霊山の奥深く、しめ縄の張られた霊岩の前。雪菜は白装束に身を包み、同行していた里長と共にポツンと立っていた。吹雪いている白雪が、雪菜の頬を打つ。
(……冷たい)
それだけが、自分を現実に引き戻してくれる気がした。
(……これからわたしは、炎鬼様の花嫁として嫁ぐのね)
まるで現実味がなく、まるで夢物語のようだった。
……自分は、ここで炎鬼に喰われて命を終えるかもしれない。
そうかもしれないし、常世へ嫁ぐことで自分の人生を変えられるかもしれない。
人生が終わるのか、それともここから始まるのか――天に任せるしかなかった。
雪菜が霊岩に向かう朝、一応の格好として見送りに出た父と継母は、多くを語らずに自分を送り出した。氷華に至っては、見送りにすら来なかった。
寂しさがないと言えば嘘になる。生まれ育った里を離れるのだ。けれど、長年積み重なった虐げの記憶を思えば、この里を離れることに、どこか安堵してもいた。それだけで、胸の奥がわずかに軽くなる気がした。
「……雪菜。覚悟は決まったか」
里長が低い声で口を開き、雪菜は現実に引き戻される。
「この霊岩が、現世と常世をつなぐ門のひとつだ。……私が霊力でもって門を開く。そうすれば、おまえは常世へ渡ることができるはずだ。炎鬼様は、おまえが渡った先――常世側の霊岩の元にいらっしゃるだろう」
「……はい。承知いたしました」
雪菜は言葉少なに返す。
自分には、里長の言いなりになることしかできない。ただ流れに身を任せるだけだ。
雪菜は諦めにも似た気持ちで、そっと目を閉じる。それを覚悟が決まったと判断したのか、里長が大幣(おおぬさ)と呼ばれる、紙垂(しで)がついた棒を振った。途端、霊岩の表面に淡い光の紋様が浮かび上がる。
勇気を振り絞った雪菜が一歩を踏み出すと、視界がまばゆい光に包まれた。
***
次にまぶたを開けたとき、雪菜が立っていたのは見知らぬ岩肌の上だった。
空気が違う。里で感じていた肌を刺すような冷たさの代わりに、むっとするほどの熱気がまとわりついてくる。
見渡す限り、赤茶けた大地が広がっていた。緑はほとんどなく、干からびた川床がひび割れている。遠くに見える山岳の都からは、うっすらと黒い煙が立ち上っていた。
(これが……常世の『火ノ国(ひのくに)』)
妖の王――炎鬼の治める、荒れ狂う炎の国。
故郷の雪景色とはあまりにも違う光景に、雪菜はしばらく声も出せずにいた。
雪菜がア然として立ち尽くしていると、自分の目の前に、突如として炎の渦が巻き起こった。その内から、ひとりの青年が姿を現す。
(あ……)
その青年は、黒髪に燃えるような赤い差し色の入った美しい髪をしていた。金色の瞳は剣の切っ先のように鋭く、整いすぎた顔立ちには笑みのひとつも浮かんでいない。全身から立ち昇る陽炎のような気配に、雪菜は思わず息を呑んだ。
(もしかして、この方が……)
「……おまえが、今代の贄か」
低く抑えた声。雪菜は震え上がりながら、深々と頭を下げる。
「は、はい。……雪菜と申します。雪籠りの里よりやってまいりました。あの、貴方様はもしや――」
「ああ。今代の炎鬼、灯哉(とうや)だ。俺の花嫁となる、雪呼びの民の娘を迎えにきたところだ。それが雪菜……おまえだな?」
灯哉は、値踏みするような視線を雪菜に向けた。二十五という歳には見合わない、王者の風格を備えたまなざしだった。
頭を下げ続ける雪菜に、灯哉は興味なさそうに鼻を鳴らす。
「聞いていた話と違うな。雪呼びの民の中で、もっとも強い異能を持つ者が来るはずだと聞いていたが」
その言葉に、雪菜の胸がちくりと痛む。覚悟をしていたとはいえ、古傷のような痛みだった。灯哉には、見ただけで自分の霊力が弱いものだとわかったのだろう。
「……も、申し訳ございません。おっしゃるとおり、自分は一族の中でもっとも異能の弱い者です。わたしのような者でお役に立てるかわかりませんが、けれど精一杯、灯哉様にお仕えしたい所存でございます」
「――弱い者が来て、なにになる」
ピシャリ、と灯哉が言い放った。雪菜は心臓がすくみ上がる。
弱い者、中途半端な者はいらない、灯哉の言葉の端々から伝わってくる。それは、一国を治める者としての厳しさだった。
言葉を失っている雪菜に、灯哉は鋭い視線を向ける。
「まあ、おまえが選ばれたのならば仕方がない。言っておくが、これはあくまで政略結婚だ。おまえを愛するつもりも、慈しむつもりもない。だが、ただ飾りとして置いておくつもりもない。――俺と取引をしないか」
「取引、ですか……?」
雪菜が戸惑いながら顔を上げると、灯哉は淡々と条件を並べ始める。
「ああ。俺の異能は炎を操るものだが――時折、俺自身の意思とは関係なく暴走することがある。今のこの気候も、その成れの果てだ。おまえたち雪呼びの民の力は、その炎を鎮めることができるそうだな」
「はい。……ですが、わたしは一族の中でも、もっとも弱い力しか持ちません」
うなだれる雪菜に、灯哉は承知しているという声音で答える。
「知っている。それでも、まったくの無力ではないのだろう。契約期間は、俺が己の異能を完全に制御できるようになるまでだ。……それがいつになるかは、俺自身にもわからんがな」
灯哉がわずかに悔しそうに眉根を寄せてから、先を続ける。
「その間、おまえには俺の契約上の花嫁として、衣食住を保証する代わりにこの国に留まってもらう。俺の力が暴走した際にはその都度、雪を呼んで鎮めろ。それが、おまえに課す役目だ」
「……わたしの、役目。灯哉様は、わたしのような無能にも役目を与えてくださるのですね」
「無能とは言っていない。弱い、と言っただけだ。おまえは己を卑下しすぎだ。改めろ」
「は、はい……。申し訳ございません」
あまりにもぶっきらぼうな物言いだったけれど、灯哉に役目を与えられたことは、雪菜にとっては朗報だった。
雪菜は顔を上げ、赤茶けた大地を見渡した。乾いた土。荒れ狂う炎の気配。このような過酷な環境では、ここで暮らす民は厳しい生活を強いられているだろう。
(わたしの雪呼びの民としての異能が、少しでもお役に立てたらいい)
一抹の希望を胸に抱きながら、雪菜は一歩進み出る。
「灯哉様。あの、わたしのような者に、なにができるかはまだわかりませんが……それでも、せめてこの国のために、わたしにできることを探させていただけませんでしょうか」
雪菜の申し出が意外であったのか、灯哉はわずかに目を見開き、こちらを見つめる。
まるで、少しだけ見直したとでも言わんばかりに。
「……弱々しい女だと思っていたが、存外、図太いところもあるようだな。好きにしろ」
灯哉は振り返ることなくつぶやくと、山岳の都へと歩き去っていった。その背中を見つめながら、雪菜は小さく拳を握りしめる。
(今、灯哉様は〝好きにしろ〟とおっしゃったわ。それは、わたしに自由を与えてくださったということ。……きっと、根はお優しい方なのだわ)
異能が弱くとも、ここでなら、自分のやり方で誰かの役に立てるかもしれない。
乾いた風が、雪菜の白装束の裾を揺らした。
(……冷たい)
それだけが、自分を現実に引き戻してくれる気がした。
(……これからわたしは、炎鬼様の花嫁として嫁ぐのね)
まるで現実味がなく、まるで夢物語のようだった。
……自分は、ここで炎鬼に喰われて命を終えるかもしれない。
そうかもしれないし、常世へ嫁ぐことで自分の人生を変えられるかもしれない。
人生が終わるのか、それともここから始まるのか――天に任せるしかなかった。
雪菜が霊岩に向かう朝、一応の格好として見送りに出た父と継母は、多くを語らずに自分を送り出した。氷華に至っては、見送りにすら来なかった。
寂しさがないと言えば嘘になる。生まれ育った里を離れるのだ。けれど、長年積み重なった虐げの記憶を思えば、この里を離れることに、どこか安堵してもいた。それだけで、胸の奥がわずかに軽くなる気がした。
「……雪菜。覚悟は決まったか」
里長が低い声で口を開き、雪菜は現実に引き戻される。
「この霊岩が、現世と常世をつなぐ門のひとつだ。……私が霊力でもって門を開く。そうすれば、おまえは常世へ渡ることができるはずだ。炎鬼様は、おまえが渡った先――常世側の霊岩の元にいらっしゃるだろう」
「……はい。承知いたしました」
雪菜は言葉少なに返す。
自分には、里長の言いなりになることしかできない。ただ流れに身を任せるだけだ。
雪菜は諦めにも似た気持ちで、そっと目を閉じる。それを覚悟が決まったと判断したのか、里長が大幣(おおぬさ)と呼ばれる、紙垂(しで)がついた棒を振った。途端、霊岩の表面に淡い光の紋様が浮かび上がる。
勇気を振り絞った雪菜が一歩を踏み出すと、視界がまばゆい光に包まれた。
***
次にまぶたを開けたとき、雪菜が立っていたのは見知らぬ岩肌の上だった。
空気が違う。里で感じていた肌を刺すような冷たさの代わりに、むっとするほどの熱気がまとわりついてくる。
見渡す限り、赤茶けた大地が広がっていた。緑はほとんどなく、干からびた川床がひび割れている。遠くに見える山岳の都からは、うっすらと黒い煙が立ち上っていた。
(これが……常世の『火ノ国(ひのくに)』)
妖の王――炎鬼の治める、荒れ狂う炎の国。
故郷の雪景色とはあまりにも違う光景に、雪菜はしばらく声も出せずにいた。
雪菜がア然として立ち尽くしていると、自分の目の前に、突如として炎の渦が巻き起こった。その内から、ひとりの青年が姿を現す。
(あ……)
その青年は、黒髪に燃えるような赤い差し色の入った美しい髪をしていた。金色の瞳は剣の切っ先のように鋭く、整いすぎた顔立ちには笑みのひとつも浮かんでいない。全身から立ち昇る陽炎のような気配に、雪菜は思わず息を呑んだ。
(もしかして、この方が……)
「……おまえが、今代の贄か」
低く抑えた声。雪菜は震え上がりながら、深々と頭を下げる。
「は、はい。……雪菜と申します。雪籠りの里よりやってまいりました。あの、貴方様はもしや――」
「ああ。今代の炎鬼、灯哉(とうや)だ。俺の花嫁となる、雪呼びの民の娘を迎えにきたところだ。それが雪菜……おまえだな?」
灯哉は、値踏みするような視線を雪菜に向けた。二十五という歳には見合わない、王者の風格を備えたまなざしだった。
頭を下げ続ける雪菜に、灯哉は興味なさそうに鼻を鳴らす。
「聞いていた話と違うな。雪呼びの民の中で、もっとも強い異能を持つ者が来るはずだと聞いていたが」
その言葉に、雪菜の胸がちくりと痛む。覚悟をしていたとはいえ、古傷のような痛みだった。灯哉には、見ただけで自分の霊力が弱いものだとわかったのだろう。
「……も、申し訳ございません。おっしゃるとおり、自分は一族の中でもっとも異能の弱い者です。わたしのような者でお役に立てるかわかりませんが、けれど精一杯、灯哉様にお仕えしたい所存でございます」
「――弱い者が来て、なにになる」
ピシャリ、と灯哉が言い放った。雪菜は心臓がすくみ上がる。
弱い者、中途半端な者はいらない、灯哉の言葉の端々から伝わってくる。それは、一国を治める者としての厳しさだった。
言葉を失っている雪菜に、灯哉は鋭い視線を向ける。
「まあ、おまえが選ばれたのならば仕方がない。言っておくが、これはあくまで政略結婚だ。おまえを愛するつもりも、慈しむつもりもない。だが、ただ飾りとして置いておくつもりもない。――俺と取引をしないか」
「取引、ですか……?」
雪菜が戸惑いながら顔を上げると、灯哉は淡々と条件を並べ始める。
「ああ。俺の異能は炎を操るものだが――時折、俺自身の意思とは関係なく暴走することがある。今のこの気候も、その成れの果てだ。おまえたち雪呼びの民の力は、その炎を鎮めることができるそうだな」
「はい。……ですが、わたしは一族の中でも、もっとも弱い力しか持ちません」
うなだれる雪菜に、灯哉は承知しているという声音で答える。
「知っている。それでも、まったくの無力ではないのだろう。契約期間は、俺が己の異能を完全に制御できるようになるまでだ。……それがいつになるかは、俺自身にもわからんがな」
灯哉がわずかに悔しそうに眉根を寄せてから、先を続ける。
「その間、おまえには俺の契約上の花嫁として、衣食住を保証する代わりにこの国に留まってもらう。俺の力が暴走した際にはその都度、雪を呼んで鎮めろ。それが、おまえに課す役目だ」
「……わたしの、役目。灯哉様は、わたしのような無能にも役目を与えてくださるのですね」
「無能とは言っていない。弱い、と言っただけだ。おまえは己を卑下しすぎだ。改めろ」
「は、はい……。申し訳ございません」
あまりにもぶっきらぼうな物言いだったけれど、灯哉に役目を与えられたことは、雪菜にとっては朗報だった。
雪菜は顔を上げ、赤茶けた大地を見渡した。乾いた土。荒れ狂う炎の気配。このような過酷な環境では、ここで暮らす民は厳しい生活を強いられているだろう。
(わたしの雪呼びの民としての異能が、少しでもお役に立てたらいい)
一抹の希望を胸に抱きながら、雪菜は一歩進み出る。
「灯哉様。あの、わたしのような者に、なにができるかはまだわかりませんが……それでも、せめてこの国のために、わたしにできることを探させていただけませんでしょうか」
雪菜の申し出が意外であったのか、灯哉はわずかに目を見開き、こちらを見つめる。
まるで、少しだけ見直したとでも言わんばかりに。
「……弱々しい女だと思っていたが、存外、図太いところもあるようだな。好きにしろ」
灯哉は振り返ることなくつぶやくと、山岳の都へと歩き去っていった。その背中を見つめながら、雪菜は小さく拳を握りしめる。
(今、灯哉様は〝好きにしろ〟とおっしゃったわ。それは、わたしに自由を与えてくださったということ。……きっと、根はお優しい方なのだわ)
異能が弱くとも、ここでなら、自分のやり方で誰かの役に立てるかもしれない。
乾いた風が、雪菜の白装束の裾を揺らした。


