【完結】初恋めおと日記~結婚初夜に旦那さまから「愛人を作ってください」と云われまして~

 朝は晴れていたのに急に曇ってきたと思ったら大粒の雨が落ちてきて、わ、とあっけにとられているうちに大雨になってしまいました。

 私はあわてて洗濯ものを取りこみます。それからしわにならないよう衣紋掛けに濡れた肌着をかけていると、「すごい雨ですね」と双龍さまが廊下から声をかけてきました。片手には洋燈(ランプ)

「雨戸、閉めておきますね」
「ええ……、お願いします」

 雨戸を締めきってしまうと家の中は真っ暗になってしまいました。
 双龍さまも私も外出着です。今日は日曜、双龍さまとでかける約束をしていた日。そろそろでかけようと思っていたら降ってきたのでした。

「……延期でしょうか」と居間にもどり、私は肩を落とします。
 双龍さまは唯一の明かり――暗くなることを見越してあらかじめ用意されていたのです――を畳に置くと、雨の音を聞くように天井を見上げました。

 これはただのおでかけではありません。双龍さまのほうから私を誘ってくださったのです。
 特別な日だったのに、まさか降られてしまうなんて。

「ここまで勢いがすさまじいとせっかくの着物が汚れてしまいますね。通り雨ならよいのですが」

 私は薔薇を裾にあしらった薄紅の着物を着ています。帯は黒地に金糸の名古屋帯。髪は花月(かげつ)巻きにしておかあさまからいただいた珊瑚のかんざしを挿しました。

 いつもより大人びて見えるよう――双龍さまの隣を歩いても恥ずかしくないよう、たくさん時間をかけてえらんだつもりだったのですが。

 おでかけはやめましょうとは双龍さまはおっしゃいませんでした。でもこの雨ではとてもでられません。

 大切なこの日に降ることなんてないのに。空が恨めしい。

 さっきまで浮かれていた自分が惨めでかなしくて、じっとうつむいていると、こち、こち、という柱時計の音が胸を刺すように大きく聞こえます。

「初音さん……」

 私ははっとしました。双龍さまに気を遣わせてはいけません。
「雨なら仕方ありませんね、お茶でも煎れましょうか」と笑顔を作って私が腰を浮かせたとき「そのままで」と双龍さまが鋭く云いました。

「あなたはそこに座っていてください」

 なにか失礼でもしてしまったでしょうか。はい、と私が云われるままにすると双龍さまは「すこし借ります」と洋燈を持ってでていきます。

 じきにもどってきた彼の手には筆や硯や半紙などがありました。
 突然手習いをされたくなったのでしょうか。思いもよらぬ双龍さまの行動にぽかんとしている私の向かいで、彼は黙々と墨をすっていきます。

 やがて思うような濃さになったのでしょう、ひとつうなずくと筆先を半紙に載せました。
 なにを書かれるのでしょうか。双龍さまは集中されているようで声をかけにくく、静かに見守っていると、そのうち彼の持つ筆があるものを描きだしました。

 双龍さまは字ではなく絵を描かれていたのです。
 それも、着物を着た女の絵を。

「まあ……」

 筆遣いは素人離れしています。彼がこんな技を持っているなんて知りませんでした。まるで夢二(ゆめじ)の美人画のよう。
 私が見ているまえでみるみるうちに絵は仕上がってゆき、ふう、と双龍さまは息を吐きだすと筆を置きました。

「双龍さまは絵を習われたことがあるのですか?」
「いえ、ただの見よう見まねです」と彼は苦笑すると半紙を私のほうに向けました。

 たおやかな筆致で描かれた女は手を膝の上に置いて正座し、大きな目でこちらを見ていました。髪は花月巻きで玉のかんざしを挿し、着物は薔薇の裾模様。
 彼は私を描いていたのです。

「夢二には遠く及ばないけれど、どうです、悪くないでしょう。モデルのよさなら夢二が描いた画にも負けないはずですから」
「私……こんなにきれいじゃありません」
「そんなことはない」

 絵は会心のできだったようです。傑作を生みだした芸術家さながらに興奮した口ぶりで、双龍さまは「あなたはきれいです。とても、きれいです」とおっしゃいました。

「――そんなこと……」

 思わず頬に両手をあてると熱したお鍋のように熱くなっていました。きっと真っ赤にもなっているにちがいありません。

 ですがこれは薄暗かったので双龍さまにはわからなかったようです。双龍さまは絵を自分のほうに向けてうんうんと満足げにうなずき、「もう一枚描いてもいいですか、初音さん」と云ってきました。

「次は見返り美人図を描きたい。立ってください、初音さん」
「は、はい」

 気晴らし、とは面白い言葉です。双龍さまに何枚も絵を描いてもらっているうちに、私の気はお日さまが照らしたように晴れてきました。
 外はまだ大雨なのに。不思議です。

「ああ、やっぱりモデルがいいとちがいますね」

 応接間から持ってきたひとりがけの椅子に腰かけた私を描きながら双龍さまが微笑みます。
 画のためなら女を長時間見つめることも平気なようです。こんなに長い間彼に見つめられたことはなく、恥ずかしい気持ちでいっぱいでしたが、でもそれはけしていやではありませんでした。

 やがて雨の音が途切れ、軒から落ちる雨だれの音だけになります。
 双龍さまは私を描くことに夢中で気がついていないようでしたので、「双龍さま、雨がやみましたよ」と私は声をかけました。

 ああ、と彼は筆を動かしていた手を止めて顔をあげます。

「――なんだ、あっという間でしたね。やはり通り雨でしたか」
「ふふ、そうですね」

 柱時計が鳴る音も彼には聞こえていなかったようです。時計を見たらどうしてこんなに時間が盗まれてしまったと驚くのではないでしょうか。

「ではでかけましょうか、初音さん。これだけ降ったんだ。きっとこのあとは一日晴れですよ」
「はい。あ、そのまえに」
「なんでしょう?」

 お顔、と私は自分の右頬を指さしました。「墨がついていますよ」