「遥、屋上行ってみようか」
夕暮れ時。遥の病室に入るなり、僕は遥を誘った。
遥は予想通り、目を丸くした。
「どうしたの?急に」
「別に。僕も行ってみたいと思ってたから」
遥はじっと僕を見つめたまま黙り込んだ。
(……さすがに、不自然だったかな)
「遥……?」
恐る恐る遥の顔を覗き込んだ、その瞬間。
「ばぁ!」
「わっ!」
突然ぐっと顔を近付けられ、思わず後ずさる。
遥は無邪気に笑った。
「いいね、行こ。……ただし、一つだけ条件」
「条件?」
元はといえば、自分から言い出したことなのに。
それでも、久しぶりに見た遥の笑顔が嬉しくて、僕は素直に頷いた。
「いいよ、何?」
「この間みたいに、女の子言葉で喋って。あれ、すっごく面白かったから」
僕は固まった。
(……しまった)
遥の笑顔につられて、軽々しく頷いてしまったことを少しだけ後悔した。
屋上へ続く扉の前で、遥が立ち止まる。
「ほら、条件」
「……まだやるの?」
「もちろん」
僕は観念したように息をついた。
「……開いてくださらないかしら」
遥が吹き出す。
「ドアに敬語なんだ」
「うるさいわね」
「ふふっ。また『わね』だ」
「……もういいでしょ」
顔を赤くしながらドアノブに手を掛ける。
ガチャ。
鍵のかかっていなかった扉は簡単に開き、夕暮れの風が二人を包んだ。
「わぁ……! きれい!」
弾かれたように、遥がフェンスのほうに駆け寄る。
ちょうど、夕日が地平線に沈もうとしているところだった。
僕も遥の横に並び、二人で夕暮れを見つめる。
「こんな景色、入院してから初めて見た」
夕焼けを見つめたまま、遥がぽつりと呟く。
「……私も」
「ちょっと得した気分」
「看護師さんに怒られなきゃいいけど」
「その時は千尋のせいって言う」
「ひどいわね」
二人で笑った。
「……遥」
「ん?」
「今度、看護師さんにお願いして、車椅子借りて競走しよう」
「え?」
「売店のプリン、全部制覇しよう。それから――肝試しもしよう」
「どうしたの? 千尋」
遥が戸惑ったように笑った。
こんなこと急に持ちかけて、不自然なのはわかってた。
でも、これ以外に出来ることが、僕には思いつかなかった。
喉に何かがこみ上げてくるのを必死で堪え、僕はわざと口元を吊り上げた。
「なによ。あんたがやりたがってたんでしょ。今さら怖気づいたの?」
「……っ」
遥の顔が驚きに染まったかと思うと、彼女は堰が切れたように笑い出した。
「やっぱり千尋の女の子言葉、最高! なんでだろう? キレイな顔立ちだから似合うのかな」
「……私に聞かれても困るわ」
遥はひとしきり笑うと、夕焼けに染まる街へ視線を向けた。
その横顔から、少しずつ笑みがほどけていく。
「でも、ありがとね。千尋」
「え?」
「なんか、千尋と一緒にいたら、この先も楽しいんじゃないかなって思えた。バイオリンが弾けなくても、楽しい未来が待ってるって。ねぇ、もっとたくさん楽しい計画立てようよ」
オレンジ色に染まった遥の横顔を見つめる。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
喉の奥が熱くなる。
それでも僕は、精一杯の笑顔を彼女に向けた。
「……そうね」
その夜、僕は一人で考え続けた。
遥の笑顔。
『もっとたくさん楽しい計画立てようよ』
短冊に書かれていた願い。
『またバイオリンが弾けるようになりますように』
……もし、一度だけ過去を変えられるなら。
答えは、もう決まっていた。
昼食を食べ終え、紙コップに注がれたお茶を飲む。
遅めの時間だったせいか、ラウンジには人の姿も疎らだった。
「良かったの? あれで」
隣から声がした。使者の少女だ。
「一度だけのタイムリープ、自分の為に使えば良かったのに」
――そう。
タイムリープは、使者と一緒なら、人間も時間を飛ぶことが出来る。
その説明を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、遥の事故を食い止めることだった。
「タイムリープして、病気をもっと早く見つけられてたら、違った未来もあったかもしれないのに」
少女の声を聞きながら、コップのお茶を傾ける。天井の蛍光灯を反射して、水面がきらりと光った。
「僕は今まで十分、幸せだったと思う。だから、もし誰か一人の未来を選べるなら、僕じゃなくて遥だと思う」
「ふぅん。……お人好しね」
背中で少女がぼやく。
「君も大概だと思うけど」
「え?」
「最初に会った時、なんで僕に声をかけたのか聞いたよね。その時、君は『特に理由があるわけじゃない』って言ってた」
「……」
「でも、君は何度も来てくれた。僕のこと、心配で来てくれたんでしょ」
「な……っ!」
少女は珍しく目を見開いて、動揺を露わにした。
「勘違いしないで。……たまたまよ」
僕はくすりと笑う。
「そういうことにしておくよ」
少しだけ間を置いて、少女を見る。
「……ありがとう」
「な、何よ急に」
人の未来を支えるのも、悪くないのかもしれない。
遥が僕にくれたように。
そう思えたから、僕は契約を交わした。
遥との思い出を、僕の命が尽きるその日まで、大切に抱えて生きようと思った。
立ち上がって、食器を片付ける。
テレビから流れてきたバイオリンの音に、思わず顔を上げた。
画面を見ると、今注目の天才バイオリニスト――という見出しのあと、一人の少女が映し出された。
遥だった。
広いホールで奏でられる彼女の演奏に、観客が魅了される。
切なく、美しい旋律。
しばらくして、彼女がインタビューされる画面に切り替わった。
「落ち込んだ時の支えは何ですか?」
インタビュアーの問いに、遥が少し考えて、
「不思議な夢をみるんです」
と、少し照れくさそうに笑った。
「病院の屋上で、夕日を見ている夢」
「そこにいる男の子が、女の子言葉を喋ってて……」
インタビュアーが笑う。
「女の子言葉ですか?」
遥も照れくさそうに笑う。
「はい。私の悪戯にも、ちゃんと付き合ってくれて」
思わず口元が緩む。
夜の病棟で肝試しをして、巡回中の看護師さんに見つかり、二人で慌てて逃げたこと。
売店のプリンを食べ比べて、本気で順位をつけたこと。
どれも、ほんの短い時間だった。
「変な夢ですよね」
少しだけ視線を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「でも、その夢を見るたびに思い出すんです」
「未来って、きっと楽しいことが待ってるんだって」
僕は思わず笑ってしまった。
あの約束は、ちゃんと遥の中で生き続けていた。
夕暮れ時。遥の病室に入るなり、僕は遥を誘った。
遥は予想通り、目を丸くした。
「どうしたの?急に」
「別に。僕も行ってみたいと思ってたから」
遥はじっと僕を見つめたまま黙り込んだ。
(……さすがに、不自然だったかな)
「遥……?」
恐る恐る遥の顔を覗き込んだ、その瞬間。
「ばぁ!」
「わっ!」
突然ぐっと顔を近付けられ、思わず後ずさる。
遥は無邪気に笑った。
「いいね、行こ。……ただし、一つだけ条件」
「条件?」
元はといえば、自分から言い出したことなのに。
それでも、久しぶりに見た遥の笑顔が嬉しくて、僕は素直に頷いた。
「いいよ、何?」
「この間みたいに、女の子言葉で喋って。あれ、すっごく面白かったから」
僕は固まった。
(……しまった)
遥の笑顔につられて、軽々しく頷いてしまったことを少しだけ後悔した。
屋上へ続く扉の前で、遥が立ち止まる。
「ほら、条件」
「……まだやるの?」
「もちろん」
僕は観念したように息をついた。
「……開いてくださらないかしら」
遥が吹き出す。
「ドアに敬語なんだ」
「うるさいわね」
「ふふっ。また『わね』だ」
「……もういいでしょ」
顔を赤くしながらドアノブに手を掛ける。
ガチャ。
鍵のかかっていなかった扉は簡単に開き、夕暮れの風が二人を包んだ。
「わぁ……! きれい!」
弾かれたように、遥がフェンスのほうに駆け寄る。
ちょうど、夕日が地平線に沈もうとしているところだった。
僕も遥の横に並び、二人で夕暮れを見つめる。
「こんな景色、入院してから初めて見た」
夕焼けを見つめたまま、遥がぽつりと呟く。
「……私も」
「ちょっと得した気分」
「看護師さんに怒られなきゃいいけど」
「その時は千尋のせいって言う」
「ひどいわね」
二人で笑った。
「……遥」
「ん?」
「今度、看護師さんにお願いして、車椅子借りて競走しよう」
「え?」
「売店のプリン、全部制覇しよう。それから――肝試しもしよう」
「どうしたの? 千尋」
遥が戸惑ったように笑った。
こんなこと急に持ちかけて、不自然なのはわかってた。
でも、これ以外に出来ることが、僕には思いつかなかった。
喉に何かがこみ上げてくるのを必死で堪え、僕はわざと口元を吊り上げた。
「なによ。あんたがやりたがってたんでしょ。今さら怖気づいたの?」
「……っ」
遥の顔が驚きに染まったかと思うと、彼女は堰が切れたように笑い出した。
「やっぱり千尋の女の子言葉、最高! なんでだろう? キレイな顔立ちだから似合うのかな」
「……私に聞かれても困るわ」
遥はひとしきり笑うと、夕焼けに染まる街へ視線を向けた。
その横顔から、少しずつ笑みがほどけていく。
「でも、ありがとね。千尋」
「え?」
「なんか、千尋と一緒にいたら、この先も楽しいんじゃないかなって思えた。バイオリンが弾けなくても、楽しい未来が待ってるって。ねぇ、もっとたくさん楽しい計画立てようよ」
オレンジ色に染まった遥の横顔を見つめる。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
喉の奥が熱くなる。
それでも僕は、精一杯の笑顔を彼女に向けた。
「……そうね」
その夜、僕は一人で考え続けた。
遥の笑顔。
『もっとたくさん楽しい計画立てようよ』
短冊に書かれていた願い。
『またバイオリンが弾けるようになりますように』
……もし、一度だけ過去を変えられるなら。
答えは、もう決まっていた。
昼食を食べ終え、紙コップに注がれたお茶を飲む。
遅めの時間だったせいか、ラウンジには人の姿も疎らだった。
「良かったの? あれで」
隣から声がした。使者の少女だ。
「一度だけのタイムリープ、自分の為に使えば良かったのに」
――そう。
タイムリープは、使者と一緒なら、人間も時間を飛ぶことが出来る。
その説明を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、遥の事故を食い止めることだった。
「タイムリープして、病気をもっと早く見つけられてたら、違った未来もあったかもしれないのに」
少女の声を聞きながら、コップのお茶を傾ける。天井の蛍光灯を反射して、水面がきらりと光った。
「僕は今まで十分、幸せだったと思う。だから、もし誰か一人の未来を選べるなら、僕じゃなくて遥だと思う」
「ふぅん。……お人好しね」
背中で少女がぼやく。
「君も大概だと思うけど」
「え?」
「最初に会った時、なんで僕に声をかけたのか聞いたよね。その時、君は『特に理由があるわけじゃない』って言ってた」
「……」
「でも、君は何度も来てくれた。僕のこと、心配で来てくれたんでしょ」
「な……っ!」
少女は珍しく目を見開いて、動揺を露わにした。
「勘違いしないで。……たまたまよ」
僕はくすりと笑う。
「そういうことにしておくよ」
少しだけ間を置いて、少女を見る。
「……ありがとう」
「な、何よ急に」
人の未来を支えるのも、悪くないのかもしれない。
遥が僕にくれたように。
そう思えたから、僕は契約を交わした。
遥との思い出を、僕の命が尽きるその日まで、大切に抱えて生きようと思った。
立ち上がって、食器を片付ける。
テレビから流れてきたバイオリンの音に、思わず顔を上げた。
画面を見ると、今注目の天才バイオリニスト――という見出しのあと、一人の少女が映し出された。
遥だった。
広いホールで奏でられる彼女の演奏に、観客が魅了される。
切なく、美しい旋律。
しばらくして、彼女がインタビューされる画面に切り替わった。
「落ち込んだ時の支えは何ですか?」
インタビュアーの問いに、遥が少し考えて、
「不思議な夢をみるんです」
と、少し照れくさそうに笑った。
「病院の屋上で、夕日を見ている夢」
「そこにいる男の子が、女の子言葉を喋ってて……」
インタビュアーが笑う。
「女の子言葉ですか?」
遥も照れくさそうに笑う。
「はい。私の悪戯にも、ちゃんと付き合ってくれて」
思わず口元が緩む。
夜の病棟で肝試しをして、巡回中の看護師さんに見つかり、二人で慌てて逃げたこと。
売店のプリンを食べ比べて、本気で順位をつけたこと。
どれも、ほんの短い時間だった。
「変な夢ですよね」
少しだけ視線を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「でも、その夢を見るたびに思い出すんです」
「未来って、きっと楽しいことが待ってるんだって」
僕は思わず笑ってしまった。
あの約束は、ちゃんと遥の中で生き続けていた。


