岩國初音、十八歳。女学校を卒業してすぐ知らない男のひとに嫁ぐことが決まりました。
旦那さまは瀧双龍という立派なお名前の方で、東京の高等学校で英語を教えていらっしゃいます。
瀧さまの御実家は歴史のある大家で、私が嫁げば父が営む呉服屋は支援を受けられるということでした。
瀧さまは花嫁に興味がないようです。結婚まえに顔を合わせることもなく、話は本人たちとは関係のないところで進み、怖いひとだったらどうしようと私はひそかにどきどきしていました。
ですが――当日、紋付き袴を着て私のまえに現れた旦那さまはとても素敵な殿方でした。
眉は薄く、鼻筋はすっきりしていて、目元は涼しげ。すこし眉間に力が入っていらっしゃるようなのが気になりますが、でも、大昔の公家とか貴族の方はこういう上品なお顔をされていたのではないでしょうか。
――こんなにきれいな男のひとがいるなんて。
綿帽子の下で私は目を丸くしました。男性といえば父か学校の先生しか知らなかった私に彼の存在は衝撃的でした。
――瀧さま、いえ、双龍さまとなら楽しい夫婦生活を送れそう!
斎主さまの祝詞を聞きながら私は私は期待に胸をふくらませました。
実は私と一緒に女学校に入った友達はみんな在学中に縁談が決まっていて、私は一番最後でした。
私が通っている学校は勉学に励む場というよりも花嫁修業の場としての側面が強く、在学中に声がかからない女子は恥ずかしいとまで云われてしまうのです。
でも私の友人たちはそのことでからかってくることはせず、むしろ『みんな初音さんには期待しているのよ』と励ましてくれました。
『私たちはみんな親の意思で嫁がされるけど、もしかしたら初音さんは恋愛結婚をしてしまうんじゃないかって』――と。
何度も云われるうちに私もその気になってしまっていて、だからほんとうはこの結婚は気が重かったのです。大好きなもなかも最近はみっつしか食べられなかったくらい。
恋愛結婚は無理でした。でも。
旦那さまに恋をすることなら、できるかもしれません。
これから彼と過ごす夫婦生活のことを考えると私の顔は勝手にゆるみました。いけない、と思って表情を引きしめて。
そののち。
「そっ……双龍さま!? 双龍さま――!?」
すべてが終わって控えの間にもどってくるなり。
旦那さまが、ぱたりと倒れてしまったのです。
「……ほんとうに面目ない」
あわててお医者さまを呼んでもらい診てもらいましたが、特に異常はないとのこと。結婚の支度で疲れが溜まっていたのだろうと結論づけ、お医者さまは道具をてきぱき片づけるとすぐに帰ってしまいました。
双龍さまのご両親はふがいない息子でと私たちに謝罪し、いえ謝らないでくださいと私の両親が返して、いえいえせっかくの結婚式の日に倒れるなんて――と云いあっているうちに双龍さまが目を覚まされました。
そして事態を確認したあと、ここにいる全員に「初音さんとふたりにしてもらえますか」と云いました。
そしてふたりきりになったあとで彼は云ったのです。
ほんとうに面目ない。まさか倒れるとは、と。
私は彼を元気づけようと微笑みます。
「お疲れだったのでしょう? こちらこそ気が利かずにすみません。あ、お水でも飲まれます?」
「……初音さん」
「はい?」
「あなたは……女性が怖い男についてどう思われますか」
私は水差しに伸ばそうとした手を止めました。
「ええと……?」と尋ねかえします。
「怖い、とは? お化けのようにでしょうか。それとも野良犬のようにでしょうか」
「……どちらかと云えば野良犬でしょう。お化けとちがって女性は実体がありますから」
「野良犬のような女性が怖い?」
「いえ、女性全般が怖いのです」
お化けは得体の知れないものだから怖いのです。野良犬は噛みついてくるから怖いのです。
でも世の女は得体が知れていますし噛みつくこともありません。はて、と私は首をかしげました。
「双龍さまは女に噛まれたことがあるのですか?」
「噛まれたことはさすがにないのですが……」
「似たようなことが?」
んん、と双龍さまは喉を鳴らします。
「……俺には三人の姉がおります。みなよそに嫁ぎましたが」
「今日はみなさまおそろいでしたね」
「はい。……女は三人集まれば姦しいと云いますが、弟が受ける被害はそんなものじゃない。俺は徹底的に姉たちに虐めぬかれました。特に意味もなく長持に閉じこめられたり、夜に裏山に連れていかれて放置されたり。姉たちがおとなになるとそんなことはなくなりましたが、いまでもそのときの恐怖が体から抜けません」
「恐怖……」
「そうです。俺は長じてなお姉たちが怖いのです。そして、姉たちと同じ“女性“が」
話が飲みこめてきました。
女が怖い。むかし姉に虐められたから。野良犬に噛まれたひとが犬全般を怖がるように、双龍さまは女そのものが苦手になってしまったというのです。
「では……もしかして、先ほどお倒れになったのも」
「ほんとうに申しわけない。同じ場にいた姉たちのプレッシャアに負けました」
「まあ……」
双龍さまのお姉さま方はとても上品でおきれいでした。いくら子供のときでも彼女たちが弟の双龍さまを虐めたなんてとても信じられませんが、彼がうそをつくとは思えません。
「そのうえ……」と双龍さまはつづけます。
「俺もついに妻を持つのかと。見知らぬ女性とこれからひとつ屋根の下で生活をともにするのかと思うと、体の震えが止まらなくなり」
「え?」
「そう考えると妹のようで落ちつけそうだと思っていたあなたのことまでやはり恐怖の対象になってしまい」
「え、え……?」
「緊張と恐ろしさのあまり、控えの間にもどってきたとたんに倒れてしまいました。まさかこんなことになるとは」
――双龍さまが倒れたことについて、なぜか私は関係ないと思っていました。
よくよく考えればないはずはありません。私も一応女で。双龍さまにとっては『妻』という、これから女の代表ともなるべき相手なのですから。
「……え……?」
いえ、でも、まさか。
双龍さまの話から導きだされる結論は。
「初音さん、誠に申しわけない。夫婦生活は無理かもしれません」
「まだ一緒に暮らしてもいないのに……っ!?」
旦那さまは瀧双龍という立派なお名前の方で、東京の高等学校で英語を教えていらっしゃいます。
瀧さまの御実家は歴史のある大家で、私が嫁げば父が営む呉服屋は支援を受けられるということでした。
瀧さまは花嫁に興味がないようです。結婚まえに顔を合わせることもなく、話は本人たちとは関係のないところで進み、怖いひとだったらどうしようと私はひそかにどきどきしていました。
ですが――当日、紋付き袴を着て私のまえに現れた旦那さまはとても素敵な殿方でした。
眉は薄く、鼻筋はすっきりしていて、目元は涼しげ。すこし眉間に力が入っていらっしゃるようなのが気になりますが、でも、大昔の公家とか貴族の方はこういう上品なお顔をされていたのではないでしょうか。
――こんなにきれいな男のひとがいるなんて。
綿帽子の下で私は目を丸くしました。男性といえば父か学校の先生しか知らなかった私に彼の存在は衝撃的でした。
――瀧さま、いえ、双龍さまとなら楽しい夫婦生活を送れそう!
斎主さまの祝詞を聞きながら私は私は期待に胸をふくらませました。
実は私と一緒に女学校に入った友達はみんな在学中に縁談が決まっていて、私は一番最後でした。
私が通っている学校は勉学に励む場というよりも花嫁修業の場としての側面が強く、在学中に声がかからない女子は恥ずかしいとまで云われてしまうのです。
でも私の友人たちはそのことでからかってくることはせず、むしろ『みんな初音さんには期待しているのよ』と励ましてくれました。
『私たちはみんな親の意思で嫁がされるけど、もしかしたら初音さんは恋愛結婚をしてしまうんじゃないかって』――と。
何度も云われるうちに私もその気になってしまっていて、だからほんとうはこの結婚は気が重かったのです。大好きなもなかも最近はみっつしか食べられなかったくらい。
恋愛結婚は無理でした。でも。
旦那さまに恋をすることなら、できるかもしれません。
これから彼と過ごす夫婦生活のことを考えると私の顔は勝手にゆるみました。いけない、と思って表情を引きしめて。
そののち。
「そっ……双龍さま!? 双龍さま――!?」
すべてが終わって控えの間にもどってくるなり。
旦那さまが、ぱたりと倒れてしまったのです。
「……ほんとうに面目ない」
あわててお医者さまを呼んでもらい診てもらいましたが、特に異常はないとのこと。結婚の支度で疲れが溜まっていたのだろうと結論づけ、お医者さまは道具をてきぱき片づけるとすぐに帰ってしまいました。
双龍さまのご両親はふがいない息子でと私たちに謝罪し、いえ謝らないでくださいと私の両親が返して、いえいえせっかくの結婚式の日に倒れるなんて――と云いあっているうちに双龍さまが目を覚まされました。
そして事態を確認したあと、ここにいる全員に「初音さんとふたりにしてもらえますか」と云いました。
そしてふたりきりになったあとで彼は云ったのです。
ほんとうに面目ない。まさか倒れるとは、と。
私は彼を元気づけようと微笑みます。
「お疲れだったのでしょう? こちらこそ気が利かずにすみません。あ、お水でも飲まれます?」
「……初音さん」
「はい?」
「あなたは……女性が怖い男についてどう思われますか」
私は水差しに伸ばそうとした手を止めました。
「ええと……?」と尋ねかえします。
「怖い、とは? お化けのようにでしょうか。それとも野良犬のようにでしょうか」
「……どちらかと云えば野良犬でしょう。お化けとちがって女性は実体がありますから」
「野良犬のような女性が怖い?」
「いえ、女性全般が怖いのです」
お化けは得体の知れないものだから怖いのです。野良犬は噛みついてくるから怖いのです。
でも世の女は得体が知れていますし噛みつくこともありません。はて、と私は首をかしげました。
「双龍さまは女に噛まれたことがあるのですか?」
「噛まれたことはさすがにないのですが……」
「似たようなことが?」
んん、と双龍さまは喉を鳴らします。
「……俺には三人の姉がおります。みなよそに嫁ぎましたが」
「今日はみなさまおそろいでしたね」
「はい。……女は三人集まれば姦しいと云いますが、弟が受ける被害はそんなものじゃない。俺は徹底的に姉たちに虐めぬかれました。特に意味もなく長持に閉じこめられたり、夜に裏山に連れていかれて放置されたり。姉たちがおとなになるとそんなことはなくなりましたが、いまでもそのときの恐怖が体から抜けません」
「恐怖……」
「そうです。俺は長じてなお姉たちが怖いのです。そして、姉たちと同じ“女性“が」
話が飲みこめてきました。
女が怖い。むかし姉に虐められたから。野良犬に噛まれたひとが犬全般を怖がるように、双龍さまは女そのものが苦手になってしまったというのです。
「では……もしかして、先ほどお倒れになったのも」
「ほんとうに申しわけない。同じ場にいた姉たちのプレッシャアに負けました」
「まあ……」
双龍さまのお姉さま方はとても上品でおきれいでした。いくら子供のときでも彼女たちが弟の双龍さまを虐めたなんてとても信じられませんが、彼がうそをつくとは思えません。
「そのうえ……」と双龍さまはつづけます。
「俺もついに妻を持つのかと。見知らぬ女性とこれからひとつ屋根の下で生活をともにするのかと思うと、体の震えが止まらなくなり」
「え?」
「そう考えると妹のようで落ちつけそうだと思っていたあなたのことまでやはり恐怖の対象になってしまい」
「え、え……?」
「緊張と恐ろしさのあまり、控えの間にもどってきたとたんに倒れてしまいました。まさかこんなことになるとは」
――双龍さまが倒れたことについて、なぜか私は関係ないと思っていました。
よくよく考えればないはずはありません。私も一応女で。双龍さまにとっては『妻』という、これから女の代表ともなるべき相手なのですから。
「……え……?」
いえ、でも、まさか。
双龍さまの話から導きだされる結論は。
「初音さん、誠に申しわけない。夫婦生活は無理かもしれません」
「まだ一緒に暮らしてもいないのに……っ!?」



