死ぬかと思った。
初音を抱きとめたあとの双龍の率直な気持ちがそれだった。
彼女がけがをしなくてよかった。そう思ってほっとした直後、自分が『なに』を抱きしめているかに気づいてしまった。
――女。自分の手は、幼少期に散々自分をいじめて恐怖心を植えつけた女を抱きしめていたのである。
夫婦として暮らすうちにすこしは慣れたかと思った。だがそれは勘違いでしかなかったようだ。
自分の心に植えつけられた恐怖は根強く――そして、初音にたいしても変わっていなかったらしい。
悲しかった。初音を抱きしめて平静でいられない自分が。彼女を傷つけてしまったことが。
ほおずき市には夫婦と思しき男女ふたりもたくさん見かける。そのだれもが楽しそうだ。
双龍のように妻に触れるだけで失神しかける男などここにはいないだろう。そう思うと、なおさら自分が情けない。
浅草寺前の道を初音について歩いていると、彼女がある露店のまえで足を止めた。
なにかと見ればくじ引きをやっている。子供向けらしく、景品はブリキやセルロイドのおもちゃだ。
まさかほしいのだろうか。距離を開けて見守っていると、初音はおもちゃと自分の指を見比べている。
……指?
初音ではないが双龍が首をかしげたとき、彼女がちいさく溜め息をついた。そして「ほおずきを見にいきましょうか」と双龍を振りむいて笑った。はあ、とうなずく。
初音はなにを見ていたのだろう。気にはなったが、この人混みではぐれると困る。
下駄の音を鳴らしながら歩いていく彼女の後ろをついていき、ほおずきの鉢をひとつ購入した。
ほおずきの実は上のほうは朱いが下のほうはまだ緑色をしている。鉢をかかえた双龍の歩みに合わせて、そのどちらも色の区別なくゆらゆらと揺れる。
「私たちはここですね」と隣にいる初音がふと立ちどまって下のほうのほおずきを指さした。
「こことは?」
「まだ緑色。熟してないということです」
そして、と初音は屋台でそばを食べている中年夫婦の並んだ後姿を指さす。妻は慣れた様子で夫の汗を手ぬぐいで拭いてやっていた。
「あのひとたちはここ」と初音はその指で朱いほおずきを指さした。
あっけに取られる双龍の横で、大丈夫ですよ、と初音は微笑む。
「毎日毎日、手をかけて大事にお世話すればどんな花でも咲くしどんな実でも熟します。だからそんなに気を落とさないでください。私たちはまだまだ青くて、これから成長するというだけなのですから」
「……はい」
ああ、彼女はどれだけいい女なのだろう。せっかくの縁日に気絶しかけた夫をなじるどころか力づけてくれるなんて。
――ふと、彼女を抱きしめたいとつよく思った。
失神してもいい。頭からばりばりやられてもいい。ただ、彼女をこの両腕で力いっぱい抱きしめたい。
いや、そこまでじゃなくてもいい、せめて彼女の手にふれるくらいはできるようになりたい。
自分を導いてくれるこのひとの手をつかんで離さないように。
観音さまはこんな情けない願いでも聞きとどけてくださるのだろうか。
鉢をかかえたまま双龍が考えていると、そうだ、と初音が云った。
「先程おっしゃっていた……そう、『クリスマス・キャロル』。どういうお話なのですか?」
それは、とすこしだけ教師の口調になって双龍は答える。
「ひとは何歳になっても変われる、というお話です」
翌日、双龍は授業のあとで小森くんの席までいった。
「時間がかかってしまいましたが、"I love you"の答えがわかりましたよ」
「ほんとうですか!」
小森くんは前のめりになって「ぜひ聞かせてください」と云ってくる。
昨夜の初音の顔を思いだしながら双龍は答えた。
「"I love you"とは――たとえ相手が妖怪物の怪悪魔の類であってもよい、最後に骨まで食べられてしまうのだとしてもよい、一生連れ添っていきたいという気持ちです」
「瀧先生はいったいなにとご結婚されたのですか」
「もしくは往来でもかまわず彼女を抱きしめたいという衝動」
「ぼ……僕はいまのろけを聞かされているのですか」
「もしくは」
双龍がまぶたを閉じるとほおずきの実が揺れる。まだ青い実がふたつ、ガス灯に照らされて。
「このひとと一緒に熟していきたい。そんな、ありふれた想いです」
これで答えになったでしょうか、と双龍は尋ねる。はぁと小森くんは顔を赤くした。
「その……、先生が幸せそうでなによりです」
「そう見えますか」
「はい。学生たちの間でも噂です。ご結婚されてから先生は表情が明るくなったと。いえ、それまでが暗かったというわけではなく、なんというか、生き生きしているというか……」
勝手なことを云ってしまってすみません、とさらに赤くなる小森くんに「いいんですよ」と双龍は笑った。「それは事実ですから」と。
初音にどう思われているか気になってひとりであわてたり。彼女の時間をひとりじめしたいと思ったり。仕事中に突然、彼女に会いたくなったり。
それはいままでの双龍が知らなかったものだ。
家にはやく帰りたい、と帰路を急ぐ気持ちだって。
「よいものですね。家で帰りを待ってくれているひとがいるというのは」
「はぁ……」
この日以来。
双龍は、学生たちに陰で『愛妻先生』と呼ばれるようになる。
初音を抱きとめたあとの双龍の率直な気持ちがそれだった。
彼女がけがをしなくてよかった。そう思ってほっとした直後、自分が『なに』を抱きしめているかに気づいてしまった。
――女。自分の手は、幼少期に散々自分をいじめて恐怖心を植えつけた女を抱きしめていたのである。
夫婦として暮らすうちにすこしは慣れたかと思った。だがそれは勘違いでしかなかったようだ。
自分の心に植えつけられた恐怖は根強く――そして、初音にたいしても変わっていなかったらしい。
悲しかった。初音を抱きしめて平静でいられない自分が。彼女を傷つけてしまったことが。
ほおずき市には夫婦と思しき男女ふたりもたくさん見かける。そのだれもが楽しそうだ。
双龍のように妻に触れるだけで失神しかける男などここにはいないだろう。そう思うと、なおさら自分が情けない。
浅草寺前の道を初音について歩いていると、彼女がある露店のまえで足を止めた。
なにかと見ればくじ引きをやっている。子供向けらしく、景品はブリキやセルロイドのおもちゃだ。
まさかほしいのだろうか。距離を開けて見守っていると、初音はおもちゃと自分の指を見比べている。
……指?
初音ではないが双龍が首をかしげたとき、彼女がちいさく溜め息をついた。そして「ほおずきを見にいきましょうか」と双龍を振りむいて笑った。はあ、とうなずく。
初音はなにを見ていたのだろう。気にはなったが、この人混みではぐれると困る。
下駄の音を鳴らしながら歩いていく彼女の後ろをついていき、ほおずきの鉢をひとつ購入した。
ほおずきの実は上のほうは朱いが下のほうはまだ緑色をしている。鉢をかかえた双龍の歩みに合わせて、そのどちらも色の区別なくゆらゆらと揺れる。
「私たちはここですね」と隣にいる初音がふと立ちどまって下のほうのほおずきを指さした。
「こことは?」
「まだ緑色。熟してないということです」
そして、と初音は屋台でそばを食べている中年夫婦の並んだ後姿を指さす。妻は慣れた様子で夫の汗を手ぬぐいで拭いてやっていた。
「あのひとたちはここ」と初音はその指で朱いほおずきを指さした。
あっけに取られる双龍の横で、大丈夫ですよ、と初音は微笑む。
「毎日毎日、手をかけて大事にお世話すればどんな花でも咲くしどんな実でも熟します。だからそんなに気を落とさないでください。私たちはまだまだ青くて、これから成長するというだけなのですから」
「……はい」
ああ、彼女はどれだけいい女なのだろう。せっかくの縁日に気絶しかけた夫をなじるどころか力づけてくれるなんて。
――ふと、彼女を抱きしめたいとつよく思った。
失神してもいい。頭からばりばりやられてもいい。ただ、彼女をこの両腕で力いっぱい抱きしめたい。
いや、そこまでじゃなくてもいい、せめて彼女の手にふれるくらいはできるようになりたい。
自分を導いてくれるこのひとの手をつかんで離さないように。
観音さまはこんな情けない願いでも聞きとどけてくださるのだろうか。
鉢をかかえたまま双龍が考えていると、そうだ、と初音が云った。
「先程おっしゃっていた……そう、『クリスマス・キャロル』。どういうお話なのですか?」
それは、とすこしだけ教師の口調になって双龍は答える。
「ひとは何歳になっても変われる、というお話です」
翌日、双龍は授業のあとで小森くんの席までいった。
「時間がかかってしまいましたが、"I love you"の答えがわかりましたよ」
「ほんとうですか!」
小森くんは前のめりになって「ぜひ聞かせてください」と云ってくる。
昨夜の初音の顔を思いだしながら双龍は答えた。
「"I love you"とは――たとえ相手が妖怪物の怪悪魔の類であってもよい、最後に骨まで食べられてしまうのだとしてもよい、一生連れ添っていきたいという気持ちです」
「瀧先生はいったいなにとご結婚されたのですか」
「もしくは往来でもかまわず彼女を抱きしめたいという衝動」
「ぼ……僕はいまのろけを聞かされているのですか」
「もしくは」
双龍がまぶたを閉じるとほおずきの実が揺れる。まだ青い実がふたつ、ガス灯に照らされて。
「このひとと一緒に熟していきたい。そんな、ありふれた想いです」
これで答えになったでしょうか、と双龍は尋ねる。はぁと小森くんは顔を赤くした。
「その……、先生が幸せそうでなによりです」
「そう見えますか」
「はい。学生たちの間でも噂です。ご結婚されてから先生は表情が明るくなったと。いえ、それまでが暗かったというわけではなく、なんというか、生き生きしているというか……」
勝手なことを云ってしまってすみません、とさらに赤くなる小森くんに「いいんですよ」と双龍は笑った。「それは事実ですから」と。
初音にどう思われているか気になってひとりであわてたり。彼女の時間をひとりじめしたいと思ったり。仕事中に突然、彼女に会いたくなったり。
それはいままでの双龍が知らなかったものだ。
家にはやく帰りたい、と帰路を急ぐ気持ちだって。
「よいものですね。家で帰りを待ってくれているひとがいるというのは」
「はぁ……」
この日以来。
双龍は、学生たちに陰で『愛妻先生』と呼ばれるようになる。



