スカイツリーの展望回廊は光に溢れていた。
環状の通路は白く塗装され、窓側には白い鉄骨が立っており、空の近さもあって、雲を固形化した建物のような気がしてくる。
見下ろした東京には、こまごまとした立方体が詰まっており、雲が落とした薄墨の影がその上を静かに這っていた。
浅草よりも、スカイツリーに着いてからのほうが、サーへ向けられる視線の粘度が増していた。
ソラマチという垢ぬけた場所柄、SNS映えするものを探している若い女性たちが多いし、彼女らは総じて目敏い。遠巻きについてくる人もいたけれど、一颯がサーと繋いだ手を見せつけるように振れば、そっと離れて行ってくれた。
──効果絶大。
サーが女性たちを一切構わないことも、一颯の優越感を膨らませる原因だ。だれとも争わずしてサーの傍らに選ばれている。それだけで、自分の容姿も本質も、価値まで引き上げられたような気がしてくる。
簡潔に表現するならば―勝者側の心情だ。
沼る、という言葉が、頭をよぎった。むやみやたらに強気になりそうだ。
しかもサーはまた一段とやさしくなった。
一颯が「行こう」「しよう」と言うことに、「ノー」と言わない。意地悪そうに笑うことはあっても、機嫌がよくて、なんだかんだ、いっしょに楽しんでくれている。
相手の顔色も空気も読まなくていいと、安心して提案できる。自然と背筋が伸び、視線が高くなって、サーとの身長差が少し縮まったように思えた。
東京の西方にそびえる富士は、日を浴びて群青に染まっている。霞もなく、景色が澄んでおり、せっかくだからデジタル望遠鏡を使ってみることにした。モニター上で富士山にフォーカスして、サーの袖を引く。
富士山は、エジプトにおけるピラミッド、フランスにおけるエッフェル塔、イタリアにおけるコロッセオ。サーがどんなにすましていても、食いついてくるはずだ。
「ほら、サー、富士山、くっきり見えるよ」
場所を譲れば、サーが腰を折ってモニターを覗き込んだ。
「Ah, Mount Fuji. So that’s where it was」(ああ富士山か。あんなところにあったんだな)
「え、思ったより反応薄い……。外国の人ってもっと富士山観たらエキサイティングするかと」
「Exciting? It’s a mountain, Isa. What am I supposed to get excited about?」(エキサイティング? 山だぞ、イサ。何に興奮しろっていうんだ)
サーは小ばかにしたように鼻をフンと鳴らしたけれど、高解像度のモニターをじっくり観察している。
富士山の表面には、溶岩流の駆け下った跡が無数の溝になっており、山頂を飾る雪化粧が、その溝を伝うように裾へ向かって伸びていた。空の青、残雪の白、山肌の藍色。
その美しい色彩の対比は、浮世絵にも繰り返し描かれてきた。万国に愛されるに違いない。
と思い至って、一颯はサーの後頭部をちらりと見た。
サーのプラチナブロンドと白い肌。ズボンと腕時計の文字盤の青。
白と青は、サーの好きな色の取り合わせかもしれない。
サーの好きなものをひとつ見つけたような気がして、一颯が表情を緩めたそのとき、視界の隅を、三人組の女子がかすめた。
心臓が、硬く脈打ち、息が止まる。
見覚えがある背格好だった。
望遠鏡の利用可能時間が残っていたけれど、サーの手を強く引っ張って、順路を先に進むよう急かした。
「What is it, Isa?」(どうした?)
「あっち! あっちも見よう!」
急き立てながら、肩越しにこわごわと振り向いた。三人組は、同じクラスの女子の中村と入江と小池だった。三人ともやや大人びた雰囲気で、裁判を起こした川口とは異なるグループに属している。
敵寄りの他人だ。「一颯がLINEを無視しているのは、男とデートするのに忙しいから」などとグループチャットで告発されれば、裁判がヒートアップするのは確実。
サーとの写真をお守りにと考えていたけれど、第三者経由で今日のことを暴露されれば、まず狙った形で収束しない。泥仕合にサーを巻き込まないためにも、逃げ切らないと。だが行く手を催事の行列に塞がれてもたついているうちに、中村がサーを見つけてしまった。
「あっち見て、めちゃくちゃハリウッド俳優みたいなイケメンがいるー」
ざわめきのなかから、彼女らの声を鼓膜が選り分ける。度重なる女難と保身のために聴覚が変に鍛えられていた。自分もサーも、周囲の人より頭一つぶん高く、こんなに人が多いのに紛れることができない。
──見つかるっ……。
背を向けて首を竦めると、サーが怪訝そうな顔で覗き込んできた。
「What are you afraid of, Isa?」(なにに怯えてるんだ、イサ?)
サーが一瞬背後に目を配ると、まるで状況を察したかのように浅く頷き、一颯の手を引いてするすると人垣を抜け、エレベーターの列に並んだ。
壁に肩を預け、その長身を衝立にしてくれる。
「So, which one of those three is it—your girlfriend or your ex?」(で、あの三人のうちだれ? 今カノか、それとも元カノか?)
「ガ、ガールフレンド⁉ ち、違う違う! クラスメイト!」
「Hmm. If you say so.」(ふーん。そういうことにしておくか)
「え、なに、なんで疑ってんの? ほんとにクラスメイトだし」
「But you don’t want them to know you’re on a date with me, do you?」(でも、俺とデート中だって知られたくないんだろ?)
サーは手を放すと、一颯の前髪の毛先を摘まんで感触を確かめ、重い前髪へ手櫛を大胆に挿し込んできた。根元を持ち上げて、後ろへ流し、髪型を好きにいじってくる。「変装ってこと?」と目を閉じたまま訊けば「ぷふっ」と笑っていた。
ほどなくしてサーにスマホのカメラを向けられ、画面で自分の顔を確認した。
額がしっかり出ている。前髪を眉に被せて、気弱さを隠そうとしてきたけれど、改めて自分の顔を見れば、中学時代を引きずっているような憂鬱さは、眉にも目にも残っていなかった。こざっぱりし、視界も開けて、自分の知らない自分になっている。
サーが「どうだ」と言いたげに、唇の片端を上げた。
「サー、サンキュー」
「Anytime, Isa」(いつでもやってやるよ、イサ)
しかし第一印象が変わった程度で変装にはなっていない。サーがVネックの谷にかけたままにしているサングラスを借りたくて、一颯はそこを指さし「プリーズ」と言った。
サーがにんまりと笑い、無駄にフェロモンを放散させながら、自分の前髪を掻き上げた。
一颯に流し目を向け
「Me? You want me?」(俺? 俺をほしいのか?)
と、低く囁く。
「ほわ⁉ へ⁉」
「You pointed at me and said please.」(俺を指して、プリーズと言っただろ)
「ノー、ノー、ノー、サングラス! グラス、プリーズ! てゆーか、わかってて言ってるだろ!」
すっとぼけて口をへの字にしたサーは、サングラスのつるを開いて、一颯の顔に掛けてくれた。サーより鼻が低いせいで、子どもが大人の眼鏡を借りたときのように、ブリッジがずるっと下がってくる。
見かねたサーがサングラスを回収し、鼻当てを手で調整してくれた。
フロア三五〇の展望デッキに到着すると、サーにスタッフがいるフォトスポットへ連れていかれた。立ち止まらずにショッピングモールのあるソラマチの階まで降りたいのだが、サーがスタッフに自分のスマホを預けてしまって断れなかった。
窓の外にはすがすがしい青空と、ぎらつくようなスモッグを纏ったビルの群が広がっている。肩を抱かれたまま、雲を模したソファへ腰を下ろした。サーは長い脚を見せつけるように組み、一颯は膝頭をサーへ寄せる格好になった。サーの人差し指にサングラスをずらされ、上目遣いで、サーと視線を通わせる。笑うべきか、自分なりのキメ顔を模索するべきか、サーの隣に写るのに、どんな表情がふさわしいのかわからない。
「Keep that look. Look at the camera.」(そのまま、カメラ見ろ)
困惑を察してか、サーの右手が一颯の顎を捉えた。
やや上からこちらを狙うフォトスタッフのカメラへ視線を移す。
「笑ってくださーい」とスタッフに言われて、努力したけれど半笑いになった。カメラだけじゃなくて、行き交う人が足を止めて自分たちを注視している。異色のゲイカップルだと思われているに違いないが、蔑視も敵視もされていない。おそらく、仲睦まじい男女に向けるのと同じ、茶化しを含んだ微笑みだった。
同性の彼氏がいる証拠に、ぴったりな写真が撮れそうだ。
魔が差した。
恋をしていたら、好きな人を絶えず気にしてしまうはず。思い立って、サーを見上げようとした。
どうせサーはまた意地悪そうな顔をしてるんだろう、と思っていたのに、サーは幸せ満開、毒気ゼロの笑顔を浮かべていた。
左胸がきゅっと詰まるような感覚に襲われ、苦しくて咄嗟に手を当てた。
やたらと速い心音を鼓膜の裏と手のひらで聞く。
サーと目が合って、こめかみを寄せられた。すべすべした肌が頬に密着し、息を詰める。
──なにこれ、サーが、僕をめちゃくちゃ好きみたいじゃん……ッ!
撮影後、サーはタブレットを見せてもらって、三枚印刷してくれるように頼み、クレジットカードで決済した。選んだ写真をスマホにも転送してもらって、すぐさま頬密着の画像をロック画面の壁紙に設定する。
「ちょ……、なんでッ……カップルのふりするにしたってさぁ……!」
「Why are you getting all shy now, Isa?」(いまさらなにを恥ずかしがるんだ、イサ?)
「サーがどういうつもりか、どんどんわかんなくなってくよ」
またサーの手が肩に触れかけて、一颯は一歩逃げた。右手で左肩を守るように撫でれば、サーが自分の左手を差し伸べ、小指から順に曲げて一颯に右手を寄越せと催促してくる。繋ぐだけならいいだろと、サーのアイスグレーの瞳が、いたずらっぽく笑う。
「……迷子になったら困るから、な」
右手を重ねた。はぐれたって、サーの身長と容姿ならすぐ見つけられる。
薄っぺらな理由でも、つけておかなければならない。繋ぎたいから繋ぐ、では困るのだ。
サーとは今日限り。しかもサーは女好きだ。言葉も通じないから、ほんとうのサーがどんな人間かさえ、わかっていない。
伯母からの指示では、スカイツリーに登ったあとは流れで観光し、日が傾いたら待ち合わせた駅まで送って終了。
長引かせても、あと数時間でお別れだ。
さみしくなるから考えたくない。
サーに手を引かれて歩き出した。サーの横顔を盗み見ながら反対の手の甲を頬に当てた。顔が火照っている。ひとを好きになったときの反応が、顔にあらわれてしまっている。
観光客に紛れてしまいたいのに、通りすがりのひとの視線が、シールを貼るような気軽さで向けられて、萎れそうだ。
──見られたくない。片想いモロバレの有様を。
サングラスのブリッジを押し上げて取り繕い、正面を向いたそのとき、クラスメイトの三人組が、向かいから歩いてきた。
声を上げそうになって噛み殺すと、足がもつれてサーの背中にぶつかった。
嵐が去ることを願って、サーにくっついたままその場をニジニジと離れようとすれば、中村がしきりに瞬きをしながら一颯を見た。
さらに、中村の視線を追ったふたりの目も、一颯へ向けられる。
中村が「ねえ秀島君に似てない?」と、入江たちに訊く。「雰囲気違うけど、っぽいよね」と小池が頷いた。
生け捕りにされ、虫ピンで板に止められるような錯覚に襲われた。肉も骨もすうっと貫かれ、冷えていくみたいだ。
息を吸えない。
「Shall we take a break, Isa?」(休憩するか、イサ?)
サーが振り返って、三人の視線から庇うように立ってくれた。ブレークを「壊す」だと思った一颯は、意味がわからず頭を振ったが、サーは指に力を込めると「I’m tired. You’re coming to a café with me.」(俺が疲れてるんだ。カフェに付き合え)と言った。
それからサーは矢継ぎ早にドイツ語で話しかけてきた。戸惑いながらついて歩けば、エスカレーターに乗り、三人から離れることができた。
傍目には一颯もドイツ語が話せるかのように見えただろう。サーがドイツ語を弾幕にしてくれたのだ。他人の遠慮を引き出すことが巧くて助かった。
「サンクス、サー」
サーの肩にもたれ掛かり、思い切り脱力したいのをぐっとこらえた。
ちょっと前のサーならしかめっ面をしただろうけれど、いまのサーは、纏う空気がまろやかで──やわらかい。
甘えて、もし甘やかされでもしたら。
とりかえしのつかない深さまで沼って、沈んでしまいそうだ。
胸の疼きを堪えていたのに、サーが満面の笑みを向けてきた。
「You were about to fall for me just now, weren’t you?」(いま惚れそうになっていただろ?)
英語がわからなくても、サーが自制心を崩しにきていることはわかった。ごぐっと喉を鳴らし、「ぱーどん」。
「You should just fall for me」(惚れちまえばいいのに)
繋いだ手を持ち上げられ、繋ぎ直される。指を搦めて握り込まれた。
その大きな身体にまるごとハグされたみたいで、一颯は瞳を震わせながらうつむいた。
口を噤んでも、耳の先も額も、恋の芽吹きを勝手に自白していた。
