拠り所を失った私は、再び小説の世界へと浸るようになっていた。それも今までとは比べ物にならないくらい、ずっとずっと深く。
中学生になって、勉強は難易度を増す。追いつけなかったらという恐怖、親からの反感を買わないため、暇の潰し方……またしても私は、孤立する要因に背中を預けてしまった。
暗記科目は先取り、数学は二単元先まで予習。その日の学習事項はその日のうちに復習。自分でも怖いくらいだったが、こうでもしないと孤独感や嫌悪感に押し潰されてしまいそうなのだ。
学校行事、人間関係、ほとんどを捨てて、また私は孤立している。こうなることはわかっていたし、今更寂しいとかは思わない。
ただ…………。
『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』
『咲九夜にしか見せない笑顔もあるんだよ』
今でも消えない、彼女の声と言葉。
真紀のことが恋しい。真紀に会いたい。
真紀と笑い合える日々が、どれほど幸せだったのかを、痛いほど思い知らされる。
同じことを逡巡して、いつもと変わらないことで時間を潰す。何も変わり映えしない、ただ息をするだけの世界。
それに比べて、小説の世界はいつも違う景色が見える。非現実的な物質、幻想的な景色、個性豊かな登場人物、鮮やかに描かれる情景描写。私が見る一つひとつの物質・物体に、贅沢なほど綺麗な言葉が添えられる。小説の表紙やあらすじ、プロローグ、個性的な世界や人物……手に取った時だけでなく、後味までも、小説は持っていく。
小説がくれるこの想いや安らぎを、「救済」と呼ぶならば、真紀も助かったのではないかと考えてしまう。
これは私だからこそ感じるものであって、真紀も同じ想いを抱くとは限らない。だとしても、一度触れてみてほしかったと思う。
「………………………………」
静まり返った自室で、私は読み終わった小説の表紙を見つめている。ここに書かれたキャッチが、手に取る決定打となった。
——もしも、私が小説を書けたなら?
こう思うのは初めてではない。小説を読むたび、何度か浮かんだことがある。だがその度に、私は首を振って消してきた。泡のように、触れればすぐ消えてくれた。
そのはずなのに、真紀がいなくなってから、それは強固になり、水滴のように離れなかった。さらに植物が根を張るように、次第に頑丈になっていく。
私が小説を書けたら、真紀のことも、救えたかもしれない。
そう考えて止まない。
真紀が死んで、もう二年が経とうとしている。小説を書くということは、私の無味な日々を変えるいい機会かもしれない。
私がもらったすべての想いは、家族にも、真紀にも、誰にも還元されることなく尽きるのか。
もらった恩が消えてしまうくらいなら、誰かに託したい。
私や真紀のような人が、もしもこの世界にいるのなら、届けてあげたいと思う。
真紀のような人を、もう増やしたくない。
つらい想いを抱いて、苦しい人生を歩むなんて、誰しもが嫌なはず。
たとえ自己満足と言われても、やりたいと思ってしまう。
苦しくもそれは、高校受験のタイミングと被ってしまったが、両立していけばいいと考えていた。勉強の貯金は、正直ありすぎるほどだ。
…………難しい。
何気なく読んでいた小説には、いくつか書き方にルールがあった。三点リーダーやダッシュの数は偶数個、感嘆符に続く文は一文字分空けて……。そこら辺はまだなんとかなる。難しいことはないし、校正段階ですぐに修復できる。
問題はお話を書くということ。物語の設計図——プロット作りから、もう挫折しそうだ。勉強と両立しているわけだから、時間には限りがある。だから通学や入浴、いろいろな場面で試行錯誤して、メモ帳に書き表して、いざ机に向かう。が、考えていたものが拙く思えて消したり、空き時間に浮かんだものの肝心な部分を忘却していたりと、全く上手くいかない。
やっぱり才能がないとだめなのかな……。
寝る前にいつも、暗闇の中にそう零す。いくら考えたって実らない。いくら書いても拙く見える。
もう私は中学三年生。受験競争が、ここから更に激化していく。塾に入れてなんて口が裂けても言えないし、そもそも時間がなくなるから入るつもりはないが、多少の不安はある。あれだけ貯金していたのに、今になって急に難題箇所が現れてきた。ここからは更に時間がなくなる。早く、もっと、成果を上げなければいけないのに。
焦っている。自覚はもちろんある。でもここで失敗は許されない。小説に時間を割いて受験に失敗したなんて家族が知ったら、ただでさえ書いてることも内緒なのに、どうなるかわかったものじゃない。
私の独り言も、ため息も、闇の中に溶け込み、消えていく。私の生きる気力も、いつかそうなってしまうのだろうか。
生きる希望に縋れている今、何としても、前に進みたい。
電車を降りると、せっかく涼しかったのに、ぶわっと熱を帯びた空気が私を包む。
人の波に乗って、私は切符で改札を抜ける。夏休みである今日は、平日でも子供が多く、利用者も多い。
建物の外に出ると、真夏の日差しが容赦なく肌に照り付け焼いていく。こうなるだろうと思って持ってきた日傘をバッグから取り出し、太陽に向けて開き掲げる。
——日焼け止めも日傘も意味ないなぁこれ。
地面から照り返してくる暑さのせいか、目が痛くなってくる。夏はなぜか普段よりも明るく感じるので余計に苦しい。
本来なら暑い日を少しでも避ければよかったのだが、来る日も来る日も猛暑日予報だったので諦めた。実際、直近一週間の予報は三十九度近くとなっている。
辺りに広がるのは茂みや賑やかな広場、大きな駐車場。もうすでに目的地の敷地内にいるようだ。
今日訪れたのは、私が住む県の都市部にある大きな公園。イベントを多数開催したり、季節によって変わっていく植物たちが、絶大な評価を得ている。
私がここに来たのは、小説の題材探しと舞台の偵察だ。お気に入りの水色のメモ帳をポケットに忍ばせ、スマホ——親が滅多にいなかったため、小学五年生の頃には与えられていた——も充電を満タンにして持ってきた。たくさん書き表して、写真を撮って、少しでも書く時の材料にしたい。
いつもと違うのは、私のすぐそばを歩いていく人物がいること。
『……いいじゃん、私も一緒に行く』
一ヶ月ほど前の夕食時に、母に行きたいと話した。許可なんてもらえないと思って、ダメ元のお願いだった。
だが、返ってきたのは意外なもので、許可の有無ですらなかった。
『え、いいの……? 私は全然いいんだけど……』
『いいわよ。咲九夜のことは信用できるけど、さすがに経験ないだろうし、私もついてく。それにここ、なんだかすごそう』
母がそんなことを言うのは新鮮だった。口元はかすかに緩み、本当に楽しみにしてくれているみたい。
話す機会は少なくとも、普通の家族のような雰囲気や関わりは、頑張って保ってきた。得意の作り笑いは大いに生きたし、直接怒られたり、当たられることもなかった。だから、母が笑っていることがとても懐かしく感じるし、不快だなんて思えなかった。
昔の感情に浸るのと同時に、普段との温度差がひどくて怖い。母の言っていることが嘘なのではないかと、嫌でもわずかに疑ってしまう。言い争う表情や刺々しい言葉だって、何度も聞いてしまってはもう引きはがせない。
とはいえ、これは私の経験と、作品を形にすることと、思い出作りのチャンス。迷わないため、切符やらなんやら早めに調べてきたんだ。息抜きも含めて、今日はものにしたいことがたくさんだ。
「暑い……連日こんな感じだし、ほんと嫌になる」
隣の母も、さすがにこの暑さに耐えることは難しいらしい。
——心臓が痛いくらいバクバクしてる……素直に顔を見て話せそうにないし、会話も若干怖い……ちゃんと笑えているのかな……。
いつも通り、私は適度に遠慮しながら母の隣を歩いていく。手が触れるどころか、人が通れるのではないかと思うくらいの空間ができている。どうかこの想いが気づかれませんように。
確かな収穫を得られるように、気合を入れて一歩踏み出す。
そうやって息巻いていた私は、一体どこにいってしまったのだろう。澄み渡った青空の中に溶け逃げてしまったのだろうか。まだ少ししか歩いていないのに。
……暑い……汗が止まらない……。
肌着が張り付いて気持ち悪い。こんなに汗をかくなんて思ってなかった。のどの渇きも尋常じゃない気がする。
——やばい、まずい……でもついてきてもらってる以上は……。
足が前に出なくなる。でもそれに抗い、母の歩幅へと少しずつ近づけていく。
「……? 咲九夜、大丈夫? どこか休めるところ……」
敷地に入ってすぐ、大通りを抜けて大きな噴水が見えてきたころ。暑さのあまり俯いていた私の顔を、母にのぞき込まれてしまった。
「だ、大丈夫……すぐ元に——」
「なに言ってんの。どっかで休むよ……埋まってる場所多いから、あそこ、ちょっとだけ上るよ」
そう言って母は、噴水に通じている五段ほどの階段を指す。怒っているわけではないのだろうが、呆れられてしまっただろうか。
軽く手を引かれて、噴水のすぐそばまで来る。それを眺めるように、ベンチが用意されていた。
二人並んで、生温いベンチに腰掛ける。立っている時よりは幾分かましになった。バックからペットボトルのお茶とタオルを取り出し、汗を拭き取る。
「我慢してたでしょ……こんなに酷いのに……」
母が私から出る汗を見ながら言う。
「ごめんなさい……」
これ、と言って母が、持ってきた保冷剤を直接首に当てる。痛みを覚えるくらい冷たくて、驚きのあまり避けてしまった。私はそれを受け取り、適度に当てては離しながら身体を冷やす。
座ったことによる安心感のせいか、我慢していた糸が吹っ切れて余計に体調が悪くなってきた気がする。腹の底から湧き出るような吐き気が気持ち悪い。
スマホに表示された現在地の気温は、三十八・七度。引きこもりで体力が虫のような私には、少し歩いただけでも危険な暑さのようだ。部活もしていないのだから、日頃からの運動なって以ての外。ただ正直、ここまで体力がないとは思っていなかった。
暑いことには変わりないし、日傘だから日陰とは言えないけれど、日射がないこの状態でも十分涼しく感じる。
……こんなこと思ってる時点で、私たち人間は異常なのかもな……。
ちらっと隣の母に目を向けると、ばっちりと目が合ってしまった。ずっと観察されていたのかもしれない。
「ど、どうしたの……?」
「…………申し訳ないの、すごく」
なんのこと……? と首を横に傾けてみせる。
「咲九夜、ずっと遠慮してるでしょ? この場所に行きたいって話してくれた時も、今も。ずっと私の内側ばかり伺ってさ」
気づかれたくなかったのに……こういう時に限ってなんなんだろう……。私の詰めが甘いというべきか……。
どこに目線をやればいいのかわからなくなって、手元、保冷剤と行ったり来たり。
「原因はわかってる。私とお父さんのせいだって」
私は何も言わない。そうだとも言えるし、違うとも言える。でもこの複雑な想いを打ち明けるより、今は母の言葉を待つ方が賢明だろう。
母が私についてきた理由は、このこともあるはずだ。
「咲九夜にはいろんなところを見られちゃって、その度に、何してるんだろうって感じだった…………本当に、ごめんね」
普段は目も合わせてくれなかった母が、私の瞳を見据えて謝罪している。不思議で、怖くて、もう謝らないでと言いたかった。
母だって、抱えた鬱憤をどこかへ吐き捨てる必要がある。でもそれを我慢して、溜め込んだまま生活してくれていたんだ。だから、謝られるのもどこか違う気がする。
それに、父はまだしも、母は私のことを思ってくれていると、心のどこかではわかっていたはずだ。実際目の前で謝罪されているし、ついてきてくれている。だけれど私は、家庭の不和を、親友の死を、投げ場のない怒りや後悔を変に拗らせてしまった。それが私の自負心からなのか、どうしようもなく悲しかったからなのかはわからない。
「あの人は…………きっともう変わらない。でも、咲九夜のことはちゃんと育ててあげたいの」
まっすぐと私を見つめる母。こうやってしっかりと顔を見たのは、きっと小学校よりも前なのではないだろうか。長い年月を、母の疲労や老いが鮮明に表している。
「これから先、何が起きるかわからないけど……私の想いは変わらないからね」
うん、とだけ頷く。
母のことは嫌いじゃないし、いつも私のためにいろいろしてくれているのはわかっている。だからと言って、完全に信用することはやっぱりまだできない。今までの出来事は、強烈に脳に焼き付いていて、忘れたことは一度もない。だからこそ、避けるように振る舞ってきた。
でもやっぱり、もう少しだけ信じてみたい。
たとえ大きな成果は上げられなくても、私のために動いてくれているお母さんに、私も頑張っているよ、と安心させたい。
これは心の片隅にあった不確かなものを、無理やり引っ張り出してきたようなものだった。それでもいいから、今はお母さんの言葉を受け止め、一緒にいたい。なくなってしまった時間に少しでも浸りたい。幼稚で、小さなもので、くだらないかもしれない。けれど私にとっては、十分すぎるものだった。
お互い想いを整理するために、しばらく無言の時間が続いた。でもそれは決して気まずいものではなく、見えない糸が弛緩しているのが目に見えるようだ。
噴水から滴り落ちる水が弾かれて水滴になる。そしてそれは、降り注ぐ陽光を反射してきらきらと輝いている。子供が走りはしゃぐ楽しそうな声が聞こえてきたり、どこか遠くからカラスの鳴き声が聞こえてきたり。五感の飽きない、本当に素敵な場所だ。
この温かい気持ちと情景を鮮明に、綺麗に描くことができたらいいなと思う反面、損なわせないかという余計すぎるような不安が生まれる。
小説を書きたいということは、やっぱりお母さんには伝えていない。返ってくる言葉や眉を顰める表情を想像して怯え、勇気がでない。
ただ、伝えなくてもいいのかなとも思う。それを生涯の職にしたいと決めたわけでもないし、私自身にも迷いや不安がある。のめりこんだりさえしなければ、お母さんにも迷惑は掛からないだろうとも思っているので、もう少しだけ、この想いは心の中で温めていてもいいのかもしれない。
「それにしてもこの公園、ほんとに大きいのね」
お母さんはスマホを操作しながら言う。きっとこの公園の全体マップを見ているのだろう。私が事前に教えていたサイトだ。役立っているみたいでよかった。
「ほんとだよね。全部行けるかな」
歩くだけでも数時間を要しそうなほど大きい公園。観察を目的としている身としては、まったく時間が足りなさそうだ。
私たちが通ってきた大通りの脇に設けられたベンチでは、相変わらずどこも誰かが腰掛けている。元気があり余っている子供たちでさえもこうやって休憩しているのだから、近年の災害級の暑さの意味を思い知らされる。
私はめまいやふらつきがなくなってきたので、お母さんに声をかける。
「もうそろそろ行こ。未練残して帰りたくないし」
「……せっかく来たのに、後悔したくないもんね。でも、体調は大丈夫なの?」
「うん。所々休憩していけば問題ないよ」
そっか、と言って立ち上がる。変わらず日傘は挿したままで、片手にはペットボトル。
「どこから行く? 私あの花が咲いてるとこ行きたい!」
妙に気分が高揚している。お母さんが笑って、一緒に過ごせる。それがどんなに嬉しいことで、どれだけ待ち望んでいたことか。
「じゃあ、あそこから順番に回ってこうか」
お母さんと並んで、再び日差しの中に足を踏み出す。見上げていた母の肩や顔が、今はほぼ同じ高さ。なんなら若干私の方が高そうだ。
「あんた、背伸びた?」
「お母さんが縮んだんじゃない?」
「あ、ついに言ったなぁ~?」
あはは、と声を出して大笑いする母。私の緊張も吹っ切れて、どんどんと抑えが効かなくなっていく。
冗談言い合えるって、やっぱり楽しいな。
お母さんとこんな風に笑えたこと。これは間違いなく、私の大切な思い出。
少し歩くだけで、かなり景色が変わって見える。それに加えて、この場所ならではの歴史的な建造物まである。どこに行っても本当に飽きないし、まだまだ見たいのに時間が足りない。
最初に回ったのは希望通り、多様な花々が咲き誇っている場所だ。花畑かと言われたら全くそんなことはなくて、ただ通路の間に花壇が用意されているだけなのだが、鮮やかな色で彩られ、緑の衣から綺麗な花弁を広げる様はとても綺麗だった。丁寧な管理があってなのか、私はここ以上に一つひとつが綺麗に咲いている場所を知らない……大して出かけてないけど……。
すぐ近くにある屋根がぷっくり膨らんだ建物からは、音楽イベントを開催しているのか、ギターの音色と力強い歌声が聞こえてきていた。
次に向かったのは、小さな池と庭園のような場所。日本らしい杉の木や、砂利道で成り立っている地形。先ほど私たちが座っていたベンチとは違い、この一帯に用意されているのは石でできたものや木の屋根が備えられた、数百年前の歴史の中に入り込んだような感じだ。池には陽光や周囲の木々が綺麗に映っていて、竹を用いた柵で整備されている。
昔の風景を想像させる、緑豊かに茂った植物たち。ここでお団子なんかを食べていたら、本当にそれっぽくなりそうだ。
さらに進んで敷地の端まで来ると、何かの台座の様な物が見えてくる。すぐ傍の説明によると、県内出身の総理大臣の銅像があったらしい。戦争で物資不足になった末、神社や寺院の鐘などの金属回収と共に、その銅像も回収されてしまったそうだ。そして、こうして台座のみが残っているとのこと。
事前に調べてはいたが、この公園にある建物やこういった銅像は、何かしらの経緯を持っていることが多かった。歴史を感じさせるスポットがぎゅっと集まり、見ていて本当に飽きなかった。
引き返して別の道から下っていくと、同じように柵で囲まれた池があった。濃い緑の植物が茂っていて水面が全く見えない。
雑草かとも思ったけれど、葉がかなり大きいし、よく見ると花弁が閉じているものがちらほら。
「これ、蓮の花らしいよ」
お母さんはスマホで調べながら言う。
「朝から十時ごろまでしか花弁が開かないんだって。もう見頃は終わっちゃったけど、かろうじて残ってたり、花が枯れちゃった後の花托が広がってるみたい」
葉の隙間から、小さいものから大きいものが顔を覗かせている。花弁が枯れて蜂の巣のようになっているのが花托なのだろう。今は枯れた茶色や緑ばかりで寂しいが、見頃の時期や時間帯に、綺麗に咲き映えていることを想像すると、また来る理由になりそうだ。
その後もマップを見ながらぐるぐると周っていった。夏の炎天下であるというのもあって見頃を終えてしまった植物が多く、若干後悔している。ただ、植物も建物も、たくさん写真に収めてメモもしている。仮に時間が経って忘れたとしても、書くための確かな材料があるのは心強い。
やがて出発点の噴水まで、二時間ほどかけて戻ってきた。この炎天下の中、お昼も食べずに歩き続けたのは本当にすごいと思う。
「たくさん歩いたね~……大丈夫かな筋肉痛」
「お母さんなら大丈夫そう……私の方が動いてないし……」
お互いどっと疲労が押し寄せてくる。たくさん汗もかいているので、消耗している体力は相当なものだ。
今度は噴水のそばではなく、通りにある木陰のベンチに腰掛ける。日傘なんかより圧倒的に涼しい。サーサーと葉が風に揺られる音が暑さを緩和する。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、ご飯どうする?」
歩いていると、飲食店も何個かあった。和食堂からレストラン、パン屋。確かにお腹は空いているのだが……。
——久々にお母さんのお弁当食べたいな。
「んー……あんまり行きたいところはなかったかな……お母さんは?」
言ってみようかとも思ったが、時すでに遅し。事前に言わなかった私が悪いし、今更ごねたって困らせるだけなのでお母さんに委ねる。
「……咲九夜がいいならだけど……」
お母さんはバッグの中に目をやり、なにやらごそごそとしている。
——まさか……!? ほんとに……!?
「お弁当作ってきたから食べない?」
「食べるー!」
待ってましたといわんばかりに、食い気味で遠慮しているのお母さんの胸元に飛びつく私。大好きなお母さんの料理を、こんな特別な場所で食べられるなんて。
「そ、そんな喜ぶ? どうしてそんな……暑いから離れてよー」
困って笑っているお母さんに、私は顔を擦りつける。本当に嬉しくて、このままくっついていたい。
あと、今は顔を見られたくない。絶対泣いてるから。
胸の奥が痛い。でもこの痛みは苦しいものなんかじゃなくて、忘れられない、抱えていたいもの。
もうちょっと、とも思ていたが、無理矢理引きはがされてしまったので素直に離れる。
「はい、これ。さ、食べよ?」
差し出されたのは紙の弁当箱と割り箸。わざわざ私用に作ってくれたんだ。
中を開けると、どこか懐かしさを感じる。野菜と彩のバランスが、いつも本当に綺麗だった。
私が大好きなふわふわの卵焼きに、真っ先に手を付ける。
「ん~! 美味しいよお母さん!」
自分でもわかるほどうるさく騒いでいる。困ったように眉が下がっているけれど、どこかお母さんは嬉しそうだ。
「そう……よかった。ほんとうに」
目を細くして、満面の笑みなお母さん。目尻には涙も見える。
素直でいれば、良いことがあるのかもしれない。
ふと、あれだけ痛感していたことを、私は今になって思い出していた。
お母さんが言っていたように、ぎすぎすとした関係は、また定期的に訪れるのだろう。そして、それにお母さんは頑張って適応しようとする覚悟ができている。
私にそんなことができるのだろうか。またなにかが重なって自暴自棄になったり、本当に誰も信じられなくなるかもしれない。
そんなことはないと信じたいし、考えたくもない。けれどそれは、逃れられないようにも感じられる。
こんな時にも、最悪の状況が頭をよぎってしまう私の心は、醜いのだろうか。
楽しかった日を境に、私は受験勉強を本格化していった。学校から配布されている課題はすでに終わっているので、ワークや参考書をメインに解いていく。基礎は問題なくできるが、応用はやはり一筋縄ではいかない。いつも途中で手が止まってしまう。
部屋にこもって、ルーズリーフを消費する日々。私の呼吸と、筆記音だけが響く空間。
リビングに行っても誰も居ない。ストレスが溜まりやすい受験期でも、親に当たってしまう心配はないし、逆に親からストレスを与えられることも少なくなる。
だが相変わらず、家庭内の不和は残ったままだ。父の帰りは遅いし、お母さんは仕事の忙しさが増して帰ってくるといつもげっそりとしている。
夜ご飯を作っておこうかと考えてお母さんに一度提案したことがあるのだが、もしも父から何か言われたり、最悪危害を加えられたりでもしたら嫌だと言って引かなかった。気持ちだけは受け取っておくと。
——だめだ……集中力が切れてくると余計なことばっかり……。
シャーペンを置き、立ち上がって伸びをする。座りっぱなしで、ずっと下を向いていた身体はがちがちに凝り固まっている。日光を浴びながら伸びをすることが、こんなにも気持ちいいなんて。
ふとファイル越しに目に入ったのは、三者懇談会の日程用紙。もう明後日にまで迫っている。お母さんも知っているし、お互いすれ違いを解消しつつあるおかげで不安は減ったが、別のことでまだ不安が残っていた。
誰にも言えていない、自分だけの想い。
私が先生たちとうまくやれていないことを、お母さんは知らない。
何事もなく終わってほしい。でも三年生は逃れられない内容。人生の分岐点を決める大事な場面。私にできることは何だろうかと、勉強をそっちのけて考え始めてしまった。
お盆前。真夏の九時半。朝早くから蝉がしきりに鳴き、青々と葉を生やす木々は夏らしさを一層際立たせる。
「……正直厳しいですね。志望校を変えた方がいいかと」
先月提出した進路希望調査と、先生だけが見られる書類を照らし合わせながら、目も合わせずに冷たく言い放つ。
「内申点も若干足りてないですし、実力テストの結果もいまひとつです。このままなら、絶対落ちますね」
——普通、本人の前で『絶対落ちる』とか言う?
いつもいつも、態度が苛立たしい。私のことを適当に扱い、まともに話を聞いてくれなさそうな雰囲気が言葉の節々から感じられる。お母さんもそれを感じ取っているのか、机の下の手が震えている気がする。
私は誰かと最低限の関係でいることが精一杯で、学校行事の参加意欲と評価が低いので、きっと先生たちの間では厄介な生徒として数えられているのだろう。
「第二希望は……まぁなんとかなるんじゃないですかね。……私立を併願しないのが疑問ですけど」
公立高校を二校、私立高校を最大三校併願するのが基本だそうだ。でも私は、そんなことをしたくなかった。
私立高校の受験対策に時間を使いたくないというのと、家庭の経済負担を増やしたくなかった。事前に調べてみれば、どの高校も入学するだけで数十万吹っ飛ぶ。授業料を負担してくれるだのと言われているが、設備維持費や行事に必要な費用を考えれば、公立高校を容易に超えてしまうだろうという計算だ。
度々担任は私の方をちらちらと見て、進路を変えろと言わんばかりの表情だ。
これからの進路決定までの流れの説明を簡単に受けて終わりが見えてきたころ、私もお母さんも考えていることは同じのようで、早くこの場を離れてしまいたかった。お母さんの指先が、トントンと一定のリズムで左手を叩いている。心なしか、眉を顰めているようにも思える。
「……まぁ普通、普通はね、私立も併願して成績に見合った学校受けるから、考えといてね」
最後に言われたのはそんなことだった。お前には無理だ、と遠回しに伝えたようなものだ。
……普通ってなんなの……。私がおかしいみたいに……。
間違ってはいないのだろう。人とうまくやっていけない時点で、彼らから見て、社会から見て、私は出来損ないで異端児なのかもしれない。
無性に自分が小さく見えて、心がきゅうっと締め付けられる。目頭が熱くなっているのは気のせいではないのだろう。
教室を抜けて車に戻った時には、解放感や絶望感、やりきれない思いでぐちゃぐちゃだった。暑さがさらに拍車をかけていく。
「私立、受けたいなら受けてもいいんだよ」
そう言う母の顔は、相変わらず歪んだまま。担任の態度が癪に障るのは当たり前だと思う。
母は受けた方がいいと言いたいのではなく、受けない理由を察して、本音を引き出そうとしているのだろう。
私は隠すことなく、しっかりと答える。
「受けたいとかはほんとになくて……対策に時間割けるほど余裕ないし。金銭的にもっていうのはもちろんあるんだけど、そもそも私は私立に行きたくない——受験したくないんだ」
そっか、と言ってどこか安心したような表情をみせるお母さん。
「じゃあ、たくさん頑張らないとね」
ガッツポーズで私に笑いかける。うん、と私も、貼り付けたように微笑み返す。
学校を発って、流れていく景色を眺めながら考える。
担任の言っていることは正しい。安全策を取ることはいいことで、社会に貢献することを考えるなら、安定した生活も得られる。
それが先生の言う"普通"。では私が思う“普通”とは何か。
小説を書きたいという意欲や夢は異常か。テンプレに則っていない進路や考えは異端なのか。私には結論が出せない。私の答えが、社会から見た間違いであったとしたとき、それを受け入れる気がしない。
わからない、わからない。考えれば考えるほど、そんな言葉で脳内が埋め尽くされる。振り切りたくても振り切れない。
穏やかな表情で運転するお母さんは、この問いに同じように悩んだのだろうか。それとも私がただ気にしすぎているだけなのだろうか。
もしかしたら、お母さんもあちら側の人間で、"普通"が何かをわかっていて、私をおかしいと思っているかもしれない。
いつか答えが出るはず。内心わかっていても、もやもやが消えてくれないのは、本当に気持ち悪い。
中学生になって、勉強は難易度を増す。追いつけなかったらという恐怖、親からの反感を買わないため、暇の潰し方……またしても私は、孤立する要因に背中を預けてしまった。
暗記科目は先取り、数学は二単元先まで予習。その日の学習事項はその日のうちに復習。自分でも怖いくらいだったが、こうでもしないと孤独感や嫌悪感に押し潰されてしまいそうなのだ。
学校行事、人間関係、ほとんどを捨てて、また私は孤立している。こうなることはわかっていたし、今更寂しいとかは思わない。
ただ…………。
『私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの』
『咲九夜にしか見せない笑顔もあるんだよ』
今でも消えない、彼女の声と言葉。
真紀のことが恋しい。真紀に会いたい。
真紀と笑い合える日々が、どれほど幸せだったのかを、痛いほど思い知らされる。
同じことを逡巡して、いつもと変わらないことで時間を潰す。何も変わり映えしない、ただ息をするだけの世界。
それに比べて、小説の世界はいつも違う景色が見える。非現実的な物質、幻想的な景色、個性豊かな登場人物、鮮やかに描かれる情景描写。私が見る一つひとつの物質・物体に、贅沢なほど綺麗な言葉が添えられる。小説の表紙やあらすじ、プロローグ、個性的な世界や人物……手に取った時だけでなく、後味までも、小説は持っていく。
小説がくれるこの想いや安らぎを、「救済」と呼ぶならば、真紀も助かったのではないかと考えてしまう。
これは私だからこそ感じるものであって、真紀も同じ想いを抱くとは限らない。だとしても、一度触れてみてほしかったと思う。
「………………………………」
静まり返った自室で、私は読み終わった小説の表紙を見つめている。ここに書かれたキャッチが、手に取る決定打となった。
——もしも、私が小説を書けたなら?
こう思うのは初めてではない。小説を読むたび、何度か浮かんだことがある。だがその度に、私は首を振って消してきた。泡のように、触れればすぐ消えてくれた。
そのはずなのに、真紀がいなくなってから、それは強固になり、水滴のように離れなかった。さらに植物が根を張るように、次第に頑丈になっていく。
私が小説を書けたら、真紀のことも、救えたかもしれない。
そう考えて止まない。
真紀が死んで、もう二年が経とうとしている。小説を書くということは、私の無味な日々を変えるいい機会かもしれない。
私がもらったすべての想いは、家族にも、真紀にも、誰にも還元されることなく尽きるのか。
もらった恩が消えてしまうくらいなら、誰かに託したい。
私や真紀のような人が、もしもこの世界にいるのなら、届けてあげたいと思う。
真紀のような人を、もう増やしたくない。
つらい想いを抱いて、苦しい人生を歩むなんて、誰しもが嫌なはず。
たとえ自己満足と言われても、やりたいと思ってしまう。
苦しくもそれは、高校受験のタイミングと被ってしまったが、両立していけばいいと考えていた。勉強の貯金は、正直ありすぎるほどだ。
…………難しい。
何気なく読んでいた小説には、いくつか書き方にルールがあった。三点リーダーやダッシュの数は偶数個、感嘆符に続く文は一文字分空けて……。そこら辺はまだなんとかなる。難しいことはないし、校正段階ですぐに修復できる。
問題はお話を書くということ。物語の設計図——プロット作りから、もう挫折しそうだ。勉強と両立しているわけだから、時間には限りがある。だから通学や入浴、いろいろな場面で試行錯誤して、メモ帳に書き表して、いざ机に向かう。が、考えていたものが拙く思えて消したり、空き時間に浮かんだものの肝心な部分を忘却していたりと、全く上手くいかない。
やっぱり才能がないとだめなのかな……。
寝る前にいつも、暗闇の中にそう零す。いくら考えたって実らない。いくら書いても拙く見える。
もう私は中学三年生。受験競争が、ここから更に激化していく。塾に入れてなんて口が裂けても言えないし、そもそも時間がなくなるから入るつもりはないが、多少の不安はある。あれだけ貯金していたのに、今になって急に難題箇所が現れてきた。ここからは更に時間がなくなる。早く、もっと、成果を上げなければいけないのに。
焦っている。自覚はもちろんある。でもここで失敗は許されない。小説に時間を割いて受験に失敗したなんて家族が知ったら、ただでさえ書いてることも内緒なのに、どうなるかわかったものじゃない。
私の独り言も、ため息も、闇の中に溶け込み、消えていく。私の生きる気力も、いつかそうなってしまうのだろうか。
生きる希望に縋れている今、何としても、前に進みたい。
電車を降りると、せっかく涼しかったのに、ぶわっと熱を帯びた空気が私を包む。
人の波に乗って、私は切符で改札を抜ける。夏休みである今日は、平日でも子供が多く、利用者も多い。
建物の外に出ると、真夏の日差しが容赦なく肌に照り付け焼いていく。こうなるだろうと思って持ってきた日傘をバッグから取り出し、太陽に向けて開き掲げる。
——日焼け止めも日傘も意味ないなぁこれ。
地面から照り返してくる暑さのせいか、目が痛くなってくる。夏はなぜか普段よりも明るく感じるので余計に苦しい。
本来なら暑い日を少しでも避ければよかったのだが、来る日も来る日も猛暑日予報だったので諦めた。実際、直近一週間の予報は三十九度近くとなっている。
辺りに広がるのは茂みや賑やかな広場、大きな駐車場。もうすでに目的地の敷地内にいるようだ。
今日訪れたのは、私が住む県の都市部にある大きな公園。イベントを多数開催したり、季節によって変わっていく植物たちが、絶大な評価を得ている。
私がここに来たのは、小説の題材探しと舞台の偵察だ。お気に入りの水色のメモ帳をポケットに忍ばせ、スマホ——親が滅多にいなかったため、小学五年生の頃には与えられていた——も充電を満タンにして持ってきた。たくさん書き表して、写真を撮って、少しでも書く時の材料にしたい。
いつもと違うのは、私のすぐそばを歩いていく人物がいること。
『……いいじゃん、私も一緒に行く』
一ヶ月ほど前の夕食時に、母に行きたいと話した。許可なんてもらえないと思って、ダメ元のお願いだった。
だが、返ってきたのは意外なもので、許可の有無ですらなかった。
『え、いいの……? 私は全然いいんだけど……』
『いいわよ。咲九夜のことは信用できるけど、さすがに経験ないだろうし、私もついてく。それにここ、なんだかすごそう』
母がそんなことを言うのは新鮮だった。口元はかすかに緩み、本当に楽しみにしてくれているみたい。
話す機会は少なくとも、普通の家族のような雰囲気や関わりは、頑張って保ってきた。得意の作り笑いは大いに生きたし、直接怒られたり、当たられることもなかった。だから、母が笑っていることがとても懐かしく感じるし、不快だなんて思えなかった。
昔の感情に浸るのと同時に、普段との温度差がひどくて怖い。母の言っていることが嘘なのではないかと、嫌でもわずかに疑ってしまう。言い争う表情や刺々しい言葉だって、何度も聞いてしまってはもう引きはがせない。
とはいえ、これは私の経験と、作品を形にすることと、思い出作りのチャンス。迷わないため、切符やらなんやら早めに調べてきたんだ。息抜きも含めて、今日はものにしたいことがたくさんだ。
「暑い……連日こんな感じだし、ほんと嫌になる」
隣の母も、さすがにこの暑さに耐えることは難しいらしい。
——心臓が痛いくらいバクバクしてる……素直に顔を見て話せそうにないし、会話も若干怖い……ちゃんと笑えているのかな……。
いつも通り、私は適度に遠慮しながら母の隣を歩いていく。手が触れるどころか、人が通れるのではないかと思うくらいの空間ができている。どうかこの想いが気づかれませんように。
確かな収穫を得られるように、気合を入れて一歩踏み出す。
そうやって息巻いていた私は、一体どこにいってしまったのだろう。澄み渡った青空の中に溶け逃げてしまったのだろうか。まだ少ししか歩いていないのに。
……暑い……汗が止まらない……。
肌着が張り付いて気持ち悪い。こんなに汗をかくなんて思ってなかった。のどの渇きも尋常じゃない気がする。
——やばい、まずい……でもついてきてもらってる以上は……。
足が前に出なくなる。でもそれに抗い、母の歩幅へと少しずつ近づけていく。
「……? 咲九夜、大丈夫? どこか休めるところ……」
敷地に入ってすぐ、大通りを抜けて大きな噴水が見えてきたころ。暑さのあまり俯いていた私の顔を、母にのぞき込まれてしまった。
「だ、大丈夫……すぐ元に——」
「なに言ってんの。どっかで休むよ……埋まってる場所多いから、あそこ、ちょっとだけ上るよ」
そう言って母は、噴水に通じている五段ほどの階段を指す。怒っているわけではないのだろうが、呆れられてしまっただろうか。
軽く手を引かれて、噴水のすぐそばまで来る。それを眺めるように、ベンチが用意されていた。
二人並んで、生温いベンチに腰掛ける。立っている時よりは幾分かましになった。バックからペットボトルのお茶とタオルを取り出し、汗を拭き取る。
「我慢してたでしょ……こんなに酷いのに……」
母が私から出る汗を見ながら言う。
「ごめんなさい……」
これ、と言って母が、持ってきた保冷剤を直接首に当てる。痛みを覚えるくらい冷たくて、驚きのあまり避けてしまった。私はそれを受け取り、適度に当てては離しながら身体を冷やす。
座ったことによる安心感のせいか、我慢していた糸が吹っ切れて余計に体調が悪くなってきた気がする。腹の底から湧き出るような吐き気が気持ち悪い。
スマホに表示された現在地の気温は、三十八・七度。引きこもりで体力が虫のような私には、少し歩いただけでも危険な暑さのようだ。部活もしていないのだから、日頃からの運動なって以ての外。ただ正直、ここまで体力がないとは思っていなかった。
暑いことには変わりないし、日傘だから日陰とは言えないけれど、日射がないこの状態でも十分涼しく感じる。
……こんなこと思ってる時点で、私たち人間は異常なのかもな……。
ちらっと隣の母に目を向けると、ばっちりと目が合ってしまった。ずっと観察されていたのかもしれない。
「ど、どうしたの……?」
「…………申し訳ないの、すごく」
なんのこと……? と首を横に傾けてみせる。
「咲九夜、ずっと遠慮してるでしょ? この場所に行きたいって話してくれた時も、今も。ずっと私の内側ばかり伺ってさ」
気づかれたくなかったのに……こういう時に限ってなんなんだろう……。私の詰めが甘いというべきか……。
どこに目線をやればいいのかわからなくなって、手元、保冷剤と行ったり来たり。
「原因はわかってる。私とお父さんのせいだって」
私は何も言わない。そうだとも言えるし、違うとも言える。でもこの複雑な想いを打ち明けるより、今は母の言葉を待つ方が賢明だろう。
母が私についてきた理由は、このこともあるはずだ。
「咲九夜にはいろんなところを見られちゃって、その度に、何してるんだろうって感じだった…………本当に、ごめんね」
普段は目も合わせてくれなかった母が、私の瞳を見据えて謝罪している。不思議で、怖くて、もう謝らないでと言いたかった。
母だって、抱えた鬱憤をどこかへ吐き捨てる必要がある。でもそれを我慢して、溜め込んだまま生活してくれていたんだ。だから、謝られるのもどこか違う気がする。
それに、父はまだしも、母は私のことを思ってくれていると、心のどこかではわかっていたはずだ。実際目の前で謝罪されているし、ついてきてくれている。だけれど私は、家庭の不和を、親友の死を、投げ場のない怒りや後悔を変に拗らせてしまった。それが私の自負心からなのか、どうしようもなく悲しかったからなのかはわからない。
「あの人は…………きっともう変わらない。でも、咲九夜のことはちゃんと育ててあげたいの」
まっすぐと私を見つめる母。こうやってしっかりと顔を見たのは、きっと小学校よりも前なのではないだろうか。長い年月を、母の疲労や老いが鮮明に表している。
「これから先、何が起きるかわからないけど……私の想いは変わらないからね」
うん、とだけ頷く。
母のことは嫌いじゃないし、いつも私のためにいろいろしてくれているのはわかっている。だからと言って、完全に信用することはやっぱりまだできない。今までの出来事は、強烈に脳に焼き付いていて、忘れたことは一度もない。だからこそ、避けるように振る舞ってきた。
でもやっぱり、もう少しだけ信じてみたい。
たとえ大きな成果は上げられなくても、私のために動いてくれているお母さんに、私も頑張っているよ、と安心させたい。
これは心の片隅にあった不確かなものを、無理やり引っ張り出してきたようなものだった。それでもいいから、今はお母さんの言葉を受け止め、一緒にいたい。なくなってしまった時間に少しでも浸りたい。幼稚で、小さなもので、くだらないかもしれない。けれど私にとっては、十分すぎるものだった。
お互い想いを整理するために、しばらく無言の時間が続いた。でもそれは決して気まずいものではなく、見えない糸が弛緩しているのが目に見えるようだ。
噴水から滴り落ちる水が弾かれて水滴になる。そしてそれは、降り注ぐ陽光を反射してきらきらと輝いている。子供が走りはしゃぐ楽しそうな声が聞こえてきたり、どこか遠くからカラスの鳴き声が聞こえてきたり。五感の飽きない、本当に素敵な場所だ。
この温かい気持ちと情景を鮮明に、綺麗に描くことができたらいいなと思う反面、損なわせないかという余計すぎるような不安が生まれる。
小説を書きたいということは、やっぱりお母さんには伝えていない。返ってくる言葉や眉を顰める表情を想像して怯え、勇気がでない。
ただ、伝えなくてもいいのかなとも思う。それを生涯の職にしたいと決めたわけでもないし、私自身にも迷いや不安がある。のめりこんだりさえしなければ、お母さんにも迷惑は掛からないだろうとも思っているので、もう少しだけ、この想いは心の中で温めていてもいいのかもしれない。
「それにしてもこの公園、ほんとに大きいのね」
お母さんはスマホを操作しながら言う。きっとこの公園の全体マップを見ているのだろう。私が事前に教えていたサイトだ。役立っているみたいでよかった。
「ほんとだよね。全部行けるかな」
歩くだけでも数時間を要しそうなほど大きい公園。観察を目的としている身としては、まったく時間が足りなさそうだ。
私たちが通ってきた大通りの脇に設けられたベンチでは、相変わらずどこも誰かが腰掛けている。元気があり余っている子供たちでさえもこうやって休憩しているのだから、近年の災害級の暑さの意味を思い知らされる。
私はめまいやふらつきがなくなってきたので、お母さんに声をかける。
「もうそろそろ行こ。未練残して帰りたくないし」
「……せっかく来たのに、後悔したくないもんね。でも、体調は大丈夫なの?」
「うん。所々休憩していけば問題ないよ」
そっか、と言って立ち上がる。変わらず日傘は挿したままで、片手にはペットボトル。
「どこから行く? 私あの花が咲いてるとこ行きたい!」
妙に気分が高揚している。お母さんが笑って、一緒に過ごせる。それがどんなに嬉しいことで、どれだけ待ち望んでいたことか。
「じゃあ、あそこから順番に回ってこうか」
お母さんと並んで、再び日差しの中に足を踏み出す。見上げていた母の肩や顔が、今はほぼ同じ高さ。なんなら若干私の方が高そうだ。
「あんた、背伸びた?」
「お母さんが縮んだんじゃない?」
「あ、ついに言ったなぁ~?」
あはは、と声を出して大笑いする母。私の緊張も吹っ切れて、どんどんと抑えが効かなくなっていく。
冗談言い合えるって、やっぱり楽しいな。
お母さんとこんな風に笑えたこと。これは間違いなく、私の大切な思い出。
少し歩くだけで、かなり景色が変わって見える。それに加えて、この場所ならではの歴史的な建造物まである。どこに行っても本当に飽きないし、まだまだ見たいのに時間が足りない。
最初に回ったのは希望通り、多様な花々が咲き誇っている場所だ。花畑かと言われたら全くそんなことはなくて、ただ通路の間に花壇が用意されているだけなのだが、鮮やかな色で彩られ、緑の衣から綺麗な花弁を広げる様はとても綺麗だった。丁寧な管理があってなのか、私はここ以上に一つひとつが綺麗に咲いている場所を知らない……大して出かけてないけど……。
すぐ近くにある屋根がぷっくり膨らんだ建物からは、音楽イベントを開催しているのか、ギターの音色と力強い歌声が聞こえてきていた。
次に向かったのは、小さな池と庭園のような場所。日本らしい杉の木や、砂利道で成り立っている地形。先ほど私たちが座っていたベンチとは違い、この一帯に用意されているのは石でできたものや木の屋根が備えられた、数百年前の歴史の中に入り込んだような感じだ。池には陽光や周囲の木々が綺麗に映っていて、竹を用いた柵で整備されている。
昔の風景を想像させる、緑豊かに茂った植物たち。ここでお団子なんかを食べていたら、本当にそれっぽくなりそうだ。
さらに進んで敷地の端まで来ると、何かの台座の様な物が見えてくる。すぐ傍の説明によると、県内出身の総理大臣の銅像があったらしい。戦争で物資不足になった末、神社や寺院の鐘などの金属回収と共に、その銅像も回収されてしまったそうだ。そして、こうして台座のみが残っているとのこと。
事前に調べてはいたが、この公園にある建物やこういった銅像は、何かしらの経緯を持っていることが多かった。歴史を感じさせるスポットがぎゅっと集まり、見ていて本当に飽きなかった。
引き返して別の道から下っていくと、同じように柵で囲まれた池があった。濃い緑の植物が茂っていて水面が全く見えない。
雑草かとも思ったけれど、葉がかなり大きいし、よく見ると花弁が閉じているものがちらほら。
「これ、蓮の花らしいよ」
お母さんはスマホで調べながら言う。
「朝から十時ごろまでしか花弁が開かないんだって。もう見頃は終わっちゃったけど、かろうじて残ってたり、花が枯れちゃった後の花托が広がってるみたい」
葉の隙間から、小さいものから大きいものが顔を覗かせている。花弁が枯れて蜂の巣のようになっているのが花托なのだろう。今は枯れた茶色や緑ばかりで寂しいが、見頃の時期や時間帯に、綺麗に咲き映えていることを想像すると、また来る理由になりそうだ。
その後もマップを見ながらぐるぐると周っていった。夏の炎天下であるというのもあって見頃を終えてしまった植物が多く、若干後悔している。ただ、植物も建物も、たくさん写真に収めてメモもしている。仮に時間が経って忘れたとしても、書くための確かな材料があるのは心強い。
やがて出発点の噴水まで、二時間ほどかけて戻ってきた。この炎天下の中、お昼も食べずに歩き続けたのは本当にすごいと思う。
「たくさん歩いたね~……大丈夫かな筋肉痛」
「お母さんなら大丈夫そう……私の方が動いてないし……」
お互いどっと疲労が押し寄せてくる。たくさん汗もかいているので、消耗している体力は相当なものだ。
今度は噴水のそばではなく、通りにある木陰のベンチに腰掛ける。日傘なんかより圧倒的に涼しい。サーサーと葉が風に揺られる音が暑さを緩和する。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、ご飯どうする?」
歩いていると、飲食店も何個かあった。和食堂からレストラン、パン屋。確かにお腹は空いているのだが……。
——久々にお母さんのお弁当食べたいな。
「んー……あんまり行きたいところはなかったかな……お母さんは?」
言ってみようかとも思ったが、時すでに遅し。事前に言わなかった私が悪いし、今更ごねたって困らせるだけなのでお母さんに委ねる。
「……咲九夜がいいならだけど……」
お母さんはバッグの中に目をやり、なにやらごそごそとしている。
——まさか……!? ほんとに……!?
「お弁当作ってきたから食べない?」
「食べるー!」
待ってましたといわんばかりに、食い気味で遠慮しているのお母さんの胸元に飛びつく私。大好きなお母さんの料理を、こんな特別な場所で食べられるなんて。
「そ、そんな喜ぶ? どうしてそんな……暑いから離れてよー」
困って笑っているお母さんに、私は顔を擦りつける。本当に嬉しくて、このままくっついていたい。
あと、今は顔を見られたくない。絶対泣いてるから。
胸の奥が痛い。でもこの痛みは苦しいものなんかじゃなくて、忘れられない、抱えていたいもの。
もうちょっと、とも思ていたが、無理矢理引きはがされてしまったので素直に離れる。
「はい、これ。さ、食べよ?」
差し出されたのは紙の弁当箱と割り箸。わざわざ私用に作ってくれたんだ。
中を開けると、どこか懐かしさを感じる。野菜と彩のバランスが、いつも本当に綺麗だった。
私が大好きなふわふわの卵焼きに、真っ先に手を付ける。
「ん~! 美味しいよお母さん!」
自分でもわかるほどうるさく騒いでいる。困ったように眉が下がっているけれど、どこかお母さんは嬉しそうだ。
「そう……よかった。ほんとうに」
目を細くして、満面の笑みなお母さん。目尻には涙も見える。
素直でいれば、良いことがあるのかもしれない。
ふと、あれだけ痛感していたことを、私は今になって思い出していた。
お母さんが言っていたように、ぎすぎすとした関係は、また定期的に訪れるのだろう。そして、それにお母さんは頑張って適応しようとする覚悟ができている。
私にそんなことができるのだろうか。またなにかが重なって自暴自棄になったり、本当に誰も信じられなくなるかもしれない。
そんなことはないと信じたいし、考えたくもない。けれどそれは、逃れられないようにも感じられる。
こんな時にも、最悪の状況が頭をよぎってしまう私の心は、醜いのだろうか。
楽しかった日を境に、私は受験勉強を本格化していった。学校から配布されている課題はすでに終わっているので、ワークや参考書をメインに解いていく。基礎は問題なくできるが、応用はやはり一筋縄ではいかない。いつも途中で手が止まってしまう。
部屋にこもって、ルーズリーフを消費する日々。私の呼吸と、筆記音だけが響く空間。
リビングに行っても誰も居ない。ストレスが溜まりやすい受験期でも、親に当たってしまう心配はないし、逆に親からストレスを与えられることも少なくなる。
だが相変わらず、家庭内の不和は残ったままだ。父の帰りは遅いし、お母さんは仕事の忙しさが増して帰ってくるといつもげっそりとしている。
夜ご飯を作っておこうかと考えてお母さんに一度提案したことがあるのだが、もしも父から何か言われたり、最悪危害を加えられたりでもしたら嫌だと言って引かなかった。気持ちだけは受け取っておくと。
——だめだ……集中力が切れてくると余計なことばっかり……。
シャーペンを置き、立ち上がって伸びをする。座りっぱなしで、ずっと下を向いていた身体はがちがちに凝り固まっている。日光を浴びながら伸びをすることが、こんなにも気持ちいいなんて。
ふとファイル越しに目に入ったのは、三者懇談会の日程用紙。もう明後日にまで迫っている。お母さんも知っているし、お互いすれ違いを解消しつつあるおかげで不安は減ったが、別のことでまだ不安が残っていた。
誰にも言えていない、自分だけの想い。
私が先生たちとうまくやれていないことを、お母さんは知らない。
何事もなく終わってほしい。でも三年生は逃れられない内容。人生の分岐点を決める大事な場面。私にできることは何だろうかと、勉強をそっちのけて考え始めてしまった。
お盆前。真夏の九時半。朝早くから蝉がしきりに鳴き、青々と葉を生やす木々は夏らしさを一層際立たせる。
「……正直厳しいですね。志望校を変えた方がいいかと」
先月提出した進路希望調査と、先生だけが見られる書類を照らし合わせながら、目も合わせずに冷たく言い放つ。
「内申点も若干足りてないですし、実力テストの結果もいまひとつです。このままなら、絶対落ちますね」
——普通、本人の前で『絶対落ちる』とか言う?
いつもいつも、態度が苛立たしい。私のことを適当に扱い、まともに話を聞いてくれなさそうな雰囲気が言葉の節々から感じられる。お母さんもそれを感じ取っているのか、机の下の手が震えている気がする。
私は誰かと最低限の関係でいることが精一杯で、学校行事の参加意欲と評価が低いので、きっと先生たちの間では厄介な生徒として数えられているのだろう。
「第二希望は……まぁなんとかなるんじゃないですかね。……私立を併願しないのが疑問ですけど」
公立高校を二校、私立高校を最大三校併願するのが基本だそうだ。でも私は、そんなことをしたくなかった。
私立高校の受験対策に時間を使いたくないというのと、家庭の経済負担を増やしたくなかった。事前に調べてみれば、どの高校も入学するだけで数十万吹っ飛ぶ。授業料を負担してくれるだのと言われているが、設備維持費や行事に必要な費用を考えれば、公立高校を容易に超えてしまうだろうという計算だ。
度々担任は私の方をちらちらと見て、進路を変えろと言わんばかりの表情だ。
これからの進路決定までの流れの説明を簡単に受けて終わりが見えてきたころ、私もお母さんも考えていることは同じのようで、早くこの場を離れてしまいたかった。お母さんの指先が、トントンと一定のリズムで左手を叩いている。心なしか、眉を顰めているようにも思える。
「……まぁ普通、普通はね、私立も併願して成績に見合った学校受けるから、考えといてね」
最後に言われたのはそんなことだった。お前には無理だ、と遠回しに伝えたようなものだ。
……普通ってなんなの……。私がおかしいみたいに……。
間違ってはいないのだろう。人とうまくやっていけない時点で、彼らから見て、社会から見て、私は出来損ないで異端児なのかもしれない。
無性に自分が小さく見えて、心がきゅうっと締め付けられる。目頭が熱くなっているのは気のせいではないのだろう。
教室を抜けて車に戻った時には、解放感や絶望感、やりきれない思いでぐちゃぐちゃだった。暑さがさらに拍車をかけていく。
「私立、受けたいなら受けてもいいんだよ」
そう言う母の顔は、相変わらず歪んだまま。担任の態度が癪に障るのは当たり前だと思う。
母は受けた方がいいと言いたいのではなく、受けない理由を察して、本音を引き出そうとしているのだろう。
私は隠すことなく、しっかりと答える。
「受けたいとかはほんとになくて……対策に時間割けるほど余裕ないし。金銭的にもっていうのはもちろんあるんだけど、そもそも私は私立に行きたくない——受験したくないんだ」
そっか、と言ってどこか安心したような表情をみせるお母さん。
「じゃあ、たくさん頑張らないとね」
ガッツポーズで私に笑いかける。うん、と私も、貼り付けたように微笑み返す。
学校を発って、流れていく景色を眺めながら考える。
担任の言っていることは正しい。安全策を取ることはいいことで、社会に貢献することを考えるなら、安定した生活も得られる。
それが先生の言う"普通"。では私が思う“普通”とは何か。
小説を書きたいという意欲や夢は異常か。テンプレに則っていない進路や考えは異端なのか。私には結論が出せない。私の答えが、社会から見た間違いであったとしたとき、それを受け入れる気がしない。
わからない、わからない。考えれば考えるほど、そんな言葉で脳内が埋め尽くされる。振り切りたくても振り切れない。
穏やかな表情で運転するお母さんは、この問いに同じように悩んだのだろうか。それとも私がただ気にしすぎているだけなのだろうか。
もしかしたら、お母さんもあちら側の人間で、"普通"が何かをわかっていて、私をおかしいと思っているかもしれない。
いつか答えが出るはず。内心わかっていても、もやもやが消えてくれないのは、本当に気持ち悪い。



