僕らが手をつなぐ理由

 一颯が伯母と連絡がついたのは、夜の九時過ぎだった。風呂から上がると、どっと疲労が込み上げてきて、自室に入るなりベッドへ這いあがった。仰向けになり、ドライヤーの熱が残る髪を、軽く手櫛で梳いていると、枕元に放置していたスマホが着信を告げた。

「おばちゃん、遅いよ。何回も連絡してるのにさ」
『ごめんね、ごめんね、急遽九州に出張になっちゃって、新幹線でもパソコンから離れられなくって。とにかくドタバタだったのよ』
 それにしたって休憩時間はあるだろう。一颯が嫌味っぽく溜息を吐いてみても、伯母は『で、一颯、写真のイケメン、だれなの?』 
 
 と、うきうきした声で問うてきた。

「写真のって……え? 待ち合わせ相手の……観光案内の……」

 嫌な予感がして、枕に肘をつき上体を起こす。温まっていた身体から、すぅっと血の気が引くような感覚があり、息を詰めた。

『えー、違う違う、観光案内は来週に延期になったのよ~!』
「はぁ⁉ 聞いてないよ⁉」
『ごめーん、メッセージ送ったつもりになってたー、それで? それで? 今日はこの写真のハンサムくんと観光してきたの? くわしく聞かせてよ~』

 楽しげに訊き返されるが、頭に入ってこない。一颯は伯母の都合で連絡が滞ったことを理由に、来週の観光案内は引き受けないと告げ、残った少額の観光用予算は母に預けておくから取りに来てと、一方的に通話を終わらせた。間髪を容れずに着信があったが、無視し、スマホをスリープにした。

 ─……人違いだったんだ……。

 断りなく、サーにハグされたことから、観光案内がはじまった。
 サーはまるで誰かと待ち合わせをしているようだった。他人にお膳立てされた、互いに顔を知らない者同士の待ち合わせで、相手を取り違えたのだとすれば、筋はすんなり通る。

 そんな偶然が起こるかは疑わしいが、出会い頭にナンパされたのだとして、手を繋ぐことまで強要されたとも思い難い。出会ってほどなくのサーは、いじわるだったのだ。けれど時間とともに角が丸くなり、意地の悪さが抜けて、一颯を庇い、甘やかすような素振りが増えていった。

 振り返りながら、ふとサーが不機嫌そうに電話していたことを思い返した。あれは人違いだと知らせる電話だったのではないだろうか。
 しかし、サーは観光案内を続けた。
 いやサーはそもそも観光案内ではなく、デートだと勘違いしていた可能性さえある。


 ──あなたの英語が拙くて、私は何度も勘違いをさせられていると思います。勘違いの原因には、私の期待が含まれているため、責任は双方にあります。


 スカイツリーのカフェで、翻訳アプリを介して言われたことだ。
 訊きたい。サーがどういうつもりで出会いのハグをし、どんな願いを込めて別れのハグをしたのか。
 なぜ、発覚した時点で「おまえじゃない」と言わなかったのか。

 サーが伯母と連絡を取れると思っていたからこそ、万が一のときには伯母を介して繋がれるという余裕があったけれど、考えが甘かった。

 サーが懸命に連絡先を欲しがっていたのにはちゃんと理由があったのだ。
 高級な腕時計を一颯の手首につけてまで、明日の約束をとりつけてきた、サーの強引さに救われた。

 机に置いた、サーの腕時計に目をやれば、その後ろの小さな白い紙袋も視界に入った。結局受け取ってしまった香水の袋だ。
 明日あの香水をつけていけば、サーは得意げになって喜ぶだろう。
 試しに嗅ごうと思い、袋に手を入れると、硬い厚紙のようなものに触れた。
 ポストカードより小さいそれは、スカイツリーで撮った記念写真だった。

 カメラ目線のサーと、動揺して好きバレしてしまっている自分が、ぴったりくっついている。
 一颯は照れながら、写真を伏せ、四角い小瓶を取り出した。

 香水の瓶のラベルには、迷路でも見よう見まねで描いたような、カクカクした字で『マンダリン』と書かれていた。
 きっとサーが手書きしたものだ。

 一颯が好きと言ったサーの香りを、即席で再現しようとしていたに違いない。


「なんだよ、あいつ……へんなこと覚えてんだから……」


 立ち上がり、しゅっと、ひと吹きしてみた。
 最初に弾けたのは、ハウスミカンみたいな、かわいくて甘みのあるにおいだった。そのすぐ後ろから爽やかで軽い木のにおいが追いついてきて、深く吸うとマンダリンがふくよかに香った。
 キュートな印象が、苦味を含んできりっと締まる。

 サーの香りにとても似ていた。
 サーは、不機嫌な一颯に、それでも愛おしいと伝えようとしてくれていた。本気で好かれていたのだと実感し、笑いたいのに泣きたくなる。

 目頭が勝手に熱い。
 口元を緩め、柑橘の香りに包まれながら、天井を仰いだ。

 ──サーとこじれるなら、深手になってもいい。

 欲求が覚悟を強くする。
 明日は翻訳アプリを使える。

 もどかしくなっても、サーと未来の話がしたい。



    *



 朝から雨だった。風は弱く、鉛色の雲が空を塞ぎ、約束の駅は細い雨のベールに覆われていた。


 一颯は紺色の傘をさし、ロータリーの中洲にある広場の、昨日と同じところに立っていた。
 サーが右手首につけてくれたから、今朝も時計はそこにある。

 濡らさないように手首を胸の前に引き寄せており、遠目に見れば時計を見せつけているみたいで、やや気まずい。サーはどうして、自分では左手首につけていた時計を、一颯には反対の右手首につけたのか。コバルトの文字盤の針を逆回しするように昨日の出来事を考えてみると、理由は簡単なことだった。

 サーは、繋いでいたほうの手首を選んだのだ。
 手首にある重みは、つまり、サーが一颯を捕まえている重みだった。

 今日何度目かもわからない恥ずかしさがぶり返してくる。昨日の自分は、どうかしていた。でも今日の自分のほうが、どうかしている。鎖骨の間にまで早鐘のような鼓動が響く。額も頬も耳も火照って、首筋には汗まで滲みそうだった。

 傘を前に傾け、顔を隠した。どんな顔をして会えばいいのか、しかめたり緩めたりしてみても、正解が見つからない。


 ──まだかな。


 そぼふる雨に、マンダリンの香りが薄められていく。

 桜の葉先に膨らんだ水滴が、傘にぶつかってぼたっと音を立てる。
 ハッとして顔を上げるが、待ち人の姿はない。
 駅舎の外壁のデジタル時計と、日本時間に合わされていたサーの時計を見比べた。約束の時間を三時間過ぎている。なにかあったのではと気を揉んだ。

 強まってきた雨から守るために、腕時計を外した。ハンドタオルで包もうとして、ふと気になり、腕時計を裏返した。銀色の裏蓋に、筆記体で『Matthias』と刻まれている。アプリで調べると、ドイツ語圏で使われる男性名だとわかった。

 
 ──マティアス。


 サーは本名を明かさなかったけれど、名前を預けてくれていた。
 サーの切なげな顔が脳裡にちらつく。彼が語った言葉を理解できなくても、どんなふうに話しかけてくれたのかは、鮮明に覚えていた。

 皮肉っぽく笑って、長い睫毛を伏せて頷いて、得意げに鼻を鳴らして、真摯に覗き込んで。心を砕いて、ちゃんと繋がろうとしてくれた。

 愛想をつかされたのではない。
 サコッシュに腕時計を仕舞って、姿勢を正した。

 いまにも、サーが駆け寄ってくるかもしれない。
 そのときにはふくれっ面でマティアスに文句を言おう。照れ隠しにはちょうどいい。
 雲の切れ間から西日が差し、細い雨が金色にきらめく。


 結局、サーは来なかった。