これは給金泥棒の罰であろうか。まだ赤い頬をした小森くんは実は学長が化けた姿であったのだろうか。
“love“の訳は調べておきますと云って宿題にさせてもらった。
よろしくお願いしますと生真面目に頭を下げた教え子の目は双龍への期待と信頼で満ちており、自分で考えなさいと一蹴することなどとてもできなかった。
一日の仕事を終え、双龍は足をひきずるようにして家までの道をたどる。
夕陽に照らされて地面に落ちた影は『ほら見ろ、結婚なんて無理難題に挑戦するからこんなことになるんだ』と本体を責めていた。女が怖いおまえに"love"がわかるはずがないだろう、なのに嫁さんなんてもらいやがって、と。
からからと家の引き戸を開け、小声で「ただいま帰りました」と家のなかに向けて言う。
夕餉の支度をしていたのだろう、台所からは醤油のいい香りが漂ってきている。胸はふさがっていて食欲などないはずなのに双龍の腹がぐうと鳴る。
魔とは胃袋をつかむ力もそなえているものらしい。
動物的な自分の反応にかなしくなりながら革靴を脱いでいると、「はーい」と春風のように優しい声がして台所から初音がやってくる。
桜模様の着物をたすき掛けにした初音の姿がなんだか異様にまぶしかった。
朝もそうだった。雨戸を開けて太陽の光を取りこむ彼女が直視できないほどまぶしく、これはいったいなんなのだろうと双龍は頭を悩ませたのである。
もしや魔の攻撃であるのか。
ならば負けてはならぬ。負けずににらみかえすのみだ。
「おかえりなさい、双龍さま。すぐごはんにしますか?」
「…………」
「双龍さま?」
「……え? はっ、はい」
にらんでみたが初音はどこ吹く風だった。双龍ごとき相手にもしないという体である。
反撃をかわされた恥ずかしさをごまかすために小さく咳ばらいをして、「鞄、お持ちしますよ」と彼女が云ってくるのに「いえ、本が入っていて重いですから」と返す。
重いものをこんな細腕に持ってほしくないのも本心だが、鞄を渡した際にもし指がふれあったらと思うと物品の受けわたしは可能なかぎり避けたいのだった。
「では背広を脱がせてさしあげます」
「いえ、汚れていますから」
「そんなことありませんよ」
いえ汚れています。女学校しか知らないあなたはご存じないでしょうが思春期の男というものはみな獣なのです。そんな獣どもをつめこんだ教室は当然獣臭に満ちており、その獣臭は一時間二時間と授業を進めてゆくほど濃くなっていきます。一日が終わるころにはお香を着物に焚きしめたかのように服に獣の臭いが染みついてしまっている。男しかいない学校の教師の背広とはそういう宿命なのです。
そんなことを滔々と述べる双龍に初音は首をかしげた。
「つまり?」
「俺はいま獣を羽織っているのです。そんなものあなたにふれさせるわけにはいかない」
「双龍さまは過酷なところで働かれているのですね……」
初音は目を見開いて感心した。あまり深く物事を考えないひとでたすかった。
「そういうことですので」と双龍は自分の書斎に逃げこむ。
鞄を置いて背広を脱いだとき、「おなか空いたでしょう? すぐごはんにしますからね」と初音が廊下から声をかけてくれた。
双龍が振りかえると彼女はにっこり笑って台所へもどる。
着物に咲いた桜の色がしばらく目に焼きついて離れなかった。
夕餉はじゃがいもの味噌汁に豚肉の煮こみ料理だった。醤油味だがすりおろした大根がかけられていてさっぱりしている。豚肉のおろし煮というのですと斜め向かいの箱膳のまえに座った初音が教えてくれた。
自分が食べおわるのを待ってからでは彼女の食事の時間が遅くなってしまう。なので一緒に食べましょうと双龍は誘い、初音は嬉しそうにうなずいた。
そして顔をあわせての食事となったのだが――
「八百屋さんにいってきましたが、なすが出回るのはもうすこし先だそうです。楽しみにしていてくださいね」
「ああ、ありがとうございます」
朝に交わした会話を彼女は憶えていて、しかも夕飯の買いだしのときに買ってきてくれようとしたらしい。
なんていい嫁なのだ。いや、これは悪魔が人間を破滅させるときに使う常套手段だ。優しくして油断させてからやってしまうのだ。西洋のセイレエンなる魔物だって美しい歌で船乗りを誘って海の底に沈めるというではないか。
頭ではわかっていても飯はうまい。
グリム童話のお菓子の家をほおばる兄妹もきっとこんな気持ちだったのだろう。いけないとわかっていてもやめられないのだ。
「おかわりにしますか?」
「……お願いします」
あっという間に双龍の茶碗はからになってしまう。
朝のように畳経由で渡された茶碗に彼女はおかわりをよそい、また返してくる。もう心得たようだ。
ふと、彼女は自分などに嫁がなくても幸せになれるのだと思う。むしろ自分以外の男の方がよかっただろう。妻にふれることさえできない夫など何の役に立つのか。
いっそほんとうに愛人をおすすめしたほうが……
「初音さん――」
「はい?」
呼びかけると初音は小首をかしげて双龍を見る。首をかしげるのが癖なのかもしれない。
大きな丸い目で見つめられるとなにを云っていいのかわからなくなり、双龍はおかわりの礼だけ云ってお茶碗を受けとった。
新居には内湯がある。和服に着替えた双龍が書斎で洋書を読んでいると初音がやってきて、お湯の準備をしますねと云ってきた。
たすかりますとその場では答えたが、風呂釜をいっぱいにするのには相当な量の水が必要だろう。あの小さな体にさせるのかと不安になり、双龍は庭にでて初音と水汲みを替わろうと申し出た。
「双龍さまにこんな雑用」と初音は最初は断ろうとしたが、「座っているだけでは体がなまってしまいますから」と云うとそれならと水の入った桶を地面に置いた。
一回一回はたいした重さでなくとも、何度も風呂場と往復するとなるとさすがに堪える。風呂釜が満杯になるころにはうっすら汗をかいていた。
このまま湯につかれたらどんなに気持ちいいかと思うが、風呂釜のなかはまだ水だ。
初音は火を入れたかまどのまえにしゃがみこみ、火加減を調節したあとで、「お湯が沸いたらお知らせしますね」と双龍を見上げて云った。
「ええ……」
あとは初音に任せて書斎にいよう。そう思ったが双龍の足は動かない。
初音は不思議そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
「……どうというわけではありませんが」
なぜか去りがたい。ひとりでいるよりふたりでいたい。
「俺がここにいたら邪魔でしょうか」と聞くと、そんなことありません、と初音が返してきた。
「こんな気持ちのいい夜ですもの。ひとりで過ごすなんてもったいないです」
双龍は彼女の言葉につられて春の宵の空を見上げた。
薄墨で塗ったような空には白い月。塀の向こうの庭に植えられた桜は葉桜になっているが、それでもあの清廉な香りが風に乗ってふわりと香った気がした。
「……初音さんの云うとおりですね」と双龍が答えれば、「はい」と初音も同じように月を見上げて微笑んだ。
春宵一刻直千金
花有清香月有陰
蘇軾が詠んだ七言絶句を思いだす。
なるほどこれは千金の価値があるわけだと、はじめて詩の意味が理解できた気がした。
そしてこの時間をだれにも渡したくないと思う。
初音と月を見上げるのは自分だけであってほしい。贅沢だろうか。
初音さん、と双龍は彼女に云う。
「もしよければ、今度の日曜日……」
“love“の訳は調べておきますと云って宿題にさせてもらった。
よろしくお願いしますと生真面目に頭を下げた教え子の目は双龍への期待と信頼で満ちており、自分で考えなさいと一蹴することなどとてもできなかった。
一日の仕事を終え、双龍は足をひきずるようにして家までの道をたどる。
夕陽に照らされて地面に落ちた影は『ほら見ろ、結婚なんて無理難題に挑戦するからこんなことになるんだ』と本体を責めていた。女が怖いおまえに"love"がわかるはずがないだろう、なのに嫁さんなんてもらいやがって、と。
からからと家の引き戸を開け、小声で「ただいま帰りました」と家のなかに向けて言う。
夕餉の支度をしていたのだろう、台所からは醤油のいい香りが漂ってきている。胸はふさがっていて食欲などないはずなのに双龍の腹がぐうと鳴る。
魔とは胃袋をつかむ力もそなえているものらしい。
動物的な自分の反応にかなしくなりながら革靴を脱いでいると、「はーい」と春風のように優しい声がして台所から初音がやってくる。
桜模様の着物をたすき掛けにした初音の姿がなんだか異様にまぶしかった。
朝もそうだった。雨戸を開けて太陽の光を取りこむ彼女が直視できないほどまぶしく、これはいったいなんなのだろうと双龍は頭を悩ませたのである。
もしや魔の攻撃であるのか。
ならば負けてはならぬ。負けずににらみかえすのみだ。
「おかえりなさい、双龍さま。すぐごはんにしますか?」
「…………」
「双龍さま?」
「……え? はっ、はい」
にらんでみたが初音はどこ吹く風だった。双龍ごとき相手にもしないという体である。
反撃をかわされた恥ずかしさをごまかすために小さく咳ばらいをして、「鞄、お持ちしますよ」と彼女が云ってくるのに「いえ、本が入っていて重いですから」と返す。
重いものをこんな細腕に持ってほしくないのも本心だが、鞄を渡した際にもし指がふれあったらと思うと物品の受けわたしは可能なかぎり避けたいのだった。
「では背広を脱がせてさしあげます」
「いえ、汚れていますから」
「そんなことありませんよ」
いえ汚れています。女学校しか知らないあなたはご存じないでしょうが思春期の男というものはみな獣なのです。そんな獣どもをつめこんだ教室は当然獣臭に満ちており、その獣臭は一時間二時間と授業を進めてゆくほど濃くなっていきます。一日が終わるころにはお香を着物に焚きしめたかのように服に獣の臭いが染みついてしまっている。男しかいない学校の教師の背広とはそういう宿命なのです。
そんなことを滔々と述べる双龍に初音は首をかしげた。
「つまり?」
「俺はいま獣を羽織っているのです。そんなものあなたにふれさせるわけにはいかない」
「双龍さまは過酷なところで働かれているのですね……」
初音は目を見開いて感心した。あまり深く物事を考えないひとでたすかった。
「そういうことですので」と双龍は自分の書斎に逃げこむ。
鞄を置いて背広を脱いだとき、「おなか空いたでしょう? すぐごはんにしますからね」と初音が廊下から声をかけてくれた。
双龍が振りかえると彼女はにっこり笑って台所へもどる。
着物に咲いた桜の色がしばらく目に焼きついて離れなかった。
夕餉はじゃがいもの味噌汁に豚肉の煮こみ料理だった。醤油味だがすりおろした大根がかけられていてさっぱりしている。豚肉のおろし煮というのですと斜め向かいの箱膳のまえに座った初音が教えてくれた。
自分が食べおわるのを待ってからでは彼女の食事の時間が遅くなってしまう。なので一緒に食べましょうと双龍は誘い、初音は嬉しそうにうなずいた。
そして顔をあわせての食事となったのだが――
「八百屋さんにいってきましたが、なすが出回るのはもうすこし先だそうです。楽しみにしていてくださいね」
「ああ、ありがとうございます」
朝に交わした会話を彼女は憶えていて、しかも夕飯の買いだしのときに買ってきてくれようとしたらしい。
なんていい嫁なのだ。いや、これは悪魔が人間を破滅させるときに使う常套手段だ。優しくして油断させてからやってしまうのだ。西洋のセイレエンなる魔物だって美しい歌で船乗りを誘って海の底に沈めるというではないか。
頭ではわかっていても飯はうまい。
グリム童話のお菓子の家をほおばる兄妹もきっとこんな気持ちだったのだろう。いけないとわかっていてもやめられないのだ。
「おかわりにしますか?」
「……お願いします」
あっという間に双龍の茶碗はからになってしまう。
朝のように畳経由で渡された茶碗に彼女はおかわりをよそい、また返してくる。もう心得たようだ。
ふと、彼女は自分などに嫁がなくても幸せになれるのだと思う。むしろ自分以外の男の方がよかっただろう。妻にふれることさえできない夫など何の役に立つのか。
いっそほんとうに愛人をおすすめしたほうが……
「初音さん――」
「はい?」
呼びかけると初音は小首をかしげて双龍を見る。首をかしげるのが癖なのかもしれない。
大きな丸い目で見つめられるとなにを云っていいのかわからなくなり、双龍はおかわりの礼だけ云ってお茶碗を受けとった。
新居には内湯がある。和服に着替えた双龍が書斎で洋書を読んでいると初音がやってきて、お湯の準備をしますねと云ってきた。
たすかりますとその場では答えたが、風呂釜をいっぱいにするのには相当な量の水が必要だろう。あの小さな体にさせるのかと不安になり、双龍は庭にでて初音と水汲みを替わろうと申し出た。
「双龍さまにこんな雑用」と初音は最初は断ろうとしたが、「座っているだけでは体がなまってしまいますから」と云うとそれならと水の入った桶を地面に置いた。
一回一回はたいした重さでなくとも、何度も風呂場と往復するとなるとさすがに堪える。風呂釜が満杯になるころにはうっすら汗をかいていた。
このまま湯につかれたらどんなに気持ちいいかと思うが、風呂釜のなかはまだ水だ。
初音は火を入れたかまどのまえにしゃがみこみ、火加減を調節したあとで、「お湯が沸いたらお知らせしますね」と双龍を見上げて云った。
「ええ……」
あとは初音に任せて書斎にいよう。そう思ったが双龍の足は動かない。
初音は不思議そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
「……どうというわけではありませんが」
なぜか去りがたい。ひとりでいるよりふたりでいたい。
「俺がここにいたら邪魔でしょうか」と聞くと、そんなことありません、と初音が返してきた。
「こんな気持ちのいい夜ですもの。ひとりで過ごすなんてもったいないです」
双龍は彼女の言葉につられて春の宵の空を見上げた。
薄墨で塗ったような空には白い月。塀の向こうの庭に植えられた桜は葉桜になっているが、それでもあの清廉な香りが風に乗ってふわりと香った気がした。
「……初音さんの云うとおりですね」と双龍が答えれば、「はい」と初音も同じように月を見上げて微笑んだ。
春宵一刻直千金
花有清香月有陰
蘇軾が詠んだ七言絶句を思いだす。
なるほどこれは千金の価値があるわけだと、はじめて詩の意味が理解できた気がした。
そしてこの時間をだれにも渡したくないと思う。
初音と月を見上げるのは自分だけであってほしい。贅沢だろうか。
初音さん、と双龍は彼女に云う。
「もしよければ、今度の日曜日……」



