その夢は、未来を照らす

 夜十時をまわったロビーは、
電気が消され、無人だった。
 日中の混雑が噓のようだ。
 僕はそっと長椅子に腰を下ろした。
「……いるの?」
 静かな空間に声を掛けると、ふっと傍に使者が現れた。
「どうしたの? 契約、交わす気になった?」
「……ちょっと、詳しい話を聞いてみようかなと思って」
 今まで散々催促してきたくせに、いざ僕がそう答えると、少女は目を丸くした。
「あら、ほんと?」
「まだ、なるとは決めてないよ。なんか、死んでまでやることに追われるの嫌だし」
「なにそれ、どんな偏見?」
 少女は眉を寄せた。
「追われたりはしないわよ。まず、自分が案内する相手を決めるの。あとはその人を『向こうの世界』へ案内するだけ」
「それ、辞めることはできないの?」
「ううん、辞めたくなったらいつでも辞められるわよ。そしたら自分も『あっち側』へ行っておしまい。ね、簡単でしょ?」
 友達に、玩具の遊び方を教えるような口ぶりだ。
「使者になると……君みたいに、みんな名前を失うの? 生前の名前で呼んでもらうのは駄目なの?」
「名前? こだわるのね」
 少女はきょとんとした。
「うーん、駄目ってわけじゃないんだけど、忘れちゃうの」
「え?」
「生前の記憶。ぼんやりとは覚えてるんだけどね。自分の名前はきれいに消される。だから私も、人間に名前で呼んでもらったことはないわ。いつも『きみ』とか『ねぇ』とか」
 話しながら思い出したのか、少女は肩を揺らして笑った。
「みんな、そんなもんよ。まぁ、どうしても名前で呼ばれたければ、選んだ人間に適当に名前付けてもらったら?」
「そうなんだ……」
 少し寂しい気もしたが、そういうものらしい。
「それで? 他に気になることはある?」
 少女は僕の決断が待ち遠しくてたまらないのか、目を輝かせた。

 七月三日。病棟では少し早い七夕会が開かれた。
 夕食を終えた頃、病棟がいつもより少しだけ賑やかになった。
「今日は七夕会がありますよー」
 看護師さんの明るい声が廊下に響く。
 ラウンジへ向かうと、大きな笹が飾られ、色とりどりの短冊や星形の飾りが揺れていた。
「わぁ!」
 真っ先に駆け寄ったのは遥だった。
「すごい! 本物の笹!」
「走らないの」
 看護師さんに優しく注意され、「はーい」と返事だけして笑う。
「千尋、早く!」
「僕はいいよ」
「よくない!」
 腕を掴まれ、そのまま短冊の並ぶ机まで連れていかれる。
「願い事書こう!」
「そんなので叶ったら苦労しないよ」
「夢ないなぁ」
 遥は口を尖らせると、短冊を一枚取ってペンを走らせ始めた。
「できた!」
 得意げに見せてきた短冊には、大きな字でこう書かれていた。
『世界征服』
「却下」
「えー!」
 看護師さんが思わず吹き出す。
「じゃあ、これ!」
 今度は勢いよく書き直す。
『死ぬほどアイス食べたい』
「それも駄目」
「なんで!?」
「縁起悪いから」
「あっ」
 遥は自分で書いた文字を見つめ、数秒固まると、
「……これは確かに駄目だ」
 真面目な顔で頷いた。
 その様子がおかしくて、僕は思わず吹き出した。
「やっと笑った」
 遥が嬉しそうに笑う。
「ほら、千尋もちゃんと書いて」
 渡された短冊を手に取る。
 何を書けばいいのかわからず、しばらくペン先が止まった。
 周りを見渡すと、小さな子どもたちの願い事が目に入る。
『はやくおうちにかえれますように』
『サッカーができますように』
『ママがずっとげんきでいますように』
 どれも素直で、まっすぐな願いだった。
 僕は静かに視線を落とす。
 自分は何を願えばいいのだろう。
 元気になりたい。
 前みたいに学校へ行きたい。
 どれも本音なのに、うまく言葉にならない。
「書けた?」
 遥が覗き込む。
「まだ」
「じゃあ、私は先に飾ってくる!」
 そう言って立ち上がりかけた遥は、はっとしたように短冊を胸へ隠した。
「……やっぱり見ちゃだめ!」
「見ないよ」
「ほんと?」
「うん」
 遥は少しだけ疑うような顔をしたあと、「約束だからね」と笑って笹へ向かっていった。
 背伸びをして短冊を結ぶ姿を眺めながら、僕も静かにペンを走らせる。
『家族が笑って過ごせますように』
 書き終えると、そっと笹へ結んだ。
「ねぇ、千尋」
 戻ってきた遥が満面の笑みを浮かべる。
「今年のお願い、絶対叶う気がする!」
「なんで?」
「なんとなく!」
 根拠なんて何もない。
 それでも、遥がそう言うと本当に叶うような気がしてしまう。
 僕は小さく笑った。

「なんだか千尋、変わったわね」
 数日後、お見舞いに来た母を玄関まで送っている時に、母は僕の顔を見ながら言った。
 予想外の言葉に、僕は目を丸くした。
「え? そうかな。どこが?」
「うーん、どこって言われると困っちゃうんだけど……優しい目をするようになった」
「目?」
「うん。病院で、お友達でも出来た?」
 友達。
 ふと、遥の顔が脳裏を掠めた。
 けれど、彼女のことは『お友達』だけで伝えきれない気がして、「うん。……そうかも」と曖昧に返した。
 ラウンジの前まで来た時だった。
 大きな笹が入口近くに置かれている。
 七夕会の時のものだ。
 傍を通り過ぎる瞬間、開いた窓から風が入り込んだ。
 笹がさらさらと揺れた。
 一枚の短冊がくるりと裏返る。
 僕の足が止まった。
 淡い黄色の短冊だった。

『またバイオリンが弾けるようになりますように』

 その丸みのある字に、見覚えがあった。

 ――遥の字だった。