カフェの広いガラス窓は、空へ身を乗り出すように、わずかに外側へ傾いていた。
窓際のカウンター席を選び、高いスツールにサーと並んで腰掛ける。足裏が床から離れると、東京の空に浮いているようだった。
オーダーしたあと、サーにさきほどの写真をエアドロップしてもらった。
自分の顔を見て、身もだえするほど恥ずかしくなり、すぐに写真フォルダを閉じた。
男の恋人がいる証拠としては、過分だった。
自分がサーに熱烈な恋慕を募らせていることが一目瞭然。報われない恋の慰めとして、サーとの交際を偽装しようとしたように思われかねず、学校での使い道はないと思った。
メッセージアプリには、変わらず、伯母からの返信はないが〔スカイツリーに行ったよ〕と送信した。
もうサーが正しい相手かどうかなんかどうでもいい。サーでよかった、が一颯の結論だ。
見るつもりはなかったけれど、クラスのグループチャットのアイコンが目の端に触れた。
未読通知は三〇〇件を超えている。中村たちがあたらしいネタを投稿したせいかもしれない。
胃の裏から悪寒が這い上がり、淡い吐き気を覚えて口元を押さえた。
動揺するなと、自分にくりかえし言い聞かせ、スマホの画面をスリープにした。
アイスティーが届けられて、ストローを咥えた。ゆっくり飲んで、腹の中の濁りを薄める。横目にサーを見ると、テーブルに両肘をついて、両手でスマホを包み、親指ですばやく文字を打っていた。
父と思しき相手と、まだ揉めているのかもしれない。
サーのスマホに着信があり、サーは眉間に険しい皺を寄せて通話に応じた。
『Matti, bist du in Sicherheit? Sag mir, dass du nicht entführt worden bist!』(マティ、無事なの⁉ 誘拐されてないって言って!)
女性の声だった。詰め寄るような早口だ。サーは口をへの字に曲げて、スマホを耳から離した。
「Wie ich geschrieben habe: Ich bin mit jemandem unterwegs, den ich aufgegabelt habe, und amüsiere mich prächtig beim Sightseeing in Tokio」(メッセしたとおり、ナンパした相手と楽しく東京観光中だ)
『Der könnte doch gefährlich sein! Lass dich von Herrn Samejima abholen!』(危ない人かもしれないでしょ! 鮫島さんに迎えに来てもらいなさい!)
「Ich. Will. Nicht!」(イ・ヤ・だ!)
『Wenn du an die falsche Frau gerätst und dir etwas zustößt …! Wenn du nicht auf mich hörst, lasse ich dich aus Japan zurückholen!』(悪い女に引っかかって、あなたになにかあったら……! 聞き分けがないなら、日本から連れ戻させるわ!)
「Ach … du nervst. Vertrau deinem Sohn doch einfach mal. Bis dann.」(ああ……もう、うっとおしい……。少しは息子を信じて見守ってくれよ。じゃあな)
サーが通話を強引に切り、スマホをテーブルに置く。ゴトッと硬い音がした。
一颯は会話の接ぎ穂を見つけられず、手持ち無沙汰にストローを噛んだ。
サーから話しかけてこいよと、聞こえよがしの溜息を吐いてみても、サーは困り顔で額を擦りながらスマホの画面を睨んでいる。
よくない状況なんだろうか。もうお開きと言われたら寂しすぎる。
何気なくサングラスを外して、店内に視線を巡らせれば、奥のテーブルへと案内されている中村と目が合った。中村は声に出さずに「やっぱり!」と笑顔を作り、次いで入江と小池も好奇の目を向けてきた。
どんな顔で受け止めればいいかわからず、蒼白になって硬直していると、すぐさま一颯のスマホが震えた。
こわごわと通知に視線を落とせば、中村たち三人と一颯だけのグループチャットが立ち上がっている。
うっかりタップしてしまい、〔秀島君だよね?〕〔なんで避けるの?〕〔そのイケメン、だれ? モデル?〕という吹き出しに既読がついてしまった。
彼女らの吹き出しが、画面から出て、自分の手に這い上ってくる気がして、一颯は汚物を嫌うようにスマホをテーブルに置いて押しやった。
「What’s wrong, Isa?」(どうした?)
「あ……、え、と……」
サーの背後へちらりと目を向けると、サーがぐるっと振り返った。サーは上階で遇った三人組がいるとわかって、ファンサさながらに手を振り、「きゃぁっ」と声を上げさせた。刺激しないでくれよと、サーのTシャツを引っ張れば、サーの人差し指に顎の下を突かれ、唇が震えていることもバレた。
「I knew they’d follow us. I’ll make sure they get the message.」(やっぱり尾行されたな。あいつらに、きっちりわからせてやる)
「え……?」
「Sit tight, Isa.」(座ってろ、イサ)
「座れ? え? サー?」
なにをするつもりか、サーは含み笑いをしたあと、伝票を片手にカフェのスタッフカウンターへ行ってしまった。
一颯は楯と鎧をいっぺんに剥がされた心地で縮こまった。スマホがしきりに震え、画面にメッセージが詰まっていく。
早くなにか返さないと、彼女らが直接来そうだ。
画面に人差し指を乗せた。文字にすれば狼狽に気づかれかねず、スタンプを選んだ。
〔なんのこと?〕のウサギを送信する。
入江が〔とぼけるなよ〕とスタンプで返し、小池が〔クラスのグルチャの炎上に構ってられない事情はわかったわー〕。
中村が〔いっしょにいる人、紹介してくれる?〕と問うてきた。紹介してくれたらクラスのグルチャに晒さないであげる、という交換条件が透けて見えた。悪寒が背中に被さってきて、身じろぎもままならない。
「Are you all right, Isa?」(大丈夫か、イサ?)
戻ってきたサーが背を擦ってくれた。安堵し、胸の奥まで空気を吸えるようになった。サーは一颯のスマホ画面を一瞥し、日本語を読めないながらも彼女らからの連絡だと察したのか、スマホをスリープにした。強引だけど、救われたと思った。
サーは腰かけると、自分のスマホで翻訳アプリを立ち上げた。ドイツ語で話しかけ、変換された日本語を一颯に向ける。
【タイミングを計っています。五分くらい待ってください】
サーに似つかわしくない丁寧な言葉遣いで翻訳された。
「わ、わかった」
アイスティーのグラスを渡され、結露で手を濡らしながら、ストローを食む。サーも自分のカフェオレを一息に飲んで、はーっと深い息を吐いた。
が、ほっとしたのもつかの間、サーはアプリを使って質問を重ねてきた。
【私はあのひとたちのだれかがあなたの恋人だと思っています。 私とあなたがデートしていることで、あなたは浮気を疑われて気まずいということですか?】
画面に目を走らせて「浮気⁉ 恋人⁉」と声が裏返った。
「ノー! ノー! さっきもクラスメイトって言ったじゃん!」と力いっぱい否定した。
またもや顔が熱くなる。真顔で見つめ合えば、サーがふはっと破顔し、また翻訳アプリへドイツ語を吹き込んだ。
【あなたの英語が拙くて、私は何度も勘違いをさせられていると思います。しかし勘違いの原因には、私の期待が含まれているため、責任は双方にあります】
勘違いや責任という言葉に眉をひそめ、当惑した。アプリの翻訳が微妙すぎて、それこそ勘違いを発展させそうじゃないかと懸念しつつも、頭の片隅で、サーの期待が恋によるものだったらと想像してしまった。
もし恋だったなら、両想いでは。
「あ、ぁ、わ……わッ……」
慄きながら縮こまり両手で顔を塞ぐ。人目がなければ床に横転して身もだえていたかもしれない。
しかし恋の成就という大それた欲望を抱くには、いっしょに過ごした時間が短すぎる。根拠なんてない。勘に頼れば、それこそ勘違いになりそうだ。自分に恋のセンスがないことは、度重なった女難で身に染みている。
サーのスマホを借りて、画面に浮かぶ国旗のマークの左右を入れ替えた。
「言葉が通じなくて、勘違いがたくさんあるかもしれないけど、僕は楽しいよ。サーと友達になれたって思っていい?」
おずおずと申し出れば、翻訳結果を読んだサーは片目を眇めて、唇を引き結んだ。
「So you hold hands with every friend you have?」(じゃあ、おまえは友達ならだれとでも手を繋ぐのか?)
「え……? え……? なんて? ホールド?」
サーが「Hold hands」(手を繋ぐことだ)と、一颯の手をぎゅっと握り込んだ。一颯は心臓の騒がしさを堪えながら「うん、わかった、ホールドハンドね」と頷いた。
「With every friend you have?」(友達ともするのか?)
友達がいるのかと聞かれたと思い、一颯が頷き返せば、アイスグレーの瞳に動揺が走った。
勘違いがいっそう深まったのではなかろうか。しかしながら互いの認識を緻密にすり合わせることはできない。
伯母が外国語の習得を勧めた理由がいまさらながら身に沁みた。
「Well, now you’ve really got me motivated. I’ll have you choosing me before long, Isa.」(さて、俄然やる気が出てきた。そう遠くないうちに、おまえのほうから俺を選ぶようにしてみせるぞ、イサ)
「待って待って、ぺらぺらしゃべられてもわかんないって……! なんで翻訳アプリ使わなかったのさ」
不敵に笑ったサーが、ふいっと一颯の背後へ目をやった。行こうというように、出口のほうへ首を傾げる。タイミングを計っていると言っていたのを思い出し、サーに手を取られて立ち上がった。
「Already paid.」(会計終わってる)と言われて、さきほど離席したときに、サーが支払ってくれたのだとわかった。グループチャットに気を揉んでいて出遅れた。予算を預かっているだけに、サーに負担させることが心苦しい。
「サー、お金はいいんだよ」と言いかけたとき、囁き合う中村たちの声を耳が拾った。
「行こ行こ」と申し合わせて、支度している。また後をついてくる気だ。解れていた表情が、冷水で締めたように硬くなった。
いま話をつけるべきなのか。怒りと迷いで振り返ったとき、三人組のテーブルへ、ウェイターがパフェを運んでいった。
スカイツリーをイメージした、三十センチはあろうかというパフェが、三つ。
彼女らが「注文してない」と困惑すれば、店員が「あちらのお客様からです」と、サーを示して微笑んだ。
サーは鼻の高さを見せつけるように顔を上げ、鍵盤の上で指を遊ばせるような雑さで手を振った。
端正な横顔に、してやったりという笑顔が浮かんでいる。
足止めだ。
サーはパフェができるタイミングを見計らっていたのだ。
無作法な人間に対して、ごちそうしようなんて発想はまず生まれない。
だが奢られれば、たとえ予定外であっても文句を言いづらい。
一颯は、巧い、と感動した。
が、感動の波紋が消えやらぬ間に、暗い疑念が浮かんできた。
サーは慣れている。
モノを与えて相手に貸しを作り、遠慮を引き出して、互いの距離を操ることに。
中学のときの彼女は、自身の恋を一颯に差し出し、代償として一颯に歩み寄りを要求して、さらに一颯を仲間とシェアしようとした。相手を従わせるための手段として、好意を演出したり、相手に負い目を感じさせたりすること自体は、めずらしくない。
めずらしくないことだと自分に説いて、平常心を保とうとしても、一颯の古傷はじくじくと疼く。
写真代もカフェの代金も、サーは一颯に口を挟ませず支払っていた。
仮に、サーにとって他人に何かを与えることが、「ここまでにしよう」という関係の清算にあたるのなら、モノを贈られたときが潮時のサインだと考えるべきかもしれない。
どうせ、自分たちは今日限定の関係だ。
一颯の胸の裡は、音もなく萎んでいった。
窓際のカウンター席を選び、高いスツールにサーと並んで腰掛ける。足裏が床から離れると、東京の空に浮いているようだった。
オーダーしたあと、サーにさきほどの写真をエアドロップしてもらった。
自分の顔を見て、身もだえするほど恥ずかしくなり、すぐに写真フォルダを閉じた。
男の恋人がいる証拠としては、過分だった。
自分がサーに熱烈な恋慕を募らせていることが一目瞭然。報われない恋の慰めとして、サーとの交際を偽装しようとしたように思われかねず、学校での使い道はないと思った。
メッセージアプリには、変わらず、伯母からの返信はないが〔スカイツリーに行ったよ〕と送信した。
もうサーが正しい相手かどうかなんかどうでもいい。サーでよかった、が一颯の結論だ。
見るつもりはなかったけれど、クラスのグループチャットのアイコンが目の端に触れた。
未読通知は三〇〇件を超えている。中村たちがあたらしいネタを投稿したせいかもしれない。
胃の裏から悪寒が這い上がり、淡い吐き気を覚えて口元を押さえた。
動揺するなと、自分にくりかえし言い聞かせ、スマホの画面をスリープにした。
アイスティーが届けられて、ストローを咥えた。ゆっくり飲んで、腹の中の濁りを薄める。横目にサーを見ると、テーブルに両肘をついて、両手でスマホを包み、親指ですばやく文字を打っていた。
父と思しき相手と、まだ揉めているのかもしれない。
サーのスマホに着信があり、サーは眉間に険しい皺を寄せて通話に応じた。
『Matti, bist du in Sicherheit? Sag mir, dass du nicht entführt worden bist!』(マティ、無事なの⁉ 誘拐されてないって言って!)
女性の声だった。詰め寄るような早口だ。サーは口をへの字に曲げて、スマホを耳から離した。
「Wie ich geschrieben habe: Ich bin mit jemandem unterwegs, den ich aufgegabelt habe, und amüsiere mich prächtig beim Sightseeing in Tokio」(メッセしたとおり、ナンパした相手と楽しく東京観光中だ)
『Der könnte doch gefährlich sein! Lass dich von Herrn Samejima abholen!』(危ない人かもしれないでしょ! 鮫島さんに迎えに来てもらいなさい!)
「Ich. Will. Nicht!」(イ・ヤ・だ!)
『Wenn du an die falsche Frau gerätst und dir etwas zustößt …! Wenn du nicht auf mich hörst, lasse ich dich aus Japan zurückholen!』(悪い女に引っかかって、あなたになにかあったら……! 聞き分けがないなら、日本から連れ戻させるわ!)
「Ach … du nervst. Vertrau deinem Sohn doch einfach mal. Bis dann.」(ああ……もう、うっとおしい……。少しは息子を信じて見守ってくれよ。じゃあな)
サーが通話を強引に切り、スマホをテーブルに置く。ゴトッと硬い音がした。
一颯は会話の接ぎ穂を見つけられず、手持ち無沙汰にストローを噛んだ。
サーから話しかけてこいよと、聞こえよがしの溜息を吐いてみても、サーは困り顔で額を擦りながらスマホの画面を睨んでいる。
よくない状況なんだろうか。もうお開きと言われたら寂しすぎる。
何気なくサングラスを外して、店内に視線を巡らせれば、奥のテーブルへと案内されている中村と目が合った。中村は声に出さずに「やっぱり!」と笑顔を作り、次いで入江と小池も好奇の目を向けてきた。
どんな顔で受け止めればいいかわからず、蒼白になって硬直していると、すぐさま一颯のスマホが震えた。
こわごわと通知に視線を落とせば、中村たち三人と一颯だけのグループチャットが立ち上がっている。
うっかりタップしてしまい、〔秀島君だよね?〕〔なんで避けるの?〕〔そのイケメン、だれ? モデル?〕という吹き出しに既読がついてしまった。
彼女らの吹き出しが、画面から出て、自分の手に這い上ってくる気がして、一颯は汚物を嫌うようにスマホをテーブルに置いて押しやった。
「What’s wrong, Isa?」(どうした?)
「あ……、え、と……」
サーの背後へちらりと目を向けると、サーがぐるっと振り返った。サーは上階で遇った三人組がいるとわかって、ファンサさながらに手を振り、「きゃぁっ」と声を上げさせた。刺激しないでくれよと、サーのTシャツを引っ張れば、サーの人差し指に顎の下を突かれ、唇が震えていることもバレた。
「I knew they’d follow us. I’ll make sure they get the message.」(やっぱり尾行されたな。あいつらに、きっちりわからせてやる)
「え……?」
「Sit tight, Isa.」(座ってろ、イサ)
「座れ? え? サー?」
なにをするつもりか、サーは含み笑いをしたあと、伝票を片手にカフェのスタッフカウンターへ行ってしまった。
一颯は楯と鎧をいっぺんに剥がされた心地で縮こまった。スマホがしきりに震え、画面にメッセージが詰まっていく。
早くなにか返さないと、彼女らが直接来そうだ。
画面に人差し指を乗せた。文字にすれば狼狽に気づかれかねず、スタンプを選んだ。
〔なんのこと?〕のウサギを送信する。
入江が〔とぼけるなよ〕とスタンプで返し、小池が〔クラスのグルチャの炎上に構ってられない事情はわかったわー〕。
中村が〔いっしょにいる人、紹介してくれる?〕と問うてきた。紹介してくれたらクラスのグルチャに晒さないであげる、という交換条件が透けて見えた。悪寒が背中に被さってきて、身じろぎもままならない。
「Are you all right, Isa?」(大丈夫か、イサ?)
戻ってきたサーが背を擦ってくれた。安堵し、胸の奥まで空気を吸えるようになった。サーは一颯のスマホ画面を一瞥し、日本語を読めないながらも彼女らからの連絡だと察したのか、スマホをスリープにした。強引だけど、救われたと思った。
サーは腰かけると、自分のスマホで翻訳アプリを立ち上げた。ドイツ語で話しかけ、変換された日本語を一颯に向ける。
【タイミングを計っています。五分くらい待ってください】
サーに似つかわしくない丁寧な言葉遣いで翻訳された。
「わ、わかった」
アイスティーのグラスを渡され、結露で手を濡らしながら、ストローを食む。サーも自分のカフェオレを一息に飲んで、はーっと深い息を吐いた。
が、ほっとしたのもつかの間、サーはアプリを使って質問を重ねてきた。
【私はあのひとたちのだれかがあなたの恋人だと思っています。 私とあなたがデートしていることで、あなたは浮気を疑われて気まずいということですか?】
画面に目を走らせて「浮気⁉ 恋人⁉」と声が裏返った。
「ノー! ノー! さっきもクラスメイトって言ったじゃん!」と力いっぱい否定した。
またもや顔が熱くなる。真顔で見つめ合えば、サーがふはっと破顔し、また翻訳アプリへドイツ語を吹き込んだ。
【あなたの英語が拙くて、私は何度も勘違いをさせられていると思います。しかし勘違いの原因には、私の期待が含まれているため、責任は双方にあります】
勘違いや責任という言葉に眉をひそめ、当惑した。アプリの翻訳が微妙すぎて、それこそ勘違いを発展させそうじゃないかと懸念しつつも、頭の片隅で、サーの期待が恋によるものだったらと想像してしまった。
もし恋だったなら、両想いでは。
「あ、ぁ、わ……わッ……」
慄きながら縮こまり両手で顔を塞ぐ。人目がなければ床に横転して身もだえていたかもしれない。
しかし恋の成就という大それた欲望を抱くには、いっしょに過ごした時間が短すぎる。根拠なんてない。勘に頼れば、それこそ勘違いになりそうだ。自分に恋のセンスがないことは、度重なった女難で身に染みている。
サーのスマホを借りて、画面に浮かぶ国旗のマークの左右を入れ替えた。
「言葉が通じなくて、勘違いがたくさんあるかもしれないけど、僕は楽しいよ。サーと友達になれたって思っていい?」
おずおずと申し出れば、翻訳結果を読んだサーは片目を眇めて、唇を引き結んだ。
「So you hold hands with every friend you have?」(じゃあ、おまえは友達ならだれとでも手を繋ぐのか?)
「え……? え……? なんて? ホールド?」
サーが「Hold hands」(手を繋ぐことだ)と、一颯の手をぎゅっと握り込んだ。一颯は心臓の騒がしさを堪えながら「うん、わかった、ホールドハンドね」と頷いた。
「With every friend you have?」(友達ともするのか?)
友達がいるのかと聞かれたと思い、一颯が頷き返せば、アイスグレーの瞳に動揺が走った。
勘違いがいっそう深まったのではなかろうか。しかしながら互いの認識を緻密にすり合わせることはできない。
伯母が外国語の習得を勧めた理由がいまさらながら身に沁みた。
「Well, now you’ve really got me motivated. I’ll have you choosing me before long, Isa.」(さて、俄然やる気が出てきた。そう遠くないうちに、おまえのほうから俺を選ぶようにしてみせるぞ、イサ)
「待って待って、ぺらぺらしゃべられてもわかんないって……! なんで翻訳アプリ使わなかったのさ」
不敵に笑ったサーが、ふいっと一颯の背後へ目をやった。行こうというように、出口のほうへ首を傾げる。タイミングを計っていると言っていたのを思い出し、サーに手を取られて立ち上がった。
「Already paid.」(会計終わってる)と言われて、さきほど離席したときに、サーが支払ってくれたのだとわかった。グループチャットに気を揉んでいて出遅れた。予算を預かっているだけに、サーに負担させることが心苦しい。
「サー、お金はいいんだよ」と言いかけたとき、囁き合う中村たちの声を耳が拾った。
「行こ行こ」と申し合わせて、支度している。また後をついてくる気だ。解れていた表情が、冷水で締めたように硬くなった。
いま話をつけるべきなのか。怒りと迷いで振り返ったとき、三人組のテーブルへ、ウェイターがパフェを運んでいった。
スカイツリーをイメージした、三十センチはあろうかというパフェが、三つ。
彼女らが「注文してない」と困惑すれば、店員が「あちらのお客様からです」と、サーを示して微笑んだ。
サーは鼻の高さを見せつけるように顔を上げ、鍵盤の上で指を遊ばせるような雑さで手を振った。
端正な横顔に、してやったりという笑顔が浮かんでいる。
足止めだ。
サーはパフェができるタイミングを見計らっていたのだ。
無作法な人間に対して、ごちそうしようなんて発想はまず生まれない。
だが奢られれば、たとえ予定外であっても文句を言いづらい。
一颯は、巧い、と感動した。
が、感動の波紋が消えやらぬ間に、暗い疑念が浮かんできた。
サーは慣れている。
モノを与えて相手に貸しを作り、遠慮を引き出して、互いの距離を操ることに。
中学のときの彼女は、自身の恋を一颯に差し出し、代償として一颯に歩み寄りを要求して、さらに一颯を仲間とシェアしようとした。相手を従わせるための手段として、好意を演出したり、相手に負い目を感じさせたりすること自体は、めずらしくない。
めずらしくないことだと自分に説いて、平常心を保とうとしても、一颯の古傷はじくじくと疼く。
写真代もカフェの代金も、サーは一颯に口を挟ませず支払っていた。
仮に、サーにとって他人に何かを与えることが、「ここまでにしよう」という関係の清算にあたるのなら、モノを贈られたときが潮時のサインだと考えるべきかもしれない。
どうせ、自分たちは今日限定の関係だ。
一颯の胸の裡は、音もなく萎んでいった。
