瀧双龍にとって女は恐怖である。
それは家にいた三人の女のせいである。長女の幹子は鬼であり、次女の葉子は悪魔であり、三女の美枝子は怪物だった。
三体の魔はいたいけな双龍をもてあそび、恐怖を植えつけた。裸にむいて女物の着物を着せるのはまだ可愛いほうである。悪質なときは裏山に連れていかれて放置され、長持に閉じこめられ、池に放りこまれた。
なによりも恐ろしいのは女たちの高笑いである。双龍が泣けば泣くほど女たちは喜び、オホゝゝゝと口元を着物の袖で隠して笑った。その際の高笑いが耳について眠れなかった夜は数えきれないほどある。
父親に言いつけたこともあったが、『女に泣かされるなど情けない。体を鍛えろ。ほら腕立て伏せだ。一、二、三、四』と何の役にも立たない根性論で片づけられただけだった。
母に相談しても似たようなものだった。『あらあら、あの子たちも仕方ないわねえ』とおっとり微笑まれて姉たちは沙汰なしだった。あの魔を三体も産んだだけあり、母はどこかずれていた。決定的にずれていた。
幼い双龍は悟った。この家に自分の味方はいない。父も母もすでに魔に取りこまれている。
そして絶望した。父も母もだめなら、もう自分を救える人間はこの世にいないではないか。
それからひたすら耐える日々がはじまった。
双龍は耐えた。顔に口紅を塗りたくられようが、双龍の苦手な蛾を着物につっこまれようが耐えた。いつかこの魔のものたちが祓われると信じて。
暇をもてあました魔のものたちの戯れは長女の幹子に縁談がちらほらくるようになったあたりでなくなった。魔にひとの心はないが、男の目を気にしてしおらしくなる女心はあったと思われる。
彼女たちは双龍を虐めなくなったが、げに恐ろしいのはここからだった。
幹子たちは完璧な姉の顔で双龍に接するようになったのである。
これが能なら面をつけかえたようなものである。鬼女がただの娘になったのである。
双龍は信じられなかった。ついこのまえまで自分を木にくくりつけて笑っていた女たちは、一切そんなことはなかったかのように『双ちゃん、飴玉食べる?』『勉強見てあげようか』『おはじきで遊びましょう』と弟をかわいがりはじめたのだ。
双龍は震えあがった。これはなにかの企みだと思った。だが姉たちはそれぞれ嫁づいていく日まで二度と正体を見せなかった。それがなおさら恐ろしかった。
――女は信じてはならぬ。
双龍の心にその戒めは深く深く刻まれた。
高等学校時代、帰りに女学生に待ちぶせされて文を差しだされたときがあった。双龍は拳銃をつきつけられたかのように悲鳴を上げてその場から走って逃げだした。袴にブーツ姿の少女ひとりに慄いて逃げだすなど日本男児の恥でしかないが、そのとき双龍に取れた作戦は『撤退』ひとつきりだったのである。
女は信じてはならぬ。関わってもならぬ。
戒めを胸に双龍は清い人生を送ってきた。
遊び人の友人がカフェーに入りびたって女給を口説いているときも、詞藻豊かな友人が叶わぬ恋に身をやつし傑作怪作を生みだしているときも彼の心にはだれもいなかった。
生涯、童貞。
それが双龍の目標であったが、なんの因果か教師になってすぐ縁談が舞いこんできてしまった。仲人、もとい怨敵は学生時代の恩師である。
『先生、この縁談を進めるならば私は腹を切ります』
『まあ待ちなさい』
かわいい子だろうと恩師は双龍に見合い写真を見せた。白くてもっちりした頬が餅のような小柄な少女だった。
あまり女性は感じない。
むむ……と悩んでいると、『とても気立てのよい子だ。最後に私が会ったのは彼女が四歳のときだが』『いまは××女学校に通っている。お嬢さましか通えないところだ』『上品で淑やかで品があって、あと上品な子らしい』と途中からふわふわした宣伝文句を並べてきた。
お嬢さまなら姉たちのように高笑いすることはないだろうか。
しかし、女である。いくら餅のようだとしてもまさか焼いて食ってしまうわけにいかない。女なのである。
むむむ……とうなっていると、恩師はもう一枚の見合い写真を見せてきた。餅乙女とはべつの、いまにも噛みついてきそうな女豹の目をした女の写真だった。
『岩國くんとこの娘さんがいやならこの女との縁談を進めるか。趣味は猛獣の調教らしい』
『岩國氏の娘さんとの縁談をお受けいたします』
縁談を受けるか受けないかの二択だったはずが、いつの間にか餅乙女か女豹かの二択になっている。大学教師を二十年以上やっている男に若輩者の双龍が敵うはずもなかった。
『それはよかった。この縁談がなかったら岩國家は店を立てなおせないからな』
『なぜそれを先に……』
『云ったらきみは迷わず受けてしまうだろう』
まさか、この自分が結婚。
狐につままれたような気分だったが、どうやら現実であったらしい。見合い写真は木の葉ではなかったようだ。
そして結婚当日まで双龍は妻となるひとから逃げまわり、いよいよ逃げられなくなった当日、白無垢を着て双龍のまえに現れた少女は写真よりもかわいらしかった。きゅん、としたあとで双龍は自分の太ももを力いっぱいつねった。
――この俺が女性にときめく? ばかな!
女の本性はおしなべて魔なのである。それはこの岩國初音も例外ではない。
惚れてはならぬ。ときめいてはならぬ。この純真可憐な餅乙女もいずれ姉たちのようにオホゝゝゝと本性を剥きだしにして高笑いするにちがいない!
縁談なぞ断りたかった。瀧双龍は孤高に生きるのだ。
だが自分が瀧家の長男で結婚から逃れられないのもまた事実。下手に断って、気がついたら女豹に調教されていたという事態だけは避けたい。
それにこれは女なるものを克服するよい機会だ。
双龍は戦に向かう戦国武将のような気持ちで初音との縁談を受けた。
そしてやらかした。
結婚式のあとに気絶。戦国時代なら切腹もののやらかしである。
その夜、双龍は女性恐怖症であることを初音にうちあけた。なんでそんな大事なことを隠していたのかと怒られても仕方ないのに初音は怒らなかった。それどころか恐怖症を治そうと優しく微笑んで云ってくれた。愛人もいらない、私の旦那さまはあなただけだとも。
これがあの姉たちと同じ女なのだろうか。
いや、そうなのだ。油断してはいけない。女性恐怖症を治すことと彼女と親しくなることはまたべつの話だ。
そして、絶対に彼女にときめいてはいけない新婚生活がはじまったのである――。
それは家にいた三人の女のせいである。長女の幹子は鬼であり、次女の葉子は悪魔であり、三女の美枝子は怪物だった。
三体の魔はいたいけな双龍をもてあそび、恐怖を植えつけた。裸にむいて女物の着物を着せるのはまだ可愛いほうである。悪質なときは裏山に連れていかれて放置され、長持に閉じこめられ、池に放りこまれた。
なによりも恐ろしいのは女たちの高笑いである。双龍が泣けば泣くほど女たちは喜び、オホゝゝゝと口元を着物の袖で隠して笑った。その際の高笑いが耳について眠れなかった夜は数えきれないほどある。
父親に言いつけたこともあったが、『女に泣かされるなど情けない。体を鍛えろ。ほら腕立て伏せだ。一、二、三、四』と何の役にも立たない根性論で片づけられただけだった。
母に相談しても似たようなものだった。『あらあら、あの子たちも仕方ないわねえ』とおっとり微笑まれて姉たちは沙汰なしだった。あの魔を三体も産んだだけあり、母はどこかずれていた。決定的にずれていた。
幼い双龍は悟った。この家に自分の味方はいない。父も母もすでに魔に取りこまれている。
そして絶望した。父も母もだめなら、もう自分を救える人間はこの世にいないではないか。
それからひたすら耐える日々がはじまった。
双龍は耐えた。顔に口紅を塗りたくられようが、双龍の苦手な蛾を着物につっこまれようが耐えた。いつかこの魔のものたちが祓われると信じて。
暇をもてあました魔のものたちの戯れは長女の幹子に縁談がちらほらくるようになったあたりでなくなった。魔にひとの心はないが、男の目を気にしてしおらしくなる女心はあったと思われる。
彼女たちは双龍を虐めなくなったが、げに恐ろしいのはここからだった。
幹子たちは完璧な姉の顔で双龍に接するようになったのである。
これが能なら面をつけかえたようなものである。鬼女がただの娘になったのである。
双龍は信じられなかった。ついこのまえまで自分を木にくくりつけて笑っていた女たちは、一切そんなことはなかったかのように『双ちゃん、飴玉食べる?』『勉強見てあげようか』『おはじきで遊びましょう』と弟をかわいがりはじめたのだ。
双龍は震えあがった。これはなにかの企みだと思った。だが姉たちはそれぞれ嫁づいていく日まで二度と正体を見せなかった。それがなおさら恐ろしかった。
――女は信じてはならぬ。
双龍の心にその戒めは深く深く刻まれた。
高等学校時代、帰りに女学生に待ちぶせされて文を差しだされたときがあった。双龍は拳銃をつきつけられたかのように悲鳴を上げてその場から走って逃げだした。袴にブーツ姿の少女ひとりに慄いて逃げだすなど日本男児の恥でしかないが、そのとき双龍に取れた作戦は『撤退』ひとつきりだったのである。
女は信じてはならぬ。関わってもならぬ。
戒めを胸に双龍は清い人生を送ってきた。
遊び人の友人がカフェーに入りびたって女給を口説いているときも、詞藻豊かな友人が叶わぬ恋に身をやつし傑作怪作を生みだしているときも彼の心にはだれもいなかった。
生涯、童貞。
それが双龍の目標であったが、なんの因果か教師になってすぐ縁談が舞いこんできてしまった。仲人、もとい怨敵は学生時代の恩師である。
『先生、この縁談を進めるならば私は腹を切ります』
『まあ待ちなさい』
かわいい子だろうと恩師は双龍に見合い写真を見せた。白くてもっちりした頬が餅のような小柄な少女だった。
あまり女性は感じない。
むむ……と悩んでいると、『とても気立てのよい子だ。最後に私が会ったのは彼女が四歳のときだが』『いまは××女学校に通っている。お嬢さましか通えないところだ』『上品で淑やかで品があって、あと上品な子らしい』と途中からふわふわした宣伝文句を並べてきた。
お嬢さまなら姉たちのように高笑いすることはないだろうか。
しかし、女である。いくら餅のようだとしてもまさか焼いて食ってしまうわけにいかない。女なのである。
むむむ……とうなっていると、恩師はもう一枚の見合い写真を見せてきた。餅乙女とはべつの、いまにも噛みついてきそうな女豹の目をした女の写真だった。
『岩國くんとこの娘さんがいやならこの女との縁談を進めるか。趣味は猛獣の調教らしい』
『岩國氏の娘さんとの縁談をお受けいたします』
縁談を受けるか受けないかの二択だったはずが、いつの間にか餅乙女か女豹かの二択になっている。大学教師を二十年以上やっている男に若輩者の双龍が敵うはずもなかった。
『それはよかった。この縁談がなかったら岩國家は店を立てなおせないからな』
『なぜそれを先に……』
『云ったらきみは迷わず受けてしまうだろう』
まさか、この自分が結婚。
狐につままれたような気分だったが、どうやら現実であったらしい。見合い写真は木の葉ではなかったようだ。
そして結婚当日まで双龍は妻となるひとから逃げまわり、いよいよ逃げられなくなった当日、白無垢を着て双龍のまえに現れた少女は写真よりもかわいらしかった。きゅん、としたあとで双龍は自分の太ももを力いっぱいつねった。
――この俺が女性にときめく? ばかな!
女の本性はおしなべて魔なのである。それはこの岩國初音も例外ではない。
惚れてはならぬ。ときめいてはならぬ。この純真可憐な餅乙女もいずれ姉たちのようにオホゝゝゝと本性を剥きだしにして高笑いするにちがいない!
縁談なぞ断りたかった。瀧双龍は孤高に生きるのだ。
だが自分が瀧家の長男で結婚から逃れられないのもまた事実。下手に断って、気がついたら女豹に調教されていたという事態だけは避けたい。
それにこれは女なるものを克服するよい機会だ。
双龍は戦に向かう戦国武将のような気持ちで初音との縁談を受けた。
そしてやらかした。
結婚式のあとに気絶。戦国時代なら切腹もののやらかしである。
その夜、双龍は女性恐怖症であることを初音にうちあけた。なんでそんな大事なことを隠していたのかと怒られても仕方ないのに初音は怒らなかった。それどころか恐怖症を治そうと優しく微笑んで云ってくれた。愛人もいらない、私の旦那さまはあなただけだとも。
これがあの姉たちと同じ女なのだろうか。
いや、そうなのだ。油断してはいけない。女性恐怖症を治すことと彼女と親しくなることはまたべつの話だ。
そして、絶対に彼女にときめいてはいけない新婚生活がはじまったのである――。



