【完結】初恋めおと日記~結婚初夜に旦那さまから「愛人を作ってください」と云われまして~

 紺色の三つ揃いに深緑色のネクタイを合わせる。双龍は普段から洋装で職場に通っているので支度にさして時間はかからない。

 寝室の鏡のまえで最後に全身を点検していたら後ろ髪が盛大に跳ねていることに気がついて愕然とした。
 いつからこうだったのか。起きたときにはなっていたに決まっている。

 新婚生活、初日。
 たとえ夫婦らしいことをしていなくても、夫が重度の女性恐怖症でも、新婚は新婚なのである。まさか寝癖がついただらしない格好で妻のまえにでていってしまうとは。

 ――初音さんは気がついただろうか。

 こそこそと井戸までいって後ろ髪を濡らす。寝癖はなかなか直らなかった。おかげで肩口がしとどに濡れた。

 ここまでひどい寝癖を彼女が気づかなかったとは思えない。そう考えると、幸せだった朝食の時間が悪魔が見せた夢だった気がしてくる。
 おかわりをよそってくれながら初音は腹のなかで笑っただろう。あらいやだ、このひと新婚一日目っから寝癖をつけてきたわ。恥ずかしいひと。そう思って双龍の夫としての点数を下げただろう。

 これはただの寝癖ではない。輾転反側(てんてんはんそく)、廊下をへだてた向かいの部屋にほぼ初対面の女性がいるという緊張がつけた寝癖である。双龍の心の弱さそのものなのである。

 それを見られてしまった。
 恥ずかしい。
 彼女は双龍が女性恐怖症であることはもう知っているが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

 まさかこんなアルファベットの『S』のようになっている盛大な寝癖に気づかなかったはずがない。気づかなかったのなら彼女はよほどのぼんやりさんだ。
 しかしそんなぼんやりさんがあそこまでうまい料理を作れるとは思えないので、やはり結論は『妻に恥ずかしい寝癖を見られてしまった』になる。

 これが通勤まえでなかったら井戸に飛びこんでいたにちがいない。そして妻に寝癖を見られて羞恥のあまり井戸に飛びこんだ情けない夫の幽霊になる。
 しかしそろそろ家をでなければ授業に間に合わなかったので、双龍は書斎にいくと本日使うテキストが入った洋鞄を持って玄関へと向かった。

 ぱたぱたと初音があわてたように居間からでてくる。彼女は遅い朝食をとっていたところだ。その証拠にお茶碗と箸を持っている。

「――初音さん……」
「双龍さま、いってらっしゃ……あら?」

 古式ゆかしく三つ指ついて見送ってくれようとしたのだろう、彼女は上がりかまちに膝をつき、ついたところで両手がふさがっていることに気がついた。
「ち、ちがうのです。あのこれは」と顔を赤くしてなにか云いわけしようとしてくる。

 双龍は微笑み、「そのままでいいですよ。いってきます、初音さん」と言葉をかけた。
「……いってらっしゃいませ」と初音は真っ赤になった顔をうつむける。

 家の戸を閉めてから双龍は思いっきり自分の太ももをつねった。

 ――なんだ! あのかわいい生きものは!


 その日の授業はひどいものだった。
 頭のなかでは常に善と悪ふたりの双龍が戦っている。善の双龍が『魔の誘惑に負けるな』と刀を振るえば、悪の双龍は『負けたっていいだろう。あんなにかわいい生きものになら頭からばりばり食われても俺は後悔しない!』とやりかえす。

 英文を訳すどころではなかった。集中力に欠けた授業をする双龍を学生たちは『ま、新婚ですもんね』と生暖かい目で見た。
 屈辱であった。たとえたいして年齢がちがわないとしてもこちらは教師、給金をもらって仕事をしているのだ。教え子に生暖かい目で見られる筋合いはない。

 そう思えば思うほどその日の授業はからまわった。学長に見られたら減俸は避けられないほどひどい授業だった。
 それもこれも“妻“のせいだ、とやきもきしながら授業を終えて片づけをしていると「瀧先生、ちょっといいですか」とひとりの学生に声をかけられた。

 八森(やもり)くんは素直な目をした勉強熱心な学生だ。
 彼のまえでふぬけ授業をしたのかと思うと恥ずかしい。井戸があったら飛びこみたい。

 しかし教室に井戸はなかったので、「はい、なんでしょう」と双龍は穏やかに問いかえした。

 八森くんは口を開く。

「まずはご結婚おめでとうございます、先生。昨日が結婚式だったのですよね」
「そうですが……それが?」
「そこで、あの、先生にぜひ伺いたいことが」

 なんだ。なにを聞かれるんだ。夫婦とはなにか聞かれても俺は答えられないぞ。
 表情を堅くする双龍のまえで八森くんは鞄から一冊の本を取りだした。
 英吉利(いぎりす)の作家が書いた浪漫小説だ。日本語訳はまだでていない。

「この本を日本語に訳そうとしたとき、どうしてもわからない箇所があるのです」
「ふむ、教えてください」
「ここです。この――」

 八森くんは古本とおぼしき本を教卓の上で開く。
 青年の指がしめしたところを読んで、ぐっ、と双龍は苦虫をかみつぶしたような顔をした。

「――この“I love you.“です。
 loveは愛でしょう。しかし外国人ならともかく日本人が恋人といるときに愛という言葉を使いますか。ですが、ならかわりの言葉をだしてみろと云われても僕には思いつかないのです。ためしてみようにもそういった女性がおりませんので……。
 そこで先生。このたびめでたく奥さまを迎えられた先生にぜひ伺いたいのです。
 瀧先生だったら、これをなんて訳しますか?」