(いつまで、このような日々が続くんだろう……)
氷華の髪を梳きながら、雪菜は心の内でため息を吐く。
雪菜の異能は、一族の中でも際立って劣っていた。状況を嘆いても変わることはない。だから、異能が弱く出来損ないと呼ばれる自分は、せめて家のことで役に立たなければと思っているのだ。
髪を結い終えると、氷華はようやく立ち上がり、雪菜を見下ろした。
「ねえ、朝餉、まだ? お腹すいたんだけど」
「あ……。もうすぐできますので、少しだけお待ちください」
自分に休む暇などない。雪菜は慌てて身をひるがえし、台所へと駆け込んだ。継母に厳しく口を出されながら朝の支度を終えたところで――村の里長が家を訪れた。
「――清吉(せいきち)、おるか。雪菜と氷華も一緒か?」
「里長? はい、娘たちもおりますが」
清吉は囲炉裏の前から立ち上がると、里長を出迎える。里長は室内に雪菜と氷華がいることを確認すると、家に足を踏み入れることなく話を続ける。
「……火ノ国の妖の王から、一族の娘をひとり差し出すようにと通達を受けた。結婚適齢期を迎えた娘は例外なく対象となろう。中でも、もっとも強い異能を持つ娘がふさわしいとされておることは当然に知っておろうな」
「……それは、氷華ということでしょうか」
継母が思わず声を漏らす。青ざめたその顔には、明らかな動揺があった。
――〝無能〟の自分には、どうすることもできない……。
ただ状況に呑まれるまま、雪菜は黙って事の成り行きを見守ることしかできない。
氷華が、ハッと顔を上げる。それまでの勝ち気な表情が、みるみるうちに強張っていった。
「……嫌よ。わたくしは絶対に嫌。妖の王のところになんて、行きたくない」
「氷華……」
「常世は妖の暮らす恐ろしいところよ。そんな地獄に行ったら、妖に喰われて死んでしまうわ。お母さんだってわかってるでしょう。わたくしが一番強い異能を持ってるからって、それで常世に嫁がされるなんて、そんなの理不尽だわ」
氷華は震える声で言い募ると、ふいに雪菜へと視線を向けた。……嫌な、予感がした。
「――わたくし、いいことを思いついたわ。お姉ちゃんが行けばいいじゃない」
「え……?」
「だって、お姉ちゃんは異能が弱いんだもの。この里にいたって、大した役には立てないでしょう。だったら、常世に贄として差し出されることくらいしか、お姉ちゃんが一族の役に立てることなんてないんじゃない?」
あまりにも唐突な言葉に、その場の空気が凍りついた。父も継母も、そして里長すらも、なにも言えずに立ち尽くしている。〝無能〟を炎鬼に嫁がせるなど、今までに例を見ないことなのだろう。
雪菜はうつむいたまま、拳をきつく握りしめた。胸の奥が、じんと痛む。
(……そう、よね。わたしには、それくらいしかできないもの)
悲しみよりも先に浮かんだのは、奇妙なほどの静けさだった。長年虐げられてきた日々の中で、いつしか雪菜は、自分の価値をそう定めてしまっていたのかもしれない。
諦めに似た気持ちと同時に――胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。
(……そうだ、常世に渡れば、もうこの暮らしから解放される。氷華に虐げられることも、出来損ないと呼ばれ続けることもない)
妖の王に嫁ぐことがどれほど過酷な運命であっても、この里での日々よりはましなのかもしれない。……こんな自分を受け入れてもらえるかはわからないけれど。
そんな想いが、雪菜の中で静かに芽生え始める。
(……うん、心は決まったわ。どんな結果になるかはわからないけれど……それでも、少しでも現実を変えたい。だから、自分で一歩を踏み出してみよう)
雪菜は顔を上げ、里長をまっすぐに見据えた。
「……あの、里長様。わたしでよろしければ、自分が常世へ参ります」
「雪菜。おまえ……本当にいいのか。霊力の少ないおまえでは、炎鬼の機嫌を損ね、命を奪われるかもしれないぞ」
清吉が驚いたようにこちらを見る。
(……一応は、娘の心配をしてくれるのね)
それに少しだけ救われた気持ちになり、雪菜は小さく微笑んでみせた。
「はい。……わたしは里の中で一番異能の力が弱い、出来損ないですから。これくらいしか、一族のお役に立てることがございません。氷華の代わりに、わたしが参ります」
「お姉ちゃん……。感謝するわ。ご自分の立場をよくわきまえていらっしゃるのね」
氷華がわざとらしく涙声を出している。雪菜はあえてそちらを見ないようにした。
義妹が内心でほくそ笑んでいることなど、わかりきっているからだ。
里長は、雪菜と氷華を交互に見やり、重く息を吐く。
「……わかった。雪菜の申し出、確かに受け取った。異能の強弱にかかわらず、一族の娘であることに変わりはない。だが、これは軽い決断ではないぞ。失敗すれば、一族の皆を危険な目に遭わせるかもしれぬ」
「承知しております」
雪菜は板敷の間に三つ指を突く。その場で、里長に向けて深々と頭を垂れた。
「――どうか、わたしに妖の王の許嫁となる栄誉をお与えください。必ず、一族の役目を全うしてまいります」
氷華の髪を梳きながら、雪菜は心の内でため息を吐く。
雪菜の異能は、一族の中でも際立って劣っていた。状況を嘆いても変わることはない。だから、異能が弱く出来損ないと呼ばれる自分は、せめて家のことで役に立たなければと思っているのだ。
髪を結い終えると、氷華はようやく立ち上がり、雪菜を見下ろした。
「ねえ、朝餉、まだ? お腹すいたんだけど」
「あ……。もうすぐできますので、少しだけお待ちください」
自分に休む暇などない。雪菜は慌てて身をひるがえし、台所へと駆け込んだ。継母に厳しく口を出されながら朝の支度を終えたところで――村の里長が家を訪れた。
「――清吉(せいきち)、おるか。雪菜と氷華も一緒か?」
「里長? はい、娘たちもおりますが」
清吉は囲炉裏の前から立ち上がると、里長を出迎える。里長は室内に雪菜と氷華がいることを確認すると、家に足を踏み入れることなく話を続ける。
「……火ノ国の妖の王から、一族の娘をひとり差し出すようにと通達を受けた。結婚適齢期を迎えた娘は例外なく対象となろう。中でも、もっとも強い異能を持つ娘がふさわしいとされておることは当然に知っておろうな」
「……それは、氷華ということでしょうか」
継母が思わず声を漏らす。青ざめたその顔には、明らかな動揺があった。
――〝無能〟の自分には、どうすることもできない……。
ただ状況に呑まれるまま、雪菜は黙って事の成り行きを見守ることしかできない。
氷華が、ハッと顔を上げる。それまでの勝ち気な表情が、みるみるうちに強張っていった。
「……嫌よ。わたくしは絶対に嫌。妖の王のところになんて、行きたくない」
「氷華……」
「常世は妖の暮らす恐ろしいところよ。そんな地獄に行ったら、妖に喰われて死んでしまうわ。お母さんだってわかってるでしょう。わたくしが一番強い異能を持ってるからって、それで常世に嫁がされるなんて、そんなの理不尽だわ」
氷華は震える声で言い募ると、ふいに雪菜へと視線を向けた。……嫌な、予感がした。
「――わたくし、いいことを思いついたわ。お姉ちゃんが行けばいいじゃない」
「え……?」
「だって、お姉ちゃんは異能が弱いんだもの。この里にいたって、大した役には立てないでしょう。だったら、常世に贄として差し出されることくらいしか、お姉ちゃんが一族の役に立てることなんてないんじゃない?」
あまりにも唐突な言葉に、その場の空気が凍りついた。父も継母も、そして里長すらも、なにも言えずに立ち尽くしている。〝無能〟を炎鬼に嫁がせるなど、今までに例を見ないことなのだろう。
雪菜はうつむいたまま、拳をきつく握りしめた。胸の奥が、じんと痛む。
(……そう、よね。わたしには、それくらいしかできないもの)
悲しみよりも先に浮かんだのは、奇妙なほどの静けさだった。長年虐げられてきた日々の中で、いつしか雪菜は、自分の価値をそう定めてしまっていたのかもしれない。
諦めに似た気持ちと同時に――胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。
(……そうだ、常世に渡れば、もうこの暮らしから解放される。氷華に虐げられることも、出来損ないと呼ばれ続けることもない)
妖の王に嫁ぐことがどれほど過酷な運命であっても、この里での日々よりはましなのかもしれない。……こんな自分を受け入れてもらえるかはわからないけれど。
そんな想いが、雪菜の中で静かに芽生え始める。
(……うん、心は決まったわ。どんな結果になるかはわからないけれど……それでも、少しでも現実を変えたい。だから、自分で一歩を踏み出してみよう)
雪菜は顔を上げ、里長をまっすぐに見据えた。
「……あの、里長様。わたしでよろしければ、自分が常世へ参ります」
「雪菜。おまえ……本当にいいのか。霊力の少ないおまえでは、炎鬼の機嫌を損ね、命を奪われるかもしれないぞ」
清吉が驚いたようにこちらを見る。
(……一応は、娘の心配をしてくれるのね)
それに少しだけ救われた気持ちになり、雪菜は小さく微笑んでみせた。
「はい。……わたしは里の中で一番異能の力が弱い、出来損ないですから。これくらいしか、一族のお役に立てることがございません。氷華の代わりに、わたしが参ります」
「お姉ちゃん……。感謝するわ。ご自分の立場をよくわきまえていらっしゃるのね」
氷華がわざとらしく涙声を出している。雪菜はあえてそちらを見ないようにした。
義妹が内心でほくそ笑んでいることなど、わかりきっているからだ。
里長は、雪菜と氷華を交互に見やり、重く息を吐く。
「……わかった。雪菜の申し出、確かに受け取った。異能の強弱にかかわらず、一族の娘であることに変わりはない。だが、これは軽い決断ではないぞ。失敗すれば、一族の皆を危険な目に遭わせるかもしれぬ」
「承知しております」
雪菜は板敷の間に三つ指を突く。その場で、里長に向けて深々と頭を垂れた。
「――どうか、わたしに妖の王の許嫁となる栄誉をお与えください。必ず、一族の役目を全うしてまいります」


