私を助けられるのは、私だけだった

 夏休みを終えて、残暑が続いていく二学期。
「暑いねー……もうちょっと落ち着いてくれたっていいのに」
 登校するなり、そう言って席に座る真紀。
「八月から変わってないもんね。少しは下がると思ったんだけど……」
 二学期初日は、どこもこんな会話ばっかりだ。聞こえてくるものは、夏休みの思い出と、天気と、宿題への嘆き。
 相変わらずどこかへ行くこともなく、私は家で読書や勉強に時間を遣っていた。母は多少波があるものの、話しかけやすく穏やかなままだった。あの修学旅行の間になにがあったのかはわからないが、家で過ごす時間が少し気楽になったのは本当にありがたかった。母との夕食やおやつを食べる時間が、久々に温かく感じられた何気ない日常が、私にとっては最高の夏休み。
 真紀はどうだったのだろうか。
「真紀——」
 話しかけた時には、ほかのクラスメイトに呼ばれて教室を出ようとしていた。一瞬だけ見えた表情がどこか引き攣っていて、私の胸に影が現れる。
 結局、下校時刻になっても真紀と話すことはなかった。というよりできなかった。時々目をやっても合わないし、どこか暗くて目線が落ちていたから。ずっと俯いたような形になっていて、魂が抜けているみたいだった。
 初日は行事さえ終えてしまえば午前中で帰れるので、クラス中は喧騒にあふれている。隣の真紀は相変わらず微動だにしない。
 煮え切らない想いを少しだけ、そっとため息に変えて、仕方なく帰ろうとしたとき。
「咲九夜、校門出てすぐの角を曲がって、待ってて」
 小さな声で、なぜか顔を動かさない真紀。でもそれは、間違いなく私に向けられた言葉。目線は変わっていない。まるで私と話していることを知られてはいけないかのように。
 ——なにがあったんだろう……。
 ただ事ではないような雰囲気が、私たちの間に渦巻いていく。
 なんとなく、今ここで聞くべきではないように思う。
「うん」
 私も、真紀に倣って、私たちだけの世界へ口にする。
 教室は三階。ただでさえ昇降口まで遠いのに、今日はなんだかさらに遠く感じる。思考がぐるぐるとしている——いろいろ考えすぎだ。廊下に響く声がやけにうるさい。私の呼吸の音がこもるような、不思議な感覚。一歩一歩が曖昧で、まるで地面が揺れているようで。
 真紀が心配。これからなにが起こるのかも怖い。
 真紀が指定した場所は全く人が通らないわけじゃないし、考えるならば、小規模公園の休憩場所みたいな。だからそこへ行くことの躊躇はない。この足の重さは、きっと別のこと。
 指定の場所に着いてベンチに腰掛ける。木や建物に隠れるから、目の前を通らない限りはクラスメイトに見られないだろう。遊具もなければ、砂場があるわけでもない。疲れた時、ふらっと立ち寄るだけの場所。
 暑さが残る中、強い日差しがアスファルトに照り付けている。日陰はまだ楽だが、日向は立っているだけで汗ばんでしまう。九月になったというのに、セミはまだ合唱をやめない。次の種類、次の個体、この異なる音色は、暑さが重なると次第に鬱陶しくなってくる。
 真紀の行動や言動が頭に浮かんで、立ち上がり、来た道を何度も確認してしまう。私が曲がった角を見つめて、来るかな、まだかな、何をしているんだろう、なんて。
 しばらくして、私が来た道をたどってくる真紀が見えた。相変わらず俯いて、暗い雰囲気を纏っている。
 彼女はとぼとぼと私の前までやってきて、静かに、ぼそぼそと零す。
「咲九夜はさ……私と一緒にいたい……?」
「いや別に——」
 無理して一緒にいなくても大丈夫だよ。そう言おうと思った。
 だけど、素直になろう。そう決めたんだ。
 空っぽの右手をぎゅっと握る。
「真紀と一緒に、いたいな」
 その瞬間、ふっと顔を上げて私を見る彼女。動作に合わせて、綺麗な髪が揺れる。
 目を見開き、心底驚いたような顔をしている。こんな話を修学旅行の時にもしたけれど、過去の負の記憶から、簡単には信用しきれなかったのだろう。
 額に髪の毛が張り付いて、若干肩で呼吸している真紀。
 瞳がゆらゆらと揺らいでいる。
 私は自然に、微笑んで見せる。
「……っありがとう、ほんとに……ありがとう、咲九夜」
「うん。……さ、帰ろ、真紀」
 あの日、怯える私に手を差し伸べてくれたように、私も彼女に手を差し伸べる。
 私にはわからない——彼女だけの想いに触れることはできない。
 だから、こうやって助けることが、寄り添うことが正解だと思う。
 真紀は少し躊躇ったが、そっと手を添えて、割れ物を掴むように握る。
 帰路の空模様は、快晴だった。でもなぜか、雲一つない青空は、これが最後だった気がする。

 九月の大半は、残暑に身体が嘆いて終了しつつあった。熱帯夜が終わり始め、日中の気温も厳しくはなくなっていく。
 それに合わせるかのように、真紀以外のクラスメイトと話せることも多くなっていった。私から話しかけることは相変わらずなく、主に相手から。急にどうしたのだろうと思ったが、大きなデメリットがあるわけではないので特に気にしていなかった。……厄介なのは、怒らせないように、調和を保てるように目を配ること。
 話のテンポが早いし、どうも付いていくのに苦労する。気分を損ねないように、無理に笑うことがより増えた。始業時刻を迎えてふと一人になったとき、私はどんな顔をしているのだろう……想像もしたくない。
 九月下旬、割と涼しくなった朝の街を、真紀と二人で歩いていく。
「今週末台風来るんでしょ? せっかくの休みなのに、気分落ち込みそう」
 真紀はさぞがっかりといった様子だ。
「九月、十月って、なんだかんだ台風多いよね」
「ねー、なんでだろ」
 いつもみたいにだらだらと話しながら登校するのは、私たちの日課になっていた。思ったことや、ぱっと浮かんだ話題を、適当に吐き出して、たまに盛り上がる。適度に緩い関係が、私は好きだった。
 昇降口で靴を履き替え、階段を上って教室に。こんなの、いつもの話。教室に入れば宿題やらゲームやらの話で——くだらないことで溢れている。
 では、この教室に一歩踏み出した時の違和感は何か。
 クラスメイト——同調によって作られたであろうこの雰囲気はなんなのか。
 地の底から這いあがるような冷たい恐怖。
 答えは簡単。不和の始まり。
 私の席の隣、真紀の机に置かれた、花瓶と一輪の花。
 何も言えず、真紀が隣で息を呑む音がする。
 ——これって……。
 考えたくない、ただその一心で、思考を放棄しようとした。けれども、バクバクと音を立てる心臓は、私が考え焦っていることの証明だ。
 ……どう頑張っても見放せない。これをどうにかしないといけない。自然に、違和感なく、完璧に。
 私は、知らないふりをしようと、花瓶を手に取りロッカー横の未使用の机へと持っていった。花瓶を持つ手は震え、一歩一歩がおぼつかない。それに、こんなことをした私を、クラスメイトたちが野放しにするとは思えない恐怖が、頭を支配する。
 振り返らずともわかる、クラスメイトの視線。誰かはわからないけれど、主犯格の睨みつけるような視線が、傍観者たちの正気を疑うような視線の中に混じっている。
 机と花瓶の触れる音が、耳に響く。乾いていて、耳がキーンとなるような音。
 固唾を飲み込んで振り向くと、いつもと同じように流れている時間。何事もなかったかのように、各々の日常が動いている。
 結局、その日は普通に過ごしたけれど、気が気でない一日だった。真紀は明らかに避けられているし、逆に私は異様に輪へと引き込まれそうになる。話しかけたくても真紀はもうそこにいなくて、私は気づけば誰かに引き留められて……。
 登下校も、真紀から笑顔は消えてしまった。ただ作業のように、彼女にとっての地獄へと歩いていく。私となら会話はできるけれど、無理に笑っている姿はとても痛々しい。時には返事がなかったり、上の空だったり、完全に棒読みだったり。
 以前にもいじめられていたという彼女。成長し、心が豊かになった今では、あの頃とは比べ物にならない、そしてまた別の苦痛があるはずだ。
 その痛みを、私がすべてわかってあげることはできない。そうしたくたって、どうしようもできない。だから勝手なことを言えないし、手を引くこともしない。
 こうして真紀のそばにいると、自分の無力さを痛感させられる。こんなに近くて、手を伸ばせば身体の隅々に触れられるのに、心を救う言葉も、行動も、何もしてあげることができない。それがただただ辛くて、申し訳なくて。
 こんなことを思っていてはだめだと、彼女の前では悟られないように頑張っている。いつでも明るく笑って、心に闇なんてない、いつも通りだ、というように。
 気づいていないことを、心の底から願うばかりだ。
 
 激しく揺れる日々を終え、迎えた週末。予報通り台風が接近し、広い地域で大雨や暴風。窓にはバチバチと雨音が打ち付け、空は黒っぽい曇で厚く覆われている。私は外の様子を窺うのが億劫になって、ベッドで横になっていた。
 ——真紀。
 静かな空間に、そっと口にした、彼女の名前が溶けていく。
 じわじわと、目頭が熱くなる。
 あんなに当たり前だと思っていた日常が、あっという間に崩れ去っていってしまった。楽しかった学校生活が消え、一緒にいたい相手の笑顔は、苦しみに満ちた悲痛なものへ変わってしまった。
 真紀とはもう話せなくなるかもしれない。信じたくないけど、きっとそうなってしまうのだろう。
 堪えきれなかった雫が、枕元を濡らしていく。声が漏れないように、悔しがっている自分に目を背けるように、口に手を当てる。

『真紀と一緒に、いたいな』

 ごめんね、真紀。
 本当に、ごめんなさい。

 
 ※※※

 放課後、陽が傾き、空が橙色に染まる。廊下に差し込む光はいつもより眩しくて、場所によっては目を瞑ってしまう。
 普段はまっすぐ昇降口に向かって帰るが、今日は少し寄り道しなければいけない。一階まで下って、普段は生徒があまり立ち入らない方向へ。進むにつれて、ちょっとずつ鼓動が速くなる。
 職員室に来ることなんて滅多になくて、目の前にある扉がとても重厚で、威圧的なものに見えてしまう。扉にかけようとする手が、ぴくぴくと震えているのがわかる。
 そっと扉を開けて、担任を探す。外の張り紙に書かれていた通りの、おきまりの文言で職員室に入って、乾いた口を、重苦しく開く。
「先生……あの、クラスのことで……」
「うん? どうしたの、咲九夜さん」
 パソコンを操作する手を止めて、こちらに顔を向けてくれる。授業や朝の会で聞くいつもの優しい声で、緊張していることが丸わかりであろう私を和らげてくれようとしている。
 口をぱくぱくして、喉でどうしてもつっかえてしまう言葉を口にする。
「その……いじめが、クラス全体で……」
 とうとう言ってしまった……自分でもわかるほど弱々しくて小さい声だったから、他の先生には聞かれていないだろう。それでも、心臓がバクバクしている。先生の目を見ることができない。
 どんな解決策を出してくれるだろうか。真紀のためなら、なんだってする。
 ズボンをぐっと握りしめる。
 だが、反応は予想外で、良いものではなかった。
「…………あぁ、そう」
 ただそれだけ言って、先生はパソコンに視線を戻した。いつも見せるあの柔らかな顔も消えて、早くどこかへ行ってほしいというような顔だ。微笑んでくれていた表情はなくなり、パソコンの画面を見つめる瞳はひどく冷たい。
「……へ……?」
 鈍器で頭を殴られたようで、間抜けな声が漏れる。
「咲九夜さんの勘違いじゃないかな。話してみればわかると思うよ」
 私のことは一切見ることなく、冷淡に告げられる。それ以上言葉はないようで、中断していた作業を黙々と続けている。
「…………は、はい…………」
 震える口から、細々とした声が漏れる。先生に聞こえていたかどうかはわからない。
 床の木目だけを見つめて、逃げるように職員室を後にする。
 震える指先で扉をそっと閉めると、安堵でふっと気が抜けると同時に、ショックと悔しさがこみあげて視界が歪む。
 私はどうしてここに来たんだろう。どうして、大人を頼るという選択をしたのだろう。
 よくそうやって言われるからだろうか。でも内心わかっていたはずだ。あれは安心させるための建前、彼らたちの義務であって、嘘でしかないことくらい。
 なんだか恥ずかしくなってきた。もっと他にあったんじゃないの?
 とぼとぼと帰路を辿っていく。頑張ったんだけどな、そんなことを思いながら。

 ※※※
 
 暑さがなくなり、過ごしにくさもなくなってきた十一月下旬。手袋をつけたり、マフラーをつける人も増えてきている。
 真紀とはもう話せていない。ほかのクラスメイト達が話しかけまいと阻止してくるし、クラスから除け者にされてしまう。加えて真紀本人も、私のことを極力避けようとしているようだった。
 どうして標的が真紀なのか、問いただしてやめさせようとも考えた。でもそんな勇気はなく、同調して、陰からそっと真紀を見ていることしかできなかった。当たり前と言われればそうだ。まともに人と関わってこなかった人間が、関係の体裁を保つことも、果敢に正義を貫くこともできっこない。
 蔑んだ目線、嘲笑の言葉たち。それに私は二つ返事で、無言で頷いて、同調する。
 居場所を守るための卑劣極まりない行為。
 真紀を見るたび、どうしようもない想いが胸を支配する。
 ……そして、始まりには、終わりが来る。
 がくっと気温が落ちたその日。数日ぶりの大雨だった。
 教室の窓を、雨が激しく打ち付ける。
 水たまりはさらに大きくなり、側溝なんかはすぐに水があふれだしそうだ。
 どんよりとした空気の中、いつもいる存在がいないだけで、変な感じだ。
 来ていないことを面白がる主犯格。
 隅でひそひそと話している傍観者。
 違和感に怯え、最悪の想定ばかりが思い浮かぶ私。
 負の感情の肥大は、日に日に加速する。
 
 ——水野さんは、亡くなられました。
 
 無機質な先生の声は、どこか他人事で、冷たかった。
 そもそも、いじめを黙認している時点で心情はあっさり読み取れる。手っ取り早く問題が片付いてラッキーとでも思っているのだろう。彼は気づいていながら放置して、その人物が消えてくれたことで手続きやカウンセリングなんかを踏まずに済んだ。あとは適当に偽装していればいい。どこまで腐った人間なんだ。
 クラスメイトが笑っている。たとえ口にしなくても、表情に出さなくても、心の内で、心の底から笑っている。真紀にはなれずとも、ずっと見てきた私ならわかる。私の目につかない場所で、直接手を下すこともあったのだから、間違いなんてないはずだ。実際、朝の会はあっさりと終了し、涙する者もおらず、いないことが当たり前だったかのような雰囲気。そして、自分には関係ないとでも言いたげな清々しい表情。傍観者たちが抱える表情に、本当に悔しがっている人、残念そうにしている人はいない。
 私だけが、ただ座席に座り、悲しみと悔しさを噛みしめていた。
 
『…………あぁ、そう』
 
 あの雑な態度。本当に憎たらしい。だけど今更どうしようもない。あの後私が何もしなかったこと、私に力がなかったこと、すべてに腹が立つ。
 空白となってしまった隣の席。まだそこに彼女がいた時のことを思い出して、心がきゅっと痛む。
 きつく唇を噛む。込み上げてくるものが零れないように、今までの日々を、決して失くさないように。窓を打つ雨の音が、私の心を嘲笑(わら)っているようだ。
 私は醜い。大切な人すら助けられず、見殺しにしたも同然。
 
 
 真紀と一緒に、生きたかった。


 

 親友の死という、一生記憶から剥がれ落ちてはくれないだろうものを抱えて、雨の中の帰路を歩いていく。
 朝から激しさは変わらず、私の靴や髪の毛を濡らしていく。バチバチと傘にあたる雨音が、耳元で弾けてうるさい。
 扉を開けて、靴を脱いでそろえる。怯えていた私は、今日はもういないみたい。皮肉にも、親友の死によって、心が軽くなったとも言える。怯えることも、苦しむ様子を見て疲弊することもなくなったのだから。
 
 ——バリン!

 リビングに入ってすぐ、響いたのは、ガラスか陶器の割れる音。
「咲九夜はもう卒業して、中学生になるんだよ!? どうしてそんなことができるの!?」
 続くは母の怒号。部屋中にこだまして、私は恐怖からびくっと震える。背筋を伸ばして、視線がうろうろと泳ぐ。どこで、何が起こっているのか。
 キッチンの奥、人影は二人。相変わらずの形相で、また言い合っている。
 ——なんでよ…………。
「うるせぇよ! なにも知らない無知な弱者のくせに! 黙って俺に金使わせろよ!」
 母は現実的なことを言ってるのに対して、父は罵詈雑言が混じり、何かを主張している。
 私は足音を立てないように、でも素早く階段を上る。半分くらいまで来ると、バレてもいいから早く部屋に逃げ込みたくなって、ドタドタ足音が目立ち始める。
 ランドセルを下ろして放り投げ、部屋の扉を閉めて、部屋の隅に行って蹲り、耳を塞ぐ。何も聞きたくないという一心で、恐怖を殺すために、息をひそめる。
 父の狂ったような言葉と目、久々に聞いた母の怒号。
 息が荒い。こうして過呼吸になれば、死ぬことはできなくても気絶くらいならできるのではないかと考える。気絶するだけでいい。なんでもいいから、今この気持ちから、嫌なことから、目を背けられる理由が欲しい。
 ——もうやめてよ……なんで……なんで……。
 その日はずっとそうしていて、母は夕食時にはわざわざ扉の前で声をかけてくれたが、いらないと答えた。もう顔を見ることも怖くて、何を言われるかわからなくて、家族の前に立ちたくなかった。食事を抜くという行為を許してもらえるのか怪しかったが、母は何も言わずに去っていった。
 陽は沈んでも、数時間経てばまた昇る。私が感傷に浸って蹲っていても、時間は私のことを待ってくれない。だるい身体と、苦しい心に鞭を打って立ち上がる。
 
 来る日も来る日も、無心で人間活動を行い、学業に目をやった。休み時間や休日の過ごし方は、すっかり真紀と出会う前に戻ってしまっていた。クラス内の行動には何度も思考を重ねて、それが間違っていないか、反感を買わないか確認する生活。
 話しかけてくれていたクラスメイトは、やはり私を真紀から遠ざけるのが目的だったようで、あっさりと元に戻った。もう誰にも話しかけてもらえなかった。最後まで真紀と関わろうとしていたから、標的になったのかもしれない。彼女たちにとってのおもちゃは死んだ。私と話す必要はなくなり、罪悪感に苛まれることもなく、また自由に生きていく。笑う顔が、態度が、息をしていることが、こんなにも憎たらしく感じるなんて。
 真紀を失った喪失感は、日が経つにつれどんどん大きくなっていった。ぽっかりと空いた穴が、どんどんと大きくなっていくように。あの日は私でさえも軽く捉えていたみたいだ。ショックのあまり、勝手に防衛本能が働いて、考えないようにしていただけなのかもしれない。
 家での環境も、すっかり元に戻ってしまった。ほとんどを自室で過ごして、食事の後もすぐ自室に戻って……。言動にも気を付けなければいけないし、顔見て話すことも難しかった。
 私が目撃した、あの惨状について。後に知ったのは、父が多額の資産を使って無断で投資運用行いを、それが大損を被ったということだった。幸いにも日々の生活に大きな支障は出なかった。父はそれに逆上。母は私のことを思って怒ってくれていたのだろう。
 今更父のことを恨むとか、もうそんなことはなかった。何もかも今更過ぎる。父はもちろん、母のことも、もう信用できなくなってきている。
 共働きなうえ、さらに業務を担い始めたのか、夜遅くになっても独りのことが増えた。夜中、帰ってきた気配がしても、朝起きれば朝食だけ用意されてもう誰もいない。そんな日々。
 どうして私は、こんなにも苦しい思いをしないといけないのだろう。勝手なエゴや想いに飲まれて、大切な人も失くしてしまった。
 もう嫌だ。そんなことを思っても、甘えることは許されない世界。
 何がなんでも息をして、決められた役割をこなさなければならない。
 私は一人の学生として、人として、今日もまた生きなければならない。