胸のまえで手をにぎって考えこんでいたかと思うと、「そうです」とぱちりとその手を叩いた。
「ほしいもの決まりましたわ、双龍さま」
「なんでしょう」
「次の約束です」
――また、どこかにつれていってください。
「必ず叶えてくださいな」と初音は小指を立てて微笑んでみせる。
雨上がりの光を受けて、やはり“まいわいふ“はきらきらと輝いていたのだった。
「……はい。あなたが望むなら」
その約束を叶えることができたのは七月になってから。
ほおずき市が立った日のことだった。



