僕らが手をつなぐ理由

 七月七日、期末テスト最終日。一颯は答案用紙に被さるようにして、頭をフル回転させていた。
 最後の科目はもっとも苦手な数学だ。隆太いわく「二次関数で点を稼げば赤点は回避できるはず!」。

 残り時間を気にする余裕もないまま、必死にシャーペンを走らせた。文章題はちんぷんかんぷんだったが、途中式のどれかが正解を掠めていれば、お情けの部分点で一点くらいはもらえるかもしれない。

 終了のチャイムが鳴り響き、あと三文字書ければわかるところは全部埋められたのに、と思いながらシャーペンを手放した。
 机上にころんと転がり、シャーペンの銀色のクリップがかすかに光る。

 窓外を見やると、鼠色をした梅雨の雲を、夏の日差しが割り開き、青い空が覗いていた。
 青は、夏の濃さだった。

 後ろの席から回ってきた答案用紙に自分のものを重ねて、前の席の生徒に渡した。
 斜め前の隆太が、顔で「できたか⁉」と訊いてくる。下唇で上唇を押さえ、「厳しい」と首を振った。あとは神のみぞ知る。

 監督の先生は、答案用紙の束をファイルに挟むと、「四時間目は全校集会だぞー」と呼び掛けた。

「えー! 今日は三時間目で終わりだったんじゃないんですか~⁉」
 隆太がすかさず食い下がると、先生は苦笑した。
「帰る用意してから体育館に来ーい! 遅刻するなよー!」

 せっかくの解放感に水を差されて、教室じゅうで不満の声が上がった。
 一颯は早く帰りたいなぁと思いながら立ち上がると、両腕を上げて伸びをした。肩甲骨のあたりでコキコキと音がする。テスト勉強のためにジム通いを休んでいた。ほんの七日なのに、関節が硬くなって身体が重くなっている。筋肉に溜まった澱を、汗にして発散したい。

「おー。一颯ぁー、なんか縦に育ってね?」
「そうかも。机とイスが小さくなったし、ときどき膝も痛いし」
「ほぼ二メートルじゃん?」

 一颯は「はは、そこまでにはなんないだろ」と笑って、右手首の腕時計に触った。サーにつけられたときは、腕を動かすたびに文字盤がくるりと回っていた。いまもゆとりはあるけれど、手首から伸びる前腕には、ふた月前にはなかった筋が浮いて、腕時計が以前ほど動かなくなった。ジム通いの成果だ。

「いや、身長だけじゃないな。肩まわりに張りが出たっていうか、厚くなってるかも」
 一颯は、隆太に肩をべたべたと触られて、その手を軽く叩いた。
「気持ち悪いってば」
「アッ……そーだねっ、彼氏に𠮟られるよなっ、ごめんなっ」とおどけられ「は? こんな程度のことで怒るはずないだろ」と言い返した。


──だって、彼氏になったわけじゃないし。


 サーがどんな顔をするか想像もつかないというのが本音だ。

 一颯はインスタグラムのアカウントを作って、マンダリンの手書き文字をアイコンにした。
 彼が一颯に詫びている固定投稿に、一颯から〔待っている〕とコメントしてからふた月になるが、新しい投稿も返信もない。だから、中村たちに「彼氏、元気にしてるの?」と訊かれようが、一颯は曖昧に笑って、答えを濁すことしかできない。

 身体を鍛え、背筋が伸びても、内側にはさみしさが溜まっている。
 表面張力みたいな忍耐で、たまたまこぼさずにいられただけだ。

 日々使っている『マンダリン』の香水のように、サーの情熱が減ってしまっているかもしれない。
 まだ好きでいてくれているか、まだサーを待っていていいのか、確かめたくてたまらない。

 一日に何十回も、インスタを確認し、一日に何十回も溜息を吐く。

 手首を腕時計で捕まえられているんだからと自分を宥めてみても、この腕時計が、サーにとって大した価値のないものだったらと想像しては、のたうつほどにサーが恋しくなり、〔もう待てないかも〕と、試すようなことを送ってしまいそうになる。
 だからせめて、いつまで待てば報われるのかだけでも教えてほしい。

 帰り支度をして、リュックを背負う。体育館へ向かいながら、一颯が「エアコン効いてればいいけど」とぼやけば、隆太も眉を下げた。

「設定二十八度じゃね?」
「だよなー。晴れてきたし、すっごい蒸し暑くなりそうじゃん。集めたとこで、大した用事じゃないだろうし……時期的に『野球部が甲子園に出場します』ってとこかな」
「いやいや、うちの野球部、そんな強くないって。でも校長の話なんかは、動画で送ってくれりゃいいなとは思うなー。いや、いっそメッセで要点だけのほうがいいわ。教育現場にこそデジタルトランスフォーメーションってやつが求められてるんだぜー、そう思うだろー?」
「またよく知りもしないカタカナ語使ってる。で、隆太は英語のテストの自信、どんなもんなんだよ」
「ぐぬう……ちんぷんかんぷんでござった。一颯は英語どうだったんだ?」
「まー、赤点は避けられたと思うけど、どうかな」

 伯母の後押しがあって、六月からはドイツ語のオンライン講座を受講し始めた。単語も文法も、まだ苦手意識のほうが先に立つけれど、サーを驚かせたい一心で、発話のときの照れを振り払っていた。

 ジム通いほど明確に成果を感じられず、焦りはある。が、一方で英語の授業には身が入り、この期末テストでは確かな手ごたえがあった。たぶん、七十点は固い。

 一颯はそんなことを考えながら、隆太の後をついて、渡り廊下を進む。湯気みたいに重くて温い空気が制服にまとわりついてくる。
 正面から、三年生の男子と女子が手を繋いで早歩きで近づいてきた。体育館へ集まっていく生徒の間を縫い、校門のほうへ急いでいる。
 すれ違いざま、一颯は横目にふたりを見た。ふたりはそわそわしたふうに目くばせして、笑い合っていた。

 臨時の全校集会なんか退屈に決まっている。
 もしサーが同じ高校だったなら、一颯もサーの手を取ってバックレていた。
 テスト終わりの解放感に浸り、晴れてきたことをよろこんで、どこかへ寄り道していた。

 そんな想像をしてしまうほど切実に恋しくて、他人の恋愛が憎たらしく思えてならなかった。


 体育館でクラスの列に並んでから、担任に「集会では出欠を取らない」と聞かされ、女子たちが「先に言ってよー!」と当たっていた。
 まったく同意だ。陥れられた気すらする。

 壁際の大型エアコンは低いうなりを上げているものの、全校生徒を涼ませるには貧弱だ。吹き出し口の近くにだけ冷気の筋があり、中央まで届くころには恩恵が消えている。いっそ窓を開けたほうがいいんじゃないかというぼやきが聞こえてきた。

 一颯は胡坐をかいた膝に肘を置き、シャツの第三ボタンあたりを摘まんで、ぱたぱたと動かした。ぬるい風が胸板をくりかえし掠めるけれど爽快感はない。

「えー、夏休みまで気を抜かずー熱中症にはー、重々気をつけてー」

 壇上の校長は、寝言と読経の間みたいな口調で話している。隣で体育座りしている隆太が「じゅうじゅう焼けちまうよ」と愚痴をこぼし、膝に額をつけた。くぁっとあくびをして「完徹のツケが回ってきたわ」。

「おい、隆太、寝るなよ」
「なー、熱中症でダウンってことにしたら、校長の話がショートカットになるかもじゃね?」
「それもそうか、じゃあ寝てくれ」

 隆太は「おう」と気軽げに言うと、一颯の膝に頭を乗せてきた。ぬくぬくの重みにげんなりし「おい、狭いのに」と言いかけたとたん、中村が座ったまま尻をずらし、こそこそと寄ってきて、隆太の膝を叩いた。

「イッテェ!」
「ダメ! やめな!」
「ぁんだよ、中村さんに関係なくねー?」
「バカバカ! 無神経! わきまえなって!」

 中村が舌鋒(ぜっぽう)鋭く𠮟責していると、入江と小池も加勢し、隆太を引っぺがそうとした。だが隆太は一颯の膝にしがみついて「彼氏ができたって、一颯と俺はズッ友だし!」と抗う。
 発言もさることながら熱源にくっつかれているみたいで気持ちが悪い。
 悪目立ちしてないかと、体育館の壁際を見れば、しかめっ面の担任と目が合ってしまった。
 一颯が「もういいから静かにしよう」と双方を諫めても、中村たちはブンブンと首を横に振る。

「後悔するよ、秀島君」
「いやいやこんなことくらいで」

 サーは妬かない。この場にいないんだから。

 いやこの状態の自分を自撮りしてサーのアカウントに送りつけてやれば、血相変えて来日するだろうか。
 ろくでもない名案を頭から追い払うように、首を振ると、壇上の校長が、ふいに声を強くし「それから、もう一点」と話題を変えた。

「本校で、ドイツからの留学生を受け入れることになりましたー。紹介しますー」

 一颯の胸の奥がひくんと引きつった。サーに繋がる単語を聞くたび、見込みもないのに期待してしまう癖がついていた。
 何度空回りしても、失望しても、胸は高鳴りつづける。

 そんなはずない、インスタのメッセージに返信ももらっていないんだから。また勝手に期待してる、と自嘲しかけたとき、体育館の舞台袖から男子生徒が颯爽と現われた。

 黄色い悲鳴が一斉に上がる。
 けれど一颯の耳には、葉擦れの音ほども届かなかった。
 壇上を演台に向かって歩む彼の姿がスローモーションに見えた。

 伸びやかな腕と脚。腰が高く、鍛えられた身体。汗ひとつ浮かんでいない白皙の肌と、アイスグレーの清涼な瞳。全校生徒が彼の美貌に高揚ていた。

 けれど一颯がまず思ったのは、髪切ったんだね、だった。

 肩で跳ねていたプラチナブロンドは、耳まわりと襟足を短くした無造作なショートになっている。うなじの逞しさが露出したことで、さらに精悍さが増していた。


「サー……」


 掠れた声で呼び、細い息を吐いた。
 暑いのを忘れるくらい肌が粟立っている。

 この再会は偶然じゃない。サーは、中村たちとインスタで相互フォローだった。
 彼女らは活発に投稿しているし、一颯がいるこの高校の特定は簡単だったろう。
 いや、サーは一颯に隠れて、彼女たちと連絡を取り合っていたのかもしれない。
 この再会をサプライズにするために。

 サーが演台の前に立った。どよめきを当然の賞賛と言わんばかりに受け流し、ざわめきが静まるのを待ってから、口を開いた。

「はじめまして」

 てっきり英語だと思っていた挨拶は、日本語で始まった。

「マティアス・ファルケンベルクです。ベルリンから来まシた。日本語は、ふた月、勉強しまシた。まだ……むずかシいです。だから、話すとき、ゆっくりお願いします。日本には八月の終わりまでいます。この学校にいる期間は短いですが、よろしくお願いシます」

 一颯は思わず口を覆っていた。シはやや空気を挟むし、ラ行は舌を深く巻きすぎている感じがあるけれど、話し言葉に違和感はない。サーが途方もない労力をつぎ込んで日本語を学んでくれたことがわかった。

 ここにいるよと知らせたくて、おずおずと手を振りかけ、ひっこめたとき、サーと目が合った。
 サーはよろこびに口元を綻ばせながら、片方の眉をいじわるそうに吊り上げた。サーの素の表情を見るだけで、胸が絞られ、息が浅くなった。


「──一颯」


 マイクを通して、しっかりと聞こえた。
 イサではなく、一颯と言えるようになっていた。
 離れていたふた月の間に、サーは距離を詰めて戻ってきてくれた。

 鼻の奥がツンとして、目が潤みそうになったけれど、精一杯笑顔を作る。それなのに、サーは眉間を寄せて不愉快そうにした。
 一颯が我に返ると、膝にまだ隆太がくっついていた。
 揺さぶれば隆太も自分のしたことに気づき、隆太は飛び起きた勢いで土下座し「すみませんでしたァ!」と声を張り上げた。

 サーは、アイスグレーの瞳を細め、
「一颯は俺のだから、気をつけてください」
 と、アンダースローの気軽さで、爆弾をぽいっと投げ込み、颯爽と壇上を去った。


 丁寧語で牽制ができるまでになったサーに感心したのもつかの間、一颯は周囲の生徒たちに詰め寄られ、全校集会は一時騒然となった。