数日後、いつもの畑仕事の帰り道、雪菜は久しぶりに灯哉と顔を合わせた。
「……まだ続けているのか。その、畑仕事とやらを」
「はい。わたしにできることは、これくらいしかありませんから」
なぜここに灯哉がいるのだろう。夕暮れの畦道には、自分たちの他に人影はない。
わざわざ自分の帰りを待っていてくれたのだろうか。
灯哉はしばらく黙り込むと、ボソリと呟いた。
「……馬鹿正直な奴だ。おまえと話していると調子が狂うな」
その声音には、以前のような刺々しさはなかった。
その変化がうれしくて、雪菜は思わず小さく笑みをこぼす。
「灯哉様も、毎日大変でいらっしゃいますね。この国のこと、いつも考えていらっしゃるのでしょう?」
「……誰がそんなことを」
「婆やが教えてくれました」
あけっぴろげに言うと、灯哉は気まずそうに視線をそらした。それ以上なにも言わずに雪菜に背を向ける。
「まあいい。……さっさと帰るぞ。この辺りは比較的治安がいいとはいえ、夜は攻撃的な妖が出始めるからな」
(え……?)
そう言って先を歩き始めた彼の背を、雪菜は慌てて追いかける。
――もしかして灯哉様、迎えに来てくださったのですか?
その可能性が、あまりにもうれしくて、気恥ずかしくて、雪菜は出かかった言葉を呑み込んだ。
***
それから幾日か過ぎたある夜。けたたましい半鐘の音に、雪菜は飛び起きた。
「火事だ! 灯哉様のお力が……!」
(――火事ッ⁉)
部屋の障子を開け放ち、縁側に飛び出すと、眼下に広がる都の一角が赤々と燃え上がっているのが見えた。灯哉の力が大きく暴走し、火の海となっているのだろう。
雪菜は着の身着のまま、桔梗の制止に「自分にもできることがあるかもしれない」と訴え、牛車を借りて迷わず現場へと駆けつけた。
炎と煙が巻き上がり、逃げ惑う人々の中、火に巻かれかけた子供を見つける。
(あの子、前に一緒に畑仕事をしてくれた子だわ……!)
雪菜は胸もとから神楽鈴を取り出すと、天に掲げ、とっさに雪を呼ぶ。
「お願い! 雪呼びの力よ、届いて……!」
この場を救いたい一心で、雪菜は鈴を振り続ける。
シャン、シャン、と涼やかな音色が辺り一帯へと広がっていく。
自分の弱いはずの異能。けれどもこの時は、雪菜の必死の想いに応えるように、鈴の音が次第に重なり合い増幅していく。ピリピリと肌を刺すような振動。乾いた大地が、その音に呼応するようにかすかに揺れた。
そして、次の瞬間。
空気が一変した。
生ぬるかった風が、一気に冷気を孕んで吹き荒れる。灰色の空が、まるで応えるように渦を巻き、あたりの温度が急激に落ちていく。
やがて、天上から白い光が、ひとひら、またひとひらと粉雪が舞い落ちてきた。それは瞬く間に数を増やし、まるで堰を切ったように降りそそぎ始める。
それは、雪菜が今までに呼んでいた、触れれば消えてしまうような頼りない雪ではなかった。大粒の雪片が、次々と地上へと舞い降りてきたのだ。
「雪だ……!」
その場にいた誰かがつぶやいて、降ってくる雪を手のひらで受け止める。
街を喰らうかように燃え広がっていた炎に、次々と雪が触れていく。じゅう、と鋭い音を立てて、赤々と燃えていた火が瞬く間に勢いを失っていく。畑の焦げた土を、くすぶる炎を、ひとつひとつ丁寧に鎮めていくように。
パチ、パチ、と燃え尽きる音が小さくなり、やがて完全に静まり返る頃には、あたりにはしんと冷えた空気と、雪解けの湿った匂いだけが残されていた。
(終わった……の?)
雪菜は、必死に振り続けていた神楽鈴を持つ腕を下ろす。
火傷ひとつ負わずに済んださきほどの子供が、母親の腕の中で、きょとんとした顔で空を見上げていた。
雪菜は、抱きしめ合う親子の姿を目に入れ、どっと安堵の気持ちが込み上げる。
(――間に合った。よかった)
危機が去ったとわかって、全身から力が抜けていくのを感じる。
周囲からは妖たちの歓声があがっているので、きっと他の場所も鎮火できたのであろう。
――やり遂げたのだ、自分は。雪呼びの民の巫女としての務めを。
(……これで、灯哉様も、きっとご安心なさってくださるはず)
そう思った途端、緊張の糸が切れたのか、グラリと身体が傾いだ。それでも、異能の力を使い果たした自分に抗う術はない。
そのまま地面に倒れ込む――そう思って目を閉じたけれども、一向に身体がそれに叩きつけられる衝撃はこなかった。
「――雪菜ッ! しっかりしろ!」
代わりに感じたのは、自分に呼びかける焦りを含んだ声と、傾いだ身体を支える力強い腕の感触だった。ふわりの白檀の香りが鼻をくすぐる。
(これは、灯哉様がお部屋で焚かれていたお香の匂い――?)
ハッとして目を開けると、灯哉の端正な顔が、こちらを心配そうに見つめていた。
「おまえ、勝手に屋敷を飛び出してなにをしている! 無茶をするな!」
(お、怒っていらっしゃる……?)
このように彼が感情を表に出すことが珍しかったので、雪菜は身体の疲れも忘れて驚いてしまう。
「も、申し訳ございません……! 街に火が上がっているのを見て、居ても立っても居られず行動してしまいました……。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「……いや、俺も、取り乱してすまなかった。桔梗からおまえが街に向かったと聞かされて、駆けつけてみればおまえが炎に囲まれた中で舞を舞っていて――なんとか力を抑えなければと思いながらもおまえの舞に目を奪われてしまって、そうしたら今度はおまえが倒れそうになって……俺も、必死だったんだ」
ところどころつっかえながら、一息で灯哉が本音を吐露する。
(目を奪われて……って、わたしの舞に?)
まさか、灯哉に見られていたとは思わなかった。
不意に褒められたことがうれしくて、そして気恥ずかしくて、雪菜は顔が熱くなる。それと同時に、自分が彼に抱きとめられた体勢であったことに気づき、今度は心臓まで早鐘を打ち始める。
そんなこちらの心情が伝わったのか、ハッと我に返った様子の灯哉が、そっと雪菜の身体を離した。……彼の耳もとも、少しだけ赤くなっている。
「……ともかく、すまなかった。俺のせいで」
燃え尽きた家屋の残骸を前に、灯哉が拳を握りしめる。
彼から初めて聞く謝罪の言葉だった。
雪菜は驚きながらも、静かに首を振る。
「誰も灯哉様を責めてはおりません。皆、あなた様がどれほどこの国のことを想っておられるか、知っておりますから」
「……そんなことは知らん。それに、たった今おまえも見ただろう。俺は、己の力が強すぎて制御が利かんのだ。……俺は、この国に害を為す存在だ」
灯哉の炎鬼としての異能は、この国を治め、守るための力であると同時に、ひとたび制御を失えば、今のように市街に火を噴き上げ、国全体の気温すら押し上げてしまうのだろう。
(まるで、諸刃の剣だわ……)
その持って生まれた最強の異能が、彼を苦しめているのならば――。
雪菜は勇気を出すと、顔を伏せている灯哉の手をそっと取る。
「灯哉様。わたしにも、少しだけわかる気がするのです。誰にも頼れず、ひとりで抱え込んでしまう気持ちが。だからどうか、わたしを頼ってはいただけませんか?」
「……おまえを?」
「はい。言葉どおり、火事場の馬鹿力であったのかもしれませんが、わたしの異能で灯哉様の荒れ狂う炎を鎮めることができました。だからきっと、次も同じことが起きてしまったとしても、わたしがお力になれると思うのです」
次も上手くいくという保証はない。それでも、一度は上手くいったのだ。次もきっと、役に立てるはず。
雪菜が灯哉の言葉を待っていると、彼は口もとを少しだけほころばせた。
「……そうだな。おまえがいてくれたら、この力も多少はましになるのかもしれないな」
「灯哉様……」
「――ありがとう」
ぼそりと零された言葉に、雪菜は驚いて顔を上げる。灯哉は気恥ずかしそうに視線を逸らすと、それ以上なにも言わずに踵を返した。
その後ろ姿を見つめながら――雪菜は、彼との心の距離が少しずつ近づいていくような、そんな温かい気持ちを抱いていた。
「……まだ続けているのか。その、畑仕事とやらを」
「はい。わたしにできることは、これくらいしかありませんから」
なぜここに灯哉がいるのだろう。夕暮れの畦道には、自分たちの他に人影はない。
わざわざ自分の帰りを待っていてくれたのだろうか。
灯哉はしばらく黙り込むと、ボソリと呟いた。
「……馬鹿正直な奴だ。おまえと話していると調子が狂うな」
その声音には、以前のような刺々しさはなかった。
その変化がうれしくて、雪菜は思わず小さく笑みをこぼす。
「灯哉様も、毎日大変でいらっしゃいますね。この国のこと、いつも考えていらっしゃるのでしょう?」
「……誰がそんなことを」
「婆やが教えてくれました」
あけっぴろげに言うと、灯哉は気まずそうに視線をそらした。それ以上なにも言わずに雪菜に背を向ける。
「まあいい。……さっさと帰るぞ。この辺りは比較的治安がいいとはいえ、夜は攻撃的な妖が出始めるからな」
(え……?)
そう言って先を歩き始めた彼の背を、雪菜は慌てて追いかける。
――もしかして灯哉様、迎えに来てくださったのですか?
その可能性が、あまりにもうれしくて、気恥ずかしくて、雪菜は出かかった言葉を呑み込んだ。
***
それから幾日か過ぎたある夜。けたたましい半鐘の音に、雪菜は飛び起きた。
「火事だ! 灯哉様のお力が……!」
(――火事ッ⁉)
部屋の障子を開け放ち、縁側に飛び出すと、眼下に広がる都の一角が赤々と燃え上がっているのが見えた。灯哉の力が大きく暴走し、火の海となっているのだろう。
雪菜は着の身着のまま、桔梗の制止に「自分にもできることがあるかもしれない」と訴え、牛車を借りて迷わず現場へと駆けつけた。
炎と煙が巻き上がり、逃げ惑う人々の中、火に巻かれかけた子供を見つける。
(あの子、前に一緒に畑仕事をしてくれた子だわ……!)
雪菜は胸もとから神楽鈴を取り出すと、天に掲げ、とっさに雪を呼ぶ。
「お願い! 雪呼びの力よ、届いて……!」
この場を救いたい一心で、雪菜は鈴を振り続ける。
シャン、シャン、と涼やかな音色が辺り一帯へと広がっていく。
自分の弱いはずの異能。けれどもこの時は、雪菜の必死の想いに応えるように、鈴の音が次第に重なり合い増幅していく。ピリピリと肌を刺すような振動。乾いた大地が、その音に呼応するようにかすかに揺れた。
そして、次の瞬間。
空気が一変した。
生ぬるかった風が、一気に冷気を孕んで吹き荒れる。灰色の空が、まるで応えるように渦を巻き、あたりの温度が急激に落ちていく。
やがて、天上から白い光が、ひとひら、またひとひらと粉雪が舞い落ちてきた。それは瞬く間に数を増やし、まるで堰を切ったように降りそそぎ始める。
それは、雪菜が今までに呼んでいた、触れれば消えてしまうような頼りない雪ではなかった。大粒の雪片が、次々と地上へと舞い降りてきたのだ。
「雪だ……!」
その場にいた誰かがつぶやいて、降ってくる雪を手のひらで受け止める。
街を喰らうかように燃え広がっていた炎に、次々と雪が触れていく。じゅう、と鋭い音を立てて、赤々と燃えていた火が瞬く間に勢いを失っていく。畑の焦げた土を、くすぶる炎を、ひとつひとつ丁寧に鎮めていくように。
パチ、パチ、と燃え尽きる音が小さくなり、やがて完全に静まり返る頃には、あたりにはしんと冷えた空気と、雪解けの湿った匂いだけが残されていた。
(終わった……の?)
雪菜は、必死に振り続けていた神楽鈴を持つ腕を下ろす。
火傷ひとつ負わずに済んださきほどの子供が、母親の腕の中で、きょとんとした顔で空を見上げていた。
雪菜は、抱きしめ合う親子の姿を目に入れ、どっと安堵の気持ちが込み上げる。
(――間に合った。よかった)
危機が去ったとわかって、全身から力が抜けていくのを感じる。
周囲からは妖たちの歓声があがっているので、きっと他の場所も鎮火できたのであろう。
――やり遂げたのだ、自分は。雪呼びの民の巫女としての務めを。
(……これで、灯哉様も、きっとご安心なさってくださるはず)
そう思った途端、緊張の糸が切れたのか、グラリと身体が傾いだ。それでも、異能の力を使い果たした自分に抗う術はない。
そのまま地面に倒れ込む――そう思って目を閉じたけれども、一向に身体がそれに叩きつけられる衝撃はこなかった。
「――雪菜ッ! しっかりしろ!」
代わりに感じたのは、自分に呼びかける焦りを含んだ声と、傾いだ身体を支える力強い腕の感触だった。ふわりの白檀の香りが鼻をくすぐる。
(これは、灯哉様がお部屋で焚かれていたお香の匂い――?)
ハッとして目を開けると、灯哉の端正な顔が、こちらを心配そうに見つめていた。
「おまえ、勝手に屋敷を飛び出してなにをしている! 無茶をするな!」
(お、怒っていらっしゃる……?)
このように彼が感情を表に出すことが珍しかったので、雪菜は身体の疲れも忘れて驚いてしまう。
「も、申し訳ございません……! 街に火が上がっているのを見て、居ても立っても居られず行動してしまいました……。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「……いや、俺も、取り乱してすまなかった。桔梗からおまえが街に向かったと聞かされて、駆けつけてみればおまえが炎に囲まれた中で舞を舞っていて――なんとか力を抑えなければと思いながらもおまえの舞に目を奪われてしまって、そうしたら今度はおまえが倒れそうになって……俺も、必死だったんだ」
ところどころつっかえながら、一息で灯哉が本音を吐露する。
(目を奪われて……って、わたしの舞に?)
まさか、灯哉に見られていたとは思わなかった。
不意に褒められたことがうれしくて、そして気恥ずかしくて、雪菜は顔が熱くなる。それと同時に、自分が彼に抱きとめられた体勢であったことに気づき、今度は心臓まで早鐘を打ち始める。
そんなこちらの心情が伝わったのか、ハッと我に返った様子の灯哉が、そっと雪菜の身体を離した。……彼の耳もとも、少しだけ赤くなっている。
「……ともかく、すまなかった。俺のせいで」
燃え尽きた家屋の残骸を前に、灯哉が拳を握りしめる。
彼から初めて聞く謝罪の言葉だった。
雪菜は驚きながらも、静かに首を振る。
「誰も灯哉様を責めてはおりません。皆、あなた様がどれほどこの国のことを想っておられるか、知っておりますから」
「……そんなことは知らん。それに、たった今おまえも見ただろう。俺は、己の力が強すぎて制御が利かんのだ。……俺は、この国に害を為す存在だ」
灯哉の炎鬼としての異能は、この国を治め、守るための力であると同時に、ひとたび制御を失えば、今のように市街に火を噴き上げ、国全体の気温すら押し上げてしまうのだろう。
(まるで、諸刃の剣だわ……)
その持って生まれた最強の異能が、彼を苦しめているのならば――。
雪菜は勇気を出すと、顔を伏せている灯哉の手をそっと取る。
「灯哉様。わたしにも、少しだけわかる気がするのです。誰にも頼れず、ひとりで抱え込んでしまう気持ちが。だからどうか、わたしを頼ってはいただけませんか?」
「……おまえを?」
「はい。言葉どおり、火事場の馬鹿力であったのかもしれませんが、わたしの異能で灯哉様の荒れ狂う炎を鎮めることができました。だからきっと、次も同じことが起きてしまったとしても、わたしがお力になれると思うのです」
次も上手くいくという保証はない。それでも、一度は上手くいったのだ。次もきっと、役に立てるはず。
雪菜が灯哉の言葉を待っていると、彼は口もとを少しだけほころばせた。
「……そうだな。おまえがいてくれたら、この力も多少はましになるのかもしれないな」
「灯哉様……」
「――ありがとう」
ぼそりと零された言葉に、雪菜は驚いて顔を上げる。灯哉は気恥ずかしそうに視線を逸らすと、それ以上なにも言わずに踵を返した。
その後ろ姿を見つめながら――雪菜は、彼との心の距離が少しずつ近づいていくような、そんな温かい気持ちを抱いていた。


