お家を存続させるための結婚です。情はありません!

「先に行きます!」
 貸自動車を飛び降りた美也子は、使用人に支払いを任せて駆け出した。
 船の出港時間は迫っている。女学校の制服である絣の着物に袴姿で走っている姿は目立つが、そうは言ってられない。
 早くしないと、昇二がアメリカに旅立ってしまう。美也子は人を掻き分け、一心不乱に駆けた。
 走って走って、見えてきた先にいたのは。まさに今、係員に切符を渡し、船に乗り込もうとする昇二の姿だった。
「昇二様!」
 声に昇二が振り向く。美也子を見つけた昇二が目を細め、係員に二、三言何か話した後、列を抜けた。その間に、美也子は昇二の元に辿り着く。
「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとう」
 昇二が礼を言う。全速力で走ってきた美也子は、すぐに言葉が出てこない。ゼイゼイと激しく呼吸をしながら、違う、と首を振ることしか出来なかった。
 だが、昇二には上手く伝わらなかったようだ。美也子にハンカチを差し出しながら、優しく告げる。
「幸せに。君の活躍を、遠くの地から祈っている」
 違う。違うのだ。だが、まだ呼吸が整わない。ならば、と美也子は髪を縛っているリボンに手を伸ばした。
 引っ張るだけでシュル、と簡単に解ける金春色のリボン。同時に、髪の毛が風でなびく。人前で髪を乱れさすなんて、恥ずかしいこと。しかし、声が出ない今、自分に出来る意思表示はこれしか考えられなかった。
 ずっと大切にしていたそれを、美也子は掌の上に乗せた。吹いてきた海風が、あっという間にリボンをさらっていく。宙に舞う鮮やかな青に、昇二の目が大きく見開かれた。

「……着いて、行きます」
「……え?」
 やっと絞り出せた美也子の言葉に、昇二は呆けた声を漏らした。ようやく呼吸が整った美也子は、改めて昇二に告げた。
「わたくしは昇二様の妻です。共に行きます」
「政略結婚だ。そこまで考えなくとも……」
「いいえ!」
 美也子は強く否定する。そしてあの夜と同じ台詞を口にした。
「わたくしは、昇二様を選んだのです」
「美也子」
「最初はどうであれ、わたくしはあなた様の妻になりました。なら、妻としての責務を全うしたいと……。教師にはいつでも……いえ」
 美也子はそこまで言って、口を噤んだ。昇二に伝えたいことは、こんな建前ではない。なのに言葉にするのは、すごく……。
 昇二はそんな美也子を見て、静かに告げた。
「ゆっくりでいい。話せるまで待つ」
「しかし、船の時間が……」
「そうだな……」
 昇二は、おもむろにスーツのポケットから船のチケットを取り出して、美也子に見せつける。
「言い分があるなら、船上で聞こう。乗るか?」
 冷徹な物言いをされるのは、随分と久しぶりだ。が、表情は柔らかい。
 ようやく頭が冷えた。美也子は目の前の昇二を見据えると、きっぱりと言い切った。
「乗ります」
「後悔しないか?」
「いたしません」
 そこまで言って、美也子はようやくその言葉を口にすることが出来た。
「お慕いしていますわ、昇二様」
 昇二が息を飲む。美也子は微笑みながら続けた。
「教師になる夢を諦めたわけではありません。しかし今は、あなた様と共に同じ世界を見ていたい。それに……」
「それに?」
「お一人になると、冷酷な表情になりますでしょう? いけませんわ、そんな顔をしていたら。商談も上手くいきません」
「なら……」
 昇二は既に笑っていた。
「一緒に来て貰わないとならないな」
 そして跪いた。
「来てくれるか、俺と共に。……差し出すものが船の切符というのは、いまいち格好つかないが」
 美也子は頷いて、侯爵令嬢としての矜持を胸に姿勢を正す。
 
「謹んで頂戴します。女の身で遊学に行けるなんて、なんて恵まれているのでしょうか。……わたくし、必死に勉強しますわ」
 美也子の言葉に力強く頷いた昇二は、もちろん、と呟いた。
「約束しよう。君に最高の学びの場を。そして最愛の妻として、皆に紹介しよう」
 昇二から切符を受け取った瞬間、旅立ちを祝うように汽笛が鳴り響いたのだった。