ほおずき市の翌日、女学校時代の友人から手紙が届きました。
手紙の差出人の欄に書かれた名前はしっかり旦那さまのほうの名字になっていて、それに瞬きをしたあとで私は縁側で封を切りました。
手紙の内容は意外と結婚生活というものは退屈だという愚痴でした。こんなことをお話しできるのは初音さんだけですよ、と前置きしてつらつら旦那さまやお姑さんの話を書きつらねて、でも仕方ありませんわね、と最後に結んでいます。
『私たちはみな良妻となるべく教育を受けてきました。だからこれでよいのでしょう。
結婚して旦那さまに尽くすことこそが女の幸せなのですから』
『追伸 封筒に瀧初音とお名前を書いたあとで、あなたなら恋愛結婚をするかもしれないという話をよくしたことを思いだしました。お見合いだったのは残念ですけれど、でもそんなことを云っても仕方ありませんね。またみんなでオペラでも観にいきましょう』
――結婚して旦那さまに尽くすことこそが女の幸せ……
手紙を読みかえしていたらそこの部分が浮きあがって見えました。
女学校時代によく云われたことです。女は家を守り、夫を立てる。それが当然のことだと。
そのことについて私はなんの疑問も持ちませんでした。
でも――いまは女性が働くことはめずらしくない時代です。そして、彼女たちは結婚がいやだから働いているわけではないのです。誇りを持って働いている彼女たちの顔を見れば、それは聞かずともわかります。
結婚が女の幸せ。
ほんとうにそうだったのでしょうか。
やっぱり私はゆっくりとしか物事を考えられないみたいです。結婚することが幸せがどうかなんて、結婚するまえに考えなくてはいけないのに。
指輪をつけていない左手を日の光にかざしてみます。なにもつけていない手は、いつでもどこかに行っていいのですよ、とあのひとに云われているみたいです。
その手をしばらく見つめたあと、私は手紙をたたんで封筒のなかにもどしました。何度か失敗しながら。
今日の献立は白米と牛の煮込み、そしてなすのお味噌汁です。
本日、瀧家の献立と同じ献立の家はどれくらいあるのでしょう。旦那さまが好物だからなすのお味噌汁を作っている、という家は。
たくさんあるような気もしますし、このあたりにほんの一軒しかないような気もします。
夏の台所は暑くて汗が次から次へとでてきますが、それを苦と感じることはありませんでした。
これが自分のためだけだったならきっといやになっていたでしょう。でも双龍さまがいます。私の手料理を食べて、おいしい、と言ってくださる方が。
今日はすこし遅くなるので先に夕飯を食べていてください、と朝に双龍さまに云われていました。でも今日もふたり一緒に食べたくて、料理の仕込みをしたあとで私は縁側へとでました。
夕暮れの匂い。空が夜に包まれていく予感。
庭に置いたほおずきの鉢の傍らにしゃがみこんで朱い実を眺めたり、お隣の奥さんに頼まれてお醤油を貸したりしていると双龍さまが玄関戸を開けて帰ってきました。私は急いで玄関に向かいます。
「ただいまもどりました、初音さん」
「おかえりなさい、双龍さま」
彼がそうできないことはわかっているのに、このとき私はつい手を差しだしてしまいました。
双龍さまはどきりとしたように私の両手を眺め、あ、と私が手を引っこめようとしたとき「お願いできますか」と洋鞄を胸の高さまで持ちあげました。
「重いですよ。気をつけてください」
「――はい!」
本が何冊も入った洋鞄を書斎に運ぶと、壁にかけられた私の画が目に留まりました。
双龍さまはなんとご自身で描かれた私の画を飾っているのです。
『すこしでもあなたに慣れることができるように』とのことですが、画のなかの私は本物より美人で、お仕事をしている双龍さまをずっと見守っている彼女にすこしだけ妬けてしまいます。
なんて思っていても仕方ありません。
自分の部屋で洋服から浴衣に着替えているはずの双龍さまに「すぐにお夕飯の準備をしますね」とふすま越しに声をかけて、私は台所に行きました。
お味噌汁に入ったなすを噛みしめて、双龍さまは一言。
やはり初音さんの手料理にかなうものはありませんね、と目を細めながら云ってくださいました。
「そうだ、今日はお土産があるのですよ」
お風呂が沸くまで、藍色の空を見ながら縁側でお話するのがいつの間にか私たちの日常になっていました。縁側に腰かけたところで彼にそう云われ、私は顔を見上げます。
「まあ、なんでしょう」
「手をだしてください」
私は云われたとおり両手のひらを彼に差しだします。
双龍さまは浴衣の袂からなにかを取りだすと、私の左手を取ってくるりと甲を上にしました。
「――双龍さま!」
「平気です。いえ、平気でなければならないのです。たとえ……女性……の……手……だと……し……」
「双龍さま、汗が! 冷汗が!」
私に触れたとたん、彼のこめかみからだらだらと汗が流れはじめました。彼の手も激しく震えだします。
これではまた倒れてしまいます。
私は手を引きぬこうとしましたが、「どうか」と双龍さまがそれを止めました。私の手を強くつかんで。
「このままでいさせてください。これくらいできなければ、俺は、あなたに一生顔向けできない。女性の手であるまえに、これはあなたの手なんだ」
「でも」
「どうか、これだけはさせてください」
双龍さまは手ににぎりこんでいたものを親指と人差し指でつかみました。
それはセルロイドの指輪。
白い花の飾りがついた、おもちゃの指輪でした。
「――――」
思いもよらなかったお土産に私は言葉をなくします。
双龍さまはふんとおなかに力を込めると、その指輪を私の左手の薬指にはめました。
震える手で。
それでも、まっすぐに。
「……よかった。ぴったりですね」
「…………」
「昨夜、あなたがこれを気にしているように見えたので学校が終わったあとにくじに挑戦してきたのです。なかなか当たらなくて店の親爺に同情されてしまいましたよ。そうまでしてこのおもちゃがほしいのかい、と」
はい、これがいいのです、と双龍さまは答えたそうです。
この指輪でなくちゃいけないと。
「初音さん――」
双龍さまが目を丸くされているのを見て、私は自分がぽろぽろ泣いていることに気がつきました。
「――すみません……あれ? 私、どうして」彼の手から自分の手を引きぬき、ハンカチを取りだして拭きますがなかなか止まりませんでした。
悲しいのではないのです。
こんなに、こんなに嬉しいのに。
広告で見るような金の指輪や金剛石の指輪に憧れたときもありました。でも。
双龍さまがくれたこのおもちゃの指輪は、これ以上ないほどの輝きで私の指で光っています。
涙を拭いたあとで私は左手の指輪を右手で包みこみました。大事な、大事な私だけの宝物。
双龍さまは私が泣きやんだことにほっとしたように微笑み、いずれ、と云いました。
「ふたりで結婚指輪を買いにいきましょう。……俺たちが、もうすこし熟したら」
「……はい」
結婚することが女の幸せと私たちは教えられてきました。でも、それはちがうと思うのです。
ほかのだれでもない双龍さまに嫁いだことが。
ほかのだれでもない、私の幸せなのです。
ふと、日記帳をつけよう、と思いたちました。そうして双龍さまとお会いした日から綴ろう。
そうすれば――きっと何年経っても、日記帳を読みかえせばこんな日々が鮮やかによみがえってくれるはずですから。
「今宵はいい月ですね、初音さん」
「はい、……旦那さま」
――今度会ったら、と私は女学校時代のお友達に胸のなかで語りかけました。
旦那さまのことをお話ししますね。
私が恋に落ちた、たったひとりの旦那さまのことを。
夏の月はのんびりとした顔で私たちを見下ろしています。藍色の空はどこまでも晴れていて、明日も暑い日になることを予感させます。
――こういう気持ちのことを、英語では"love"と云うのですよ。
双龍さまが優しく云って、私の左手にそっと手を重ねました。
手紙の差出人の欄に書かれた名前はしっかり旦那さまのほうの名字になっていて、それに瞬きをしたあとで私は縁側で封を切りました。
手紙の内容は意外と結婚生活というものは退屈だという愚痴でした。こんなことをお話しできるのは初音さんだけですよ、と前置きしてつらつら旦那さまやお姑さんの話を書きつらねて、でも仕方ありませんわね、と最後に結んでいます。
『私たちはみな良妻となるべく教育を受けてきました。だからこれでよいのでしょう。
結婚して旦那さまに尽くすことこそが女の幸せなのですから』
『追伸 封筒に瀧初音とお名前を書いたあとで、あなたなら恋愛結婚をするかもしれないという話をよくしたことを思いだしました。お見合いだったのは残念ですけれど、でもそんなことを云っても仕方ありませんね。またみんなでオペラでも観にいきましょう』
――結婚して旦那さまに尽くすことこそが女の幸せ……
手紙を読みかえしていたらそこの部分が浮きあがって見えました。
女学校時代によく云われたことです。女は家を守り、夫を立てる。それが当然のことだと。
そのことについて私はなんの疑問も持ちませんでした。
でも――いまは女性が働くことはめずらしくない時代です。そして、彼女たちは結婚がいやだから働いているわけではないのです。誇りを持って働いている彼女たちの顔を見れば、それは聞かずともわかります。
結婚が女の幸せ。
ほんとうにそうだったのでしょうか。
やっぱり私はゆっくりとしか物事を考えられないみたいです。結婚することが幸せがどうかなんて、結婚するまえに考えなくてはいけないのに。
指輪をつけていない左手を日の光にかざしてみます。なにもつけていない手は、いつでもどこかに行っていいのですよ、とあのひとに云われているみたいです。
その手をしばらく見つめたあと、私は手紙をたたんで封筒のなかにもどしました。何度か失敗しながら。
今日の献立は白米と牛の煮込み、そしてなすのお味噌汁です。
本日、瀧家の献立と同じ献立の家はどれくらいあるのでしょう。旦那さまが好物だからなすのお味噌汁を作っている、という家は。
たくさんあるような気もしますし、このあたりにほんの一軒しかないような気もします。
夏の台所は暑くて汗が次から次へとでてきますが、それを苦と感じることはありませんでした。
これが自分のためだけだったならきっといやになっていたでしょう。でも双龍さまがいます。私の手料理を食べて、おいしい、と言ってくださる方が。
今日はすこし遅くなるので先に夕飯を食べていてください、と朝に双龍さまに云われていました。でも今日もふたり一緒に食べたくて、料理の仕込みをしたあとで私は縁側へとでました。
夕暮れの匂い。空が夜に包まれていく予感。
庭に置いたほおずきの鉢の傍らにしゃがみこんで朱い実を眺めたり、お隣の奥さんに頼まれてお醤油を貸したりしていると双龍さまが玄関戸を開けて帰ってきました。私は急いで玄関に向かいます。
「ただいまもどりました、初音さん」
「おかえりなさい、双龍さま」
彼がそうできないことはわかっているのに、このとき私はつい手を差しだしてしまいました。
双龍さまはどきりとしたように私の両手を眺め、あ、と私が手を引っこめようとしたとき「お願いできますか」と洋鞄を胸の高さまで持ちあげました。
「重いですよ。気をつけてください」
「――はい!」
本が何冊も入った洋鞄を書斎に運ぶと、壁にかけられた私の画が目に留まりました。
双龍さまはなんとご自身で描かれた私の画を飾っているのです。
『すこしでもあなたに慣れることができるように』とのことですが、画のなかの私は本物より美人で、お仕事をしている双龍さまをずっと見守っている彼女にすこしだけ妬けてしまいます。
なんて思っていても仕方ありません。
自分の部屋で洋服から浴衣に着替えているはずの双龍さまに「すぐにお夕飯の準備をしますね」とふすま越しに声をかけて、私は台所に行きました。
お味噌汁に入ったなすを噛みしめて、双龍さまは一言。
やはり初音さんの手料理にかなうものはありませんね、と目を細めながら云ってくださいました。
「そうだ、今日はお土産があるのですよ」
お風呂が沸くまで、藍色の空を見ながら縁側でお話するのがいつの間にか私たちの日常になっていました。縁側に腰かけたところで彼にそう云われ、私は顔を見上げます。
「まあ、なんでしょう」
「手をだしてください」
私は云われたとおり両手のひらを彼に差しだします。
双龍さまは浴衣の袂からなにかを取りだすと、私の左手を取ってくるりと甲を上にしました。
「――双龍さま!」
「平気です。いえ、平気でなければならないのです。たとえ……女性……の……手……だと……し……」
「双龍さま、汗が! 冷汗が!」
私に触れたとたん、彼のこめかみからだらだらと汗が流れはじめました。彼の手も激しく震えだします。
これではまた倒れてしまいます。
私は手を引きぬこうとしましたが、「どうか」と双龍さまがそれを止めました。私の手を強くつかんで。
「このままでいさせてください。これくらいできなければ、俺は、あなたに一生顔向けできない。女性の手であるまえに、これはあなたの手なんだ」
「でも」
「どうか、これだけはさせてください」
双龍さまは手ににぎりこんでいたものを親指と人差し指でつかみました。
それはセルロイドの指輪。
白い花の飾りがついた、おもちゃの指輪でした。
「――――」
思いもよらなかったお土産に私は言葉をなくします。
双龍さまはふんとおなかに力を込めると、その指輪を私の左手の薬指にはめました。
震える手で。
それでも、まっすぐに。
「……よかった。ぴったりですね」
「…………」
「昨夜、あなたがこれを気にしているように見えたので学校が終わったあとにくじに挑戦してきたのです。なかなか当たらなくて店の親爺に同情されてしまいましたよ。そうまでしてこのおもちゃがほしいのかい、と」
はい、これがいいのです、と双龍さまは答えたそうです。
この指輪でなくちゃいけないと。
「初音さん――」
双龍さまが目を丸くされているのを見て、私は自分がぽろぽろ泣いていることに気がつきました。
「――すみません……あれ? 私、どうして」彼の手から自分の手を引きぬき、ハンカチを取りだして拭きますがなかなか止まりませんでした。
悲しいのではないのです。
こんなに、こんなに嬉しいのに。
広告で見るような金の指輪や金剛石の指輪に憧れたときもありました。でも。
双龍さまがくれたこのおもちゃの指輪は、これ以上ないほどの輝きで私の指で光っています。
涙を拭いたあとで私は左手の指輪を右手で包みこみました。大事な、大事な私だけの宝物。
双龍さまは私が泣きやんだことにほっとしたように微笑み、いずれ、と云いました。
「ふたりで結婚指輪を買いにいきましょう。……俺たちが、もうすこし熟したら」
「……はい」
結婚することが女の幸せと私たちは教えられてきました。でも、それはちがうと思うのです。
ほかのだれでもない双龍さまに嫁いだことが。
ほかのだれでもない、私の幸せなのです。
ふと、日記帳をつけよう、と思いたちました。そうして双龍さまとお会いした日から綴ろう。
そうすれば――きっと何年経っても、日記帳を読みかえせばこんな日々が鮮やかによみがえってくれるはずですから。
「今宵はいい月ですね、初音さん」
「はい、……旦那さま」
――今度会ったら、と私は女学校時代のお友達に胸のなかで語りかけました。
旦那さまのことをお話ししますね。
私が恋に落ちた、たったひとりの旦那さまのことを。
夏の月はのんびりとした顔で私たちを見下ろしています。藍色の空はどこまでも晴れていて、明日も暑い日になることを予感させます。
――こういう気持ちのことを、英語では"love"と云うのですよ。
双龍さまが優しく云って、私の左手にそっと手を重ねました。



