地上に降りると、サーのTシャツの首に、サングラスのつるを掛けて返した。
鼻当てをいじってしまったからサーの鼻には合わないかもしれないが、もう変装が必要ないと伝えたかった。
観光案内のノルマはこれで終わった。もとの駅までサーを送り、伯母に報告すればお役御免だ。
深手を負わないうちに終わりにしたい。でも、日が落ちても手を繋いでいたい。
怖気と執着とが交互に込み上げてきて、サーを駅に誘うことができなかった。
戸惑っているうちに、サーに手を引かれて、ソラマチのショッピングモールへ移動した。
花から花へ渡る蝶のように、店先を眺めてはきまぐれに進んでいく。
サーの口数が減っていた。折に触れて一颯の横顔に熱した針のような視線を向けては『ほしいものはないのか』と言いたげに、繋いだ手を親指でとんとんと叩いてくる。
安易に清算されるくらいなら、なにもほしくない。
つま先に視線を落として取り合わなかった。
ふいにサーが立ち止まった。
「どした?」
壁に掲示された、満天の銀河を描いたプラネタリウムのポスターを、サーが翻訳アプリで撮影している。
さっと目を走らせて、この建物の中にある施設だとわかると、「I'd like to go here.」(ここに行きたい)と言った。
「It’s far too bright everywhere to get up to any mischief」(どこもかしこも明るすぎて、悪さもできないだろ?)
内容はわからずとも、サーに目的があることを察し、一颯は「うん、いいよ」と答えた。上映時間は四十分とあり、映画に比べ短くて、気軽だ。伯母から預かった予算も、そこでほぼ使い切れる。「上階だよ」とサーの先に立ち、エスカレーターに乗った。
見下ろす形でサーを振り返ると、サーの目がまた熱を帯びていた。
一颯が困惑を露わにすると、とたんにサーは熱っぽい表情を爽やかな笑みに挿げ替え、温度を下げた。
どんな意図を含んでいるのか気になるけれど、一颯から水を向けることはしない。言葉が通じないことへの諦めのおかげで、踏み込み過ぎずにいられて、助かった。
チケット販売カウンターに立った。にこやかな女性スタッフに「おとな二枚でお願いします」と頼む。
「通常のシートですと、三十分後に上映開始の回で空きがございますが、雲シートでしたらすぐにご案内可能です」と提案された。
「雲?」と訊き返すと「ふたりがけのソファのようなシートです」とのこと。待つのも煩わしくて即決した。が、会計をしようと財布を取り出せば、横からサーがカードを出して、口を挟む間もなく決済してしまった。
「サー、なんで払っちゃうのさ」
「Why the long face, Isa?」(なんでそんな浮かない顔してるんだ、イサ?)
「ロングフェイスって、面長ってこと? 僕、そうでもないと思うんだけど……てか、質問に質問で返されてもな……」
サーは、一颯に身体を寄せて、肩を抱き込んできた。まばたきと眉の動きで一颯の機嫌を窺い「細かいことは気にするな」とはぐらかしてくる。
サーの都合に巻き込まれていくみたいだ。逞しい胸に寄り添っていても、腹の底に不安がわだかまって、一颯は唇をきゅっと噤んだ。
青くて暗いトンネルを抜け、半球を被せたような天井のシアターへ入った。中央の投影機を囲み、波紋のようにシートが配列されている。すでに照明がしぼられており、出入り口近くのスタッフが懐中電灯で足元を照らしながら雲シートへ案内してくれた。
「え、ここなの?」と、声を漏らした。
ふたり掛けのソファのようなシートというより、貝殻のような器に白いクッションを押し込み、膨らませたようなベッドだ。夜空の演出のせいで、薄紫に色づいて見えるのがエロティックですらある。上映開始が迫っており、スタッフに「靴を脱いでおあがりください」と急かされて、いそいそとソファに這い上がった。
一颯は端に詰めると、栗の実のように身体を丸めて膝を抱えた。
腰を下ろしたサーは、ソファの大半を占領し、両腕を広げ、長い脚を投げ出した。
「So, we’re sharing a bed, are we? Bold move, Isa」(ふうん、添い寝するわけか。大胆に出たな、イサ)
サーが吐息交じりの低い声で囁いた。意味は分からなくても揶揄されたことはわかる。サーの脇腹に軽く拳を当てても、ネコパンチを愛でるように、一颯の拳が撫でられ、さらには腕を伸ばして一颯のうなじをくすぐってきた。微弱な電流が肌を駆け抜け、ふるりと震えた。
「やめ……っ」と、か細く言いかけて、声を息ごと嚥下する。
もうしゃべっていい空気ではない。
シアター内の客が、中央寄りの天井を見上げている。三角座りのまま上体を起こしていては、後ろの席の視界を遮るかもしれず、ずるずると尻をずらして、身体を横たえた。すると、さも当然というふうに、一颯の後頭部の下へサーが左腕を差し入れてきた。
一颯が「どかせよ」と訴えるが、時すでに遅し。みるみるうちに周囲が暗くなっていき、群青の雲が漂う天井に、宝石を砕いたようなきらめきが浮かび上がってきた。女性声優のおだやかなナレーションが星空の旅へと誘う。
一颯は小競り合いをあきらめ、首の力を抜いて、頭蓋の重みをサーの硬い腕に預けた。痺れて後悔すればいい。
サーの右手の人差し指が、一颯の額にすっと触れた。重くなっていた前髪をやさしく掻き上げ、横へ流す。おさないころ、昼寝でうとうとしているときに、母にそうしてもらったのを思い出した。
サーには、一颯がその優しさを恋慕と取り違えるかもしれないという懸念が、まるでないように感じる。
勝手に好きになったら、勝手に失恋しろとでも思っているのだろう。
無責任で身勝手なナルシストだ。
それならこちらもしたいようにさせてもらう。
スキンシップを受け入れ、息を深く吸い込んだ。
マンダリンの爽やかな香りが、恋と呼ぶにはまだ青い一颯の胸の痛みをやわらげてくれた。サーのゆったりとした胸の上下に、一颯の呼吸が重なっていく。
くっついているところから互いの体温が馴染み、安心感と高揚感が混ざって、胸が甘やかに痺れた。
天井は、石垣島から望める星空を再現していた。寝転んで見上げていると、空の只中に小舟で揺蕩っている気がしてくる。立体音響の波音に鼓膜をゆだねれば、心の表面がふにゃふにゃにやわらかくなって─瞼が重くなる。
サーの脇へすり寄るように身じろぎすると、自分の腹に乗せていた手にサーの右手が重ねられた。指先が一颯の指の間へ潜り込んできて、深く絡めた指を強く握られる。抱きすくめられたかのような錯覚に陥り、思わず膝頭をすり合わせた。
正体不明のムードが、シャボンのような膜になって、周囲と自分たちを分断している。理性が弛みそうでまずい。
一颯は手を握り返さず、顔を背けた。
物憂げに嘆息したサーが、ゆっくりと体重を傾け、一颯に被さってきた。
「……ッ……」
眼前にサーの顔がある。星空を背負って陰になっており、表情が見えない。
キスされると、直感した。
瞼を下ろしたら、あるいは、唇をちょっとだけサーに向けたら。
互いの喉が、物欲しげに鳴る。
しかし、唇が塞がれることはなかった。
サーは鼻先で一颯の頬をやさしくなぞり、耳たぶに湿った息を当てて、一颯を煽ったあと、あっさりと仰向けに戻った。
跳ねあがった心拍数と、乱れかけては押し殺す呼吸が、なまなましい現実を一颯に突きつける。
――キスされるとこだった。
怒る隙もないほど、一颯の頭の中で衝撃が反響する。
手を繋がないと歩かないと意地を張ったのも、口説くための作戦だったのか。
サーは女好きだと思っていた。けれど、男も恋愛対象なのだとすれば。
きなこ付きのくちびるを擦ったことも。ツーショット写真を撮ったことも。女子たちから逃がしてくれたことも。
全部、バリアを作るためだけの演技ではなかったのかもしれない。
今日の道のりに並んでいた疑問のドミノが、遡るようにカタカタと倒れていった。
サーのやさしさは、好意のあらわれだったのだ。
サーは、一颯がキスを受け入れなかったことで、拒まれたと思ったようだ。握る手に焦りにも似た力がこもっている。
半球状の天井に、無数の星の軌跡が円状に伸びていくのを見上げたまま、一颯の視線がさまよう。
何人もの相手から、勝手に好かれ、巻き込まれ、落ち込んだり疲れたりしてきた。ひとを信じられなくなったこともある。
今日の観光案内は、サーの思惑で手を繋ぐことから始まったけれど、一颯は嫌悪なく応じ、安堵を得て、ときめきを覚えていた。
自分とサーのコミュニケーションは、不自由であっても、断片的な英語と、空気と温度と表情で成り立っていて、原始的でシンプルで楽しかった。
だからこそお互いをよく見つめていて、おぼろげであるにせよ、サーが向ける好意に呼応するように、一颯の気持ちもサーへ傾いていたのだと思う。
改めて自分に、「男を好きになっていいのか」と問うてみた。
相手が男であることは、さほど障害には感じなかった。
しかしながら、サーの滞在は短期であり、ドイツへ帰ることは決まっている。
中途半端に結ばれたところで、ことばも通じないし、離れれば、ふたりの未来はほどけて消える。
だから、この恋は、ひとりで閉じたほうがいい。
上映が終了し、シアター内が、早送りで朝日が昇るように明るくなった。退出を促すアナウンスとともに、客が立ち上がる気配があちこちから聞こえてくる。サーは腕枕をしたまま、一颯を抱え起こした。
くしゃっとなったつむじの髪を大きな手で整えて、考えに耽る一颯の顔を覗き込む。「Are you okay?」(だいじょうぶか?)と訊ねられ、イエスとノーで迷った。
サーが「嫌いになっていないか」と聞きたげにしょんぼりと眉尻を下げている。
サーに迫られたことが嫌だったなら、いま怒るべきだった。けれど、嫌ではなかった。怒りもない。とはいえ、大丈夫とも言い難い。
上下の唇をそっと擦り合わせてから、「ノー」と呟いた。
サーはすばやくソファから下りると、床に膝をついて一颯のかかとを掬った。スニーカーを履かせようとしたが、焦っているのか、慣れていないからか、まごついていた。
「……僕はヒロインじゃないんだから」
一颯は硬い笑顔を作って、自分で履いた。
