僕らが手をつなぐ理由

 一颯は三本早いバスで登校し、笹山が登校していないのを下駄箱で確かめてから、自転車通学者用の通用門で彼女を待っていた。
 朝日が目に痛い。目をしぱしぱさせて、うつむいた。昨日の雨に濡れたアスファルトが、黒く光っている。
 
 恐怖を紛らわそうとしても、心臓が早鐘を打って、深呼吸ができない。

 笹山に謝罪し、告白への返事を改めて伝えるために、サーとのことを都合よく使うのはやめにした。
 男が好きなのではなく、サーだから好きだ。一片のやましさもなく再会するためにも、サーとのことに甘えたくなかった。

 だからなおのこと、サーのことが誰かの口から笹山の耳に入るまえに、彼女とのことに決着をつけたかった。

 笹山の声が聞こえ、一颯は顔を上げた。彼女が自転車で坂道を登ってくる。友達と競うように立ちこぎしている様子には、失恋の痛みを抱えているような翳りは見えなかった。

「おはよう」と呼び止めると、笹山はむっとした顔でハンドルを切り、自転車を停めた。
「笹山さん、待ち伏せみたいなことしてごめん。ちょっとだけいいかな?」
 笹山は一緒に来た友達に「さき行ってて」と言い、大きな溜息を吐いた。
「私のせいだと思ってるよね」
「……え?」
「わたしは秀島君のIDを川口さんに聞いて、ブロックされたから、そのことを彼女に言っただけだよ」

 グループチャットが荒れていることを、あるいは川口たちが荒らそうとしていることを、笹山は知っていたのだろう。彼女が煽ったから川口たちが攻撃的になったのだとしても、その証拠はない。

「笹山さんを責めるつもりで呼び止めたんじゃないんだ。ただ、謝りたくて」
「どういう意味?」

 彼女は眉尻を下げ、返事を待つように一颯の顔を覗き込んだ。

「返事を中途半端にしたくせに、笹山さんからのメッセージをブロックして申し訳なかったって思ってる。誤解が生じないように、きっぱり断るべきだった。ほんとにごめん」
「傷口に塩、擦り込んでくるじゃん」
「やっ……ごめん、そ、そういうつもりじゃ……ないんだ。口下手だし、態度悪いよな……」
「正直むかついたよ。だけど……中学三年のときに秀島君が大変だったこと、うちのクラスの子が教えてくれて、なんか納得しちゃった。秀島君って、クールで群れない印象だったけど、ほんとは、女の子相手だとめちゃくちゃ不器用だったんだね」

 一颯は、うっと息を詰めた。あからさまに言われると咄嗟に反論したくなるけれど、「そうなんだよ」と、眉尻を下げた。

「だから……女子と話すのも遊びに行くのも無理すぎるし、告白される側だったとしても、胃が絞られてるみたいに緊張するし……」

 気弱なポンコツだという噂が広がることを祈りながら、人差し指で頬を掻き、視線を下げた。

「いいよ。この話は、これで終わりにしよ」

 笹山の声の棘が消えていた。彼女は長い溜息を吐くと「じゃあ」と言って自転車を漕ぎ、自転車小屋のほうへ去っていった。
 一颯はほっとして、鼻の付け根を摘まみ、表情筋をほぐした。グループチャットの裁判の当事者同士は和解に至ったけれど、本題はこれからだ。

 昇降口を抜け、教室へ向かう。廊下で談笑しているふたりの生徒に近づくと、そろって口を噤んだ。

 通り過ぎざまに含みのある視線を投げてくる。グループチャットで、いま自分がどんなふうになじられているのか、それとも話題から消えたのか、わからない。誰かの笑い声が聞こえるたび、疑心暗鬼になって、背中を丸めそうになる。

 教室に入ると、生徒の話し声がぴたりと止んだ。窓外から射し込む朝日が強くて、室内が暗く沈んでいる。クラスメイトの目が、いやにぬるりと光っており、面白半分に様子を窺う視線と、咎めるような視線が、一颯に注がれる。

 めずらしく早く来ていた隆太が一颯に「やめとけ」と口パクした。それに頭を振って応じる。追放される覚悟はできていた。けれど、あくまでも最悪のケースとして想定しているにすぎない。本音では平穏に高校生活を送りたいのだ。だからこそ長引かせる気はない。

 川口は自分の席に座り、取り巻き三人と顔を突き合わせていた。一颯を断罪する打ち合わせはとうに終わっているのだろう。
 みぞおちの裏側が萎縮する。だが震えはない。マンダリンの香りが一颯を支えてくれている。一颯は濁流に身を投じるような心境で、川口の席の前に立った。

「おはよう。さっき笹山さんと話して和解したから、一応報告しておくよ」
「ふーん、そっち行ったんだ? 燃えてるこっちは放置で」

 川口が睨み上げてくる。目尻をきつくつり上げるようにアイラインを引いていた。

「事の発端は僕と笹山さん、ふたりの問題だった。だから、これで終結だよな」
「はぁー? グルチャを未読スルーしてても、もうその規模じゃないってわかんないかな?」
「なら、僕と笹山さんの問題に、川口さんたちがどう関係しているのか、まずはっきりさせてほしい」

 膨張していく彼女らの敵意に、真っ向から立ち向かってはいけない。
 笹山との問題と、川口たちの怒りを切り離さなくては。

「秀島君さぁ、女子のこと、舐めすぎでしょ」
 取り巻きのひとりが眉をぴくっと跳ねさせながら吐き捨てた。
「僕を責める理由を、どうして答えてくれないんだ」
「秀島君の女子問題が芋づる式に発覚してるんだけど、そっちの弁解をしないまま終われると思う?」
「女子問題……?」
「心当たりないとか、どんだけ非情なの。中学のときも八方美人してたんでしょ! 中三のときの彼女を転校に追い込んで、自分はほとぼりが冷めたころにしれっと戻ってきたって!」

 話は脈絡もなく、別の罪状へ飛んだ。
 川口はセミロングの茶髪を乱暴に耳にかけて、上唇をゆがめた。
 彼女と川口は全然似ていないのに、その表情がそっくりだった。
 一颯の背筋が強張り、数秒、呼吸もできなかった。まばたきすることさえ咎められる気がして、目を見開いたまま、視線を床に下げる。

「……あれは……」

 違うと言える。でも一颯の良心が否定することをよしとしない。
 自分は、彼女が狂った一因ではあったのだ。
 しかし、川口たちは当時の件となんの関係もなく、川口たちになじられるいわれはない。

 川口が返答を催促し、机をばんばんと叩く。彼女が川口に憑依しているように思えて、手のひらやこめかみに脂汗が滲む。
 靴底が、床に張りついていくみたいに身体が重くて、血が抜けていくみたいで──。

「ちょっといいか」

 傍観に徹するつもりだったはずの隆太が、机の間をすり抜けて一颯の横に並んだ。

「ウッザ。口出ししてこないで」と川口の取り巻きの女子が息巻く。

 強い口調で挑めば、向こうの火力も強くなってしまう。一颯が「隆太」と呼んで懸命に首を振るも、隆太は「笹山と一颯の間は解決してんだろ。古いネタを引っ張り出してきて裁判を続けるんなら、証人に証言させろよ、なぁ」と語尾を強くし、川口を見返した。

「格好つけてかばうなら同罪だよ」
「やー、でも川口、誤解してるし。ウソをばらまいたら恥かくのおまえらだぞ」
「どういう意味よ」
「転校した女子は、一颯を使って女子にマウント取ってたの。んで、『彼氏に色目を使われた』とか『彼が冷たくなったのは○○ちゃんのせいだ』とか、あることないこと言いふらして、女子の人間関係を破綻させたのよ。で、一颯が人間不信になって、学校これなくなったあと、その責任をグループにいたひとりの女子に押しつけていじめてさ。最終的にバレて、一家で逃げたんだよ。だから一颯が転校に追い込んだんじゃない」
「隆太、……だけど……僕がしっかりしてれば……」

 防げたとは断言できない。でも、自分に責任がなかったと言い切り、自分の至らなさをなかったことにするのも違う。
 隆太に肩をバンッと叩かれた。気合い入れろと、隆太の目が言っている。
 川口が一颯に向かって顎をしゃくった。

「自分が悪かったって認めてんじゃん。雑で優柔不断で、でも自分の悪いところは直したくないんだよね」
「いやいや、反省しただけで全部クロ扱いかよ? はっきり言って、一颯も、あの件じゃ被害者だったんだ。もっと審議するなら、中三で同クラだった桝谷が、隣のクラスにいるから昼休みにでも来てもらうか?」
「だれを呼んでも、秀島君がやったことは変わんないよー?」

 変わらない。そんなことは、当然、わかりきっている。
 でも、鬼の首を取ったように一颯の過去を取り沙汰する権利は、川口らにない。
 この場で否定すべきは、当時の弱さではないのだ。

「川口さん」

 一颯の声は震えていた。けれど頭は冴えている。
 最優先すべきは、自分のメンタルを安定させ、学校に通い、出席日数を確保すること。誰かの怒りより、自分が明日もここへ来られることのほうが大事だ。だから川口たちの怒りを一颯が自分の問題として、引き受ける理由はない。

「質問を戻すよ。川口さんたちは、当事者じゃないのに、僕を責めて、なにがしたいんだ?」
「は? 言われなきゃわかんないって?」
「うん。わからない」

 川口はバカにするように笑んでいる。けれどもその瞳には余裕がない。裁判の正当性を手放すまいと、脳みそをフル回転させているからか目が泳いでいる。重たい空白が、滲み、広がっていく。

「僕を裁きたい動機は、言いづらいなら言わなくていい。根に持ってもらってもかまわない。だから、もう僕には関わらないでほしい」
「え、はぁ? 意味わかんない」
「むやみに悪口を投げつけ合ってもキリがないし、加害者になるほうが不利だ。それに比べたら、お互いに無視するほうが気楽だし、ほかのひとにも迷惑をかけないじゃないか」

 そう言って周りに視線を投げれば、遠巻きにしているクラスメイトたちが、さっと顔を背けた。

「なによ……」と恨めしげに唸る。川口は、自身の味方が思ったより少なかったことに虚を突かれたようだ。

 これ以上、追い打ちするようなことを言えば、川口たちの立つ瀬がなくなり、さらに恨まれかねない。隆太と顔を見合わせ、引き際だなと頷いて自分の席に移動した。机にリュックを下ろすと、白いワイシャツの背中が冷汗で湿っていた。文字通り、肩の荷が下りた。吐き気や胃の痛みはなく、縮こまっていた肺や心臓が元の大きさに戻っていく。

 きれいに片付いたわけではないにしろ、終わりにはできた。
 隆太が立ち会ってくれたし、ほかのクラスメイトも一部始終を見聞きしていたから、川口たちの独断で事実が曲げられたとしても、のちのち正すことはできるだろう。もう深刻に考えなくていい。

「おう、大丈夫か?」
「うん……」

 隆太がいちごみるくの紙パックを机に置いてくれた。結露してしとどに濡れている。共犯になりたくないと言っていたのに、隆太が早く登校して、一颯のフォローをするつもりでいてくれたのだとわかった。

「サンキュ」
「おー。ひとまず決着してよかったわー」

 隆太が前の席のイスを引き、跨いで後ろ向きに座る。一颯も自分の席に腰を下ろした。

「うん……だといいな……」と呟く。

 しかしながら懸念は消えていない。スカイツリーで遭遇した中村たちが、どう絡んでくるか読めないし、十中八九、サーのことを隠したままにはできないだろう。どうすれば穏便にやり過ごせるか、頭を悩ませながら紙パックにストローを挿す。

「おぉん? おおぉん? おぉぉおぉん?」

 隆太が声を上げながら首を左右に傾げた。目は、一颯の右手首に釘付けだ。

「このキラキラの腕時計はなにかな~?」
「あーっ……っと……」
「メンタル補強される系イベントがあったんだろ。さては土曜の観光案内で、ついにヒロインと出会っちゃったとか?」
「……ヒロインには会ってない……」
「には。には~? 奥歯にもの挟まったみたいな言い方すんじゃん」

 右手首を引き寄せて机の下に隠すと、隆太がはっと目を見開いて、鼻をひくつかせ、においの元を辿るように身を乗り出してきた。

「すんすんすんすん……いいにおいがする……柑橘の……」
「は? え、シャンプー変えたから」
「それにしては、においがしっかりしてるし、おしゃれじゃね~?」

 じりじりと距離を詰めてくる。乾いた咳払いではごまかせない。いちごみるくをちびちび啜りながら身体をよじったそのとき、教室の後ろのドアから中村たち三人が入ってきた。

「秀島君~! おはよー!」

 両手を上げて三人が駆け寄ってくる様子が津波に思えて、一颯は「ひっ」と肩を竦めた。

「おとといはありがとう~」

 中村が机の傍らに屈んで見上げてくる。その顔に害意が見えず、一颯が困惑していると、入江がケース入りの写真を一颯の机に置いた。
 嫣然と微笑むサーと、サーを見つめて赤面している一颯の写真だ。

「う、うわーッ! な、なんで、なんでッ! なんで持ってるの⁉」

 咄嗟に写真へ手を伸ばすも、入江は瞬時に取り上げて、高く掲げた。
 さらには隆太の眼前に突き出して見せつける。

「小野田君も知らないでしょ? このガチ帝王系イケメンが秀島君のダーリン」
「ダーリン⁉」と目を剥いた隆太に「違う、ダーリンじゃない!」と叫んでも、写真のキュン顔のせいで説得力がない。

 そうだ、写真のプリントを頼むとき、確かにサーは三枚と頼んでいた。つまりサーは三枚のプリントを頼んだ時点で一颯の日常へ爆弾を投下する気満々だったのだ。

「たまたまスカイツリーのカフェで出くわしたときに、ダーリンがあたしたちにパフェをごちそうしてくれてー。この写真もいっしょに届けられたんだよ~。しかも、写真の裏に、英語のメッセージ入り~!」

 中村が唇を横に引いて笑い、自分のスマホに、写真裏面のメッセージを翻訳したスクリーンショットを表示してみせた。
 
 流麗な筆記体の横に、
〔私の愛しい人と仲良くしてください〕
 と、あり、一颯は言葉を失った。

 好きと言われたも同然。顔面が火照り、汗が湯になって滴りそうだ。あわあわと両手で顔を塞ぐ。塞いでから、自分の仕草が乙女っぽくなってしまったと思うけれど、もはや完熟トマトみたいな顔を露わにする度胸はない。
 右手首の腕時計がいやに重たかった。

「……お、おまえ、ヒロインにされちまったのか」

 ヒロインに出会うシチュエーションだと羨んでいた隆太にしてみれば、ミイラ取りがミイラになった、ならぬミイラ取りがゾンビになったくらいの衝撃だったようだ。

「そう、ほんとそれ! 秀島君がまるっきりヒロインだった」
「ワールドクラスの帝王顔だもん、その気がなくても好きになっちゃうよね」

 中村が胸の前で拳を震わせながら言えば、小池が飛び跳ねるように頷いた。入江が訳知り顔で「さりげなーく気遣いもできて、笑うとやんちゃっぽくって。メロついちゃうのも無理ない」と一颯の感情を分析する。
 やめてほしい。やめてほしい。そのとおりだから晒さないで。

 呆然とした隆太が「一颯……?」と上擦った声で呼んだ。

「ねー、小野田君も見る? 彼、写真の裏にインスタのIDも書いてくれてて、フォローしたら、フォロバしてくれたんだ~」

 中村が自分のスマホにサーのプロフィール画面を表示させて、一颯の机に置いた。みんながスマホを囲んで覗き込むなか、一颯も人差し指と中指の隙間から確認した。
 アイコンはフォーマルスーツに身を包んだサーのバストアップだ。
 繋がる手段を、サーが潜ませてくれていた。

 サーのアカウントはフォロワー数三万人。最新の投稿は─雷門の前で一颯が撮った写真だ。添えられたメッセージが英語から自動翻訳されている。

〔昨日のデートに行けなくて申し訳ありません。連れ帰られてしまい、いまの私ではあなたを迎えに行けません。私はこれから勉強に集中するのでログアウトします。そう待たせずにあなたに会いに行くと約束します。あなたは私の運命です。どうか待っていてください〕

 機械的で抑揚のない文字列が、サーの声音と口調を伴って、一颯の鼓膜に染みてくる。一颯は「ちょっとクールダウンしてくる!」と叫んで、川口たちの横をすり抜け、教室を飛び出した。

 腕の振りに遅れて、腕時計の重みが手首を擦る。
 狼狽えている一颯に、サーが面白がってじゃれてくるみたいで、どこにも逃げ場がないと感じた。逃がさないと言われているみたいで、それすらうれしくて、走りながら身をよじる。

 恋しさがわっと湧き上がり、屋上手前の踊り場でうずくまった。
 目頭が熱く痺れて、濡れる。

 サーが一颯を「運命」だと言ったのは、おそらく、一颯が教えた一一五円の賽銭の意味を絡めたものだ。
 にんまり笑っているサーの顔が眼裏に浮かび、さらにはダメ押しのごとくマンダリンが香る。


「──運命って、恥ずかしげもなくよく言えるよなっ……」


 時計に文句をぶつけても、秒針は音もなく回っていた。