白雪の花嫁 ~無能巫女、最強の炎鬼の契約花嫁になる~

 その頃、千影は屋敷のはずれの廃屋で、ひとり酒杯を傾けていた。

(なによ、灯哉ったら口を開けば雪菜、雪菜って。もう二十年近く、わたくしが彼の側にいたのに……)

 幼い頃から見守ってきた想いを寄せる相手が、たった数か月前に現れたひとりの娘に心を寄せていく。その事実が、千影の誇りと想いをじりじりと追い込んでいた。

「……雪菜ね。調子に乗っていたらどうなるか、少し思い知らせてやろうかしら」

 千影は苦々しく雪菜の名をつぶやくと、懐から一枚の護符を取り出した。妖狐一族に伝わる、下級妖魔を使役するための古い術式が刻まれている。

(ふん、少しばかり脅かしてやるだけよ。あの女が怖気づいて、自ら身を引くように仕向ければいい。灯哉の正妻の座はわたくしのもの)

 千影は自分にそう言い聞かせながら、術式に妖力を注ぎ込んでいく。本当は、これが取り返しのつかない一歩になることに、心のどこかで気づいていたのかもしれない。けれど、募る嫉妬と焦りが、その気づきを上回っていた。


***


 それは、なんの前触れもなく起きた。
 ある夜、千影が血相を変えて雪菜のもとを訪れたのだ。

「雪菜さん、大変よ……っ!」
「千影様?」
「現世の霊岩から妖気が漏れて、あなたの里に妖魔があふれているらしいの!」
「え……」
「お父様からの知らせだから間違いはないわ! 早く戻って様子を見て来たほうがいいんじゃないかしら! ひとりでも巫女が多ければ、それだけ戦えるでしょう?」

 真っ青になった千影に、肩を大きく揺すられる。

(霊岩から妖魔……? ありえないことではない、けれど)

 霊岩は、自分が現世から常世に渡る際に訪れたところだ。現世と常世をつなぐ門がある。

(その門からなんらかの理由で妖気が漏れたのだとしたら、例外的に妖魔が現世に現れる可能性があるかもしれない……!)

 現世と常世は本来分け隔てられた世界だが、雪菜のような人間が常世に渡れるように、妖魔もまた門を通して現世に渡れるのかもしれない。
 千影はこちらを安心させるように手を取った。

「灯哉様は今、遠方の視察でお留守でしょう。悠長にしている暇はないわ。わたくしが霊岩まで送ってあげる」

 千影の言葉に迷いはなかった。あまりにも自然な口ぶりに、雪菜は疑うことすら思いつかなかった。

(お父様、お継母様、氷華……!)

 家族の顔が脳裏をよぎる。長年、虐げられてきた里であっても、大切な家族には違いないのだ。血のつながりのない継母や、つらく当たられてきた氷華のことさえも、心の底では案じてしまう自分がいる。

(里の皆に、もしものことがあったら……)

 里の危機を知った状態で、なにもしないでいることなどできない。

「千影様、お願いです、わたしを霊岩まで連れていってください……!」

 雪菜は迷わず千影を頼る。千影は、心得たとばかりに力強くうなずいた。

 千影の異能の力で、一瞬で霊岩へと移動した雪菜は、さらに千影の異能でもって開かれた門を迷わず潜っていく。この上も下も、右も左もつかない真っ暗な空間をひたすらに真っ直ぐに進むと、現世の霊岩に渡ることができるのだ。
 やがて、先の見えなかった道の先に小さな光が見え始め――雪菜は、数か月ぶりに現世へと戻ったのだった。


***


 現世の霊山の情景は、雪菜が常世に渡った時とあまり変わっていなかった。
 切り立った岩場の頂上、その中央にそびえる霊岩は、記憶にあるままの姿でひっそりとたたずんでいる。岩の表面を覆う苔は白く霜をまとっている。あの日と同じ、肌を刺すような冷気が、木々の隙間を縫って吹き抜けていく。

(妖魔は、どこ……?)

 油断なく神楽鈴を構えて、雪菜は周囲を見渡した。その時――。
 グルル……。
 低い、獣にも似た唸り声が岩陰から響いた。
 ビクリと肩を震わせ、雪菜はとっさに声のした方へと向き直る。木々の隙間、闇の濃い岩の裂け目から、赤黒く光る双眸がぬらりと浮かび上がった。
 ずるり、となにかを引きずるような音を立てて、それは姿を現し始める。
 全身を覆う黒ずんだ毛皮は、所々剥げ落ちている。そこから露わになった皮膚には、焼けただれたような痕が刻まれていた。
 すえた臭気があたりに漂い、雪菜は思わず息を止める。

(妖魔……! 本当に、現世に現れていたなんて……!)

 妖魔の四肢は不自然に長く、地面につくたびに黄ばんだ爪が土を抉った。低く唸るその口もとからは、涎混じりの息が漏れている。現世では決して見ることのない、異形の姿であった。それが一匹、二匹と、闇の奥から次々と赤黒い瞳の光が増えていく。

(こんなにも数がいたなんて……。しまった、囲まれたわ……!)

 気づけば、まるで獲物を取り合うかのように、妖魔に周囲を包囲されていた。逃げ場のない岩場の奥で、妖魔たちがじりじりと間合いを詰めてくる。

(こんなところで果てるわけにはいかない。灯哉様のもとに帰るまで、ここで負けるわけにはいかない)

 気持ちを奮い立たせて、雪菜は震える手で神楽鈴を強く握り直す。
 シャン、シャンと、清らかな鈴の音を鳴らして、襲い来る妖魔の群れに対して巫女の舞を必死に繰り出していく。鈴が鳴るたびに、天から舞い落ちる粉雪が光を帯びて、妖魔たちのどす黒い邪気を浄化していく。

(効いているわ……! 常世で、灯哉様の火焔を鎮めてきたからかしら)

 これならば、いつか妖魔をすべて掃討できると思った。けれども、祓っても祓っても、妖魔の数は一向に減る気配がない。
 次第に、雪菜の身体に耐えがたい疲労が蓄積し始めていた。

(息が、苦しい……。足が、思うように動かない……っ)

 指先の感覚はすでに麻痺しているのか、なにも感じなくなっていた。一歩踏み出すたびに膝が崩れそうになり、視界が激しい立ちくらみで定まらない。
 意識が遠のきそうになるたびに、雪菜は強く唇を噛みしめ、身体を無理やり鼓舞して、途切れがちな鈴の音を響かせ続けたけれど――

「――っ!」

 不自然に長い四肢を持つ妖魔の爪が、ついに雪菜の白装束の袖をかすめた。
 回避する動作すらも緩慢になり、躱(かわ)しきれなかったのだ。
 足もとがよろけて、冷たい雪の上に成すすべもなく倒れ込む。
 すぐさま上体を起こし、とっさに雪の異能で身を守ろうとするも――数に勝る妖魔たちの爪が容赦なく襲いかかった。腕に深い傷を負い、雪菜はついにその場に倒れて動けなくなる。

(こんな、ところで……)

 朦朧とする意識の中、雪菜は必死に立ち上がろうとする。けれど、力が入らない。傷口から流れる血が、白装束の袖を赤く染めていく。

(灯哉、様……。婆や、常世のみんな……。願わくばこれからも、灯哉様のお側にいたかった……)

 ――どうか、許可なくお側を離れることを、お許しください。
 妖魔の一体が、止めを刺そうと爪を振り上げた、その瞬間だった。

「――雪菜!」