僕らが手をつなぐ理由

 
 浅草寺の本堂手前にあるお水舎で、サーに教えながら手を洗い、口を漱いだ。
 タコ焼きで、痛い目ならぬ熱い目に遭ったからか、サーはすんなりいうことを聞いてくれるようになった。
 意地悪げな笑みもずいぶん減り、纏う空気に角がなくなった感じがある。
 加えて、覚束ない一颯の英語を真剣に聞き取ろうとしてくれているのがわかり、いまさらながらに気恥ずかしさを覚えた。

「つぎはあっちで線香を買うよ」

 黒光りしている常香炉から、煙がもうもうと溢れており、行く手に立ち込めている。
 自分たちも線香を立てようと、授香所(じゅこうしょ)へ誘ったのだが、くっと、サーに引かれて腕が突っ張った。

「ルック、見て、あのひとたち、煙を当ててるだろ。痛いところって何て言うんだっけ? えっと、バッド、ヘッド、ストマック、スモークヒーリング、グッドチェンジ」

 一颯は、常香炉に集まった人たちが身体に煙をかけようとしている仕草を真似つつ、身体の悪いところに常香炉の煙を当てると、治りがよくなるとされていることを精一杯で説明した。

 もちろん、持てる語彙では厳しかった。

「Bad? You? I don’t see anything that needs fixing.」(悪いところ? おまえに? 直すところなんて見当たらないけど)

「いや、これちゃんと伝わんなかったな?」

「Not that there’s anything about me that needs fixing, either」(俺にも直すべきところはない)

 話している間に風向きが変わって、煙が流れてくると、サーが顔をかすかにしかめ、後退りした。西洋では線香に馴染みがないだろうし、煙を浴びれば洗い流すまでそのにおいが残る。サーのマンダリンの香りが上書きされるのはもったいない気がした。

「いいよ、いこう。サー、フレーバー、フェイバリット、ミートゥー」
「What? My scent is your favorite?」(は? 俺の香りが、おまえのお気に入りだって?)
「え、うん、イエス」
「You don’t mean that as mere flattery this time, do you?」(今度こそ、ただのお世辞で言ってるんじゃないよな?)
「うーん? わかんないけど、イエスイエス」

 常香炉を迂回して、浅草寺の本堂に続く列へ並んだ。瓦をびっしりと葺いた重厚な屋根を見上げると、圧し潰されそうな怖さを覚えた。
 
石段を登り、屋根の下、外陣(げじん)に入る。黒い床に快晴の光が映っていた。
 すっと涼しくなり、同時に喧騒が遠のく。
 後ろから来た賑やかしい団体の観光客も、荘厳な雰囲気に包まれて参拝客になり、口数を絞った。
 皆それぞれ、読経の声の中で静かに自分の番を待っている。

 サーに話しかけようと隣を見れば、サーは、本堂天井の天人と龍の絵を見上げていた。
 一颯は無意識にその横顔に見惚れ、視線で彼の輪郭を辿った。
 なめらかな額、彫りの深い目元ときれいに反り返った睫毛、高い鼻梁、薄いながらも境界のくっきりした唇、シャープな顎のラインからさらに下り、喉の凹凸に行きつくと、サーの喉仏がゆっくりと上下した。

 一颯は、はっと我に返って、息を深く吸い込んだ。
 サーの顔が強すぎて、罠にかかったみたいに目が奪われる。

 サーに気づかれないようにしなきゃ、と思った。

 見惚れてしまっても、邪な感情など持っていない。全然ない。サーは男で、自分も男だ。やましくない。けれど、彼の容貌に惹かれたことは─隠したい。

 一颯は、容姿を褒められると、警戒心を強くしてしまう。
 サーだって、少なからず外見ばかりを褒められ、心を蔑ろにされた経験があるだろう。

 サーに不快な思いをさせてはいけない。伯母から与えられた観光案内の完遂こそ、一颯の目標だ。

 小銭が賽銭箱に当たり、底へ落ちる音が絶え間なく続いている。

 親指でサーの手の甲を擦った。「ペイ、スタンバイ」と囁いて、手を放してもらい、財布から百十五円を取り出して、サーにも渡す。
 「Why?」と眉を上げたサーに、前の参拝客が賽銭を入れ、手を合わせている様子を見せ、一颯がジェスチャーで参拝の方法を説明すると、サーは浅い頷きをくりかえした。

「宗教が違ってもだいじょうぶそうでよかったよ」

 一颯は手のひらの小銭を並べ、指を当てながら、賽銭の説明を続けた。

「ワンハンドレッド、テン、ファイブ。ミーン、ジャパニーズ、イイゴエン」

「イー・ゴイェン」とサーが復唱する。

「イイゴエン、イズ……、えっと良縁ってなんて言うんだっけ……、あ! イイゴエン、イズ、グッド……、ベストディスティニー」

 サーの口がぱかっと半開きになった。まばたきをくりかえして、ベストディスティニーを吟味している。

「えー、間違ったかな……ほかになんて言えば……グッドフォーチュンとかか? コミュニケーションラッキー?」

 狼狽える一颯に、サーが真顔で「Are you serious?」(本気で言ってんのか?)と問う。もちろん一颯は「シリアス」を、「深刻で笑いのないストーリー」という意味でしか認識しておらず、ただ首を傾げた。

 一方サーは、困惑した一颯を見つめ、ほんのりと頬を赤くしながら「Isa. Isn’t that a little premature? We only met today」(イサ、ちょっと早すぎないか? 今日会ったばかりだぞ)とぼやく。

 が、当然一颯は聞き取れず、列の前が動いたのに気づいて、サーの手を取った。手を繋がないと歩かないというサーの謎ルールが、もうすっかり一颯の癖として定着している。一歩、二歩と、しょぼくれたように進んだサーは、頬に空気を溜めて、一颯を凝視した。

「サー、むくれるなら翻訳アプリ使えばいいのに。僕は禁止されてるけどサーもなの? 翻訳って……トランスレーション? だったけか?」

「Ach, eine Übersetzungs-App … Wenn ich die benutze, könnte ich viel zu viel erklären. Lass mich einfach noch ein bisschen länger mit dir auf diesem Date bleiben, Isa.」(ああ、翻訳アプリか……使ったら、余計なことまで説明できすぎちまう。イサとこのままデートをつづけさせてくれよ)

「苦労したいって意味? 僕ばっか頭捻ってる気がしてるんだけどなー」

 軽口を叩きつつ、賽銭箱の前に立った。賽銭を落として、サーに目くばせし、手を合わせた。
 瞼を閉じて、祈る。

 一颯の願いは『悪縁消除』だ。目下グループチャットでは被告人不在の裁判が過熱している。伯母にメッセージしたときに見えた、未読通知数は二一五件あった。月曜からの学校生活を考えると気が重い。
 心を病めば身体がもたないけれど、不登校になって単位を落とすわけにはいかず、聖観世音菩薩へ「切実です」と念じていると、ふと、耳が若い女性のひそひそと話す声を拾った。

 ──あのふたり、ヤバくない? 言葉が通じてないっぽいのに、気持ちが通じちゃってるよね?
 ──黒髪の子と、西洋系の子でしょ?

 嫌悪に引火しそうだった。サーとカップルだと思われるのも不本意だ。だが心の隅に優越感が芽吹いた。現状、サーに頼られているのは自分だけだ。今日の自分に成り代われる人間なんていない。口角が上がりそうになるのを堪えて、耳を澄ませば、無遠慮な会話はまだ続いていた。

 ──ビジュが完全に陰陽って感じで、並んでると絵になるよねー。
 ──お似合いすぎて、周りに見えない壁あるわー。
 ──SNS繋がりたいけど近づけなーい。

 サーの美貌が、バリアになっているのではなかった。
 自分たちが近すぎるから、誰も近づいてこないのだ。

 天啓だ。
 最後の歯車が取りつけられたときのように、頭が冴えて、正解が見えてきた。

 一颯は和菓子屋やタコ焼き屋の店員に言われたことを、年長者が、手を繋いでいる年下のふたりをからかっているのだと決めつけていた。自分がサーと並び立ってつり合いが取れるはずがないと思っていたのだ。

 しかし若い女性にとっても、サーと自分が親しく手を繋いでいる様子はカップルに見えるらしい。ということは、クラスの女子も、自分とサーの仲睦まじい(っぽい)様子を見れば、同じ感情を抱くだろう。

 昨年、女子と交際して「他人のモノ」になり、事態の収束を目指したときは失敗した。けれど、あのときと同じ轍を踏むことになりそうな要因は、サーにはない。

 サーとは、あくまで今日限りの関係になるはずだし、文化交流が終わればサーはドイツに帰国する。あとくされがないのも好都合だ。

 サーとくっついてる写真を撮って──同性の彼氏がいる証拠にすれば、いいお守りになる。

 祈りを終えたサーが、顔を上げずに一颯を見た。ちゃんとできただろと、片方の眉をくっと上げる。そうだねと首肯して、本堂に一礼すると、一颯はサーの手を取り、列から離れた。

 最初は、ミッション完遂のためにやむなく手を繋いだ。さっきまでは世話の焼ける友達を連れているつもりで手を繋いでいた。
 
 いまは、サーを利用する気で手を繋いでいる。

 後ろめたさで気分が沈む。拝んでいる最中だったから、天啓だとつい思ってしまったが、写真を流用したお守り作戦は、姑息な本性が導き出した、苦肉の策でしかない。

 新しいしこりを持て余しながら『みくじ』の看板を見つけて、授与所へ寄った。
 集金箱へ二百円を入れ、一人ぶんずつみくじ箱を振った。出てきた棒の番号を確かめ、それぞれ同じ番号が書かれた抽斗から、みくじを一枚ずつ取り出す。

 一颯は大凶だった。学問は心乱れて進まず。恋愛は思い違い多し、早まれば破る。商売は損あり、火の気に用心せよ。失物は夏に出る、とある。胸のすくような文言はなく、ひっそりと嘆息した。

「サーのは? なんだった?」と横から覗けば、サーはなんとここにきてスマホの翻訳を使っていた。「いやいや、翻訳アプリ、ここで使うのかよ」と突っ込みたかったが、真剣に画面を読んでいるので自重した。

「ふたりそろっておみくじが辛口……」

 よりにもよって、サーも大凶だ。争事はこじれる、退け。家庭は忍耐を要する。学問は生涯にかかわる、精進せよ。
 
 自動翻訳でなんと表示されたかは知らないが、大凶=スーパーハイレベルアンラッキーというフレーズが思い浮かんだ。
 サーをがっかりさせたくなくて「ラッキーアップ」だとフォローする。大凶は運気の底。上がるしかないという点で、うそはついていない。

 授与所の軒下に設置された結び台の紐に、おみくじをくくりつけていると、サーがおみくじをぴらぴらと振った。「こんな紙切れごときに惑わされてたまるか」という顔をしている。サーのぶんも結んでやり、忘れることにした。

 ふたり同時に手を探り合って繋ぎ、二天門へと歩く。
 雷門が浅草寺の正面玄関だとすると、二天門は通用口だ。厳かな門構えのわりに、人通りは少ない。

 ちぎれ雲の浮かぶ東の空に、スカイツリーのとんがったてっぺんが見えた。
 指さして、「ウィーアーゴーイングトゥースカイツリー」と言ってみる。

 細切れの単語じゃなかったことに、サーがきょとんとした。
 間を置いて含みのある笑顔を作り「That’s it, Isa. Keep going」(いいぞ、その調子で続けろ)と、肩をぶつけられた。

「……ハードル上げようとしたろ、ほんとにイングリッシュは、ちょっとしかわかんないんだからね」

 親指と人差し指でスマホより薄い隙間を作ってサーの鼻先に持って行けば、サーがカチカチッと歯を鳴らした。きび団子のときに指を齧った仕返しをされるところだった。

「サーも執念深いなー」
 一颯は肩でサーを突き返し、イーと歯を剥いた。
 文化交流なら、日本の「イー」の意味も学んで帰ればいい。

「How can you be so cheeky and still so adorable?」(生意気なのに、どうしてそんなにかわいいんだ?)

「チーケー? チキンってこと? 英語でチキンって臆病者だったっけ。ふん、言ってくれるじゃん」

「I said “cheeky,” not “chicken.” Are your ears blocked?」(チーキー(生意気)って言ったんだ。チキンじゃない。耳でも詰まってるのか?)

「はいはい、わかんないよーだ。トンチンカンですみませんねー」

 ただじゃれているのだが、周囲にはおそらくイチャイチャしているように見えるのだろう。
 意識すると、手を繋ぐことが、いっそう特別な行為なのだと思えて、耳の奥が熱っぽかった。