私を助けられるのは、私だけだった

 暖かな日差しが花々を照らし、発芽、開花を促す季節。春の大型連休を前に、少女は生まれた。
 咲九夜と名付けられ、すくすくと育っていった。脆弱なわけでもなく、本当に健康体だった。それは両親の育て方がよかったのか、はたまた偶然かはわからない。
 何事もなく、家族一丸だったのは、この時まで。
 彼女が六歳になった頃、両親の歯車が噛み合わなくなっていった。
「どうしていつも自分勝手なの! 家族のことも考えてよ!」
「考えてるから仕事で帰りが遅くなるんだろ! 俺は家族のために——」
 彼女が寝たであろうと思って、そう言い合う両親。怒号は断片的なものではなく、一言一句はっきりと聞こえてしまっていた。
 そして不運なことに、幼い彼女には言葉の節々が理解できてしまっていた。



「あの花ってなぁに?」
「んー? それはね……」
 咲九夜が三歳近くなり、言葉を話し始めた頃から片鱗は見え始めていた。知らないものに大きな好奇心を抱き、言葉の習得が早い。もっと幼かった頃から聞いていた言葉を覚えていたのだろうか。両親も、親戚も、彼女の成長にはたいそう驚かされた。
 春の暖かい公園で、凛と咲く花たちを一人ひとり見ていく咲九夜。
「ポピーだ……! ねぇママ、パパからもらった花もポピーだった?」
「違うけど……どうして?」
「ポピーはね、恋の花言葉を持つんだよ!」
 自慢げに、にこにこと微笑みながらそういう彼女。褒めてくれ、と言わんばかりだ。
「どこでそんなこと……咲九夜はほんとに賢いねぇ」
 そっと、優しく彼女の頭を撫でる母。それだけで、とても満足そうだ。
 月日を経て五歳になった咲九夜。語彙を異様に身につけ、家族と普通の会話をもできるようになった。何か本を読んだわけでもないのに、日に日に豊かになっていく。不思議で仕方ない両親だったが、良いことではあるので特に気に留めていなかった。
 しかし、これが感情の発達も進んでいるという証明であることに、誰も焦点を当てていなかった。
 
「ねぇお母さん、今日ね——」
「……そう、よかったわね」
 ——私、まだ何も……。
 幼稚園で折り紙がうまくできて、みんなから褒められたこと。何より、お母さんに褒めてもらいたかった。でも、本題に入る前に勝手に反応して、こっちを見ずに、無理に笑っていた。
 浮ついた心が、鉛を担いだかのように沈む。
 こんなにも、心って浮き沈みするんだ……。
 お母さんと繋いでいた手が、自然にするすると離れていく。いつもは握り返してくれるのに、今日は何も言わずに、いつもの帰り道を歩く。私はただ無言で、俯いていた。
 空気読むって、大事だな……。
 怒らせてしまった。そんな自責の念に駆られ、足取りがさらに重くなる。
 これからはもうやめておこう……。
 
 バンッ! と机に手を打ち付ける音がこだまする。横になった身体がびくっと反応して、恐怖から身を縮める。
 「だから、俺だって忙しいんだよ!」
 ——あぁ、また始まった。
 私が寝付くと、いつもこうだ。本当は早めに寝付いたふりをしているだけなのに、起きないとでも思って大声でけんかしている。
 ……けんかって言えるほど、簡単なことじゃないのかな。
「どうしていつも自分勝手なの! 家族のことも考えてよ!」
「考えてるから仕事で帰りが遅くなるんだろ! 俺は家族のために——」
 もうそれ以上は聞きたくなくて、かけものをを翻して身体を覆った。枕を耳元にぐっと押し当て、隙間がないように押さえつけた。それでも、嫌だと心でどれだけ叫んでも、声は繊維を縫って鼓膜を震わせる。
 何よりも怖いのは、私もあんな目に遭うかもしれないということ。口を滑らしたり、空気も読まずに気に障るようなことを言った時。お父さんもお母さんも、あんな大声で怒鳴ってくるかもしれない。軽蔑や、憎しみといった目で見られるかもしれない。そんなことないと言い聞かせたって、何も変わらなかった。

 そうやって過ごして、彼女は小学生になった。