私を助けられるのは、私だけだった

 小学校六年生。気づけばあと一年足らずで卒業し、新しい環境へ身を移すことになる。
 そして、今日は修学旅行。本当は休みたかった行事だが、ここでそんなことをすると不審な目で見られてもおかしくないのでやめた。お金まで振り込みが終わっているなら尚更だ。
 ——小説が読みたいなぁ。
 交流を深める、思い出を作るという理由で、不要なもの、特に一人で時間が潰せてしまうものは原則禁止だった。こっそり持ってきたとて、バレたら面倒なのはわかっていたから持ってこなかった。けれどやっぱり、普段の娯楽を制限されるのはちょっと苦しい。
 京都行きのバスの中。クラスメイトは県境をまたぐとより一層騒がしくなった。
「楽しみだね、咲九夜!」
 バスで座席が隣になったクラスの女の子がそう私に微笑む。友達と言っていいかはわからない。彼女の気持ちがわからないから。
「だね……京都、何が一番楽しみ?」
「んー、やっぱり清水寺とか———」
 彼女とは今年同じクラスになって仲良くなったから、本が無くても退屈はしない。でもやっぱり、人といるのにはかなりの労力がいる。
 今年は運がいいのか、クラスメイトがまるっきり知らない人だった。ぽつぽつ同じクラスだった人もいたが、私が苦手な自我の強い人はいなかった。おかげで根暗すぎる私を知る人は減った。その分これから困らないよう、できるだけ人といようと決めた。家族とは上手くやっていけてるし、私なら上手く振る舞えると思って。
 そんな時、隣の席の人物が彼女だったのだ。名前は、水野真紀(みずの まき)。明るくて優しい、一緒にいてもあまり無理のない人だ。
 他愛もない話で盛り上がるバスの中。誰が用意したのか知らないが、突然流れるヒット曲。会話のできる友人。退屈しない、平和な学校生活が、今まであっただろうか。
 家族の前では無くなってしまった笑顔も、ここでならできている気がする。
 晴天を前に、私は笑みを零していた。

「京都到着~!」
 真紀が溌溂とした声でバスの段差を飛び降り、長くきらきらと光りを反射させる髪がふわりと持ち上がる。両手を上げて伸びをしている。
 バスから出ると、夏を目前にした特有の湿気が身を包む。車内が涼しく快適だったので、むわっとくる不快感が増す。コンクリートの地面から跳ね返ってくる日差しもかなり強い。
「バスで身体がちがちだよー。存分に楽しむぞー!」
 はしゃぐ彼女を見ながら、私は思う。彼女と仲良くなれたのは、きっと彼女も若干浮いていたからだ。悪い意味ではない。彼女は視点が大人なのだ。単に育ちがいいのかもしれないが、言葉や態度、思考、人との関係の取り持ち方、どれをとっても小学生より一つ上のように思えてしまうのだ。
 そのせいで私は避けられてしまったのに、彼女とは人生がまるっきり違うな。人間関係を築く能力まであるんだから。
「清水寺周辺は自由に回っていいんだよね……! ほら行こ、咲九夜!」
「あぁ、ちょっと……!」
 無理やり手を引っぱっていく真紀。足がもつれそうになったけど、間一髪立て直す。
「事前に班決めされてるから、はぐれたらまずいよ……」
 するとぴたっと立ち止まり、それもそうか、と素直に後続を待つ真紀。
 彼女はとにかく忙しい人だ。たったこれだけのやり取りで、そう感じさせられる。
 でもなぜか、嫌ではないんだよなぁ。

 旅行に行ったことなんて、家族の間ではなかった。行きたいとねだったこともない。
 家族は共働きで、経済的余裕はあると思う。だからといって、反対されるような気しかしなかったし、トラブルの火種になるだろうことは予想がつく。それに、もう家族からあんな目を向けられたくない……何年も前のことを引きずっているのはどうかとも思うが、もう本当に嫌なのだ。
 だから、いくら気疲れすると言っても、この時間は素直に楽しかったと思う。
 清水寺本堂。壮大で、豪勢で、あふれる人。待ち構える朱色の鳥居に、強面の狛犬。少し歩けば、木でできた展望デッキのような場所——清水の舞台から、周辺の自然を一望できる。眼下左方には、三本の霊水が流れるという音羽の滝。遠くには京都タワー、果てには山々。この歴史的観光名所に日々多くの観光客が訪れる理由を、ひしひしと感じさせられる。見たことなかった景色が、こんなにもきれいに広がっているなんて。
「ねぇ、次あっち行こ!」
 本堂周辺をめぐり終え、清水坂を下って集合地点を目指す。その道中で、時間内であれば自由に行動していいそうだ。
 真紀は興奮を抑えきれず、班員もだいぶ体力を持っていかれている。それでも不満を零すどころか、笑顔があふれていた。
「待って真紀、みんなもう走れないって……!」
 自分の感情を抑えることなんて忘れて、気づけば笑ってしまっていた。合わせないと、と思うよりも先に、次はなにが待っているのだろうと考えてしまう。
 きつねやひょっとこといった独特なお面屋、のれんを垂らした和風の食堂。ご当地の食べ物やお土産。目には代わるがわる見たことのないものが映る。
 私も家族に何か買っていかないとなと思い、いろいろと見て回っていたけれど、気になるものが次から次へと現れて、なかなか決められない。班員も悩んでいるのが救いだ。即決されなくて本当によかった。
 良さはわからないが、クラスメイトの男の子は木刀を握っていた。
「あれ、ほんとに買うんだ」
 そうやって気づかれないように、真紀は陰で大爆笑していた。
「ちょ、指さしちゃだめだってバレるよ……!」
「そういう咲九夜も笑ってるじゃん」
 私の顔を見ながら指摘されて、じっと堪えていたけれど、ついには耐えきれなくなって吹き出してしまう。
 バスに戻り、少し揺られると食堂を貸し切って昼食を食べた。用意された定食はあますことなく和食で、味が偏らず、栄養のバランスが考えつくされたような品たちだった。歴史的景観が保全されているのもあって、和食が用意されると臨場感がさらにあふれる。
 
 さらに移動して、奈良県へ下っていく。
 平等院鳳凰堂。豪勢な建物を前に、財布から十円玉を取り出す。これが見たくて、わざわざ用意したのだ。
 晴天によって、はっきりと池に反射される寝殿造りの屋敷。事前には聞いていたけど、こんなにも鮮明だなんて思わなかった。
「咲九夜、ちゃんと持ってるー! 見せて見せて!」
 顔を乗り出して、風景と見比べる真紀。
「うわぁまじじゃん! 硬貨なんて小さいのにちゃんと細部もこだわってるんだね……!」
 目を光らせている彼女はなんだか可愛らしい。
「あ、ねぇ、先生が写真撮ってくれるって! こっちきて!」
「え……」
 写真を撮られるのは、正直好きじゃない。写真となるとうまく笑えないし、ましてや人と映るなんて。
 無理やり連れられて、建物の背景に真ん中で、二人並んで撮る。
「ま、真紀、私……映り悪いよ……?」
「そんなのいいよ! 思いで残さないと! ほら、笑わなくてもいいから、私と隣で……!」
 う、うん!
 向けられたカメラのレンズを見ると、少ししてすぐに視界を一瞬で覆うフラッシュ。撮られたのだと、じわじわ実感する。先生のカメラを見ることはできないので、どう映ったのかはわからない。
 でも、不思議と嫌じゃない。不安はあるけど、真紀がいてくれたから、温かさを感じる。
 ほかのクラスメイトとも写真を撮っている彼女。私だけではない。それに嫉妬とか羨ましさを覚えているのではなく、単純にどうして私と撮ったのか疑問だった。
 真紀といるのはすごく楽しい。笑顔も増えたし、ほかの人より気を使わない。でも不安もある。彼女と私では、違うところが多すぎるから。
 ……今は、このままでも……いいよね。
「咲九夜~! 行くよー!」
 私たちはまたバスに乗り込む。宿泊施設へ出発だ。

 宿泊場所は老舗旅館。毎年私たちのような学生団体客を受け入れているらしい。入ってすぐ、奈良のお土産コーナーが出迎える。買い物の時間は別であるようなので、ここの散策はまた後日。
 夕食もまた豪華で、小型の鍋が一人ひとり準備されていた。自分で火をつけて食べるらしい。ここは和食に限らず種類が豊富だ。
 抜群の味だったのは、鮭の西京焼き。柔らかくほぐれる身、癖の少ない香りと、程よい味噌の味。隣に座っている真紀は、珍しく言葉も出ないようだ。黙々と食べ進めるその表情は、美味しさから笑みがこぼれている。
 宿の部屋割は、日中とはかなり人が違う。同じだったのは真紀だけ。
 入浴などもろもろ終えて、部屋いっぱいに布団を敷くのに若干苦戦してやっと一息つける。疲労がたまっているはずが、こういう特別な場所ではみんな結構活発になるようだ。
 就寝前。お手洗いから帰ってきて、扉を開けようとしたとき。
「咲九夜って人、急に明るくなったよね」
 私の名前を口にして、何か言っている。私が扉の前にいることには気づいていないようだ。
 嫌な予感がして、背筋が凍る。
「なんか変な感じだよね。……調子乗ってんのかな」
 ちょっと言いすぎー、と笑いが起こる。
 手をぎゅっと握りしめて、気にしないように、音を立てないようにと言い聞かせる。
 やっぱり……だめだったのかな……私が楽しむなんて……。
「真紀は知らないんだろうけど、あんま関わるのやめときなよ~」
 馬鹿にしたような声が扉越しに聞こえてくる。

 う、うん。わかった。

 真紀の曖昧な返答。
 なんとなくわかってはいたけど、否定してほしかった。
 ——なにしてんだろ、私。
 一緒に観光名所を回ったこと、食事をしたこと、写真を撮ったこと……。どれも素敵な思い出になると思っていた。笑顔で話しかけてくれる彼女のことを、心のどこかで疑い、遠慮しつつも、もうほとんど信じていたのに。
 虫のいい話だったんだ。今まで人間関係なんてないがしろにしてきたくせに、今更求めるなんて。
 心臓がうるさい。
 涙を堪え、扉に手をかける。
 声は落ち着いてきているし、入っても不自然ではないだろう。
「ただいま」
 あれ、しっかりと声で出たかな。
 喉が無性に乾いている。
 みんな、電気を消して寝ていた。声にならなくてよかったかもしれない。
 戸惑う心を抱えて、起こさないよう、そっと布団に入り、壁のほうへ身体を向ける。結局いつも通り、周りの人には背を向けて……皮肉な話だ。
 おやすみなさい。浮きだった私。
 
 目が覚めた原因は、めざましの音でも、窓から差し込む日差しでもない。
 背中を優しく、とんとんと突かれたから。ぼんやりとした意識が、じわじわとはっきりしてくる。上半身を起こして正体を探ろうとする。
「起きちゃダメ、寝たふりして」
 聞き逃してしまいそうなほど小さい囁き声。私の隣、丸まった掛布団の中。うっすらと真紀の顔が見える。
 また何か言われるのかな。今度は直接?
 正直誰かと話す気分じゃないし、昨日のことを知っている身としては彼女の行動の意味が分からないし、何より先が怖い。
 考えるのもめんどうになってきて、言われた通りまた横になる。
「ちょっと……ごめん」
 そう言うと真紀は、布団の境界を越えて私のもとへ来る。足が当たって、ひっついてしまいそう。
「ちょ、なにして……!」
 突拍子もない行動に慌ててしまった私は、声が大きくならないように口を手で押さえる。
「ほかの子たちに聞かれたくないの」
 だったら私に話しかけなきゃいいじゃん。
 口をついて出てしまいそうな、そんな言葉。でも私は、なぜか彼女が話し始めるの待っている。
「………………咲九夜はさ、どうして私と話してくれたの?」
「どうしてって……」
 そんなの、私が聞きたい。そもそも、私と一緒にいてくれたのは真紀じゃないか。
 答え方がわからなくて、ただ黙っている私。
「……私ね、学校に来るの、四年ぶりなんだ」
「…………は? どういうこと……?」
 真紀はいたって真剣な表情だ。そして、いつものように明るくはなく、壮絶な痛みを抱えているようだ。
「学校になじめなくて、そのうえいじめられて……二年生から不登校だったの。最後の年くらい、頑張ってみないとって、今はここにいるけどね。運よく知ってる人も少なくて、私はまっさらな状態からやり直せた」
 どんな目に遭ったのかは知らない。知りたくもない。ただ、私なんかより辛かったのだろうと想像してしまう。私は直接的に危害は加えられなかったし、勝手に視線に怯えているだけだから。
「なんで今……それを私に話してくれたの……?」
「……昨日のこと、聞いてたでしょ。扉の前にいるの、私知ってた」
 知ってたうえで、彼女らの話に同調していたのか。
 ショック……という感情ではなく、生まれたのは共感だ。
 真紀はいつも異様に明るい。それは、付き合いが上手で、だからみんなに好かれているのだと思っていた。でもそれは違う。
 彼女は私と似ているどころか、私と同じ。誰かに好かれるため、うまく付き合うために、明るく振舞っていただけだ。
 昨日、あの場で、私を本心で避けようと思っていたのではない。あそこで反対すれば、矛先が向けられることをわかっていたから、避けることに同調したのだ。
「きっと……不快な思いをさせたと思う。あんなに仲良くしてくれたのに、簡単に裏切るような会話して。だから……謝りたかった」
 楽しい思い出。そうやって息巻いていた彼女は今、目に涙を浮かべている。
「ほんと、ごめんなさ——」
「やめて」
 私は、その涙を見ていられなかった。
「謝る必要なんてない。私だって変わらない。自分を守るために、誰かを犠牲にすることを簡単に許してしまうのは、真紀だけじゃない」
 家族のために。そうやって生きてきた私は、人との付き合い方なんてわからなかった。だからきっと、彼女が話しかけてくれなかったら、今の私はいない。
 自分の想いを伝えることなんて滅多にないから、少し身体が震えている。寝ている人たちに気づかれないように、限界まで声を落とす。本来なら、しっかりとした声で伝えたいのに。
「真紀がいてくれて嬉しいんだ、私。だからもう、泣かないで」
「…………ありがとう、咲九夜」
 家族に見てもらいたい。そんなことばかり考えていたから、友達の大切さなんて考えたこともなかった。
 友達ってすばらしい。いてくれるだけで、こんなにも心が軽くなって、温かくて、嬉しくて。かけがえのない思い出を作って、なんでもっと早く気付かなかったんだろう。
 この時はまだ、そう思ってた。

 修学旅行二日目、奈良公園。
「なんかこの辺り、縦と横の直線の道ばかりじゃない?」
 昨夜のことを全く気にする様子がない真紀は、私の隣を歩きながら話しかけてくる。
「……ここがそうかどうかはわからないけど、昔の道の名残が強い地域はそうらしいよ。特にここは、都が近いから……とか?」
「おぉなるほど。咲九夜頭良い!」
 そんなことないよ……。大げさすぎる真紀に、困ったようにそう返す。
 少し歩いて、最初にめぐるのは東大寺大仏殿。
 大仏を前にして、人が作ったとは到底思えなかった。あまりにも大きすぎる。そばまで行って、触れないように手をかざしてみたけれど、私の手を何万個集めたって覆えそうにない。
 その他にも展示してあるものはたくさんあり、古代の産物が事細かに説明されていた。
 私はそういうのをしっかり読みたい方なのだけれど、大半はそういうでない。班員に合わせて展示品を一瞥だけして通り過ぎる。
 次に向かうのは興福寺……のはずだったのだが。
 奈良公園ならではのイベント、鹿たちとの戯れ。
 先生方から、事前に購入した鹿せんべいを受け取る。
「これって食べられるのかな」
 真紀が無邪気な目で束になったそれを見る。
「鹿さんにあげな……? 腹痛起こしても知らないよ……?」
 隣で受け取っていた真紀は、私の返しを聞いて笑っている。
「咲九夜って、冗談に対するツッコミ面白いよね」
 お腹を抱えて笑っている真紀。いつも明るいけれど、こんな一面は初めてだ。
「そうなのかな……って真紀、せんべい掲げて! 早く……!」
 へ? と、間抜けな顔をしている真紀のもとへ、五・六頭の鹿が一気に集まってくる。
「わぁ……ちょっと、待って……! 順番、みんなあげるからぁ」
 目の前にしてみると割と大きい鹿。跨って乗っても多分耐えられるぐらい。一気に集まってくるもんだからそれなりに怖い。
 さすがに身動きを取れない真紀がかわいそうなので、私のせんべいをちらつかせて三頭ほど注意を引かせる。
「ナイス咲九夜! これでみんな平等だね!」
 こっちも忙しくなってきたので、真紀にはグッドサインで応答する。
 相当お腹が減っているのか、ただ食べたいだけなのか、空に掲げたせんべいを必死に食べようとする。身体が大きいので、押されるたびに揺れてしまう。
 束になっているせんべいから一つ取り出し、とりあえず一頭に与えてみる。少しずつというわけではなく、贅沢に頬張っていく。その姿が愛らしくて、頭をそおっと撫でてみる。手触りが気持ちよくて、おっとりしているところもかわいい。
 ……あ! しまった……!
 撫でるのに夢中で、せんべいを持つ手が次第に下がっていた。鹿たちの射程圏に入り、束ごとかぶりつかれる。
 さすがにこれは放さないと。怒りを買って蹴り飛ばされるかもだし、私のミスだ。
 もうちょっと体験してみたかったが、素直に引き下がる。
 鹿たちはそれに群がっている。分け合ったりするのかなとも思ったが、単に奪い合っているだけだった。
「あちゃー、咲九夜も持ってかれちゃったか」
 真紀が隣に来てそう言う。
「うん。気づいたらあんな状態」
 せんべいを持っていない私たちのことは、もう見えていないかのようだ。さっきまでこっちにきてくれたのに。なんか、寂しい。
 ——あ……。
 少し行った先、先にめぐり終えて南大門の近く。昨日の部屋で一緒だったクラスメイト達が、私たちをみて話している。それは明らかに、私を面白がる目。
「ま、真紀——」
「いいの」
 彼女はとっくに気づいていたみたいだ。
 私と彼女たちを隔てるように、私の前に立つ。
「私は、いたい人——咲九夜と一緒にいるの」
 気にしない、というように笑って見せる彼女。
 今朝、彼女はこうも言っていた。
 
『咲九夜にしか見せない笑顔もあるんだよ』
 
 これが、きっとそうなのだろう。普段とはまた違った、憂いを帯びた表情。笑顔とは決して言えない。
 彼女なりの苦痛を、彼女なりのやり方で表現している。
 私も、いつかそうやって痛みを表に出すことができるだろうか。
 私が伝えたいことを、自分の言葉で訴えられる日が来るのだろうか。
 今はまだ、想像もつかない。家族や学校で、うまくやっていくことで精いっぱいなのだから。
「さ、行こ。咲九夜」
 強い日差しに照らされて、私たちは手を取り合う。
 南大門を抜けるころ、鹿たちは二束ものせんべいをすっかり食べ終えていた。

 修学旅行を終え、学校に戻ってきて、バスを降りる。そうすればあとはいつもの帰路をたどるだけ。
 が、予想外のことが一つ。
 クラスメイトたちのように、母が車で迎えに来てくれていた。母はもうこちらに気づいていて、微笑んで手招きしている。
「咲九夜、ご家族もう来てる?」
「う、うん」
「そっか。じゃあまた、学校でね! ちょー楽しかった!」
 沈みゆく太陽の強烈な光に負けず、ぱあっと笑う彼女。
「私も、楽しかった! またね!」
 手を振って別れ、走って母のもとへ向かう。ここまで来てくれたのに、待たせて怒らせたくない。
「ごめんなさい、遅くなって」
「そんなに待ってないから大丈夫だよ。……さっき話していたのは、お友達?」
 きっと真紀のことだ。
「うん……まぁそんな感じ……」
 なによ煮え切らないねぇ、と母は苦笑している。
 なんだか母の雰囲気がいつもと違う。いつもは疲れ切って、げっそりして、一色触発のような時もあるのに。今日はどこか穏やかでふわふわしている。この修学旅行に送り出してくれた時もこんなじゃなかった。
 久々に車へ乗り込む。白の外装の中、黒いシーツの手触りが懐かしい。重たい旅行バッグは後部座席、私は助手席へ。
 慣れた手つきの運転で一般道に出る。いつも私が歩いている道を、こんなにも楽々と進んでしまうなんて。これから夏になり、ぎらぎらと輝く太陽の下を汗だくになって歩いていくことを想像すると、涼しいこの環境がいいなと切に願う。
「どうだった? 楽しかった?」
「うん……見たことないものばっかりで……ほんとに楽しかった」
 母はそれを聞いて、安心したように笑っている。
 おかしな話だが、ここまで来ると不気味だ。いつもと違いすぎる。
 聞くのは……だめだろうか。
「……お、お母さんこそ、良いことあったの?」
 恐る恐る聞いてみたけれど、何も返ってこない。やっぱりだめだったか……なんでもない。そうやって謝ろうとしたとき、ふっと母は笑う。
「咲九夜が帰ってきたからかな」
「……え……?」
 しんみりとした母の表情。どこか嬉しそうで、恥ずかしそうで…………。
 ほんとに、どうしたの。
 そう言うつもりだったが、言われたのは私。
 すぐ家の駐車スペースに駐車し、エンジンを切って私をぎゅっと抱き寄せる。放された後、心の底からぐわっと何かが沸き上がってきた。顔を見られたくなくて、すぐに背ける。
 なんで泣いてるんだろう。別に大したことじゃないし、あの言葉は嘘かもしれないのに。
 嬉しかったんだろうな。久々に親の愛情に触れられて。
 母はすんなり手を放してしまったが、あの温もりがまだ身体を纏っている。あんなに頑張っても手に入れられなかったものが、いとも簡単に手に入ってしまった。なんだか複雑な気もするが、もっと素直に言葉にすることが、一番大事だったのかもしれない。
 涙が止まるまで少し待って、いつもの玄関を跨ぐ。父と母の関係は相変わらず微妙みたいだが、母の気持ちを垣間見られただけで十分嬉しかった。
 その日は修学旅行の疲れもあってすんなり寝られた。不思議なこと、嬉しかったこと、泣いてしまうようなことの連続で、胸の中がそわそわしている。心音がうるさい気もするし、高ぶっている気もする。
 素直でいれば、良いことがあるのかもしれない。そうもう一度反芻して、まどろみの世界へ落ちていった。