白雪の花嫁 ~無能巫女、最強の炎鬼の契約花嫁になる~

 その時、聞き慣れた声が響いた。雪菜は、失いかけていた意識を一気に取り戻す。
 かすむ視界の先、白く霞んでいた景色の向こうから、炎の光が弾けるように広がった。焼けつくような熱とともに、灯哉が地を蹴って駆けてくる。
 彼のまとう空気そのものが陽炎のように揺らぎ、行く手を阻んでいた妖魔たちが、その気配だけで悲鳴じみた声を上げて後ずさった。
 灯哉の金色の瞳が、地に膝をつく雪菜の姿を捉えた瞬間、はっきりとその色を変えた。

「なぜこんな場所に! くそっ、間に合え……!」

 焦りの滲む声。雪菜がこれまで一度も聞いたことのない、余裕のかけらもない声だった。
 灯哉が振るった腕から、業火の奔流が放たれる。まばゆいほどの炎が渦を巻き、雪菜に迫っていた妖魔たちを一瞬で薙ぎ払った。断末魔のうめき声が響き、あたりに焼け焦げた臭気が立ち込める。
 それでも灯哉は、周囲を一瞥もせず、まっすぐに雪菜のもとへと駆け寄った。

「雪菜、しっかりしろ……!」

 力の抜けた雪菜の体を、灯哉が膝をつき、腕を広げてたくましい胸に包み込む。いつもは冷たいはずの手が、今はひどく熱を帯びていた。まるで、抑えきれない激情がそのまま体温ににじみ出ているかのように。

「……とう、や、さま……」

 来てくださったのですね――。
 かすれた声で名をつむぐと、灯哉の顔が、くしゃりと歪んだ。

「喋るな。もう大丈夫だ。無事でよかった……っ」

 雪菜の体を一度強く抱きしめてから、灯哉が耳もとで、怒りで震える声でつぶやく。

「……誰が、雪菜にこんな真似を」

 低く、地の底から響くような声だった。
 ぐらり、と灯哉の周囲の空気が揺れる。
 焼け焦げた妖魔の残骸、腕の中の傷ついた雪菜――それを見渡す灯哉の表情から、みるみるうちに血の気が引いていく。

「灯哉様……?」

 彼の異変に、雪菜の胸がひやりとする。いけない――そう思った。けれども、間に合わなかった。抑えようのない怒りが、灯哉からあふれ出す。
 ぶわり、と灯哉の全身から陽炎が立ち昇る。
 彼の握りしめた拳の中で、炎が渦を巻き始める。制御を忘れたその力は、行き場を探すようにあたりへと吹き荒れ、乾いた木々が次々と燃え上がった。

「……っ!」

 雪菜は周囲に目をやる。
 灯哉は完全に冷静さを失っている。この場で彼の炎鬼としての異能が暴走してしまったら、異能を操る妖たちが当たり前のように暮らしていた常世以上に、これまで誰も経験したことのないほどの被害が出るだろう。
 パチパチ、と激しく爆ぜる音とともに、灯哉を中心に業火の渦が広がっていく。地面が焼け、岩肌にひびが走った。もはや妖魔を討つための炎ではない、灯哉自身の激情がそのまま形を成したような、荒れ狂う炎だった。

(止めなきゃ……! 灯哉様はこんなことを望んではいない。取り返しのつかないことになれば、きっと大きく悲しませてしまう。彼を助けられるのは、きっと、わたしだけだわ!)

 雪菜はボロボロになった体を叱咤して、朦朧とする意識の中、震える手を伸ばして灯哉の頬に触れる。荒れ狂う炎の熱が、その手にじりじりと迫ってくる。

「灯哉様……! お願いです、落ち着いてください。わたしなら、大丈夫ですから」

 その声に、荒れ狂っていた炎が、わずかに揺らぐ。

「どうか、灯哉様の大切なお気持ちまで、燃やしてしまわないでください。わたしは、灯哉様にお救いいただいて、身も心も強くなりました。ですから――」

 雪菜は最後の力を振り絞り、立ち上がる。
 もう一度、神楽鈴を手に取り、灯哉に今できる満面の笑顔を向けた。

「わたしのことは、どうかご心配なさらないでください。……こんな目に遭ったばかりで、どの口が言うのかと思われるかもしれません。それでも、わたしはもう、守られるだけの存在ではいたくないのです。灯哉様、どうかわたしを信じて、もっと頼ってください」
「雪、菜……」

 灯哉が目を見開く。正気を取り戻し始めているのかもしれない。
 今を逃すわけにはいかない――雪菜は、あらん限りの異能で舞を舞った。傷ついた身体に鞭打ち、真剣に足を運ぶ。弱いはずだったその力が、灯哉の激情に共鳴するように、あたりに静かな雪を降らせていく。
 炎と雪が絡み合い、やがてひとつに調和していく。荒々しかった灯哉の異能は、雪菜の力に包まれるように静かに凪いでいった。燃え盛っていた木々の炎が、ちりちりと音を立てて消えていく。

「……雪菜、俺は――」

 灯哉が、震える声で名を呼んだ。その声には、これまで一度も聞いたことのない不安が混じっている。きっと彼も、自分の異能が現世にまで及んで雪菜の生まれ育った土地までも傷つけてしまうのではないかと恐れていたのだろう。

「灯哉、様……。よかった、お力が、鎮まって……」

 雪菜は薄れゆく意識の中、それでも安堵の笑みを浮かべた。灯哉が慌てて駆け寄り、雪菜の身体を抱き上げる。彼から香る白檀の匂いに、雪菜の中で安心感が広がっていく。

(灯哉様をお救いすることができた……。よかった……)

 自分の役目を果たせたこと、大切な彼が無事だったことがなによりうれしくて、雪菜の頬を涙が伝っていく。――そこで、糸が切れたように意識を手放してしまった。