「千尋。心は決まった?」
不意に、背後から女の子の声がした。
梅雨の晴れ間に照らされた病院の裏庭で、売店で買ったパンに僕が齧りついた時だった。
周りに人がいないのを確認してから、僕は振り返る。
年は七、八歳くらい。黒いフリルのワンピースに白いタイツ。足元には黒いストラップシューズ。
病院にはどう見ても似つかわしくない格好で、少女は涼しげな目をこちらへ向けていた。
「……まだ決めてないよ」
「優柔不断ね。こういうことは早めに決めておいたほうがいいのよ。アイバンクみたいに」
相変わらずの年不相応な発言に、僕は小さく息をついた。
この子と初めて会ったのは、今からちょうど一年前——中学一年の夏だった。
僕が学校で倒れた翌日。
母親と共に訪れた診察室で医者から告げられたのは、聞いたこともない病名だった。
事の重大さがわからずきょとんとする僕の隣で、母が瞬きひとつせず固まっていた。
医者の話は難しくて、ほとんど頭に入ってこなかった。それでも、これから入退院を繰り返す生活になることだけは理解できた。
病室へ戻ると、帰り際に母が僕の手をぎゅっと握った。
「千尋。がんばろうね」
いつもはしないそんな仕草に、何も気づかないほど僕は鈍感じゃなかった。
その日から、僕は未来のことを考えなくなった。
その夜は病室で一人、眠れずにいた。
去年まで当たり前だった日常が、もう戻らないかもしれない。そんな漠然とした恐怖が、じわじわと心を蝕んでいく。
薄暗い病室が、何も見えないほどの闇に飲み込まれた気がした。
――その時だった。
「ねぇ。千尋」
その空気にはあまりにも不釣り合いな、小さな女の子の声。
僕はぎょっとして身体を起こした。
「私と契約を交わさない?」
ベッドの脇には、小さな女の子が立っていた。
黒いフリルのワンピース。
こういうの、ゴスロリと呼ぶんだっけ。そんな場違いなことが頭をよぎり、僕は息を呑む。
「……お、おばけ?」
「おばけじゃないわ。使者よ」
「使者?」
「そう。人間をあの世へ案内する、使者」
聞き違いかと思い、少女の顔をじっと見つめた。けれど、少女の表情はぴくりとも動かない。
「……今、なんか、すごく物騒なことを聞いた気がするんだけど」
「そう? 遅かれ早かれ、生きていればいつかは行く場所でしょう? 物騒でも何でもないわ」
——聞き間違いじゃない。
あの世へ案内する使者が、ここへ来たということは……。
僕はしばらく考えてから、恐る恐る口を開いた。
「……僕、死ぬの?」
少女はきょとんとして、それから肩をすくめた。
「まだ死なないわ」
「ほんと?」
「ええ。今日は迎えに来たわけじゃないもの」
「じゃあ、なんで……?」
「死んだ後、あなたも使者にならないかっていうお誘いをしに来たのよ」
さらりと言ったのだった。
――僕が、使者に?
全く、意味がわからない。
「……使者って、募集するものなの?」
色々考えた挙句、口をついて出たのは間の抜けた質問だった。けれど少女は気にした様子もなく頷いた。
「そうなの。色々あって消えちゃう使者もいるしね。たまに募集しないと、誰もいなくなっちゃう」
「そういうもんなんだ……でも、なんで僕に?」
「んー、特に理由があるわけじゃないんだけど……強いて言うなら、あなたちょっとやそっとじゃ動じなそうだし」
あまり褒められた気はしなかった。
「……そんなに大変なことがあるの?」
少女はすぐには答えなかった。
何かを思い返すように、しばらく黙り込む。
「……まぁ、そうね」
やがて静かに顔を上げると、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「大変よ。でも、それは使者だから特別ってわけじゃないわ。生きていたって、誰かのことを本気で想えば、悩むことも苦しむこともあるでしょ?」
その言葉は、諭すというより、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
僕は返す言葉を見つけられず、黙ったまま少女を見つめた。すると少女も、何も言わずにこちらを見つめ返してくる。
……もしかして、返事をするまで帰るつもりはないのだろうか。そんな気がして、僕は小さく息をついた。
「……わかった。考えてみる」
少女は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、また来るわ」
次の瞬間には、その姿はもうどこにもなかった。
その日以来、少女はたびたび僕の前に現れるようになった。
その子は僕にしか見えず、声も聞こえないらしい。
にも関わらず、場所を気にせず話しかけてくる。
人目を気にするという感覚は、どうやら使者にはないようだった。
ラウンジで、テレビをぼんやり見ている時だった。
隣でぷかぷか浮いている少女を見て、僕はふと疑問を口にしてみた。
「君、名前は何ていうの?」
「名前? 忘れちゃった。必要ないもの」
「……忘れた?」
「ええ。使者になったら、名前なんて使わないの」
他人の名前を忘れることはあっても、自分の名前を忘れるなんて聞いたことがない。それなのに少女は、まるで「今日は晴れね」とでも言うような口調だった。
そんな少女を見ているうちに、前から気になっていたことが頭をよぎる。
「……人を見送るのって、悲しくならないの?」
少女は目を瞬かせた。
「なるわよ。死ぬのが怖い人もいるし、大切な人を置いていけない人もいる。そういう人の心を動かすのがとても大変。毎日毎日そういう想いにあてられて、罪悪感でおかしくなっちゃう使者もいるわ」
淡々と話すその声が、かえって仕事の重さを物語っている気がした。
『ほら、あなたちょっとやそっとじゃ動じなそうだし』
あの言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
「でも、自分を死神だと思うから苦しくなっちゃうんだと思う。私は死神じゃなくて、天使のつもりなんだけど」
「天使?」
「そう。迷える子羊を救ってあげる天使」
少女はそう言って笑った。
そのあまりにポジティブな言い方に、逆に一抹の不安が過る。
「……それって、本当に人を案内するだけの仕事なの?」
「そうね。でも、特別なこともできるわ」
「人を一人案内するたびに、一度だけ時間を遡れるの。あなたたちの言葉で言えば、タイムリープね」
思わず目を丸くする。
「そんなことまでできるの?」
「できるわ。私が使えるのは、一度だけ。……まぁ、私にはもう使い道なんてないけれど」
少女の目には、わずかに諦めのような色が見えた。
重くなった空気から逃げるように、僕はテレビへ目を向けた。
画面には、今注目されているバイオリニストの少女が映っていた。
スポットライトを浴びて笑うその姿は、僕とはまるで別の世界を生きているように見えた。
入院して一週間ほど経った日の午後二時ごろ。突然、廊下の空気が慌ただしくなった。
看護師さんたちの飛び交う声と、勢いよくストレッチャーを押す音。どうやら急患らしい。
「あら。お迎えかしら」
いつものように淡々と言う少女に、僕はなんだか胸がざわりとして、「そういうこと言っちゃだめだよ」と窘めた。
それから五日ほど経った頃だった。
空いていた僕の隣の病室に誰かが入ってくる気配がした。
看護師さんの説明に応じる声が廊下まで聞こえてくる。その声は、僕とあまり年が変わらないように思えた。
その日の昼、母が見舞いに持ってきてくれたケーキを持ってラウンジへ向かった。箱を開けると、中にはモンブランが入っていた。
給茶機でお茶を入れ、席へ戻る。
そこで、重大なことに気付いた。
お皿とスプーンがない。
ラウンジを見回すと、入口近くの棚に箸が入った容器が目に入る。
(……まぁ、これでいいか)
一本抜き取り、席へ戻る。
テーブルに開いたケーキの箱を置き、モンブランを箸でそっと崩す。我ながら、ずいぶんシュールな光景だ。
ひと口運ぼうとした、その時だった。
「それ、何食べてるの?」
すぐ傍で、くすくすと笑いを噛み殺す声がした。
顔を上げると、入院着姿の女の子が肩を震わせながらこちらを見ている。
見覚えのある顔だった。
――テレビで見た子だ。
画面の向こうにいた少女。
僕はケーキに目を落とし、それからもう一度その子に視線を戻した。
「……モンブランだけど」
「えぇ! 一番箸にふさわしくないやつだ!」
その子は堪えきれず、吹き出した。
朝霧 遥(あさぎりはるか)。
数日前、病院中が慌ただしくなったあの急患——それが、彼女だった。
青信号の横断歩道を歩いていたところ、軽自動車に撥ねられたらしい。
彼女は僕より一つ上で、今話題の中学生バイオリニストだった。
術後で体の節々が思うように動かない、と時折ぼやきながらも、あどけなく人懐っこい彼女は、あっという間に患者さんや看護師さんと打ち解けていった。
ベッドで寝転びながら本を読んでいた時だ。
不意に視線を感じて顔を上げると、マットの縁から目だけを覗かせた遥がこちらを見ていた。
「わぁ!」
驚いて身をすくませた僕を見て、遥は無邪気に笑った。
「ね。今夜、肝試ししない?」
それからというもの、遥は僕の病室にも当たり前のように顔を出すようになった。
会うたびに思いついたように。
「屋上って行けるかな?」
「車椅子で競走しようよ」
「売店のプリン、全部制覇しよう」
と、突拍子もないことばかり言い出す。
どれも看護師さんに止められたり、僕が呆れて断ったりするようなことばかりだった。
それでも遥は少しも懲りず、毎日楽しそうに笑っていた。
そしていつしか、僕にとっても彼女が笑っている毎日が当たり前になっていた。
そんなある日のことだ。珍しく、遥が来なかった。
「あれ?今日は遥ちゃん来てないのね。珍しい」
不思議そうに呟く看護師さんの言葉が、胸に落ちる。
そのうち新しいイタズラでも考えて、やってくるだろう——そう思ったけれど、結局その日は夜まで待っても来なかった。
翌日。午後四時をまわっても姿を見せない遥のことが気になり、僕は思い切って隣のドアをノックした。
返事はなかった。
しばらく迷った末、ドアを開ける。「……遥? 入るよ」
カーテンで閉ざされた室内。遥はベッドに座り、本を読んでいた。その物静かな佇まいに、何故か胸の中に不安が広がる。
少しの間を置いて、遥がゆっくりとこちらを見た。それから、いつもの笑顔になる。「下の売店にモンブランが売ってるかどうか、賭けしようか」
その笑みを見ても、なぜか安心できなかった。
「……どうかしたの?」
「え? 何もないよ。映画観てたんだけど、思ってたよりつまんなくて――」
そこまで言ったとき、遥の頬を涙が伝った。
言葉を継ごうとした声は、小さな嗚咽へと変わる。
「遥」
僕はどうしたら良いかわからないまま、そっと傍へ歩み寄った。
気づけば、遥の頭へ手を伸ばしていた。
恐る恐る撫でると、その温もりが最後の糸を切ったように、遥は顔を伏せて泣き出した。
しばらく、嗚咽だけが静かな病室に響いた。
僕はただ、その背中を見つめることしかできなかった。
「……昨日ね、診察があったの」
ようやく落ち着きを取り戻した頃、遥は掠れた声でぽつりと話し始めた。
「もう、今までみたいにはバイオリン弾けないんだって」
「……え?」
耳を疑った。
バイオリンが、弾けない?
俯く遥の横顔を見ながら、それでも僕は、「なーんてね」と笑い出すのを待った。
でも、それが冗談じゃないことくらい、本当はわかっていた。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が見つからない。
「まぁ、命は助かったわけだし、それだけでもありがたいと思わなきゃだよね」
そう言って笑おうとした遥の口元は、小さく震えていた。
動揺が顔に出ていたのか、不意にこちらを見た遥が、かすかに笑う。
その時、背後に気配がした。
「そのうちいいことあるわよ。慰めるなら、そのくらい言ってあげたら?」
使者の呆れたような声。
「そのうち、いいことあるわよ……?」
繰り返した僕の声に、遥が目を見開いた。
「千尋、いま……『わよ』って言った?」
それから彼女は笑った。
「ごめん。千尋がそんなこと言うなんて思わなくて」
「え、いや……」
「全然向いてない」
そう言って、遥は声を立てて笑った。
久しぶりに見た、心からの笑顔だった。
なのに、胸の奥は締めつけられるように痛かった。
不意に、背後から女の子の声がした。
梅雨の晴れ間に照らされた病院の裏庭で、売店で買ったパンに僕が齧りついた時だった。
周りに人がいないのを確認してから、僕は振り返る。
年は七、八歳くらい。黒いフリルのワンピースに白いタイツ。足元には黒いストラップシューズ。
病院にはどう見ても似つかわしくない格好で、少女は涼しげな目をこちらへ向けていた。
「……まだ決めてないよ」
「優柔不断ね。こういうことは早めに決めておいたほうがいいのよ。アイバンクみたいに」
相変わらずの年不相応な発言に、僕は小さく息をついた。
この子と初めて会ったのは、今からちょうど一年前——中学一年の夏だった。
僕が学校で倒れた翌日。
母親と共に訪れた診察室で医者から告げられたのは、聞いたこともない病名だった。
事の重大さがわからずきょとんとする僕の隣で、母が瞬きひとつせず固まっていた。
医者の話は難しくて、ほとんど頭に入ってこなかった。それでも、これから入退院を繰り返す生活になることだけは理解できた。
病室へ戻ると、帰り際に母が僕の手をぎゅっと握った。
「千尋。がんばろうね」
いつもはしないそんな仕草に、何も気づかないほど僕は鈍感じゃなかった。
その日から、僕は未来のことを考えなくなった。
その夜は病室で一人、眠れずにいた。
去年まで当たり前だった日常が、もう戻らないかもしれない。そんな漠然とした恐怖が、じわじわと心を蝕んでいく。
薄暗い病室が、何も見えないほどの闇に飲み込まれた気がした。
――その時だった。
「ねぇ。千尋」
その空気にはあまりにも不釣り合いな、小さな女の子の声。
僕はぎょっとして身体を起こした。
「私と契約を交わさない?」
ベッドの脇には、小さな女の子が立っていた。
黒いフリルのワンピース。
こういうの、ゴスロリと呼ぶんだっけ。そんな場違いなことが頭をよぎり、僕は息を呑む。
「……お、おばけ?」
「おばけじゃないわ。使者よ」
「使者?」
「そう。人間をあの世へ案内する、使者」
聞き違いかと思い、少女の顔をじっと見つめた。けれど、少女の表情はぴくりとも動かない。
「……今、なんか、すごく物騒なことを聞いた気がするんだけど」
「そう? 遅かれ早かれ、生きていればいつかは行く場所でしょう? 物騒でも何でもないわ」
——聞き間違いじゃない。
あの世へ案内する使者が、ここへ来たということは……。
僕はしばらく考えてから、恐る恐る口を開いた。
「……僕、死ぬの?」
少女はきょとんとして、それから肩をすくめた。
「まだ死なないわ」
「ほんと?」
「ええ。今日は迎えに来たわけじゃないもの」
「じゃあ、なんで……?」
「死んだ後、あなたも使者にならないかっていうお誘いをしに来たのよ」
さらりと言ったのだった。
――僕が、使者に?
全く、意味がわからない。
「……使者って、募集するものなの?」
色々考えた挙句、口をついて出たのは間の抜けた質問だった。けれど少女は気にした様子もなく頷いた。
「そうなの。色々あって消えちゃう使者もいるしね。たまに募集しないと、誰もいなくなっちゃう」
「そういうもんなんだ……でも、なんで僕に?」
「んー、特に理由があるわけじゃないんだけど……強いて言うなら、あなたちょっとやそっとじゃ動じなそうだし」
あまり褒められた気はしなかった。
「……そんなに大変なことがあるの?」
少女はすぐには答えなかった。
何かを思い返すように、しばらく黙り込む。
「……まぁ、そうね」
やがて静かに顔を上げると、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「大変よ。でも、それは使者だから特別ってわけじゃないわ。生きていたって、誰かのことを本気で想えば、悩むことも苦しむこともあるでしょ?」
その言葉は、諭すというより、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
僕は返す言葉を見つけられず、黙ったまま少女を見つめた。すると少女も、何も言わずにこちらを見つめ返してくる。
……もしかして、返事をするまで帰るつもりはないのだろうか。そんな気がして、僕は小さく息をついた。
「……わかった。考えてみる」
少女は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、また来るわ」
次の瞬間には、その姿はもうどこにもなかった。
その日以来、少女はたびたび僕の前に現れるようになった。
その子は僕にしか見えず、声も聞こえないらしい。
にも関わらず、場所を気にせず話しかけてくる。
人目を気にするという感覚は、どうやら使者にはないようだった。
ラウンジで、テレビをぼんやり見ている時だった。
隣でぷかぷか浮いている少女を見て、僕はふと疑問を口にしてみた。
「君、名前は何ていうの?」
「名前? 忘れちゃった。必要ないもの」
「……忘れた?」
「ええ。使者になったら、名前なんて使わないの」
他人の名前を忘れることはあっても、自分の名前を忘れるなんて聞いたことがない。それなのに少女は、まるで「今日は晴れね」とでも言うような口調だった。
そんな少女を見ているうちに、前から気になっていたことが頭をよぎる。
「……人を見送るのって、悲しくならないの?」
少女は目を瞬かせた。
「なるわよ。死ぬのが怖い人もいるし、大切な人を置いていけない人もいる。そういう人の心を動かすのがとても大変。毎日毎日そういう想いにあてられて、罪悪感でおかしくなっちゃう使者もいるわ」
淡々と話すその声が、かえって仕事の重さを物語っている気がした。
『ほら、あなたちょっとやそっとじゃ動じなそうだし』
あの言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
「でも、自分を死神だと思うから苦しくなっちゃうんだと思う。私は死神じゃなくて、天使のつもりなんだけど」
「天使?」
「そう。迷える子羊を救ってあげる天使」
少女はそう言って笑った。
そのあまりにポジティブな言い方に、逆に一抹の不安が過る。
「……それって、本当に人を案内するだけの仕事なの?」
「そうね。でも、特別なこともできるわ」
「人を一人案内するたびに、一度だけ時間を遡れるの。あなたたちの言葉で言えば、タイムリープね」
思わず目を丸くする。
「そんなことまでできるの?」
「できるわ。私が使えるのは、一度だけ。……まぁ、私にはもう使い道なんてないけれど」
少女の目には、わずかに諦めのような色が見えた。
重くなった空気から逃げるように、僕はテレビへ目を向けた。
画面には、今注目されているバイオリニストの少女が映っていた。
スポットライトを浴びて笑うその姿は、僕とはまるで別の世界を生きているように見えた。
入院して一週間ほど経った日の午後二時ごろ。突然、廊下の空気が慌ただしくなった。
看護師さんたちの飛び交う声と、勢いよくストレッチャーを押す音。どうやら急患らしい。
「あら。お迎えかしら」
いつものように淡々と言う少女に、僕はなんだか胸がざわりとして、「そういうこと言っちゃだめだよ」と窘めた。
それから五日ほど経った頃だった。
空いていた僕の隣の病室に誰かが入ってくる気配がした。
看護師さんの説明に応じる声が廊下まで聞こえてくる。その声は、僕とあまり年が変わらないように思えた。
その日の昼、母が見舞いに持ってきてくれたケーキを持ってラウンジへ向かった。箱を開けると、中にはモンブランが入っていた。
給茶機でお茶を入れ、席へ戻る。
そこで、重大なことに気付いた。
お皿とスプーンがない。
ラウンジを見回すと、入口近くの棚に箸が入った容器が目に入る。
(……まぁ、これでいいか)
一本抜き取り、席へ戻る。
テーブルに開いたケーキの箱を置き、モンブランを箸でそっと崩す。我ながら、ずいぶんシュールな光景だ。
ひと口運ぼうとした、その時だった。
「それ、何食べてるの?」
すぐ傍で、くすくすと笑いを噛み殺す声がした。
顔を上げると、入院着姿の女の子が肩を震わせながらこちらを見ている。
見覚えのある顔だった。
――テレビで見た子だ。
画面の向こうにいた少女。
僕はケーキに目を落とし、それからもう一度その子に視線を戻した。
「……モンブランだけど」
「えぇ! 一番箸にふさわしくないやつだ!」
その子は堪えきれず、吹き出した。
朝霧 遥(あさぎりはるか)。
数日前、病院中が慌ただしくなったあの急患——それが、彼女だった。
青信号の横断歩道を歩いていたところ、軽自動車に撥ねられたらしい。
彼女は僕より一つ上で、今話題の中学生バイオリニストだった。
術後で体の節々が思うように動かない、と時折ぼやきながらも、あどけなく人懐っこい彼女は、あっという間に患者さんや看護師さんと打ち解けていった。
ベッドで寝転びながら本を読んでいた時だ。
不意に視線を感じて顔を上げると、マットの縁から目だけを覗かせた遥がこちらを見ていた。
「わぁ!」
驚いて身をすくませた僕を見て、遥は無邪気に笑った。
「ね。今夜、肝試ししない?」
それからというもの、遥は僕の病室にも当たり前のように顔を出すようになった。
会うたびに思いついたように。
「屋上って行けるかな?」
「車椅子で競走しようよ」
「売店のプリン、全部制覇しよう」
と、突拍子もないことばかり言い出す。
どれも看護師さんに止められたり、僕が呆れて断ったりするようなことばかりだった。
それでも遥は少しも懲りず、毎日楽しそうに笑っていた。
そしていつしか、僕にとっても彼女が笑っている毎日が当たり前になっていた。
そんなある日のことだ。珍しく、遥が来なかった。
「あれ?今日は遥ちゃん来てないのね。珍しい」
不思議そうに呟く看護師さんの言葉が、胸に落ちる。
そのうち新しいイタズラでも考えて、やってくるだろう——そう思ったけれど、結局その日は夜まで待っても来なかった。
翌日。午後四時をまわっても姿を見せない遥のことが気になり、僕は思い切って隣のドアをノックした。
返事はなかった。
しばらく迷った末、ドアを開ける。「……遥? 入るよ」
カーテンで閉ざされた室内。遥はベッドに座り、本を読んでいた。その物静かな佇まいに、何故か胸の中に不安が広がる。
少しの間を置いて、遥がゆっくりとこちらを見た。それから、いつもの笑顔になる。「下の売店にモンブランが売ってるかどうか、賭けしようか」
その笑みを見ても、なぜか安心できなかった。
「……どうかしたの?」
「え? 何もないよ。映画観てたんだけど、思ってたよりつまんなくて――」
そこまで言ったとき、遥の頬を涙が伝った。
言葉を継ごうとした声は、小さな嗚咽へと変わる。
「遥」
僕はどうしたら良いかわからないまま、そっと傍へ歩み寄った。
気づけば、遥の頭へ手を伸ばしていた。
恐る恐る撫でると、その温もりが最後の糸を切ったように、遥は顔を伏せて泣き出した。
しばらく、嗚咽だけが静かな病室に響いた。
僕はただ、その背中を見つめることしかできなかった。
「……昨日ね、診察があったの」
ようやく落ち着きを取り戻した頃、遥は掠れた声でぽつりと話し始めた。
「もう、今までみたいにはバイオリン弾けないんだって」
「……え?」
耳を疑った。
バイオリンが、弾けない?
俯く遥の横顔を見ながら、それでも僕は、「なーんてね」と笑い出すのを待った。
でも、それが冗談じゃないことくらい、本当はわかっていた。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が見つからない。
「まぁ、命は助かったわけだし、それだけでもありがたいと思わなきゃだよね」
そう言って笑おうとした遥の口元は、小さく震えていた。
動揺が顔に出ていたのか、不意にこちらを見た遥が、かすかに笑う。
その時、背後に気配がした。
「そのうちいいことあるわよ。慰めるなら、そのくらい言ってあげたら?」
使者の呆れたような声。
「そのうち、いいことあるわよ……?」
繰り返した僕の声に、遥が目を見開いた。
「千尋、いま……『わよ』って言った?」
それから彼女は笑った。
「ごめん。千尋がそんなこと言うなんて思わなくて」
「え、いや……」
「全然向いてない」
そう言って、遥は声を立てて笑った。
久しぶりに見た、心からの笑顔だった。
なのに、胸の奥は締めつけられるように痛かった。


