霊山の麓にある、雪深い隠れ里。朝一番で井戸水を汲み上げた雪菜(ゆきな)は、かじかんだ両手に吐息を吹きかけた。
(ふう、今日は一段と冷えるなあ……)
見上げた空は快晴で、目の醒めるような青だ。周囲の森からは、雪の重みに耐えかねた枝がたわみ、どさりと雪の落ちる音が響く。
人の住む世を『現世』、妖の住む世を『常世』と呼び、まだその二つの世の行き来があった時代――。地図にも載らないこの静かな『雪籠りの里(ゆきごもりのさと)』は、外界から隔絶された異能の民が隠れ住む場所だった。
雪菜たちは、舞を奉納することで自在に雪を呼ぶ力を宿す『雪呼(ゆきよ)びの民』。その力ゆえに、古来より巫女一族と崇められつつも畏れられ、この地に身を潜めてきたのだ。
雪菜は手拭いで肌を拭うと、村の一角にある民家へと駆け込んだ。自分の支度だけでなく、妹である氷華(ひょうか)の世話もすべて雪菜の仕事だ。
「お継母様、おはようございます。……申し訳ありません、すぐに朝の支度を済ませますので」
土間の竈(かまど)の前に立っていた継母が振り返った。
「あらあら、遅かったじゃない。氷華がもう起きて待っているのよ。早く行ってあげて」
その声音には、隠しきれない苛立ちがにじんでいる。
雪菜は小さくうなずき、奥の和室へと急いだ。
雪菜の実の母は、雪菜がまだ幼い頃、長患いの末に亡くなっている。父である清吉が新たに妻として迎えたのが、今の継母だった。継母もまた『雪呼びの民』の血を引く女で、当時まだ赤子だった連れ子――氷華を連れて嫁いできたのだという。
父親とは血のつながりこそないけれど、継母の血筋を通して雪呼びの一族の力を受け継いだ氷華は、物心つく頃には、すでに一族随一と謳われるほどの強い異能を宿していた。少し念じるだけで猛吹雪を起こせるほどの才を持つ彼女は、里の誰からも一目置かれると存在となっていった。
そういった環境の中で育ち、今年でふたりとも十八歳を迎えている。けれども、雪菜と氷華の扱いは、里の中で雲泥の差であった。強い異能の力を持った氷華に比べて、雪菜は持って生まれた力が弱かったからだ。
雪菜は生まれつき、異能の力が無いに等しかった。〝無能〟と罵られても遜色のないくらいになんの力を持たなかったのだ。毎日〝役立たず〟やら〝一族の面汚し〟やら、里人たちからは酷い言葉をかけられ、存在価値すらないとばかりに虐げられて生きてきた。
(つらいけれど、それも仕方のないこと……。わたしは、〝無能〟なのだから)
生まれつき〝無能〟であった自分を慈しんでくれた母はもういない。母を亡くしてからの父も、人が変わったように氷華ばかりを大切にするようになっていた。
そんな自分が里のためにできることといえば、いずれ一族の使命を果たすため、常世を統べる妖(あやかし)の王――炎鬼に嫁ぐ妹に尽くすことだけだ。
雪呼びの民には古来より大切な使命がある。それは、人の住む現世と鏡写しの世界である、妖魔の住む常世。その常世の一国の妖の王、炎鬼(えんき)の贄として嫁ぐことだった。里の巫女の中で最も強い異能を持つ妹が、その役目を果たすことになるだろうと、口には出さないけれど誰もが思っていた。
(常世の炎鬼……。どのくらい恐ろしい人物なんだろう)
妖魔の炎鬼は、炎を自在に操る異能を持つという。炎鬼は『火ノ国(ひのくに)』と呼ばれる山岳の都を統治する強国だが、炎は常に荒々しく、国土は渇き、民は畏怖を抱いているのだとか。今代の炎鬼は、まだ二十五歳になったばかりの若い王だという。
雪呼びの民は、炎鬼自身ですら制御の難しい火焔の異能を、雪を呼び抑える役割を負っている。だから、一族は代々、その時代のもっとも強い異能を持つ娘を炎鬼の贄として常世に渡らせ、嫁がせてきたのだ。今代であれば、その役目を負うべきは間違いなく氷華だった。
和室の襖を開けると、氷華はすでに布団から起き上がり、鏡台の前で不機嫌そうに髪をいじっていた。雪原の輝きのような白銀色の髪と、氷藍色の瞳。雪呼びの民特有の色合いは姉である自分と同じはずなのに、強い異能の力を継いだ妹は、より神秘さを感じさせる外見をしていた。
「遅い。お姉ちゃん、なにやってたの? 髪、櫛も通してないんだけど」
「ごめんなさい、氷華。……今すぐ、いたしますから」
雪菜は妹の背後に膝をつき、丁寧に髪を梳き始める。氷華は鏡越しに姉を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「お姉ちゃんは本当に手際が悪いよね。異能だけじゃなくて、こういうことも全然ダメなんだから」
「……ごめんなさい。気をつけます」
「まあ、お姉ちゃんにはこれくらいしか能がないんだから、しっかりやってよね。わたくしは里で一番の異能持ちなんだから、こんな雑用してる暇ないの」
言葉の刃は、幼い頃からずっと雪菜の胸に突き刺さってきたものだった。けれど、もう慣れてしまった痛みでもある。雪菜はうつむいたまま、黙々と手を動かし続けた。
(ふう、今日は一段と冷えるなあ……)
見上げた空は快晴で、目の醒めるような青だ。周囲の森からは、雪の重みに耐えかねた枝がたわみ、どさりと雪の落ちる音が響く。
人の住む世を『現世』、妖の住む世を『常世』と呼び、まだその二つの世の行き来があった時代――。地図にも載らないこの静かな『雪籠りの里(ゆきごもりのさと)』は、外界から隔絶された異能の民が隠れ住む場所だった。
雪菜たちは、舞を奉納することで自在に雪を呼ぶ力を宿す『雪呼(ゆきよ)びの民』。その力ゆえに、古来より巫女一族と崇められつつも畏れられ、この地に身を潜めてきたのだ。
雪菜は手拭いで肌を拭うと、村の一角にある民家へと駆け込んだ。自分の支度だけでなく、妹である氷華(ひょうか)の世話もすべて雪菜の仕事だ。
「お継母様、おはようございます。……申し訳ありません、すぐに朝の支度を済ませますので」
土間の竈(かまど)の前に立っていた継母が振り返った。
「あらあら、遅かったじゃない。氷華がもう起きて待っているのよ。早く行ってあげて」
その声音には、隠しきれない苛立ちがにじんでいる。
雪菜は小さくうなずき、奥の和室へと急いだ。
雪菜の実の母は、雪菜がまだ幼い頃、長患いの末に亡くなっている。父である清吉が新たに妻として迎えたのが、今の継母だった。継母もまた『雪呼びの民』の血を引く女で、当時まだ赤子だった連れ子――氷華を連れて嫁いできたのだという。
父親とは血のつながりこそないけれど、継母の血筋を通して雪呼びの一族の力を受け継いだ氷華は、物心つく頃には、すでに一族随一と謳われるほどの強い異能を宿していた。少し念じるだけで猛吹雪を起こせるほどの才を持つ彼女は、里の誰からも一目置かれると存在となっていった。
そういった環境の中で育ち、今年でふたりとも十八歳を迎えている。けれども、雪菜と氷華の扱いは、里の中で雲泥の差であった。強い異能の力を持った氷華に比べて、雪菜は持って生まれた力が弱かったからだ。
雪菜は生まれつき、異能の力が無いに等しかった。〝無能〟と罵られても遜色のないくらいになんの力を持たなかったのだ。毎日〝役立たず〟やら〝一族の面汚し〟やら、里人たちからは酷い言葉をかけられ、存在価値すらないとばかりに虐げられて生きてきた。
(つらいけれど、それも仕方のないこと……。わたしは、〝無能〟なのだから)
生まれつき〝無能〟であった自分を慈しんでくれた母はもういない。母を亡くしてからの父も、人が変わったように氷華ばかりを大切にするようになっていた。
そんな自分が里のためにできることといえば、いずれ一族の使命を果たすため、常世を統べる妖(あやかし)の王――炎鬼に嫁ぐ妹に尽くすことだけだ。
雪呼びの民には古来より大切な使命がある。それは、人の住む現世と鏡写しの世界である、妖魔の住む常世。その常世の一国の妖の王、炎鬼(えんき)の贄として嫁ぐことだった。里の巫女の中で最も強い異能を持つ妹が、その役目を果たすことになるだろうと、口には出さないけれど誰もが思っていた。
(常世の炎鬼……。どのくらい恐ろしい人物なんだろう)
妖魔の炎鬼は、炎を自在に操る異能を持つという。炎鬼は『火ノ国(ひのくに)』と呼ばれる山岳の都を統治する強国だが、炎は常に荒々しく、国土は渇き、民は畏怖を抱いているのだとか。今代の炎鬼は、まだ二十五歳になったばかりの若い王だという。
雪呼びの民は、炎鬼自身ですら制御の難しい火焔の異能を、雪を呼び抑える役割を負っている。だから、一族は代々、その時代のもっとも強い異能を持つ娘を炎鬼の贄として常世に渡らせ、嫁がせてきたのだ。今代であれば、その役目を負うべきは間違いなく氷華だった。
和室の襖を開けると、氷華はすでに布団から起き上がり、鏡台の前で不機嫌そうに髪をいじっていた。雪原の輝きのような白銀色の髪と、氷藍色の瞳。雪呼びの民特有の色合いは姉である自分と同じはずなのに、強い異能の力を継いだ妹は、より神秘さを感じさせる外見をしていた。
「遅い。お姉ちゃん、なにやってたの? 髪、櫛も通してないんだけど」
「ごめんなさい、氷華。……今すぐ、いたしますから」
雪菜は妹の背後に膝をつき、丁寧に髪を梳き始める。氷華は鏡越しに姉を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「お姉ちゃんは本当に手際が悪いよね。異能だけじゃなくて、こういうことも全然ダメなんだから」
「……ごめんなさい。気をつけます」
「まあ、お姉ちゃんにはこれくらいしか能がないんだから、しっかりやってよね。わたくしは里で一番の異能持ちなんだから、こんな雑用してる暇ないの」
言葉の刃は、幼い頃からずっと雪菜の胸に突き刺さってきたものだった。けれど、もう慣れてしまった痛みでもある。雪菜はうつむいたまま、黙々と手を動かし続けた。


