送り主は、女学校近くの男子学生だった。学校近くで見かける彼が帝国図書館に通っていると知り、偶然を装って何度か言葉を交わした。
三つ上の彼は、教師になりたいという夢を抱いていた。が、軍人の家系だったため、その進路は許されないと寂しそうな声で呟いた彼の顔は、今でも鮮明に覚えている。
士官学校に進む彼と最後に会った日、美也子は金春色のリボンと共に託されたのだ。
「僕の代わりに、教師になる夢を叶えてくれないか」
と。
一方的に淡い恋心を抱いていた彼からの頼み。その日から、彼の夢は美也子の目標になった。
もともと興味はあったから、教師を目指すことに抵抗はなかった。むしろ、女学校を卒業して、誰かわからない男性の元に嫁いで妻や母となるよりも、職業婦人の一人として働く方が美也子には魅力的に映った。
贅沢な悩みだ。尋常小学校の後、女学校に進学できるのは、一握りの人間だ。没落寸前とはいえ、進学できたのは家柄のおかげだ。
新しい知識を得るのは純粋に楽しかった。女に学などいらぬ、という父への反抗心もあった。なにより、学べば学ぶほど、自分が賢くなる気がした。
しかし、昇二の隣に立っている自分は、あまりにも無知だ。知らないことだらけだ。こんな浅薄な人間が、人を教え導く職に相応しいのか美也子には、わからなくなっていた。
「……美也子?」
ハッと気づくと、目の前に昇二の顔があった。いつの間にか黙りこくっていた美也子の顔を、覗き込んでいたのだ。
「体調が悪いのか?」
淡々とした口調なのに、瞳は心配そうに揺らいでいた見透かされる。整理がついていない、自分のぐちゃぐちゃな胸の内をすべて、見透かされてしまう。
美也子は昇二から逃れるように、視線を逸らした。今の昇二の目は、見たくない。最初の頃のように冷徹で無関心で、美也子のことなどただのお飾りの妻という態度で居続けてほしいのに。共に暮らす内に、昇二は変わった。険が取れ、柔和な顔つきになった。
「奥様のおかげですね」
昔から昇二に仕えている使用人は皆、口を揃えた。それが、美也子には負担になっていた。
(情を交わさない。そういうお約束で……お互いに利用しあって……)
なのに。昇二の方は、たまに一線を越えようとしてくる。女としての情が欲しいのなら、外に妾でも作ってほしいと伝えているのに。昇二の本意がわからなくて美也子は混乱する。
「どうした? 返事すらできないのなら、医者を……」
「不要です。少々ぼんやり……。いえ、やはり少し体調が悪いみたいですので、本日は先に床についてもよろしいでしょうか」
美也子は昇二と目を合わせないまま、小声で呟いた。頷いたのか、昇二の周りの空気がふわりと動く。
「そうしなさい。……誰か、美也子を部屋に」
「いえ。一人で歩けますから」
美也子は昇二と目を合わせないまま、立ち上がった。
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
逃げるように自室に戻った美也子は、真っ暗な部屋に入るなり、ズルズルと座り込む。
昇二とは結婚以来、寝室は分けている。昇二が部屋に立ち入ることも、近くに寄ることもない。安堵と同時に、美也子の手足がさぁ、と冷たくなって、その場から動けなくなった。
胸にぽっかりと大きな穴が開いたように、心まで寒々と冷えている。
雑誌の最新号が出た高揚感は、いつの間にか遠くに消え去っていた。
三つ上の彼は、教師になりたいという夢を抱いていた。が、軍人の家系だったため、その進路は許されないと寂しそうな声で呟いた彼の顔は、今でも鮮明に覚えている。
士官学校に進む彼と最後に会った日、美也子は金春色のリボンと共に託されたのだ。
「僕の代わりに、教師になる夢を叶えてくれないか」
と。
一方的に淡い恋心を抱いていた彼からの頼み。その日から、彼の夢は美也子の目標になった。
もともと興味はあったから、教師を目指すことに抵抗はなかった。むしろ、女学校を卒業して、誰かわからない男性の元に嫁いで妻や母となるよりも、職業婦人の一人として働く方が美也子には魅力的に映った。
贅沢な悩みだ。尋常小学校の後、女学校に進学できるのは、一握りの人間だ。没落寸前とはいえ、進学できたのは家柄のおかげだ。
新しい知識を得るのは純粋に楽しかった。女に学などいらぬ、という父への反抗心もあった。なにより、学べば学ぶほど、自分が賢くなる気がした。
しかし、昇二の隣に立っている自分は、あまりにも無知だ。知らないことだらけだ。こんな浅薄な人間が、人を教え導く職に相応しいのか美也子には、わからなくなっていた。
「……美也子?」
ハッと気づくと、目の前に昇二の顔があった。いつの間にか黙りこくっていた美也子の顔を、覗き込んでいたのだ。
「体調が悪いのか?」
淡々とした口調なのに、瞳は心配そうに揺らいでいた見透かされる。整理がついていない、自分のぐちゃぐちゃな胸の内をすべて、見透かされてしまう。
美也子は昇二から逃れるように、視線を逸らした。今の昇二の目は、見たくない。最初の頃のように冷徹で無関心で、美也子のことなどただのお飾りの妻という態度で居続けてほしいのに。共に暮らす内に、昇二は変わった。険が取れ、柔和な顔つきになった。
「奥様のおかげですね」
昔から昇二に仕えている使用人は皆、口を揃えた。それが、美也子には負担になっていた。
(情を交わさない。そういうお約束で……お互いに利用しあって……)
なのに。昇二の方は、たまに一線を越えようとしてくる。女としての情が欲しいのなら、外に妾でも作ってほしいと伝えているのに。昇二の本意がわからなくて美也子は混乱する。
「どうした? 返事すらできないのなら、医者を……」
「不要です。少々ぼんやり……。いえ、やはり少し体調が悪いみたいですので、本日は先に床についてもよろしいでしょうか」
美也子は昇二と目を合わせないまま、小声で呟いた。頷いたのか、昇二の周りの空気がふわりと動く。
「そうしなさい。……誰か、美也子を部屋に」
「いえ。一人で歩けますから」
美也子は昇二と目を合わせないまま、立ち上がった。
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
逃げるように自室に戻った美也子は、真っ暗な部屋に入るなり、ズルズルと座り込む。
昇二とは結婚以来、寝室は分けている。昇二が部屋に立ち入ることも、近くに寄ることもない。安堵と同時に、美也子の手足がさぁ、と冷たくなって、その場から動けなくなった。
胸にぽっかりと大きな穴が開いたように、心まで寒々と冷えている。
雑誌の最新号が出た高揚感は、いつの間にか遠くに消え去っていた。

